岩本さんを見送った後、入れ違うようにさっきまでいなかった三人が帰ってきた。
浩くんがヒロと純子ちゃんの真ん中で嬉しそうに手を振りながら歩いてくる。
「ただいま~お母ちゃんの誕生日のお祝い見つかったんだよ~お父ちゃんも5月生まれだからお揃いの……」
「そ、それは秘密の約束じゃろ?」
「あ~あ、浩ちゃんは口軽いんだから」
明るい三人に心配をかけまいと思ったのか……静子おばさんは作り笑顔で絞り出すような声で言った。
「お父ちゃん……帰ってきたよ」
「本当?」「本当に?」「ほんまか?」
静子おばさんの言葉を聞いて三人とも駆け込むように播磨屋に入り、2階と1階を隅々まで探してキョロキョロしている。
「お父ちゃんどこ? どこにもいないよ?」
「……ここにいるよ」
静子おばさんは箱を開けながら三人の前に差し出した。
「何これ? 小さい石と……星?」
箱の中を覗き込むと、三人には石のように見えた小指の骨と、丁寧に包まれた綺麗な紙の中に古ぼけた正帽の星が入っていた。
「お父ちゃんの骨と正帽の星だよ……お父ちゃんは立派に散華されたそうで先程届けて下さったの」
その瞬間……三人の表情が固まった。
「嘘……嘘だよね? お父ちゃんは帰ってくるんだよね? 必ず帰ってくるって言ったじゃないか!」
「浩……お父ちゃんは……」
「お母ちゃんの嘘つき! お母ちゃんなんか嫌いだ!」
浩くんは泣きながら2階に駆け上がってしまった。
純子ちゃんは呆然とした表情でその場で崩れ落ちそうになり、隣にいたヒロがそれを支えてなんとか立っていた。
「おばさん……ほんまなんですか?」
「本当よ……ガダルカナル島で同じ隊にいた方が来て下さって……それで……」
そう言いながらふらついた静子おばさんは隣にいた僕が支えた。
二人を奥の部屋に案内して念のため布団を敷くと、そのまま二人とも寝込んでしまった。
「源次……すまんが色々手作ってもらえんか? 今日泊まっていき」
「もちろんだよ」
ヒロが夕食を作ると言うので2階に行くと、浩くんはお父さんに貰った誕生日プレゼントのブリキ船の長門を抱いて布団の中で泣き続けていた。
僕は添い寝をしながら布団を擦ることしかできなくて……まだこんなに小さいのに親を失って悲しんでいる子に何もできない事が悔しかった。
「お父ちゃん……お父ちゃ……」
いつの間にか寝てしまった浩くんの目蓋は涙で真っ赤に腫れていた。
寝顔を見届けた後でヒロを手作うため下に降り、二人で簡単な夕食を作って寝ている三人の元に運び、僕とヒロで先に食べようとしたが二人とも食欲がなくて御膳を台所に下げた。
いつも夕食を食べているらしい時間になっても三人は起きることはなく、純子ちゃんと静子おばさんは泣く様子もなく黙って天井を見つめていた。
純子ちゃんは箱を抱えて、静子おばさんは星を握り締めて……
本当につらい時は涙も出ないのかと二人が余計に心配になった。
その事をヒロに相談しながら浩くんを挟んで川の字で寝ようとしたら、丁度目が冷めたようで……「一緒に来て」と言うので三人で下に行った。
浩くんは、純子ちゃんと静子おばさんの布団の横に正座すると……
「お母ちゃん? さっきはごめん。僕、本当はね……今日お母ちゃんにお父ちゃんとお揃いのお祝い渡して『誕生日おめでとう』って言いたかったの……『お母ちゃんもお父ちゃんも大好きだよ』って言おうとしてたのに反対の事言っちゃってごめん」
「いいのよ浩……浩は何も悪くない」
「さっきね、夢を見たの……お父ちゃん言ってたよ? いつでもそばにいるって……星から見守ってるんだって」
「私も小さい時お父ちゃんに教えてもらったわ……お父ちゃんのお父ちゃんも北極星にいて、どんなに時が経ってもずっと同じ場所から見守ってるんだって」
「だからね……お母ちゃんは一人じゃないよ? 姉ちゃんもさ……僕がいるよ? 僕、絶対お母ちゃん達を守れる強い男になるよ! だからね……泣いてもいいんだよ?」
家族を守ろうとする小さな背中は、頼もしい勇者に見えた。
「浩ちゃん!」「浩!」
純子ちゃんと静子おばさんは、浩くんを強く抱き締めながら、いつの間にか泣いていた。
「あり……がと……まさか浩ちゃんに教えてもらうなんてな……いつまでも見守ってるって昔お父ちゃん言ってたよね……お星さまにした願いは、いつか必ず届くんだって」
「ありがとね浩、大事な事を教えてくれて……おかげで思い出したよ……『たとえ距離が離ればなれになっても、心はずっとそばにいるから結婚して下さい』って言ってくれた時のお父ちゃんを……」
「戦争に行く前に『必ず帰る』と指切りげんまんで約束した通り、お父ちゃんはこうやって帰ってきてくれた……」
「お父ちゃんは、ちゃんと……あんたたちの中に生きてるんだねぇ……あんたたちがお父ちゃんからの最高の贈り物だよ」
そういうと、静子おばさんはしっかりと浩一さんの忘れ形見である二人を抱き締めた。
「弘光さんも高田さんも色々ありがとね……そうだ、仏壇の位牌の中に空洞があるからお父ちゃんの骨とお星さまはそこに入れましょうか」
「賛成~それならお父ちゃんとずっと一緒にいられるね」
「そうだ! はい……これ遅くなっちゃったけど、お揃いのお茶碗……お母ちゃんもお父ちゃんも誕生日おめでとう! これで一緒にごはん食べよう?」
僕達はそれからみんなで夕食を食べた。
お揃いで色違いのお茶碗をちゃぶ台に並べて、浩一おじさんのお茶碗にもご飯をよそって……
おじさんの思い出話に時には泣きながら、時には笑いながら……
僕はアルバムの写真を見ただけで浩一おじさんには会ったことはないが……まるで食卓に一緒にいるような気がした。
浩一おじさんの訃報があった翌月である6月6日の浩くんの誕生日には、好きな戦艦である長門の絵を描いた手作りのメンコをあげた。
本当はもっといいものをあげたかったが物資が少なくなってきており、丁度メンコ遊びが流行っているそうで喜んでもらえてよかった。
6月25日には戦争拡大による労働力不足で「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され……学校報国隊の強化、戦技・特技・防空訓練が始まり、女子は救護訓練を行うことになった。
『欲しがりません勝つまでは』のスローガンが紙芝居にまで書かれるようになったご時世的に、昨年のお祭りや七夕のような日々を過ごすこともなく……
ヒロとの共同制作の漫画には打ち込んでいたものの寂しい夏を過ごしていた。
そんな1943年の8月12日……
「金属類回収令」が強化されて「金属回収本部」が設置され、東京では「金属回収工作隊」が編成されて国民が持つ鉄や銅・青銅製品の他に鋼や鉛なども回収対象となり、回収が強行された。
マンホールの蓋や鉄柵、銅像や寺院の仏具や梵鐘などの回収は既に始まっていたが、家庭の鍋や釜、洗面器、そしてブリキの玩具までもが対象で……
誕生日に浩一おじさんから送られた戦艦長門も対象になった浩くんは、回収の人達の前で泣きじゃくっていた。
僕もヒロ達と一緒に「父親の形見なので見逃して下さい」と頼み込んだが、「今は皆が我慢している時だ」と特例は許されず……
浩くんが大事そうに抱えていたブリキの戦艦長門は取り上げられてしまった。
大人だけでなく小さな子供の……しかも亡くなってしまった父親の形見まで取り上げる政府のやり方に、僕は疑問を感じずにはいられなかった。
「本当に持ってっちゃうの? 僕の宝物なのに……」
泣きじゃくる浩くんの頭を撫でながら、僕はある話を思い出した。
「長門はね……関東大震災の時に正式な出向命令が出る前に、いち早く救援物資を積んで助けに来てくれた立派な船なんだ……だからあの船もきっと日本を助けに行ったんだよ」
浩くんは泣き止んで真っ直ぐに僕を見つめた。
「知ってる…………僕の長門は誰かを助けられるかな? 生まれ変わってもカッコイイかな? 溶けて形が変わっても大切にしてもらえるかな?」
ブリキが兵器に変わってしまう事を知っていた僕は、「そうだね」と言いながら浩くんを抱き締めることしかできなかった。
浩一おじさんの戦死広報は8月末頃になってようやく届き……
静岡の連隊の所属だったという浩一おじさんは、『ガダルカナル島にて腹部盲管銃創により戦死』という短い文字のみでその訃報を伝えられた。
隊の皆に慕われて後輩を庇って死んだ素晴らしい人だったのに……定型文が並ぶ中に書き込まれた死を知らせる文章はたった20文字だった。
戦死広報を仏壇に備えて涙を浮かべながら手を合わせる純子ちゃん達の横で、ヒロは「何もできなかった」と悔しそうに拳を握り締めていた。
ヒロが変わっていったのは、その頃からだった。
1943年9月16日……
僕と純子ちゃんはヒロに誘われて、三人で公開されたばかりの『決戦のあの空へ』という映画を見に行った。
霞ヶ浦海軍航空隊から海軍飛行予科練習部を独立させたという土浦海軍航空隊が舞台で、『若鷹の歌』という軍歌が映画の中で訓練予科練生が作った歌として出てきた。
面倒見のいい姉と身体の弱い弟が予科練生と交流する中で入隊を決意する物語で、ヒロや他の観客は熱心に見入っていたが……攻撃精神や犠牲的精神を植え付ける国策映画に見えて僕は余り好きになれなかった。
見終わった後の感想は三者三様で……
「予科練の制服の七つボタンかっこええのう……土浦に行ってみたくなったわ~海軍は食べ物に困らないらしいで?」
「でもハンモックに寝るのや、走ったり水泳や相撲で訓練するのは大変そうだよ」
「訓練場でウサギを大切に育てていた先輩が魚雷を抱えた体当たり戦闘攻撃で亡くなった話は悲しかったわ」
すっかり映画の虜になってしまったヒロが「姉役の原田節子さん可愛らしかったな~」と言うと、純子ちゃんが「松竹三羽烏の高田みのりさんも素敵だったわ」と怒ったように言うので、二人の間にいた僕は頷くしかなかったが……
内心はヒロの言葉にモヤモヤしていた。
僕には大打撃を受けて少なくなってきた兵力を補充するために、海軍少年航空兵育成機関の予科練を宣伝する海軍のプロパガンダ映画に見えたが……
家族が戦死したりで敵を討ちたい者達にとっては、若者が厳しい訓練に打ち込み勇ましく戦場に向かおうとする姿は心を打つものであったようだ。
そこには家族・親族を失った者とそうでない者で、戦争に対する意識の違いが少なからず影響していたのであろう。
純子ちゃんが帰った後、僕はヒロを自宅に誘い……眠る前に初めての喧嘩をした。
「ヒロ……お前変わったよな……戦争に邁進している今の日本を変えたいんじゃなかったのかよ」
「なんじゃ急に、えらい剣幕で……」
「争いのない世の中を作ろうとした坂本龍馬みたいになりたかったんじゃないのかよ!」
「仕方ないやろ! 今はもう、戦争を始めた……真珠湾攻撃を発案した連合艦隊司令長官が戦死する時代なんや! 家族を守るには戦うしかないんや!」
「本当にそうなのかな? 戦争を終わらせる方法ってないのかな?」
「お前は本当に甘いやつやな……でも喧嘩なんてしてられへん! せめて今描いてる漫画は完成させて純子の誕生日祝いに渡すぞ……もし戦争に行ったら最後かもしれんしな」
「そんなに弱気になってどうする……お前は純子ちゃん達のそばにいてやれ! そうじゃないと皆、悲しむ」
僕の声が聞こえていたのか分からないままヒロは寝てしまった。
『決戦のあの空へ』の最後には予科練の卒業式の場面があったが、読み上げられた卒業証書の日付は昭和18年である1943年8月15日だった。
その2年後の1945年8月15日を迎えるまでに日本は悲劇的な状況を迎え、多大な犠牲を払った末に負けることになるなんて……映画に熱狂していた人達は誰一人思っていなかっただろう。
僕達も関わることになる学徒出陣の日は、刻々と迫っていた……
ヒロが急に戦争賛同映画を見ようと言い出した背景には、アッツ島の玉砕も影響していると思った。
「玉砕」……この言葉が初めて使われたのはアッツ島の戦いが最初だ。
アッツ島はベーリング海に面するアメリカ領土の島だったが、1942年6月に日本軍が上陸し占領した。
それを奪還しようと計画していたアメリカは、1943年5月12日……日本の守備隊約2600人の約4倍となる1万人余りのアメリカ軍をアッツ島に上陸させた。
守備隊は援軍が来る事を期待して待っていたが、大本営はこれ以上の戦力の消耗を心配して増援部隊の派遣や補給は行わなかった。
守備隊は孤立無援となって死ぬまで戦うことを求められ、兵士達は銃剣や手りゅう弾を手に夜間突撃を繰り返すも食糧や弾薬が底をついた5月29日……
玉砕命令が下りて負傷して歩けない者は自決を命じられ、飢えに苦しみながらも生きていた者達約100人は弾丸の雨の中に銃剣のみで突撃し、捕虜になった27人以外は全滅した。
大本営は、それまで敗北を伏せる傾向にあったが……アッツ島の戦いに関しては守備隊が補給を求めずに自ら「玉砕」したことにして、日本軍の神髄を発揮したと新聞やラジオで大々的に発表した。
国葬や慰霊祭が執り行われて「アッツ島守備隊につづけ」、「英霊に応えよ」と一般市民にも死ぬまで戦うことを求めるようになった。
玉砕した者たちは軍神として祭られたが、その遺骨箱には只の砂が入っていたという。
僕は大本営発表や新聞の記事の内容に懐疑的だったが、ヒロはそれを信じてしまい……
父親のように慕っていた浩一おじさんの戦死広報を受け取ったことで、敵を討つ気概が更に高まったようで好戦的な発言が増えていた。
『決戦のあの空へ』を見に行った6日後の9月22日……
いつものように播磨屋を訪ねた僕は、静子おばさんと純子ちゃんからとんでもない話を聞いた。
「高田さん! さっきラジオで放送があって……」
「今度から学生さんも出征することになったんですって……」
「えっ?」
「よう源次! ようやく俺らの出番が来るぞ~もし海軍に入れたら、めっちゃ活躍したるわ」
「光ちゃん……」
純子ちゃんは何とも言えない表情でヒロを見つめていた。
日本の戦況は9月に入りイタリアが無条件降伏して日本・ドイツ・イタリアの三国同盟の一角が崩れたため益々悪化していた。
1943年9月22日……今まで徴兵が免除されていた大学生であっても理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生については徴兵延期措置が撤廃された。
いわゆる学徒出陣は大学生も対象になり、その年齢要項は今年度20歳以上である者……
つまり1923年生まれである僕達は、学徒出陣の要件に当てはまるギリギリの世代となってしまった。
暗いニュースばかりだったが、10月21日に出陣学徒壮行会があると周知されていた10月16日……
敵性スポーツとして弾圧を受けていた野球の六大学リーグは解散となっていたが、早稲田と慶応の学生や関係者が掛け合って最後の早慶戦が開催されたのは、学生達にとってせめてもの救いだった。
1943年10月21日、出陣学徒壮行会は明治神宮外苑競技場で行われた。
その日は暗い雲に覆われ冷たい雨が降っていて、まるで僕の……自ら志願した者以外の者達の代わりに空が泣いているようだった。
文部省主催で77校、約2万5千人もの首都圏に住む出陣学徒を、学校ごとに集められた学生を含む約6万5千人が見送る。
家族以外にも女子学生や出陣予定にない男子学生に対しては、送る側としての参加が求められていた。
「10月21日……まさか尊敬する江戸川散歩先生の誕生日に壮行会に出ることになるなんて……」
式が始まる前、僕が隊列に並びに行く前に呟きながらボーッと歩いていると……
突然誰かとぶつかった。
「……っすみません」
「いやすまない、私がよそ見をしていてね……息子が参加するんで来たんだが、見失ってしまって探していたんだ」
「そうですか……見つかるといいですね」
「ありがとう。君も大変だと思うが、命を大事にするんだよ」
「は……い、ありがとうございます」
ご時世的に命を大事になんて誰かに聞かれたら大変なのに、そう言ってくれたのが嬉しかった。
あと、なんとなく誰かに似ているような気がした。
スタンドには大勢の人がいて雨が降っていたが、傘を持つ者は誰もいなかった。
壮行会が始まると、僕達は学生帽・学生服にゲートルを巻いた姿で……大学等から渡された歩兵銃や木の銃を肩に担いで分列行進をした。
軍楽隊の演奏に合わせて進み、先頭の校旗がゲートをくぐる度に歓声が沸きおこっていたが……
立教大学は校旗の十字のデザインが問題視されて持つことを許されなかった。
僕達は行進曲に合わせ、降り続く雨でぬかるんだ地面の泥水を跳ね返しながら行進した。
国歌の演奏が流れ、皇居方面に敬礼した後に軍服の胸に勲章をつけた総理大臣からの訓示があり、その後整列した学徒を前に出陣学徒の代表が答辞を読む。
その中でも「生等もとより生還を期せず」、つまり私たちは生きて帰ってくるつもりはない……という言葉にヒロは感激していたが、僕には何だか虚しく響いた。
答辞が終わると『海行かば』をスタンドの皆も合わせて大合唱したが、大人数だったせいか余り上手く揃っていなかった。
そして最後に全員の万歳の奉唱をもって壮行会が終わる……
「天皇陛下、バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」
女学生たちは学生達の勇ましい姿に感動したのか、泣きながら手に持っていた小旗やハンカチを振っていた。
母は結局来なかったようだが、退場を見送る観客の中に宮本家族や純子ちゃんの姿を見つけた時……
本当は寂しかろうに無理矢理「バンザイ」を言わされ、反戦を匂わせようものなら非国民と引きずっていかれる今の日本の状況が悔しくて、不甲斐ない自分が情けなくて……涙が込み上げそうになった。
約10万人の学生が今までより訓練も不十分なまま突然軍隊に送り込まれることになる学徒出陣が、とうとう始まってしまった……
徴兵検査は、10月25日から11月5日にかけて本籍地で行われた。
本籍地なので僕は埼玉で、ヒロは高知で……
ヒロは「久し振りに明希子おばさんと従兄弟の正にも会えるし楽しみじゃ~下の息子の名前は何だったかのう」と嬉しそうにしていたが……
僕は妹が死んでから厳しく育てられたこともあり、久し振りの帰省と望まない徴兵検査で気が重かった。
そう言えばヒロの生みの親についての話を聞いたことがないが……自分から話してくれるのを待つことにした。
「なあ源次、一緒に海軍入ろうな! 飛行機乗りになってお前と空、飛びたいわ」
「う……ん、僕も海軍を希望するよ……つらい訓練もヒロと一緒だったら頑張れる気がするし」
僕がそう答えたのは、陸軍では酷いイジメがあるという噂を聞いたからで……海軍の方がまだマシという消極的な理由からだった。
徴兵検査では身体検査と勉強のテストがあり、身体検査は身長、体重、視力、聴力……胸囲や足型、上肢・下肢の関節運動検査なども行われた。
鼻腔口腔咽喉の確認や陰部肛門検査、肺のレントゲンを撮って感染症がないかも確認される。
検査の結果は、甲・乙・丙・丁と4段階に分けられて、丙種合格者までを12月から入隊させることになっていたが……甲を貰うのは大変名誉なことだった。
地域の小学校などに集められた対象者はフンドシ一丁で様々な検査を受けることになっていて恥ずかしかったが……何より丸裸にならなければいけない検査が本当に嫌だった。
最後の方で「時に希望はあるか」と徴兵官に聞かれたので、ヒロの言葉を思い出し「海軍に行きたいです」と答えた。
「海軍で何をするんだ、船に乗るのか?」
「飛行機に乗りたい……です」
「ふん、ようし分かった」
結果はすぐに出て、恐れ多いことに甲種合格で海軍の所属になった。
海軍の新兵教育を行う海兵団は、横須賀、呉、佐世保、舞鶴などに置かれていて……
ヒロは本籍地が高知で居住地が東京なので多少考慮されたのか、一緒に横須賀海兵団に入団することになった。
それは、僕の部屋でヒロと結果報告会をして知ったことで……
「まさかヒロも同じ横須賀とは心強いよ! 久し振りの生家どうだった?」
「久し振りに正や明希子おばさん達に会えて、めっちゃ楽しかったんやけどな~桜、切られとったわ……」
「えっ?」
「坂本龍馬はな……吉野に花見に行く~言うて家を出て坂本家の守神・和霊神社に寄った後に出藩しちょるから、神田の吉野川の桜を見る度に同じ桜かもしれんとワクワクしとったんやけどな~なくなってしもた……」
「桜は燃料にも使われるようになったしね……特に川沿いの桜は、ほとんど伐採されて今残っている桜は本当に貴重だよ」
「桜は日本の心やのに、なんだか虚しくなってしもたわ……せやけど仕方ないもんな」
「桜だけじゃなく立教の礼拝堂も何も無くなっちゃったしね……」
立教大学はキリスト教系の大学だが戦争によりその関係が断ち切られ、大学内にある教会……礼拝堂は1942年10月から閉鎖されていた。
金属類回収令によって大学の門扉も鉄製から木製へと変わり、礼拝堂内の内陣と外陣とを分けるスクリーンや説教壇、長椅子などは防空壕を作る際の資材として没収された。
僕はクリスチャンではないが、ほぼ何も無くなった教会を見た時は心にぽっかり穴が空いたというか、なんだか寂しかった。
食堂と2・3号館に囲まれた芝生には空襲に備えるための防空壕が数箇所掘られていて、2・4号館は軍による接収をうけて陸軍造兵廠の病院や築城本部になっていたので余計に……
「源次の方は、どないやねん?」
「うちは相変わらず母さんと上手くいってなくて……甲種合格を知らせた時は、ご近所さんの前でやけに喜んでたけど、家に入ると余り話してくれないんだよね」
「そりゃ大事な息子が戦争に行くことになって落ち込んどるんやないか?」
「まさか〜あと母さんからおかしな誕生日祝いを貰ってさ……千人針と一緒に鏡を渡されたんだ」
千人針は出征する者の武運を祈って近所の人などに一人一針ずつ赤い糸で縫って貰った布で……
玉留めは「弾を止める」、返し縫いは「無事に帰る」の意味がそれぞれ込められていて、赤い糸は神社の鳥居の色に由来するという。
「なんやそれ~女の子に渡すなら分かるけどな」
「母さんは純奈の事が大好きだったから、男の僕の事は嫌いなのかも、だから……」
「普段はどんな母ちゃんなんや?」
「厳しい人かな……純奈が死んだのは自分が甘やかして育てたせいだって言ってた。着物を仕立てた帰りに立ち寄った本屋から一度は一緒に出たのに、『嫌だ、まだ本屋にいたい』と一人だけお店に戻ってしまった時に地震があって店が潰れたから……」
「そうやったんか……」
「それからは僕に厳しくなって怒ってばかりだった……僕は純奈と違って歌も下手だし器用じゃないから嫌われるのも仕方ないけど」
「同じ事を繰り返したくないっちゅう親心やと思うで? ほんで顔は源次に似とるんか?」
「えーと、これ出征前に一緒に撮った写真なんだけど……」
写真を差し出すと、ヒロに盛大に笑われた。
「源次お前、母ちゃんそっくりやな~こりゃー鏡を見る度に母を思い出してくれっちゅうことやないか?」
「そんなことないよ! 見送る時も『バンザイ』って言ってたし、僕がいなくなるのを喜んでるんじゃないかな」
「子供が死んで喜ぶ親はおらんやろ」
「ほんと兵役法で大学生は最初の頃27歳まで徴集を猶予されていたのに、どんどん引き下げられて……まさか学徒出陣が僕達からとは運が悪いよね」
「なあ源次……こんなこと言うたら非国民扱いやけど……俺は国のために戦うんやない! 家族を守りたいから戦うんだ!」
徴兵検査が落ち着いた頃……
播磨屋の2階に呼ばれた僕とヒロは、純子ちゃんに驚くことを言われた。
「渡したいものがあるんだけど、目を閉じて手を出してくれない?」
ヒロと共に純子ちゃんの指示に従うと、手の上に柔らかい布のようなものが乗った感覚がして……思わず握り締め感触を確かめた。
「はい、目を開けて~二人とも誕生日おめでとう! これお揃いのお守りだから必ず持っててね」
そっと手を開いてみると……
柔らかい感触の正体は、白くて可愛らしいウサギの人形だった。
「前に一緒に行った神田明神の守り神がウサギだから、浴衣の生地で作ったの」
「あのスミレの浴衣、切っちゃったの?」
「もう着ないだろうし、光ちゃんと源次さんで二人お揃いのウサギにしたかったから……」
僕は思いがけない心の籠もった誕生日プレゼントを貰い本当に嬉しかったが……
似合っていた浴衣を着ることを女の子に諦めさせるという今の日本の情勢に憤りを感じた。
「ありがとう!」「おおきにな!」
「必ず肌身離さず持っていてね! あとね、お願いがあるの……三人で一緒に写真を撮りましょう!」
僕達は出征前に写真館で写真を撮った。
1枚は宮本家の四人水入らずで、もう1枚は純子ちゃんを真ん中にして僕が左でヒロが右側に立って……
浩くんが一緒に写ると駄々をこねたり僕が遠慮したりと撮るまでが大変だったが、純子ちゃんに強引に並ばされて緊張しながらの撮影だった。
純子ちゃんが作ってくれたウサギのお守りと三人で写った白黒写真は僕の宝物になり、出征先に持参する荷物の中に大切にしまった。
これがあれば、どんなつらい状況でも乗り越えていける気がした。
絶対、大丈夫な気がしたんだ……
学徒出陣の対象になった1942年度入学の立教大の学生は仮卒業ということになり、大学主催での学徒出陣壮行会が11月に行われた。
立教大に在学中の出征者は1247人で全入学者の半分を占めていたが、同学年の文系学部だけれど壮行会にいなかった者もいて……
どうやら裕福な家庭の学生で、長崎の浦上天主堂の近くにある医大に転入するからとのことだった。
「徴兵逃れだ」と怒る者もいたが、僕は描いていた漫画の影響もあってか医学が勉強できることに少しだけ憧れていたので、戦地に行かなくて済むことが純粋に羨ましかった。
その者が2年後の8月9日に迎えることになる悲劇も知らずに……
12月の入隊にむけて出発する前日の夜に宮本家主催の壮行会をするとのことで、僕は播磨屋に呼ばれた。
ありがたいことに静子おばさんは貴重なお酒も用意してくれていた。
20歳になって初めて飲んだお酒は甘いような辛いような、びっくりする味で……少し飲んだだけなのに急に大人になった気がした。
ヒロは酔っ払って終始上機嫌で……「海軍所属になると決まってから急にモテだしてのう」と完全に調子に乗っていた。
そして純子ちゃんの頬を両手で挟んで思わぬ事を言った。
「純子お前……原田節子さんに似てるな」
「へ、変な冗談言わないで……」
「目と鼻と口がある所が~」
「もう~光ちゃんなんて大っ嫌い!」
端から見てると犬も食わない夫婦喧嘩だ。
「純子はな〜小さな頃『ひろみちゅ兄ちゃまと結婚しゅる』って言っとったんやで〜? 何度も言ってきて困ったわ」
「そんなこと覚えてませんし、酔っ払って悪い冗談言う人は好きじゃありません!」
「何~? 俺はモテるんだぞ~昨日も夢の中でな……」
「夢かい!」と思わず僕はツッコんでしまった。
「そうだ源次! 例のアレ、明日忘れんとってな?」
「うん、大丈夫もう入れたからってヒロ? 全く……こいつ酔いつぶれて寝てら」
「ほんと光ちゃんは仕方ないんだから……」
布団を掛けながらヒロの寝顔を愛おしそうに見つめる純子ちゃんは、まるで聖母様のようだった。
おそらく純子ちゃんは……いや多分ではなくきっと昔からずっと、ヒロのことが好きなのだろう。
そして素直ではないが十中八九、ヒロも純子ちゃんのことが好きだ。
民法では男性は満17歳、女性は満15歳以上で結婚できるらしいから、戦争という時代でなければ二人はすぐにでも結婚していたかもしれない……
だから僕は自分の想いに蓋をした。
おばさんは後片付けをしに行き、浩くんも興奮して疲れたのか先に寝てしまったので、帰る前に浩一おじさんの位牌に手を合わせながら久し振りに純子ちゃんと二人だけで話をした。
「ありがとう純子ちゃん! 僕は三人でいる時間が大好きだった。播磨屋の2階で何でもないくだらない話をして……出来ることならずっとこうしていたかったけど無理みたいだ」
「そんな寂しいこと言わないで!」
僕は話題を変えようと、位牌を見て気付いた事を言った。
「家紋、剣片喰なんだね……宗派は多分うちと同じだよ」
「そうなの? うちはご先祖が茨城にある神龍寺の近くに住んでいたらしいんだけど、何の縁だか同じ名前の神龍小の近くに引っ越すことになって……」
「へぇ~同じ名前ってすごいね」
「私、辰年生まれで神龍小に通ってたのもそうだけど、昔から龍に縁があって……お墓をうつしたお寺の名前にも龍がついてるのよ?」
驚いたことに純子ちゃんが話したそのお寺の名前は、僕のご先祖様のお墓があるお寺の隣のお寺だった。
柵を挟んでお墓同士が並ぶすぐ隣の……
「そのお寺、隣だよ! お墓参りの時に通ってた! 僕のご先祖様は東京生まれだから……そうか! もし死んでもヒロの隣に行けるのか……隣の墓だったら入るのも悪くないかもな」
「縁起でもないこと言わないで!!」
そう言うと純子ちゃんはポロポロと涙をこぼした。
つい弱気になり、純子ちゃんを不安にさせてしまったことを僕は後悔した。
「ごめん純子ちゃん、ごめん変なこと言って……僕が必ずヒロを連れて帰ってくるよ! もしあいつが希望する飛行隊員になって出撃しなきゃいけなくなったら、こっそり腹下すものご飯にいれてさ! 『すみません、こいつ厠から出られないんで飛べません~』って」
「ふふふふ……アハハハハそれは素晴らしい計画ね! ありがとう源次さん……久し振りに心から笑った気がするわ」
泣きながら笑う純子ちゃんを泣くほど傷つけてしまったお詫びに、僕は咄嗟に思いついた夢を語った。
「そうだ、新しい夢が出来たよ! いつか無事に帰ってきたら……出版社に僕達の漫画を持ち込んで本を売って、それが映画になってさ……純子ちゃんが僕達の映画の歌を歌うなんてどうかな?」
きっと叶うことはない、途方もない夢だった。
「素敵な夢……私、寂しかったの。だって二人だけで世界を作って、どんどん先に行ってしまうんだもの……これで私も夢の仲間入りね」
純子ちゃんは本当に嬉しそうに笑った。
12月の入隊にむけて、御茶ノ水駅から出発することになり……純子ちゃん達が駅の前まで見送りに来てくれた。
「光ちゃん、源次さん! これ、地域のみなさんで縫った千人針……二人とも気を付けてね! 必ず帰ってき……」
「そんなに心配すな! 俺達は訓練に行くんやで? ほら、お前に餞別や」
僕達は純子ちゃんに1ヶ月早い誕生日祝いを渡した。
入学してから二人で色々案を出し合って少しずつ描き続けて……昨日やっと完成した漫画だった。
「正月の頃に帰れるか分からんからの~前祝いじゃ! ええか? 誕生日まで絶対読んだらあかんで~あそこにある源次の住んでる場所近くの大学病院がモデルの話も出てくるから楽しみにしとけ」
「謎を解いたり色々な事件が起きる場面が出てくるのは、推理小説好きな僕の影響だけどね」
「二人ともありがとう……楽しみにしてる! わ~この漫画、素敵な題名ね」
表紙に書かれた題名は『未来を生きる君へ』で、ペンネームは『みなもとこうじ』……
『未来を生きる君へ』という題名は二人で決めた。
『君へ』にするか『君たちへ』にするかで迷ったが、6年前に出版された某有名な著者と題名が似てしまうので『君へ』にした。
「私、嬉しい、この名前も好き……光ちゃんと源次さんの名前からできてるけど、私の名字の宮本も入ってる気がして……」
「ほんまやな~気付かんかったわ」
「本当は気付いてたでしょ~本当にヒロは素直じゃないんだから」
「誕生日に読むの楽しみにしてる! 感想、直接言いたいから必ず帰って来てね! あと私も出発前に見せたいものがあって……」
それは、僕達が貰ったお守りと同じ大きさの、ウサギの人形だった。
「自分用にもう一つ作ったの。毎日これに話しかけたら、二人に届くかなって」
「通信機やあるまいし無理やろ」
「本当は嬉しいくせに〜ヒロは本当~に素直じゃないよね」
「必ずウサギと一緒に……帰ってきてね?」
僕は大勢の他人が行き交う駅前で、何と答えればいいか分からなかった。
「ようし景気づけに軍歌でも歌うか!」
「僕は軍歌はちょっと……」
「辛気臭いのう~よっしゃ軍歌の代わりにヨサコイ節でも歌うか」
「よさこい牛?」
「牛ちゃうわ! 何じゃ知らんのか? 高知の民謡じゃ」
「土佐の~高知の~はりまや橋で~坊さん~かんざし~買うを見た~ハア、ヨサコイ~ヨサコイ」
「初めて聞いたよ……あれ? もしかして播磨屋ってその歌から付けたんですか?」
「そうなの……私と浩一さんは播磨屋橋で出会ったから……」
静子おばさんは恥ずかしそうに、そう言って赤面した。
「そろそろ時間や」
最後にヒロは純子ちゃんと静子おばさんから千人針を受け取った。
「ほな行って参ります!」
「行って参ります!」
僕達は勇ましく敬礼した後、御茶ノ水駅を出発した。
僕達の漫画を胸に抱えて涙ながらに手を振り続ける純子ちゃん達の姿が見えなくなるまで、何度も振り返りながら手を振って……
そして僕達は、入隊した横須賀海兵団で思わぬ人物に出会った。
1943年12月10日は海軍の入隊式だった。
学徒出陣の対象の学生は海軍に入ると最初は海兵団で二等水兵になり、新兵教育を行う海兵団練習部では飛行科かそれ以外かにまず分けられた。
航空隊希望の者は約2か月後までに飛行予備学生の試験と発表があるが……
学徒出陣の学生が14期予備学生になるのだが、13期までは自分から志願した学生が含まれる一方で14期は仕方なく入隊した者が多いためか、教官からの当たりは特にきつかった。
入隊式で海兵団長から開口一番、厳しい宣告があった。
「貴様たちは日本が大変な時に徴兵検査を免除され、娑婆でのうのうと遊んでおった腰抜けだ! 自由主義者の貴様らの精神をたたき直してやる!」
紺色の水兵服と黒い水兵帽が支給されて、ヒロにとっては憧れの海軍生活が始まったが……班に分けられた先の教班の分隊長も厳しい人だった。
教班長が去ってから、荷物の整理を始めた僕達は……やっと落ち着いて会話をすることができた。
「いや~初日から盛大にお灸を据えられるとは、これから大変やな……ちなみに陸軍は12月1日が入営の日だったらしいで」
「陸軍じゃなくて海軍でよかったよ~その日は妹の純奈の誕生日なんだ」
すると隣にいた同じ班の学生が話しかけて来た。
「うちは学徒出陣壮行会の日が家族の誕生日だったんで、なんとも言えない気持ちになりましたよ」
「それはまた辛いよね……君、名前は?」
「平井隆之介と申します」
平井くんは人懐っこい笑顔が印象的な青年で……背は少し低めだが、頭のよさそうな人だった。
「平井くんか、これからよろしゅうたのむわ~ちなみにこいつの名前は……」
「僕は高田源次で、こっちは親友の篠田弘光! 同じ班になったのも何かの縁だし、よろしくね!」
僕達は持ち物に書いていた名前を見せながら自己紹介をした。
「弘光、源次……お二人の名前って合わせると光源次になりますね! 僕、『源氏物語』好きなんです」
「ほんまか? 実は俺ら立教大学の文学部出身でな」
「ほ、本当ですか? もしかしたら、すれ違ってたかもしれないです……かなりの確率で……」
「本当? 君も立教出身なの?」
「いや、大学は違うんですけど……住んでる場所が……」
「もしかして池袋周辺? だったらすれ違ってたかもね」
「周辺というか……」
「しもた! 純子がくれたお守り入ってへん……」
鞄を整理していたヒロが青ざめていた。
「ええ? 無くさないようにって鞄の一番下に入れてたじゃないか」
「そうか………………ほんまや……あったわ~」
「まったく……写真も持ってきた? 僕はこの通り手帳に挟んで持ってきたよ」
僕達のやり取りを聞いていた平井くんは……
「あの、スミコさんというのは?」
「ああ、この子だよ。出征前に一緒に撮ろうと無理やり並ばされて撮った写真だけど……」
「綺麗な方ですね……この方は高田さんの恋人ですか?」
「ち、違うよ~ヒロの方が余程お似合いじゃないか~ど、どうしてそう思ったの?」
「女性は自分の左側に真に想う者を立たせると聞いたことがあるので」
「え、本当に?」
「そんな訳あるかい~たまたまやろ? こいつは俺の……」
「篠田さんの恋人でしたか~それは大変失礼致しました。すみません、心理学科にいたもので、つい色々と分析してしまって……」
「い、いや違うて、こいつは……」
「では従兄妹か再従兄妹ですか? どことなく親族とお見受けしましたが、先程お似合いと申されていたので結婚できる可能性のある……」
「正解、従兄妹だよ~平井くんすごいね! 僕は最初、恋人と間違えたけどね」
「なんやよう知らんけど明智探偵みたいな奴やな……にしても純子のお守り見つかってホンマによかったわ~写真はこの通りポケットの中にあるで?」
「そんな所に入れたら曲がらない? でも僕もそこにしようかな〜」
「お二人とも、この方が好きなのですね」
「違うわい」「違うよ~」
僕達は二人して平井くんの発言に焦ってしまった。
平井くんは手先が器用で、訓練の空き時間に父親に習ったという手品を披露してくれた。
そんな風に息抜きできる時間は限られている程、横須賀海兵団での訓練は厳しくて……
「映画で観た時は憧れとったけど、ハンモックで寝るのはきついのう……よう寝られへんわ」
「僕は呼び方を『貴様』と『俺』って言うのが慣れそうにないよ」
海兵団の訓練は、敬礼の練習から始まり水泳や相撲の教練、伝令訓練や辻堂演習、座学は数学・物理などで学術試験もあった。
陸戦訓練の駆け足では猛烈なスピードを要求され、通信教育では手旗やモールス信号などを短期間で覚えねばならなかった。
海軍は軍隊内で英語も使われていて知的な雰囲気があったが、陸軍よりはマシだと聞いていたのに厳しい制裁があり……
教班長の理不尽な行いに口ごたえをするような事があれば「修正する」と殴られ、口の中が切れて食事をするのも一苦労だった。
「馬鹿野郎! 貴様それでも軍人か! 軍人魂を教えてやるから部屋に来い!」
教班長は気に入らない事があると「修正だ」と言って呼び出しを行い……
通称バッターと呼ばれた野球のバットの親玉の様なゴツい軍人精神注入棒で尻を叩かれた。
一発で吹っとぶ位、歯が抜けそうになる位痛いのに何発も何十発も叩かれた。
海軍は、もし戦艦などに乗った場合に備えてか、閉鎖的な環境で感染症などが流行らないよう予防するため衛生管理にも厳しくて、雑巾がけなどの掃除が遅いとすぐバッターがあり……
叩かれると一週間位内出血のアザが残るが、治らないうちにまた叩かれて座るのもしゃがむのも痛いので、ヒョコヒョコと変な歩き方で厠から出てくる者が多かった。
カッター漕といわれる短漕ぎ訓練では、長いボートを12本のオールで集団で漕ぎ続けて競争させられるので、手にマメができるわ、只でさえ痛いおしりが真っ赤にこすれるわで更に辛かった。
飛行科の採用試験では筆記と面接の試験が2日間かけて行われ、不合格となったものは二等水兵として残ることになるからヒロも僕も必死で勉強した。
身体適性検査もあって、その場でぐるぐる回された後に瞬時に止まれるかどうか……回された直後でも方向感覚が麻痺していないかなど、飛行機乗りとして必要な三半器管の丈夫さが確かめられた。
平井くんも航空隊志望で、努力の甲斐あってか僕達三人は無事合格した。
「ふむ、貴様は誕生日が11月15日なのか……土浦航空隊の開隊も11月15日だから、お前達は土浦の所属にしてやる」
「あ、ありがとうございます!」
そうして不思議な偶然の縁で所属が決まった。
「やった~源次の誕生日さまさまや~土浦言うたら『決戦のあの空へ』の舞台やで! 映画の中に入り込める気分やわ」
僕達の所属は、映画に撮影協力をしていた土浦になった。
1944年2月に僕達は土浦海軍航空隊に入隊することになり、ヒロや平井くんとまた一緒に過ごせる事だけは純粋に嬉しかった。
僕達は2月1日に土浦海軍航空隊に入隊する前の休暇期間に帰省した。
朝早くに出発し、アパートに戻る前にヒロに誘われて久し振りに播磨屋に寄った。
まず、ヒロがガラっと戸を開けながら元気よく挨拶した。
「ただいま戻りました! 我等、横須賀海兵団での試験に無事合格し、土浦海軍航空隊に配属が決定致しました!」
二人揃って海軍で習った角度で敬礼すると……
「えっ、光ちゃんと源次さん? 嘘でしょ? おかえりなさい! 帰ってくるの、ずっと待ってたのよ?」
暖簾の奥から純子ちゃんが飛び出してきて、浩くんと静子おばさんも駆け寄ってきた。
「弘兄ちゃん達おかえり~」
「おかえりなさい! 二人とも立派になって……」
僕達は浩一おじさんの位牌に手を合わせた後、久し振りに昼食を共にした。
「連絡くれればよかったのに~丁度うちに大した物がなくて……お芋ばかりでごめんなさい」
「気にしなくて大丈夫だよ」
「それで海兵団での生活は、どうだったの?」
「いや~それが大変でな……」
僕達は訓練の内容や道中で起きた事を話し始めたが、修正やバッターの話をそのまますると心配されてしまうので「お仕置きケツが血ダルマ事件」と大げさに称して面白おかしく語った。
二人で「ケツが痛い~ケツが痛い~」と変な歩き方を実演したら、みんな大爆笑で……
僕は久し振りに純子ちゃんの笑った顔が見られて嬉しかった。
「それにしても光ちゃん達が土浦に行くことになるなんて……源次さんにも前に話したけれど、茨城にある神龍寺って土浦にあるのよ? 不思議な御縁だわ」
「ホントね……そうだわ! せっかく久し振りに会えたんだから、純子達三人でどこかに行ってきたら? 浩はお店、手伝ってね」
「え~? やだよ」
「本当に? 私、行きたい所があるの! 源次さんのおうち……光ちゃんは行った事あるけど、私は行ったことないんですもの」
「え、でも埃が溜まってて汚いだろうし……」
「じゃあ、お掃除するわ! それじゃ、二人とも早く案内して?」
「源兄ちゃんのウチなら僕いいや~いってらっしゃ~い」
僕は三人でアパートに向かう途中もドキドキで……着いて中に入ってからも、自分の部屋に女の子がいることが信じられなかった。
「わ~ここが源次さんのお部屋ね。素敵なお部屋〜さあ、お掃除するわよ?」
不在中に積もった埃だらけの部屋を、純子ちゃんは本当に一生懸命に掃除してくれて……僕達の10倍の働きで部屋は見違えるようにキレイになった。
「純子ちゃん本当にありがとう! お茶どうぞ、それと海兵団の卒業式で貰った紅白饅頭……アンコは余り入ってないそうだけど、純子ちゃんにあげたくて取って置いたんだ」
「ありがとう源次さん! お饅頭なんて久し振りだわ……いただきます」
そう言うと純子ちゃんは食べながら泣き出してしまった。
「美味しい……こんなに美味しいお饅頭初めて食べたわ……二人が帰ってきてくれて本当に嬉しい」
「大げさやな~それと、すまんな紅白饅頭……俺はその場で食べてしもて」
「いいのよ~その方が光ちゃんらしい! 海兵団での訓練、本当は毎日つらかったんじゃない? 同期に意地悪な人とかいなかった?」
「いいや教官は鬼みたいやったけど、同期はええ奴ばっかやで? それが面白い奴に出会ってな~あの三人で撮った写真見て、源次と純子が恋人かと聞いてきたんや」
「ブフォッ……えっ? ゴホゴホゴホ……な、何を言うのよ」
お茶を飲みながら吹き出してしまった純子ちゃんの顔は耳まで赤くなっていた。
多分むせたからだと思うが……
「そ、そう言えば漫画の感想まだ言ってなかったわよね。ありがとう、本当に感動した……驚いたわ、主人公が私が好きな坂本龍馬に似てるんですもの」
僕達が渡した漫画『未来を生きる君へ』は、坂本龍馬に似た主人公が飛行機に乗って空を飛び、時を超えて様々な困難に立ち向かって人々を苦しみから救う物語だった。
「特殊な飛行機?……で過去にも未来にも行けるなんて素敵! 過去で昔の仲間を救う話も感動したけど、未来の病院で出会う宗像先生と親友になる話も感動したわ」
「そ、その先生は僕の尊敬する緒方洪南先生がモデルなんだ」
「謎解きも面白かったけど、何と言っても主人公の最後の台詞……一番感動して何度も泣いて、この言葉を全国の人に伝えたいって思った」
「あれはヒロが考えた台詞なんだ! 僕は変える事も提案したんだけど、どうしてもこれがいいからって……な、ヒロ?」
ヒロは純子ちゃんに褒められて嬉しくて堪らないはずなのに、ソッポを向いてすましていた。
相変わらず素直じゃないやつだ……
「二人ともありがとう! お礼にウサギが出てくる歌を歌います! 離れていても私の歌、思い出してね?」
そう言うと純子ちゃんは、歌詞の最初にウサギが出てくる『故郷』の歌を歌ってくれた。
いつものように天使が舞い降りたような歌声だったが……
歌っている途中、珍しく何度も声が震えていた。
~~~~~~~~~~
うさぎ追いし かの山
小鮒つりし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷
いかにいます 父母
恙なしや 友がき
雨に風に つけても
思いいずる 故郷
こころざしを 果たして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
~~~~~~~~~~
純子ちゃんは泣くのを我慢しながら、立派に最後まで歌いきった。
僕も泣きそうになったが、必死に我慢した。
「純子ちゃん、ありがとう。向こうに行ってもこの歌を思い出して頑張るよ! 『故郷』は本当にいい歌だよね……日本人の心に染みるっていうか……」
「本当よね……この歌の作詞をしたのは源次さんと同じ名字の高田さんていうのよ? 作曲は岡田さん……て、光ちゃん大丈夫?」
ヒロはずっと下を向いていて、暫くなぜか大人しかったが……
突然顔を上げたと思ったら、珍しく号泣していた。
ヒロが泣いたのを見たのは、これが初めてだった。
「純子~! ほんまにありがとう~! なんや嬉しくて何かが込み上げて来て……天国に行きかけたわ」
「いやダメじゃない……行かないで、天国」
「ブッ……アッハッハッハ、二人の夫婦漫才、久し振りに見たよ」
「夫婦ちゃうわ~」「夫婦じゃない~」
僕達三人は本当に久し振りに心から笑った。
それから珍しくヒロが標準語になって……
「手紙書くよ……必ず」
「本当? 筆不精だから信じられないわ~年賀状出すのも面倒臭がってたじゃない」
「いいや必ず送る……楽しみに待っとけ」
「ヒロって真剣に何か言う時だけ標準語になるよね~僕も送るね? あと純子ちゃん、本当にありがとう……今の歌を聞いて決めたよ。土浦に向かう途中で母さんに会ってくる」
「二人とも行ってらっしゃい! 必ず帰ってきてね? 帰ってきたらウサギの人形達も一緒に、揃って三人でまた写真を撮りましょう?」
前回と同じように御茶ノ水駅で見送られた僕達二人は、土浦に向かう途中の駅で降りて埼玉の僕の実家に向かい……帰るなりヒロの事を「親友」と紹介すると、母さんは本当に嬉しそうに笑った。
相変わらず人たらしのヒロは母さんとすぐに仲良くなって、母さんはヒロのくだらない冗談に大笑いしていた。
母さんのそんな顔を見るのは本当に久し振りだった。
僕達は平井くんと待ち合わせをして三人で土浦海軍航空隊の門をくぐった。
その先にどんな過酷な運命が待ち受けているのかも知らずに……
各海兵団から選ばれた3300名は第14期飛行専修予備学生となり、要務専修者は鹿児島航空隊へ、飛行専修者は土浦・三重の航空隊に分けられたが……僕達は土浦海軍航空隊に入隊した。
2月1日、土浦海軍航空隊の隊門を入ると自分の所属する分隊や班が書かれた名簿があり……幸いなことに三人でまた同じ班になった。
支給されたネイビーブルーの海軍士官服に着替えて腰に短剣の付いたベルトを巻き付けた時は思わず感激してしまった。
ヒロは「憧れの七つボタンがない~」と映画に出ていた土浦の予科練生の制服と違うと知りボヤいていたが……
土浦ではいきなり本物の飛行機に乗れるという訳ではなく、4ヶ月間の基礎訓練を受けたのちにシミュレーターなどの適性検査で操縦・偵察・要務に分けられて中間練習機教程の配属先が決まる。
出征した時はもう帰れないと思っていたが、海兵団卒業の後に一度帰れたことから純子ちゃんも僕も航空隊の訓練が終わればまた帰れるのでは……もしかしたら訓練中に戦争が終わるようなことがあれば、と微かな希望を抱いていたが……
その淡い期待は一番偉い分隊長の最初の挨拶で一瞬にして打ち砕かれた。
「貴様達が来るのを待っていた! 最初にはっきり言っておく……お前達には全員、死んでもらう! 敵は南太平洋において反撃を開始しておるが、豊富な物量に対抗せするには死してのち已むの精神で取り組まねばならぬ! 今後は海軍士官たる誇りを持って邁進せよ!」
土浦航空隊での生活は朝の「総員起し」に始まり、夜の「吊床下せ」に終わるが、全て駆け足で歩くことは許されず……
一日のうちで必ず行われるハンモックの吊床訓練も各班対抗で、「かかれ!」の号令に始まり一番最後になった班には「お前達はやる気があるのか!」と班長からの鉄拳が飛んだ。
軍歌演習の他に身体を鍛えるために相撲や武術、1万メートル駆け足や闘球、マット体操や通称カッターの短艇など……
座学は数学や気象学や物理学、航法や飛行理論や力学など……
モールス・無線電信・手旗信号訓練や実技も座学にも全てに試験があり、手相と骨相まで診られた。
分隊士からの指導は厳しく、海兵団の時と同様で修正と称される鉄拳制裁をしばしば受けた。
教える下士官の中には意地悪な者もいて、手旗の練習の時に両手を挙げた「ハ」の字の姿勢のままでわざと長々と説教をする者もいた。
ヒロは理想が高かった分、余計に現実との差がショックだったようで……「ここでもバッターか……たしか『決戦のあの空へ』では体調を崩した班員を心配して寝ずについててくれる班長がおったけど、えらい違いやな」とボヤいていた。
毎週土曜日の午後は、棒倒しの行事があり……分隊ごとの対抗で、訓練に負けると夕食が抜きになり本当にきつかった。
異性との通信も禁じられていて、純子ちゃんが心配して送ってくれた葉書は受け取る時に検閲され、一生懸命書き込んでくれたであろう文章は墨で黒く塗り潰されていた。
「これじゃ全然読めないよな?」
夜にハンモック状の吊り床の中で横になった時に聞こえてくる毎日の巡検ラッパは、一日を終えた安心感からか何だか切ない気持ちになるが……今日はいつにも増して涙が出そうになった。
そんな中でも同じ班内で、驚くような新たな出会いが初日にあった。
隊や班ごとに分けられて並んでいる中で、色黒で運動神経がよさそう且つ親しみやすそうな、僕が末だに慣れない「俺と貴様」呼びをサラリと使いこなす青年がいた。
「同じ班になれて嬉しいよ! 俺の名前は坂本亘。よろしくな! 貴様の名前は?」
「俺の名前は篠田弘光や」
「お、俺は高田源次です」
「平井隆之介です。よろしくお願いします」
「よろしゅう頼んます、坂本くん?……て漢字は? 坂本龍馬の坂本か? どこの出身なんや? もしかして坂本龍馬の子孫だったりせぇへんか?」
「ごめんね……こいつ高知出身で坂本龍馬には目が無くて……」
「因みに源次は坂本龍馬と同じ誕生日なんやで~」
「アッハッハッハ貴様ら面白いヤツだな~坂本龍馬の坂本だよ。慶應大学の出身で陸上部主将だったんだ。貴様達三人は同じ大学出身か?」
「いや僕だけ違う大学で……」
「俺と源次は立教の文学部で……って慶應陸上部主将?……ってことは去年の箱根駅伝……」
「10区を走ったよ。主将だからな」
「やっぱり~どこかで会うた気がしたんじゃ~箱根駅伝、わしも出とったんじゃ!」
「もしかして立教で区間賞をとった、あの篠田か?」
「2日目のゴールわしらも応援しに行って見とったんじゃ~ほうか、あの時走っとったんはおまんじゃったか~」
「ヒロってほんと、興奮すると土佐弁になるよね」
「箱根駅伝、僕も見ました! たしか慶應は2位で立教は6位でしたよね? それに出ていたお二人が今こうして出会うなんて、本当にすごいです!」
いつもは冷静な平井くんまでもが興奮気味になっていた。
「そうか、貴様たちもあの群衆の中にいてくれていたとは……こうして今、四人が出会えたのは運命だ……」
「ほんとヒロに誘われて行ったけど、坂本くんも平井くんも同じ場所にいたなんて……不思議だよね」
「あの時ゴールできたのは沢山の応援の声が力になったからなんだ。つまり貴様たちのおかげだよ、本当にありがとう!」
坂本くんは一瞬で僕達の大切な仲間になった。
3月になってようやく外出を許されたが、行動範囲は土浦周辺に限られていた。
しかしそこで僕達は………坂本くんに導かれた場所に行った僕達には、新たな運命的な出会いが待っていた。
土浦海軍航空隊での生活はつらい事ばかりと言う訳でもなく、余暇の時間には休憩所を兼ねた酒保……つまり売店のある2階建ての『雄飛館』という場所もあり、1階の大食堂で汁粉などを券と引き換えで食べたり、2階の座敷で本を読んだり蓄音機で音楽を聞いて楽しんだ。
四人で休養中の余興として許可されていた囲碁や将棋で勝負をしたが……
将棋での勝負は推理・洞察力がある平井くんの圧勝で、まさに小さな巨人という感じだった。
僕達四人はそこで英気を養ったり、厳しい訓練や制裁で心が折れかけた時にはお互いを励まし合っていた。
3月になって土浦での生活に慣れてきた頃に日曜の外出が許可され……坂本くんに誘われて、ある指定食堂に行った。
「ここだ、たしかこの屋根だ……入隊する前に色々近くを散策していた時に、何だか不思議な縁を感じて一度訪れたんだが……貴様たちと行ってみたいと思っていたんだ! あれ、おかしいな? 看板が無くなってる……トミさ~ん? いるかい?」
「いらっしゃい~あら久し振り」
「看板どうしたの? 無くなってるけど」
「看板? ああ、あの看板は古くなったし指定食堂でおかげさまで有名で……みんな無くても分かるから取り外したのよ~さあ、入ってゆっくりしていってね」
店に入ると入口付近の席で、同じ予備学生と思われる青年が同期らしき人に胸ぐらを掴まれていた。
その青年は一匹狼のような風貌で……睨まれても動じる事なく、どこか冷めた目をしていた。
それが気に触ったのか「お前、生意気なんだよ!」と今度は殴られそうになったその時……
「やめろや!」
間一髪でヒロが止めに入り、その人達は「行こうぜ」と吐き捨てるように去って行ったが……
一人取り残された青年に一番先に駆け寄ったのは、以外にも平井くんだった。
「もしかして島田くん? 島田先生の息子さんの島田陣平くんだよね? 僕、平井隆之介だよ~覚えてない?」
「お前なんか知らねえ」
「小さい時に島田先生と一緒にウチに来て、よく遊んだ仲じゃないか~あっ因みに島田先生ていうのは父の友人で将棋を僕に教えてくれた人で……」
僕は「だから将棋、強かったんだね」と納得してしまった。
「島田くんも土浦に来てたなんて嬉しいよ! 今の人達は同じ班の仲間かい?」
「仲間じゃねぇ! 同期だが何だか知らねえが、俺は仲間なんていらねえ! 俺は誰も信じないし、一人が好きなんだよ……信じても裏切られるだけだしな」
そのやり取りを見て思い出したように今度は坂本くんが……
「その言葉……もしかして貴様、千葉の中学の時に一緒だった島田か? アダ名が一匹狼の……俺だよ、坂本亘」
「お前は……黒獅子と呼ばれた、あの坂本か?」
僕は「坂本くんて色黒だけに黒いライオンてアダ名だったのか」と心の中でツッコんでしまった。
「突然引っ越したから心配してたんだ……どうしていなくなった?」
「親父が借金して酒に溺れて母さんを殴るようになったから、二人で暮らそうと夜逃げしたんだ」
「お袋さんは、お元気か?」
「今は千葉の実家の方に戻って看護婦をしているよ」
一部始終を聞いていたヒロは「隊と班が違くて今まで気付かんかったとはいえ、お前ら二人の知り合いに出先で会えるなんて、すごない?」と感心していた。
坂本くんと平井くんと島田くんは……
「俺は決めたぞ! 今日から島田も一緒に余暇を過ごそう!」
「賛成~」
「こ、こら……勝手に決めんな!」
知り合いならではの強引な勧誘で、島田くんは僕達の仲間になった。
食堂を切り盛りしている多分うちの母親と同い年位のトミさんは……
「さあ、仲間になった所で、みなさんゆっくりしてって下さいね。そう言えば由香里と和男は? 由香里~和男~みなさんにお水持ってきて注文お伺いして~」
すると「は~い、お母ちゃん」と暖簾の奥から小学生位の男の子と、純子ちゃんより少し年上位のオカッパ頭の女の子が出てきた。
「いらっしゃいませ! お水をどうぞ」
「いらっしゃいませ! ご注文は何になさいますか? それと、あの……さっき店の奥から見てました! とってもカッコよかったです」
弟らしき子が配り終わった後のお盆を抱えた女の子は、真っ先にヒロの所に行って目を輝かせていた。
「いや、自分は当然の事をしたまでで……」
「私、この店の娘の由香里と申します! あの、あなたのお名前は?」
「篠田弘光です」
ヒロに続き、みんな順番に由香里ちゃんという子に自己紹介と「よろしく」という挨拶をしたが……
島田くんも無愛想ながら挨拶をしたというのに、いつもは人当たりがいい平井くんが固まっていた。
「あ、あの……あと平井くんだけだよ?」
「へ? 僕? あ、僕じゃなかった俺……じゃなくてやっぱ僕、の名前は平井でしゅ、じゃなくて平井です! あの……平井隆之介でしゅ、じゃなくてです、あのハイ~」
僕は内心「平井くん動揺し過ぎだよ……」とツッコみつつ、自分が純子ちゃんに初めて会った時の事を思い出していた。
十中八九、平井くんはこの由香里ちゃんて娘に一目惚れしたのだろう……
「ゆ、由香里さんて……す、素敵な名前ですね!」
「ああ、珍しい名前ですよね~うちの父が紫が好きで、紫色はある歌に因んで『ゆかりの色』と呼ばれてるらしくて……たしか『紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る』という歌なんですけど……」
「古今和歌集やないですか……たしか意味は、紫草がたった一本生えている縁だけで、武蔵野の草がみな愛おしく感じられる」
「まあ、ご存知ですの?」
「立教の文学部にいたもので……」
「博識なんですね……素敵ですわ」
「篠田さんずるい~」
多分ヒロの方にはその気がないが、思わぬ三角関係が勃発した気がした。
坂本くんが言っていた通り、食堂のご飯は美味しくて……僕達は毎週通うことにした。