全ての家事を終え、私はダイニングテーブルに天球儀を置いた。
時刻は午後十一時。もう寝なくては。明日の仕事に差し支えてしまう。そう思うものの、ペンダントが気になって仕方なかった。
「和子。何だい、それ」
夫の隆成さんが、テーブルに置かれたペンダントを見て尋ねる。
私は隆成さんを見上げる。彼が差し出すホットカフェオレを受け取りながら、こう答える。
「雑貨屋さんでね、貰ったの」
「貰った?」
「ええ……」
支払いをしていないのだから、貰ったという表現が正しいのだろう。だが、魔女から「あげる」と言われたわけでもない。
自信が持てない私の声を気にしたのだろう。隆成さんは首を傾げるけど、ペンダントに関しては、それ以上何も言わなかった。
「和子、明日も早いんだから、ほどほどにね」
明日も仕事に行き、フルタイム働き、健一を見舞い、家事をする。
「ほどほどにって、何……」
私の口から、醜い恨み言がもれ出た。
「少しくらい、いいじゃない」
隆成さんは眉を寄せた。
「悪いとは言ってないよ。ただ、ね」
「毎日健一の元へ行くのは私。その後も家事をして、私が休まる時間なんてない」
隆成さんだって、毎日のように残業して、健一の治療費を稼いでくれている。
わかってる。わかってる、けど。
「もう疲れた……」
言ってはいけないことを口走ってしまった。
隆成さんは私に近寄る。そして、私の頬を叩いた。
パシンと、乾いた音が響く。ジンと頬が痛む。
隆成さんは怒っていた。両目に涙を溜めて。
「……ごめん」
「……ごめんなさい……」
隆成さんが謝り、私が謝る。
リビングは静まり返った。
「…………早めに寝なさい」
隆成さんはそれだけ言って、寝室へと向かう。
私は椅子に腰掛けて、写真立てを両手に抱えた。
写真には、笑顔の健一が写っている。
半年とちょっと前、剣道の県大会で優勝した時の写真だ。この頃は、まさかあんなことが起きるなんて思わなかった。
「健一……」
早く意識を取り戻して。お願いだから。
そう願い、私は写真立てをぎゅっと抱きしめる。
その時、ペンダントが輝き始めた。
「……え?」
さっきまで普通のペンダントだったのに。今やキラキラと煌めいている。私はペンダントに顔を近づけた。
宝石の中に、何かの影が見える。それに見とれていると、次第に周りの景色が溶けていった。
部屋は洞窟に変化する。
空気は湿気を帯びて、ジメジメとしていた。足元には、見たこともないようなおぞましい虫が這い回っている。虫が苦手な私は発狂しそうだった。その場で体を震わせる。
「ケンー、ほんとにここで合ってるのー?」
洞窟の奥から聞こえた女性の声に、私は振り返る。
「合ってる。俺の勘が、そう言ってる」
「またそれぇ? ま、ケンの勘が外れたことなんてないけど」
私は目を見開いた。
健一がそこにいた。ゲームの主人公のような鎧とマントを着ているけど、健一に間違いない。
「健一……!」
私は健一に走り寄り手を伸ばす。
けど、私の手は健一の体をすり抜けてしまった。健一も、私が見えていないようだった。
健一が見ているのは、尖った耳が特徴的な、金髪の女の子。日本人には見えない彼女を目にして、私は混乱する。
二人は暫く洞窟を歩いた。私は後ろからついて行くしかない。
やがて、洞窟の最深部に辿り着く。
開けた空間は、まるで何かを祀っているかのようだった。辺りにはドラゴンを模した石像がいくつも置かれている。
健一は、空間の中央へと向かっていく。地面に刺さった剣に近付き、その柄を握る。
途端に健一は苦しみだした。電撃を浴びたかのように、体を震わせる。
「ケン、大丈夫?」
少女が問いかける。
私も健一に駆け寄りたい。だが、それができない。あんまりもどかしくて、私はつい唸っていた。
何なの、これは。私は何を見せられているの。
「惑星のペンダント。今生きている世界線とは別の異世界を覗く魔法具だよ」
私は振り返る。
背後には、星降堂で出会った魔女がいた。彼女は私に微笑んでいる。
もしかして、ここは異世界とでも言うの?
「くひゅひゅ、大正解」
魔女はさも面白そうに笑う。
私が見ている景色は異世界のもの。もしそうであるならば、目の前にいる健一は誰だというのか。
「彼は、君たちの息子、健一君だよ」
意味が、わからない。
「でも、私達の健一は、病院で治療を受けてて……今は動けない体で……」
私はそう言ってみるが、私の記憶は彼を健一だと言っている。
口調も、仕草も、私がよく知る健一のもの。
「異世界転移って、知ってるかい?」
魔女は尋ねた。
異世界転移。現実とは異なる世界に飛ばされること。健一が好きなアニメの題材に、よく使われている単語。
え、まさか……
「そのまさか。健一君は、トラックにはねられた衝撃で、精神だけ異世界転移してしまったのさ。ありふれた話だよ」
ありふれた? ふざけないで。
「意味がわからないわ。そうよ、今この映像も、あなたが見せているものなのね」
「はぁ、大人とやらは頭が固くて困るよ」
魔女はわざとらしくため息をつく。まるで、私を小馬鹿にしているみたいに。
許せない。健一を使って私をからかうなんて、そんなこと。
「そんなことより、見てみなよ」
魔女は健一を指さす。私は言われるままに健一を見た。
健一はなおも痛みを堪えている。が、やがて剣を地面から抜き取ると、それを掲げた。
「すっごい!」
耳が尖った少女が、健一に駆け寄る。そして、自分のことのように飛び跳ねて喜んだ。
「すごいよ、さすがケン! 誰も引き抜けなかった、聖剣・エクスカリバーを引き抜いちゃうなんて!」
健一はニシシと笑う。その笑い方は、私がよく知る顔。得意げに自慢をする健一の表情だ。
私は……私は、涙が堪えきれなかった。ずっと見たかった健一の生き生きとした表情が、ここにはある。私に向けた笑顔ではないけれど、それでも「生きて」いる健一の表情を見ているだけで、十分嬉しい。
健一は、異世界で元気に暮らしているのね。魔女は、そのことを教えたくて、私にペンダントを寄越したんだ。私は、そう自分に都合のいいように考えていた。
魔女をちらりと見る。彼女はニッと笑ってこう言った。
「残念ながら、私はそんなにお人よしではないよ」
魔女はそう言って姿を消す。文字通り、いきなり消えてしまった。
やがて景色は、霧が晴れるように消えていく。そして私は、いつものダイニングにぽつんと一人だけ。
今のは夢だったのか、それともペンダントが見せた現実なのだろうか。
時刻は午後十一時。もう寝なくては。明日の仕事に差し支えてしまう。そう思うものの、ペンダントが気になって仕方なかった。
「和子。何だい、それ」
夫の隆成さんが、テーブルに置かれたペンダントを見て尋ねる。
私は隆成さんを見上げる。彼が差し出すホットカフェオレを受け取りながら、こう答える。
「雑貨屋さんでね、貰ったの」
「貰った?」
「ええ……」
支払いをしていないのだから、貰ったという表現が正しいのだろう。だが、魔女から「あげる」と言われたわけでもない。
自信が持てない私の声を気にしたのだろう。隆成さんは首を傾げるけど、ペンダントに関しては、それ以上何も言わなかった。
「和子、明日も早いんだから、ほどほどにね」
明日も仕事に行き、フルタイム働き、健一を見舞い、家事をする。
「ほどほどにって、何……」
私の口から、醜い恨み言がもれ出た。
「少しくらい、いいじゃない」
隆成さんは眉を寄せた。
「悪いとは言ってないよ。ただ、ね」
「毎日健一の元へ行くのは私。その後も家事をして、私が休まる時間なんてない」
隆成さんだって、毎日のように残業して、健一の治療費を稼いでくれている。
わかってる。わかってる、けど。
「もう疲れた……」
言ってはいけないことを口走ってしまった。
隆成さんは私に近寄る。そして、私の頬を叩いた。
パシンと、乾いた音が響く。ジンと頬が痛む。
隆成さんは怒っていた。両目に涙を溜めて。
「……ごめん」
「……ごめんなさい……」
隆成さんが謝り、私が謝る。
リビングは静まり返った。
「…………早めに寝なさい」
隆成さんはそれだけ言って、寝室へと向かう。
私は椅子に腰掛けて、写真立てを両手に抱えた。
写真には、笑顔の健一が写っている。
半年とちょっと前、剣道の県大会で優勝した時の写真だ。この頃は、まさかあんなことが起きるなんて思わなかった。
「健一……」
早く意識を取り戻して。お願いだから。
そう願い、私は写真立てをぎゅっと抱きしめる。
その時、ペンダントが輝き始めた。
「……え?」
さっきまで普通のペンダントだったのに。今やキラキラと煌めいている。私はペンダントに顔を近づけた。
宝石の中に、何かの影が見える。それに見とれていると、次第に周りの景色が溶けていった。
部屋は洞窟に変化する。
空気は湿気を帯びて、ジメジメとしていた。足元には、見たこともないようなおぞましい虫が這い回っている。虫が苦手な私は発狂しそうだった。その場で体を震わせる。
「ケンー、ほんとにここで合ってるのー?」
洞窟の奥から聞こえた女性の声に、私は振り返る。
「合ってる。俺の勘が、そう言ってる」
「またそれぇ? ま、ケンの勘が外れたことなんてないけど」
私は目を見開いた。
健一がそこにいた。ゲームの主人公のような鎧とマントを着ているけど、健一に間違いない。
「健一……!」
私は健一に走り寄り手を伸ばす。
けど、私の手は健一の体をすり抜けてしまった。健一も、私が見えていないようだった。
健一が見ているのは、尖った耳が特徴的な、金髪の女の子。日本人には見えない彼女を目にして、私は混乱する。
二人は暫く洞窟を歩いた。私は後ろからついて行くしかない。
やがて、洞窟の最深部に辿り着く。
開けた空間は、まるで何かを祀っているかのようだった。辺りにはドラゴンを模した石像がいくつも置かれている。
健一は、空間の中央へと向かっていく。地面に刺さった剣に近付き、その柄を握る。
途端に健一は苦しみだした。電撃を浴びたかのように、体を震わせる。
「ケン、大丈夫?」
少女が問いかける。
私も健一に駆け寄りたい。だが、それができない。あんまりもどかしくて、私はつい唸っていた。
何なの、これは。私は何を見せられているの。
「惑星のペンダント。今生きている世界線とは別の異世界を覗く魔法具だよ」
私は振り返る。
背後には、星降堂で出会った魔女がいた。彼女は私に微笑んでいる。
もしかして、ここは異世界とでも言うの?
「くひゅひゅ、大正解」
魔女はさも面白そうに笑う。
私が見ている景色は異世界のもの。もしそうであるならば、目の前にいる健一は誰だというのか。
「彼は、君たちの息子、健一君だよ」
意味が、わからない。
「でも、私達の健一は、病院で治療を受けてて……今は動けない体で……」
私はそう言ってみるが、私の記憶は彼を健一だと言っている。
口調も、仕草も、私がよく知る健一のもの。
「異世界転移って、知ってるかい?」
魔女は尋ねた。
異世界転移。現実とは異なる世界に飛ばされること。健一が好きなアニメの題材に、よく使われている単語。
え、まさか……
「そのまさか。健一君は、トラックにはねられた衝撃で、精神だけ異世界転移してしまったのさ。ありふれた話だよ」
ありふれた? ふざけないで。
「意味がわからないわ。そうよ、今この映像も、あなたが見せているものなのね」
「はぁ、大人とやらは頭が固くて困るよ」
魔女はわざとらしくため息をつく。まるで、私を小馬鹿にしているみたいに。
許せない。健一を使って私をからかうなんて、そんなこと。
「そんなことより、見てみなよ」
魔女は健一を指さす。私は言われるままに健一を見た。
健一はなおも痛みを堪えている。が、やがて剣を地面から抜き取ると、それを掲げた。
「すっごい!」
耳が尖った少女が、健一に駆け寄る。そして、自分のことのように飛び跳ねて喜んだ。
「すごいよ、さすがケン! 誰も引き抜けなかった、聖剣・エクスカリバーを引き抜いちゃうなんて!」
健一はニシシと笑う。その笑い方は、私がよく知る顔。得意げに自慢をする健一の表情だ。
私は……私は、涙が堪えきれなかった。ずっと見たかった健一の生き生きとした表情が、ここにはある。私に向けた笑顔ではないけれど、それでも「生きて」いる健一の表情を見ているだけで、十分嬉しい。
健一は、異世界で元気に暮らしているのね。魔女は、そのことを教えたくて、私にペンダントを寄越したんだ。私は、そう自分に都合のいいように考えていた。
魔女をちらりと見る。彼女はニッと笑ってこう言った。
「残念ながら、私はそんなにお人よしではないよ」
魔女はそう言って姿を消す。文字通り、いきなり消えてしまった。
やがて景色は、霧が晴れるように消えていく。そして私は、いつものダイニングにぽつんと一人だけ。
今のは夢だったのか、それともペンダントが見せた現実なのだろうか。