源次物語〜未来を生きる君へ〜

 ドーリットル空襲の当日から、軍による徹底した緘口令(かんこうれい)が敷かれ、空襲の被害を口外する人間は容赦なく検束されていた。
 魚売りのおばさんの話は、大分経った頃に来た食堂で片手な事に気付いてこっそり聞いた当事者同士の情報交換だったので大丈夫だったが……

 初めての空襲に遭遇したショックで元気がなくなっていた僕達を心配して、純子ちゃんが5月15日にあった神田祭りに誘ってくれた。
 正直お祭りという気分ではなかったが……お花見の日に約束したし、行かないことで更に心配をかけるのも忍びないので行く事にした。

「お待たせ~ごめんなさい遅くなって」

 神田明神に先に着いて待っていた僕とヒロを見つけて、浩くんと一緒に駆け寄ってきた純子ちゃんは……
 紫色のスミレの柄の白地で清楚な浴衣を着ていた。

 その姿に思わず僕は「キレイ……」と呟いてしまい、同じくヒロも見惚れていたが……「馬子にも衣装だな」と相変わらず素直じゃなかった。

「高田さんありがとう! 光ちゃんは予想通りの反応ねっ! お母ちゃんのお下がりの浴衣なんだけど準備に時間がかかってしまって……さあ、行きましょう!」

 神田祭りに初参加の僕は、見るもの全てが新鮮でキョロキョロしてしまった。
 烏帽子を被って着物を着た人達の大行列では、神輿を担いだ人や、御殿様のような人が乗った馬や、傘や旗を持った人達も練り歩いていてとても賑やかだった。

「昔は山車の神田祭と言われる位たくさん山車があったそうなんですが……関東大震災で燃えたり電線の影響で通れないから減ってしまったそうですよ」

 一緒に来た浩くんはヒロによく懐いていたので、純子ちゃんがお祭りの豆知識を色々と教えてくれた。

「神田祭りは元々9月15日だったんですけど、台風の時期と重なるから5月になって……昔、徳川家康が関ヶ原の戦いに臨む際に武運を神田明神で祈祷したそうなんですが……見事に勝って天下統一を果たしたのが偶然9月15日、神田祭の日だったそうなんです」

「へえ~それはすごい偶然だね」

「だからそれ以降、縁起の良いお祭りとして天下祭とも呼ばれる盛大なお祭りになって……神田明神は徳川幕府によって江戸城を守護する神社になったらしいですよ~」

 純子ちゃんの豊富な知識と分かりやすい説明に感心しているうちに、人混みの中でヒロと浩くん達と合流した。

「よく見えないよ、肩車して~」

「よっしゃ」

 ヒロは軽々と浩くんを肩に乗せて足を押さえながら悠々と歩いた。

「お前、絶対いい父親になりそうだよな」

「そうか? 自分じゃよく分からんが昔から子供に好かれるんじゃ」

 ふと純子ちゃんとヒロが夫婦のように仲良く歩いている将来の姿が浮かんでしまい……少し意地悪が言いたくなった。

「じゃあ将来は先生が向いてるんじゃないか? 漫画家よりも余程現実的だ」

「何~? 協力してくれる言うたやないか~」

 僕は祭りの明るい雰囲気もあって、元気を取り戻せた気がして嬉しかった。

 その裏で日本の戦局は益々厳しくなっていたのだが、事実と乖離した大本営発表のため多くの国民は日本の勝利を信じていた。

 大本営とは天皇直属の最高戦争指導機関のことだが……
 悲惨な事実を報告して国民が戦意を喪失してしまうことを最も恐れていて、戦意高揚のもとに虚偽の戦果報告が横行していた。

 4月の本土爆撃に大きなショックを受けた日本軍部は、一矢報いようと必死だった。
 5月初旬の珊瑚海海戦……
 日米両海軍の空母同士の最初の海戦である珊瑚海海戦で日本軍は勝利と報じていたが、事実上は引き分けだった。

 6月5日のミッドウェー海戦……
 先の珊瑚海海戦で米空母1隻を撃沈、1隻を大破させていた日本軍は圧倒的に優位にあると索敵を軽視しており……
 アメリカ空母の発見が遅れ、攻撃隊を発進させる前に爆撃を受けて空母4隻、航空機約300機等を失う大損害を受けた。

 米軍は日本軍の暗号を解読して作戦の概略をつかみ、大破していた空母も数日の修理で前線に復帰、日本の攻撃部隊を待ち受けていたらしい。 

 日本は慢心と情報軽視のせいで兵士らを3千人以上も失い、沢山の犠牲者を出してしまった。
 しかし新聞は、あたかも日本が勝利したかのような見出しで戦局を伝えており……

「やっぱり日本はすごいや~ミッドウェー沖で大海戦! 米空母2隻撃沈だって!」

 お父さんからの誕生日プレゼントであるブリキの戦艦長門を持って嬉しそうに飛び回る軍国少年の浩くんは、記事の内容を素直に信じて喜んでいた。

「お父ちゃん元気かな? 海軍志望だったけど目がよくないとだからメガネで入れなくて……陸軍に入ったけど、きっと何処かで活躍してるよね!」

 僕は4月の空襲の事もあり、新聞の内容を俄に信じる事が出来なかった。

「そうだね。よし出来た……はいコレ、少し遅いけど誕生日プレゼント」

「わ~ありがとう! 僕の大好きな戦艦長門だ~お前すげえな見直したよ! 姉ちゃんはやらないけどな~」

 僕はブリキのオモチャを見ながら描いた戦艦長門の絵を浩くんにあげた。

 長門が陸奥、大和とともに第1戦隊になったミッドウェー海戦が戦艦大和にとっての初陣だったが、空母部隊の遥か後方に配備されていて交戦する事無く帰還……
 その船に自分の父親が乗艦することになるなんて、この時の僕は全く思っていなかった。
 1942年7月7日、七夕……
 その5年前である1937年の7月7日にあったのが盧溝橋事件……
 奇しくも太平洋戦争の遠因である日中戦争の発端になった盧溝橋事件は、七夕の日のすれ違いがきっかけで起きたという。

 日中の緊張が高まっていた七夕の夜、盧溝橋の近くに駐屯し夜間演習を行っていた日本軍が、暗闇から不意に銃撃を受けた。
 その時は近くに中国軍も駐屯していたため、日本軍は中国からの銃撃と判断……
 点呼を取ったところ日本兵が1人行方不明で中国の捕虜にされたと思い込み、武力衝突が起こってしまった。

 きっかけとなった中国からの最初の発砲が、日本の演習発射音に驚いて反射的に発砲した偶発的なものなのか政治的に仕組まれたものかは諸説あるが、日本側で行方不明だった兵士はトイレかどこかに行っていただけで無事だったのに……
 夜間で緊張が高まっていたこともあり、お互いの疑心暗鬼の心が事態をより大きくさせてしまった。

 七夕の日に一緒に夕食を食べる約束をしていた僕達は、ヒロが住んでいる宮本家の2階の部屋で短冊の願い事を書いていた。

「純子ちゃんは?」

「下に笹を取りに行っとる。願い事、源次は何にするんや?」

「僕は純子ちゃんと同じで『父さんが無事に帰ってきますように』かな~浩くんは?」

「僕は『目がよくなりますように』と『背が高くなりますように』と『大きくなったら長門に乗れますように』と……」

「そりゃ欲張りすぎじゃ~でもそのうちの1つは必ず叶うで」

「えっ本当?」

 ふと、何年も前の七夕に妹が書いた願い事のことを思い出し……後で聞こうと思っていたヒロの願いが気になった。

「ヒロは? 何にするんだよ」

「そりゃもちろん、『日本一の漫画家になれますように』じゃ!」

「なんじゃそりゃ~」

「そうじゃ、共同漫画家としてペンネームを決めんとあかんな~二人の名前をとって弘光と源次で光源氏(ひかるげんじ)なんてどうじゃ?」

「それじゃ歴史的名作の主人公と同じじゃないか! 恐れ多いよ」

「じゃあ、お前も案を出してみい」

弘光(ひろみつ)と源次の最初の漢字をとって弘源(こうげん)とか?」

「坊さんみたいやないかい!」

「じゃ光と次で(こう)……」

「もうええわ」

「せめて最後まで言わせてくれよ」

「光源氏を入れ替えるのはどうや? 源氏光?(げんじひかる) 氏光源(じこうげん)?」

「それだったら源光氏(げんこうじ)を読みやすいように平仮名にして……『みなもとこうじ』はどうかな?」

「みなもと? みなもと……それじゃ! やっぱ、おまんはすごいのう!」

「興奮すると土佐弁になること多いよね」

「なあ純子、驚くなよ? 俺達、結婚して子供が生まれました!」

「はあ? 何、言ってんの?」

 笹を持って部屋に入ってきた純子ちゃんに、僕と強引に肩を組んだヒロはとんでもない事を言い出した。

「二人の子供であるペンネームが決まったんじゃ! 光源氏から因んだ名前なんやけど、並べかえて(げん)も平仮名にして、二人合わせて『みなもとこうじ』! かっこええやろ?」

「なんかそれって……ううん、何でもない」

「何や?」

 純子ちゃんが言いかけた言葉が気になったが……浩くんが「早く飾ろう」と急かすので、僕達は笹に短冊や折り紙で作った星や提灯や天の川を飾り付けた。

「雨降らなくてよかったね! でも今日仏滅だって~ちゃんと僕の願い事届くのかな?」

「珍しく空も晴れとるし、大丈夫やない?」

「そう言えば姉ちゃんの誕生日って丁度半年後だね! 今度は何をあげようかな~」

「俺はもう決めとるで~それにはお前の協力が必要やけどな、源次?」

「えっ? 何のこと?」

「そうだ! 窓から出したら願い事もっとよく届くよね」

 浩くんがガラッと窓を開け、笹を外に出したその時……
 急に強い夜風が吹いて短冊と飾りが飛ばされた。

「あ~僕の短冊が」「あ~俺の短冊が」

 兄弟のように浩くんとヒロの声がハモった。

「取ってこよう! (ひろ)兄ちゃん!」

 二人がバタバタと下に向かった時、僕はある事に気が付いた。

「純子ちゃん? ちょっと待って……肩にアリが……」

「えっ、アリ? きゃあ~早く取って、お願い! 私、虫苦手なの……」

 よく見ると黒い羽アリだったが、この時期に発生しやすいから風で入って来たのだろうか。

「今、取るから動かないで! じっとしてて……」

「嫌っ服の中にっ……入ってこないで~」

 動き回らなければすぐに取れたのだが、アリがもうすぐ彼女の襟元に入り込もうとしていたので仕方なく強行手段に出た。

「ちょっとごめん!」

 僕は後ろから左腕で彼女を抱き締めながら、右手でアリを包んだ。
 取り乱した彼女を押さえるには、そうするしかなかった。

「あ、ありがと……でも今度は源次さんの手に……」

「僕は虫、大丈夫だから平気だよ」

 手に移った羽アリを上手く指の先に誘導して窓から手を伸ばすと、行く先が定まって安心したかのように羽アリは空に向かって飛び立っていった。

「取り乱してごめんなさい……小さい時は大丈夫だったんだけど、光ちゃんがいたずらで背中に蝉を入れてきてから虫がダメになってしまって……」

「あいつそんな事したのか! 全くしょうもない奴だな~」

「高田さんて優しいのね……他の人なら握り潰してたと思うわ」

「虫も一生懸命生きてるしな~それに誰かの生まれ変わりかもしれないし……でも、もし純子ちゃんの襟元に入り込んでいたら容赦しなかったけどね」

「えっ?」

「な、何でもないよ」

「あの……前から言いたかったんですけど……私も源次さんて呼んでいいですか?」

「えっ? もちろん、いいよ?」

「私、源次さんの(げん)っていう漢字、好きなんです。みなもと……元気の(みなもと)……それに私の名字の『みやもと』と(みなもと)って何だか似てません?」

「そ、そうだね……」

 僕は次々起こる思わぬ展開に戸惑いつつも嬉しくて完全に舞い上がっていたが……

「えらい仲良うしてはりますな~お二人さん、さては結婚のご相談ですかい?」

「ちがうから!」「ちがうわよ!」

「光ちゃんてば変な冗談ばっかり言うんだから! もうっ知らない!」

 冷やかしに照れて部屋を出ていく純子ちゃんを追いかけようとしたが、ヒロに引っ張り込まれて内緒話をされた。

「お前……純子の事好きだべ」

「ばっ……そんな事あるわけないだろ」

「お前は本当に嘘が下手やな~よし、それなら作戦変更や!」

 その次の日からおかしな事が起こった。
 ヒロとは大学でも帰りもいつも一緒で、都電で途中まで一緒に帰るのが日常だったのだが……
 授業や昼食時は普通に接してくれるのに、一人で先に帰るようになってしまった。

「初めて親友ができたのに……もう嫌われちゃったかな……」

 僕は4月以降に空襲がなかった事ですっかり安心して日常を取り戻し、何故か一緒に帰らなくなってしまったヒロの事ばかり気にしていた。
 
 多くの国民が出征した家族の無事を願ったであろう七夕……
 その1ヶ月後の8月7日に米軍がガダルカナル島に上陸し、更なる悲劇が始まっていたのに……
 1942年11月8日の夕方……

「それではこれから光ちゃんと源次さんの合同お誕生日会を始めます! 光ちゃんは1週間遅れ、源次さんは1週間早いけど、二人とも誕生日おめでとう~!」

「あ、ありがとう」「おおきに~」

 僕は先月末に純子ちゃんから「11月8日は播磨屋に必ず来るように」と言われて不思議に思っていたが、理由は僕達の誕生日の丁度真ん中の日だからで誕生日会をするからだったとは……

「あ~よかったわ~当日に何もなかったから忘れられたと思てたわ」

「ごめんね光ちゃん、びっくりさせようと思って……わざと知らんぷりしてたんだ。15日は源次さん実家に帰るって前言ってたし、食堂は七五三の日だと忙しくなるかもしれないから丁度真ん中の今日がいいかなって」

 僕はその言葉を聞いて、前にヒロの誕生日祝いを純子ちゃんに相談した時……ヒロは祝われるのが嫌いだから何もしないでと言われたのは驚かせるためだったのかと合点がいった。

 それから静子おばさんと純子ちゃんと浩くんは、沢山のご馳走と御赤飯を運んできてくれた。
 おばさんはサツマイモのお菓子も用意してくれていて……

「お祝いと言ってもいつものオカズをまとめて出しただけだし、砂糖が少ないからおイモの蒸しパンのようなものだけれど……高田さんも遠慮せずに沢山食べて下さいね」

 物資が少なくなってきているはずなのに、その中で色々工夫してお祝いの準備をしてくれたことが嬉しかった。

「そうだ食べる前にプレゼント……じゃ敵性語だからお誕生日祝いって言った方がいいかしら? ってどっちでもいいけど、はいコレ、二人ともおめでとう!」

「ありがとう」「ありがとさん」

 純子ちゃんから受け取った贈り物の箱の包を開けると……

「Gペンだ……コレ欲しかったんだ! 漫画が描きやすいって前に聞いたから」

 ヒロとは授業と授業の合間に少しずつヒロが今まで描いた漫画の清書をしたり、新しい漫画の下書きのようなものを作っていた。

「僕もちょっとお小遣い出したんだ~」

「二人ともありがとな! 文字書く時も使えるし源次と色違いなんが、めっちゃ嬉しいわ!」

 Gペンのペン軸は色違いになっていて、ヒロが青で僕が赤……僕はお揃いというものが初めてだったので本当に嬉しかった。
 それから僕は沢山のご馳走を頂きながら、前から気になっていたことを尋ねてみた。

「そうだ、純子ちゃんは誕生日プ……じゃなくてお祝い、何がいいの?」

「純子、何でも欲しいものを言ってごらん? その代わり自分でお金を出して買うんやで」

「なんでよ! それじゃ意味ないじゃない!」

「お金がナイチンゲールでございます~なんて冗談冗談! 楽しみに待っとけ!」

 僕が(ヒロはもう決めているのか)と感心し、(何にするんだろう)と気になっている間に話題は変わり、結局何がいいかを聞きそびれてしまった。

 誕生日会もお開きになった帰り際、僕はヒロに誕生日の贈り物を用意していなかった事に気付き……初めてヒロを自分の家に誘ってみた。

「僕まだヒロにお祝い渡してなかったからその代わりと言っては何だけど、今度うちに来ない? なんかご馳走するよ」

「ほんまか? 源次のうち行けるなんて嬉しいわ~じゃあ今から行こか~」

「えっ、今から? まあいいけど、ご馳走するの明日の朝飯でいいのなら」

 都電で僕の家に向かう途中、ヒロはずっとはしゃいでいて……「修学旅行みたいや」と子供のように喜んだ。
 アパートに着くと物珍しそうにあちこちキョロキョロして興奮冷めやらぬ感じで大変だったが……時間が遅かったので僕達は川の字ならぬ二の字に布団を並べて寝る前に色々な話をした。
 まさか急に来ると思わなかったので来客用の布団があって本当によかったが……

「ねえ、ヒロはなんで漫画家になりたいって思ったの?」

「俺、両親おらんし方言も(ちご)たから尋常小学校の時いじめられとってな……そんな自分を変えてくれたんが漫画やったから、自分もなれたらええな~思て」

「明るいヒロがいじめられてたなんて意外……」

「せやろ? 漫画が好きで見様見真似で自分で描いた漫画がクラスのやつに見つかって爆笑されて……おかげで友達ぎょうさんできて、気が付いたらクラスで一番のお調子者の篠田くんになっとったわ」

「そうなんだ……僕あんまり漫画読んだ事なくて……どんな漫画が好きだったの?」

「特に『のろくろ』が好きでな、よう一人で読んどったわ……ずっと続いとったのに去年の10月号で終わってしもたけどな」

「えっ、そうなの?」

「このご時世に漫画なんて雑誌に載せるな~とか、『のろくろ』が終われば雑誌の売り上げが減って用紙の節約になる~とか言うた役人もいたらしいで? つらい時こそ皆の希望になる作品が必要やのに」

「そうなんだ……ねえ初めて描いた漫画ってどんな話だったの? 見せてくれたやつに入ってた?」

「いいや、小学校の頃のはさすがにボロボロやからな……初めて書いた漫画の主人公はな、空に憧れとって真っ白な飛行機で空を飛んでいくんや」

「何だか素敵だね」

「その飛行機で大事なものを探しに行くんやけど、その先で大事件が色々発生するんや~飛行機の風でカツラ飛びます事件とかな?」

「なんじゃそりゃ~やっぱりヒロの発想はすごいや……それをそのまま漫画にするなんて僕に出来るのかな? ヒロの話が面白過ぎて、僕の絵では力不足なんじゃないかって時々思うんだ……」

「そんなことはない」

「ヒロの下書きの絵には躍動感があるのに……僕には動きのない、ただ止まっている絵しか描けない……僕の絵には多分ヒロみたいに人を感動させる力なんてないんだよ」

「大丈夫、お前は大丈夫だ!」

「でも僕、自信ない……」

「お前なら出来る! ほんまはな……七夕の短冊に『日本一の漫画家になれますように』って書いたけど、本当は世界一のって書きたかったんや……いつか俺達の漫画で世界中の人のことを幸せにできたらええよな」

「ヒロお前って…………最高の馬鹿だな」

「なんやねん~全否定するなや~」

「いや褒め言葉だよ……世知辛い時代になって色々な国が自国の利益ばかりに固執する中、お前は世界全体をみている……本当にお前は坂本龍馬みたいなやつだな」

「それ……俺にとって最高の褒め言葉やわ」

「僕……立教に入れて……ヒロに会えて……よか……」

「俺もよかったわ。最高の漫画の物語を思い付くには勉強せなあかん思て大学入って……って言うのは大げさで半分言い訳やけどな。源次……やっぱり覚えてへんか? 俺が立教に入れたんは……」

 ヒロが何か言いかけていたのが気になっていたが……僕は深い眠りに落ちてしまった。

 次の日の朝、先に起きた僕は形に残る贈り物も渡せたらいいなと思い、まだ寝ているヒロをモデルに貰ったばかりのGペンで肖像画を描いた。

 ゆっくり起きて僕の作った質素な朝食を美味しそうに食べるヒロは、寝ぼけ眼で寝癖姿も相まって……なんだか可愛い3歳児に見えた。

「はいコレ、寝てる間に描いた誕生日プレゼント」

「おおきに~やっぱ源次は絵、上手いな……もうGペン使いこなしとるやん」

「そうでもないよ」

「俺らもとうとう来年は20歳やで? 来年も誕生日会、一緒にやろうな~楽しみやな」

 僕達は来年も普通に誕生日が迎えられると信じていた。

 その1年後の10月……
 今まで免除されていたはずの20歳以上の理系や教員養成系以外の学生・生徒の徴兵が決まり、文学部だった僕達が戦地に送られることになるなんて……
 夢にも思っていなかったんだ。
 1943年1月4日の昼過ぎ……

「それでは改めまして……明けましておめでとう~今年もよろしくね!」

 年末年始は埼玉の実家に帰っており、三が日が終わってアパートに帰る前に播磨屋に新年のご挨拶をと寄ってみたら……すっかり新年会にお呼ばれしてしまった。

「よし純子、景気付けに歌じゃ~」

「任せて光ちゃん! ほら、みんなでお正月の歌を歌いましょう? せ~のっ……年のはじめの、ためしとて~終わりなき世の、めでたさを~松竹たてて、かどごとに~(いお)うきょうこそ、楽しけれ~」

 まだ未成年でお酒は飲んでいないが飲んだかのように上機嫌な純子ちゃんとヒロと浩くんは、お正月によく歌う『一月一日』を歌ってくれた。
 ヒロの声がデカくて聞こえづらかったが、相変わらず純子ちゃんはキレイな歌声だ。

「源次~お前も歌わんか~」

 僕は歌が下手で歌いたくなかったので、慌てて誤魔化した。

「そっそう言えば1月1日の誕生花は『スノードロップ』で花言葉は『希望』らしいよ?」

「へえ~源次さんて色んな事を知ってるのね」

「純子ちゃん達から色々神田の事を教えてもらったから僕も何か教えられたらと思って色々勉強してるんだ」

「そうじゃ! これから神田明神に初詣に行かんか?」

「賛成~」

 僕達は初めて一緒に初詣に行った。
 年明けの神田明神は賑やかで、ウサギのお守りや色々な厄除けの品が売られていた。
 ヒロは四人の中でも特に気合いを入れてお願い事をしていて……

「…………ますように!」

「今なんて? ヒロはなんてお願い事したの?」

「それはな…………秘密じゃ」

「何だよ」

「どうかウサギの力を、お分け下され~」

「なんじゃそりゃ」

「そう言えば前から明日の1月5日は空けといてって言ってたけど何かあるの?」

「それは明日のお楽しみ~明日は7時半に靖国神社に集合な! 実家から届いったっちゅう誕生日祝いの自転車も忘れんなや!」

 1943年1月5日……
 朝から快晴だったその日、純子ちゃん達と一緒に靖国神社に着くと……
 ものすごい数の人がいて、その奥の場所に書いてあった文字に僕達は驚いた。

「靖国神社、箱根神社間、往復、関東学徒、鍛錬継走大会!?」

 更に奥に行くと、ヒロを含む沢山の学生らしき人達がいた。

「光ちゃん、これってどういうこと?」

「実は夏前から駅伝の選手にならんかと誘われててな~今年こそ戦争で中止になっとった箱根駅伝を復活させるから、人数が足らん分を走ってくれ~言われたから協力しとったんじゃ」

「だから一緒に帰らなくなったのか……」

 僕は今までのヒロの言葉を思い出し、一瞬で理解した。

「箱根は物資や兵器の輸送で民間人の立ち入りが制限されとったらしくて……軍需物資の動脈線でもある国道1号線の使用許可が下りずに一時は開催が危ぶまれたんや」

「じゃあ、どうして……」

「試しに、出発も到着も靖国神社で箱根神社を折り返し地点にした『戦勝祈願の大会』ならどうや~ちゅう風に交渉してみたら陸軍の許可が下りたんや」

 その時、陸上部の主将らしき人が僕達に話しかけてきた。

「本当に篠田くんが色々手伝ってくれて助かったよ。しかも運動神経がいいと聞いていたから誘ってみたら、長距離走は未経験なのに僕ら経験者並かそれ以上に早くなるとは……」

「いやいや、そないなことありまへん」

「帰りは家まで走ってるって聞いたけど、君は本当に素晴らしい努力家だよ。今では僕らの期待の星だ! 第1区、頼んだぞ! 突破口を開いてくれ!」

「はいっ! 頑張ります!」

 午前8時少し前……
 僕達も出発地点付近に行ってみると大勢の応援団達がいて、出場選手が集合して準備運動をしていた。
 出場校は11校……立教大学の他に出場するのは慶應義塾大学、專修大学、拓殖大学、中央大学、東京農業大学、東京文理科大学、日本大学、法政大学、早稲田大学……そして初出場の青山学院だ。

 選手であろう人達が寒空の下で薄いトレーニングウェア姿となり、走り出す時を今か今かと待ちながら出発地点に立っている。
 その中にヒロの姿があるのが、何だか不思議でドキドキした。

 僕は自転車で並走するために、出発地点から大分先に進んだ離れた場所でペダルに足を掛けて準備をした。
 ご時世的にガソリン不足のためか伴走自動車は禁止されていて、木炭車・自転車・サイドカーのみが許可されていた。

「源次さ~ん! 私も乗せて~!」

「うえ~? でも僕、二人乗りしたことないから……」

 試しに周辺を二人乗りしてみたが、余り影響がないくらい純子ちゃんは軽かった。
 そう言えば下敷きになった時もそんなだった気がする。

 そして迎えた午前8時……

 「ヨーイ…………ゴー!」

 合図とともに一斉に選手たちが飛び出した。
 ヒロを含めた駅伝選手達の顔は皆、走れる喜びと希望に満ち溢れていた。

 栄養不足の中で体力もなく、練習すらまともにできなかったらしいが……その走りはとても力強かった。

「頑張れ~! ヒロ~!」

  並走をしようと駆け抜けた沿道には、歓声を上げる応援の人がつめかけて声援を送っていた。
 人々の表情はみんな明るく、戦時下の暗い影など何処にも感じられなかった。

 立教のタスキの色は、『江戸紫』だった。
 校歌の歌詞に紫や武蔵野が出てくるが、武蔵野で栽培していた紫草……通称ムラサキは6月~7月に星のような小さな白い花を咲かせる。
 その根を染色に用いることで鮮やかな紫色が生まれるそうで、紫草によって染められた『江戸紫』は江戸時代に最も流行した色だったそうだ。

 1区は強豪校のベテラン揃いといった感じで、集団の中で抜きつ抜かれつが繰り返されて暫く固まって走っていたが……
 六郷橋に差し掛かる手前でヒロのペースが落ち始めた。

「光ちゃ~ん! 頑張れ~! 負けるな~!」

 純子ちゃんの応援の声が届いたのだろうか……
 ヒロの表情が明らかに変わり、覚醒した獣のようにスピードを上げた。

 さすが亥年生まれだと思うよりも早く、あっという間に後続を引き離し……
 なんとヒロが1位に躍り出た。
 その後を日本大学と東京文理科大学が追いかけていく。

「ヒロ~そのまま突っ走れ~お前なら出来るっ、お前なら、大、丈、夫だ~」

 その頃、僕の体力は限界を超えていて……声を出すのがやっとだった。

 既に自転車で追いつけないスピードで先頭を走っていくヒロの後ろ姿は、普段ふざけてばかりの姿が想像できない位かっこよくて……
 沢山の鳥達の先頭を飛ぶ、渡り鳥のリーダーみたいだった。
 昔、妹にせがまれて渡り鳥を図鑑で調べたことがあるが……立教の紫と重なってムラサキツバメの姿が浮かんだ。

 1区のゴール地点は僕達の大分先の方だったが、その歓声から誰が一番にゴールしたのかが分かった。

「すごいぞ~立教1位通過!」 「区間賞だー!」

 急いでゴールに辿り着くと、立派に紫のタスキを繋いだヒロは待ち受けていた応援団に胴上げされていた。

「ヒロ~よくやったー! おめでとう!」

「おめでとう、光ちゃん!」

 胴上げから降りたヒロは僕と熱い抱擁を交わした後、泣いている純子ちゃんを見て真っ直ぐにこう言った。

「おめでとうはお前や純子! 明後日の誕生日おめでとう! 俺は誕生日祝いで俺にしか出来ない祝いをあげたかったんや……今日明日の箱根駅伝の結果が丁度1月7日の新聞に出るような日程になったんは偶然やけどな」

「すごい……すごいよ光ちゃん。このために頑張ってくれてたんだね……私、本当に嬉しい」

 ヒロと純子ちゃんは僕の時より全然長い熱い抱擁を交わした。
 二人は何処からどう見ても、お似合いのアベックだった。
 純子ちゃんにこんなにも幸せをあげられるヒロは、『幸福な王子』の王子様みたいで……同時に幸せを運ぶツバメみたいだなとも思った。

 結局その後の2区はそのまま立教が1位を守ったが、3区で抜かれて日大がトップに立って4区で慶應が先頭を奪い、往路を制したのは慶應大学で立教大学は7位だった。

 2日目の復路は靖国神社にゴールを見に行ったが……
 日大、慶大、法大が激しい争いを展開していく中、日大が10区で逆転……13時間45分5秒で日大が総合優勝を飾った。
 その次の2位でゴールしたのが慶應、3位が法政、立教は大健闘の6位だった。

 戦時下で行われた今回の箱根駅伝は、ペース配分に失敗した者や途中で肉ばなれになった者、抜きつ抜かれつの様々な人間ドラマがあったが……
 参加した11大学全校が途中棄権することなく、見事に最後までタスキを繋いだ。

 そのゴールはチームメイトだけではなく、参加者全校の選手が出迎えた。
 最下位は初出場の青山学院だったが、首位から3時間近く遅れているような状況でも沿道からの応援の声は止まず、日没近くになってゴールした際には歓声が上がり……
 参加者の皆にあたたかく迎えられた最高の最後のゴールだった。

 皆が興奮と感動で涙を流している中……選手達や監督は、ある予感を抱いていたそうだ。

 これが最後の箱根駅伝になるのではないか、という確かな予感を……
 1月7日の純子ちゃんの誕生日当日……
 僕達は播磨屋の2階に集合して四人でお祝いをした。

「純子」「純子ちゃん」「姉ちゃん」

「お誕生日おめでとう~!」

「ありがとう~」

 ヒロからの誕生日プレゼントである箱根駅伝の記事が載った新聞と、浩くんからの手作りの首飾りを受け取って嬉しそうに微笑む純子ちゃんに、僕は自分のプレゼントを渡すのが恥ずかしかった。

 ご時世的に探すのには苦労したが、ヒロのような努力のプレゼントではなくて買った物だし、半年かけたヒロと比べたらとモジモジしていたら……

 ヒロが気を使って「浩! 下に残ってた料理受け取りに行くぞ~」と二人きりにしてくれた。

「コレ、お誕生日祝い……大したものじゃないんだけど……」

「わ~ありがとう! 素敵なスミレ柄の傘……」

「す、スミレの花言葉は『小さな幸せ』らしくて……ヒロみたいに大きな幸せじゃないから余り嬉しくないかもだけど……」

「そんなことないわ! 私、スミレ好きだから嬉しい! 早く雨が降らないかしら~早く傘が使いたいな……今まで雨が嫌いだったけれど雨が好きになれそう」

 その言葉が嬉し過ぎて、心の声が思わず口から出てしまった。

「傘になれたらいいな……そしたら純子ちゃんを冷たい雨から守ってあげられるのに……」

「えっ? 今、なんて?」

「な、何でもないよ」

 僕は耳まで真っ赤になってしまったが、聞こえていないようで安心した。

 傘をクルクル回して部屋の中で嬉しそうにはしゃぐ純子ちゃんは本当に可愛くて……
 いつもは実年齢より上に見えるのに、今日だけ幼く見えた。

「源次さん、本当にありがとう! コレどうやって閉じるのかしら? 痛っ」

 傘を閉じようとして指を挟んでしまったようで、僕は慌てて純子ちゃんの手の怪我を確認した。

「だ、大丈夫? 血、出てない?」

「だ、大丈夫、です……」

 手を握った状態での至近距離が余程恥ずかしかったのか……手を離してからも純子ちゃんの顔は耳まで真っ赤になっていた。

「……ご、ごめんね」

「私の方こそ、傘の畳み方も下手なんてお恥ずかしい……」

 お互いペコペコお辞儀をしていたら、ヒロ達が入ってきて僕に思わぬ事を言ってきた。

「源次~静子おばさんも言うてたんやけど……今日、俺の部屋に泊まっていかへん?」

 初めて泊まるヒロの部屋は、純子ちゃんと浩くん達の隣の部屋でドキドキしたが……
 二人が寝静まった頃、僕達は男同士の秘密の話をした。

「お前さ……純子のこと好きやろ?」

「は、はあ? 何言ってんだよ、お、お前こそどうなんだよ! 箱根駅伝で純子ちゃんと抱き合ってて、アベックみたいだったぞ!」

「あれは従兄妹だからやろ? ただの家族の抱擁で……って気にするってことはやっぱりお前、純子のこと好きやろ?」

「ち、違うよ! 僕はただ純子ちゃんに幸せになって欲しくて……い、妹に似てるんだ。歌が上手い所も、名前も……」

 僕は自分に嘘をついた後ろめたさから、今まで思っていた本当の事を言った。
 
「妹?」

「僕には2つ下の妹がいたんだ。純子ちゃんと同じ純て漢字が入った純奈(すみな)っていう名前の妹で……小さい頃から歌が大好きで、透き通るキレイな歌声で……近所でも将来は歌手になるんじゃないかと評判だったよ」

「そりゃ初耳じゃのう! お近付きになりたいから今度紹介してく……」

「死んだんだ……1931年の9月21日にあった西埼玉地震で」

「それは…………ふざけてすまん」

「直下型の地震でさ……川に沿った比較的地盤が軟らかい場所が液状化したり、場所によっては関東大震災の時より被害が酷くて多くの建物が潰れたんだ」

「俺はその頃大阪やったけど、そんなに大変やったとは……」

「住んでた家はなんとか大丈夫だったんだけどね……その年は純奈が丁度数え年で7つになる年で、9月21日は七五三の着物を仕立てに行く日だったんだ……たまたま行ってた場所が被害が酷い地域で、それで……」

「それ以上言わんでええよ」

「妹がいなくなってから母さんは変わってしまった……僕も悔しかった……出かける前に『七つの子』を歌いながら、七五三のお祝いが源にいちゃんの誕生日で嬉しいって言ってたんだけどな……」

「七五三か……そういや11月15日やな」

「小さい時からおとぎ話が大好きでさ……誕生日に貰った世界童話集を持ってきて、よく読んで読んでとせがまれたよ……特に『幸福な王子』が大好きだった」

「どんな話やったっけ?」

「王子の像が、身に付けていた宝石や黄金を貧しい人たちに配って欲しいとツバメに託すお話……剣のルビーは病気の子どもに、両目のサファイアは貧しい若い劇作家とマッチ売りの少女にって……」

「ああ、あの金箔も配ってボロボロになってツバメも死んで王子も捨てられる話やな? どこが幸福な王子やねんってツッコんだわ」

「だよね、でも純奈が言ってた……温かい南の国に行くこともできたのに、自分を命を犠牲にしてでも自分の願いを叶えてくれて、最後の最後まで自分のそばにいてくれたツバメに出会えて王子は幸せだったんじゃないかって……だから『幸福な王子』って題名なんじゃないかって」

「すごい子やな、おかげで思い出したわ……ツバメが死んで王子の鉛の心臓が割れて捨てられてしもうたけど、溶鉱炉でも鉛の心臓だけは溶けへんかった……」

「そう……この世で最も尊いものを持ってくるよう命じられた天使は、ゴミ溜めに捨てられた王子の鉛の心臓とツバメの骸を天国に連れていき、神は天使を褒めて王子とツバメは天国で永遠に幸せに暮らしましたって話だったよね」

「王子とツバメは幸せやったんやな……そんな小さいのによう気付いたなぁ」

「本当に優しい子でね……七夕の笹に『背が高くなりますように』と書いた短冊を飾りつけている僕の横で、『世界中のみんなが幸せになりますように』と立派な願い事を書いて微笑んでいたよ」

「そりゃえらいのう……あれ? お前の願い、半年前の浩と同じやん」

「そうなんだよ。だから七夕の時、短冊を見て妹のこと思い出して……歌も上手いし名前の漢字も同じだし純子ちゃんは妹に似てるなって」

「そうか、妹か……」

「スミレの花も好きだった……大きくなったら純子ちゃんが着てたみたいなスミレの浴衣を着てたんだろうな……」

 僕は話しながら、いつの間にか泣いていた。

「僕ね……本当は純奈みたいな子に希望が届くような物語を書きたくて文学部に入ったんだ。純奈の誕生日に手作りの絵本を渡そうと思って準備してたんだけど結局渡せなかったから……」

「そうか……なんか俺ら同じやな……実は俺も坂本龍馬みたいな漫画を描こうとしたのは純子のためやったんや」

「……知ってる」

「でもそれだけじゃない……本当は戦争に邁進している今の日本を変えたかったんだ……争いのない世の中を作ろうとした、坂本龍馬みたいに」

「やっぱりお前はすごいな……純子ちゃんにとってお前はきっと王子様のような存在だよ。ヒロが駅伝で先頭を走ってる時、渡り鳥の先陣を切るリーダーみたいでかっこよかった」

「買いかぶり過ぎや」

「みんなに幸せを運ぶ『幸福な王子』のツバメにも見えたよ……いや、やっぱり王子様かな」

「いや王子様はお前だよ……だって純子は……」

「僕はヒロの冗談で笑ってる純子ちゃんが好きなんだ……三人で笑ってる時間が一番大好きなんだ」

「ほんまはな、源次と二人で描いた漫画を今年の純子の誕生日にプレゼントする予定やったんや……俺の思い過ごしで作戦変更してしもうたけどって何でもないわ……来年の純子の誕生日プレゼントは、二人で描いた漫画にしような」

「賛成〜僕の昔の願いも叶うし、一石……二鳥……だよ……」

「俺な、走ってみて分かったんや。駅伝は自分一人だけで走るんやない……人と人が繋がって、未来に希望を託していく競技なんやって……」

 ヒロが何か言っていたが、僕は例の如く先に寝落ちしてしまった。

 それから1ヶ月後の1943年2月7日……
 ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸した1942年8月7日から6ヶ月間、厳しい戦いを強いられていた日本軍が撤退した。
 大本営発表で「転進」という言葉にすり替えられていたが、本当は地獄のような酷い惨状だったんだ……
 ガダルカナル島……日本から南に約5千キロ以上離れたソロモン諸島の島……
 晴れた日は空も海も真っ青でとても美しい島であるが、日本にとっては地獄のような惨状が繰り返された辛く苦しい悲劇の島になってしまった。

 米国と豪州を分断する拠点として日本軍が建設していた飛行場が完成したばかりの1942年8月7日……
 アメリカは軍をガダルカナル島に上陸させて飛行場を占領した。

 大本営の見積もりが甘く、1万人以上いた米軍の規模を約2千人と判断し、日本軍は精鋭部隊900人を逆上陸させて飛行場奪還を目指したが、正面攻撃を受け部隊は壊滅……
 その後も増援部隊を送り込んだものの、物量に勝る米軍との消耗戦となり、補給の続かない日本軍は飢餓に苦しんだ。

 日本は夜間の奇襲攻撃作戦を行ったものの、日本軍が使用していた銃剣と米軍の機関銃では威力がまるで違い、激戦地となったムカデ高地は血染めの丘と呼ばれるようになった。

 食糧を輸送しようとした海軍の潜水艦や輸送船は攻撃を受け沈没……
 補給を絶たれた日本兵は、ジャングルの中で飢えとマラリヤや赤痢に苦しみながら死んでいった。

 最初のうちは配られていたお米も底をつき、寝ている間に盗まれたり食糧の取り合いで日本人同士の撃ち合いになることもあった。
 それもなくなるとヤシの実やヘビやトカゲを食べて命を繋いだり、極限状態の中で生きるために死体の肉に手を出した者もいたという。

 8月8日の第1次ソロモン海戦、8月24日の第2次ソロモン海戦、10月11日のサボ島沖海戦、10月26日の南太平洋海戦……
 そして11月12~15日の第3次ソロモン海戦に日本は敗れ、制空権制海権は完全にアメリカに握られた。

 負傷した日本兵の一部は、手当をしようと救いの手を差し伸べた米兵に対して手榴弾で自爆攻撃を実行した。
 日本軍に降伏という選択肢がないことを悟ったアメリカ軍は、横たわっている日本兵がいると生きていようが死んでいようが戦車のキャタピラで踏みつぶすようになったそうだ。

 ガダルカナル島は孤立して日本の守備隊はジャングルに逃げ込まざるを得なくなり、陸軍は船舶増徴による救援を要求したが、12月31日に大本営はガダルカナル島の放棄を決定した。
 しかし情報が漏れることを恐れた大本営は、命令の伝達を無線ではなく人づてで行ったため、伝わるまでに2週間余りかかり……撤退命令を知らないまま多くの隊が壊滅した。

 結局ガダルカナル島に上陸した日本軍約3万人のうち2万人以上が亡くなってしまった。
 そのうち戦闘ではなく餓えとマラリアなどの病気で命を落とした者が1万5千人にものぼり、ガダルカナル島は「ガ島=餓島」と呼ばれるようになった。

 大本営が撤退を命じ、実際に撤退できた者は約1万人……
 歩けない者は置き去りにされ、負傷者は自決……または処分を余儀なくされた。

 ガダルカナル島の戦いは、補給の軽視、情報収集の不徹底など連戦連勝で慢心していた日本軍が敗北を喫し攻守が逆転するきっかけとなる歴史的な悲劇の戦いになってしまった。

 そして2月9日、大本営はガダルカナル島からの「撤退」を「転進」として発表した。
 新聞は、戦況の悪化にもかかわらず有利であるかのように戦果を水増しすることが常態化しており、反対に被害は少ないことにして虚偽の発表を行い続けることに葛藤して心苦しかったことだろう。

 同じく1943年2月、日本政府は「軍需造船供木運動」を開始……急速に進む鉄不足で鋼船に代えて木造船を緊急増産する必要があるため、山林だけでなく屋敷林・社寺林・並木・公園・海岸林の木々が一斉に伐採された。

 桜は薪や下駄の材料にもなるため、1年前に「来年も一緒に見ようね」と約束した神田明神と宮本公園の桜は、その花を咲かせる前に伐採されてしまい……お花見は中止となった。

 そんな1943年5月のある日、珍しくいつもの三人が外出していたので播磨屋で一人で食事をしていたら、見知らぬ兵隊さんが訪ねてきた。

「失礼致します。宮本浩一隊長の奥様であられます、宮本静子殿はご在宅でいらっしゃいますでしょうか? わたくし宮本隊長と同じ隊で大変お世話になりました岩本と申しますが……本日はご報告とお届けしたい物があって参りました」

「はい、宮本静子は私ですが?」

 厨房の奥から静子おばさんが出てくると、その兵隊さんは敬礼をしながらこう続けた。

「宮本隊長は…………ガダルカナル島で立派に散華されました。 こちら渡すよう頼まれておりました、正帽の星と少しですが遺骨になります」

「えっ? あの、何かの間違いじゃ……確かガダルカナル島からは転進……」

「大変……申し訳ありません! 自分のせいで宮本隊長は……本当はご家族に顔向けできる立場ではないのですが、宮本隊長との約束を果たすために参りました!」

 岩本さんは扉を閉めた後、そう言いながら店の中で土下座をした。
 外から見聞きされないよう配慮したようだった。

「どういう事なんですか? こちらでお話お伺いします」

 静子おばさんはお店の暖簾を急いでしまい、兵隊さんを奥の部屋に案内した。
 岩本さんは、お茶を一口飲むと堰を切ったように話し始めた。

「取り乱して申し訳ありません……宮本隊長には名字が似ているからか大変可愛いがっていただきまして、宮本隊長は皆にとって憧れの存在でありました。ガダルカナル島で皆が飢餓や病気で戦う力もなく死んでいく中、隊長は立派な最期を迎えられて多くの者の希望の存在になりました」

「そうですか……あの人に何があったのか、どんな最期だったのか……教えてもらえますか?」

 静子おばさんは取り乱す様子もなく、静かに問いかけていたが……それが余計に痛々しかった。

「ガダルカナル島に撤退命令が出て、海に向かう途中のジャングルの中でした……米軍による銃弾の雨の中、立つ力もなく隊の皆のように壕を掘れないで木の根元に身を寄せていたら、宮本隊長が『俺の掘った壕に入れ』と私を引きずり入れて下さったんです」

「そうですか……相変わらず優しい人」

「でも代わりに自分は壕の外に出てしまわれた……その直後に銃撃があり、我々の隊を守るようにして宮本隊長は…………意識は暫くあったんです、でも出血が……止まらなくて……」

 岩本さんは泣きながら続けた。

「自分の正帽を差し出して『星を切り取ってくれ』と……『お守りだ、お前は生きて帰れ』と……そして『生き残ったら、必ず家族に渡してくれ、約束だ』とおっしゃられました」

「それから『小指の先を切って骨を持ち帰ってくれ』と……あの島に行って遺骨を持ち帰るのは不可能に近かったんですが、奥さんと生きて帰ると約束したから……『せめて指切りげんまんをした小指だけでも帰らないと怒られる』と……最期に奥様やご家族を思い出されたのか、とても穏やかな笑顔でした」

 箱を差し出すと同時に中の骨が揺れたのか、カランという音が聞こえた。

「そのまま置き去りにされるご遺体が多い中、簡易的ではありますが埋葬し皆が別れを惜しみました……『必ず生き残れ、それが最後の命令だ』という隊長の言葉が今でも耳に残っています」

「恥ずかしながら戻って参りましたが、自分は約束があるから生きて帰ることができました……宮本隊長のおかげで命拾いをした者が沢山いるんです」

「そうですか……それはよかった」

「志半ばで最期を迎え、必ず届けると約束した大勢の遺書は……カバンに入れて大事に持ち帰ってきたのに入国時の検査に引っかかり、全て軍に取り上げられました……今の日本はおかしいです」

「せめて隊長の遺品だけは守ろうと必死で……なんとか持ち帰れて本当によかった。ガダルカナル島から届けられなかった沢山の手紙の代わりに、宮本隊長の遺品を届けることが僕の生きる目標でした」

「2月に撤退した後にブーゲンビル島に移ったのですが、送還命令が出たのが5月になってからでご報告が遅くなり大変申し訳ありません……本当に、本当にありがとうございました!」

「こちらこそ、大事な大事な遺品を……皆さんの想いがつまった届けられなかった手紙の分まで届けて頂き、ありがとうございました。岩本さん……岩本さんは主人の分まで長生きして下さいね」

 涙も見せずにそう告げて、岩本さんが去っていくのを手を振りながら見送る静子おばさんの後ろ姿からは、バラバラになっていく心の……声にならない悲鳴が聞こえた気がした。
 岩本さんを見送った後、入れ違うようにさっきまでいなかった三人が帰ってきた。
 浩くんがヒロと純子ちゃんの真ん中で嬉しそうに手を振りながら歩いてくる。

「ただいま~お母ちゃんの誕生日のお祝い見つかったんだよ~お父ちゃんも5月生まれだからお揃いの……」

「そ、それは秘密の約束じゃろ?」

「あ~あ、浩ちゃんは口軽いんだから」

 明るい三人に心配をかけまいと思ったのか……静子おばさんは作り笑顔で絞り出すような声で言った。

「お父ちゃん……帰ってきたよ」

「本当?」「本当に?」「ほんまか?」

 静子おばさんの言葉を聞いて三人とも駆け込むように播磨屋に入り、2階と1階を隅々まで探してキョロキョロしている。

「お父ちゃんどこ? どこにもいないよ?」

「……ここにいるよ」

 静子おばさんは箱を開けながら三人の前に差し出した。

「何これ? 小さい石と……星?」

 箱の中を覗き込むと、三人には石のように見えた小指の骨と、丁寧に包まれた綺麗な紙の中に古ぼけた正帽の星が入っていた。

「お父ちゃんの骨と正帽の星だよ……お父ちゃんは立派に散華されたそうで先程届けて下さったの」

 その瞬間……三人の表情が固まった。

「嘘……嘘だよね? お父ちゃんは帰ってくるんだよね? 必ず帰ってくるって言ったじゃないか!」

「浩……お父ちゃんは……」

「お母ちゃんの嘘つき! お母ちゃんなんか嫌いだ!」

 浩くんは泣きながら2階に駆け上がってしまった。
 純子ちゃんは呆然とした表情でその場で崩れ落ちそうになり、隣にいたヒロがそれを支えてなんとか立っていた。

「おばさん……ほんまなんですか?」

「本当よ……ガダルカナル島で同じ隊にいた方が来て下さって……それで……」

 そう言いながらふらついた静子おばさんは隣にいた僕が支えた。

 二人を奥の部屋に案内して念のため布団を敷くと、そのまま二人とも寝込んでしまった。

「源次……すまんが色々手作ってもらえんか? 今日泊まっていき」

「もちろんだよ」

 ヒロが夕食を作ると言うので2階に行くと、浩くんはお父さんに貰った誕生日プレゼントのブリキ船の長門を抱いて布団の中で泣き続けていた。
 僕は添い寝をしながら布団を擦ることしかできなくて……まだこんなに小さいのに親を失って悲しんでいる子に何もできない事が悔しかった。

「お父ちゃん……お父ちゃ……」

 いつの間にか寝てしまった浩くんの目蓋は涙で真っ赤に腫れていた。

 寝顔を見届けた後でヒロを手作うため下に降り、二人で簡単な夕食を作って寝ている三人の元に運び、僕とヒロで先に食べようとしたが二人とも食欲がなくて御膳を台所に下げた。

 いつも夕食を食べているらしい時間になっても三人は起きることはなく、純子ちゃんと静子おばさんは泣く様子もなく黙って天井を見つめていた。
 純子ちゃんは箱を抱えて、静子おばさんは星を握り締めて……
 本当につらい時は涙も出ないのかと二人が余計に心配になった。
  
 その事をヒロに相談しながら浩くんを挟んで川の字で寝ようとしたら、丁度目が冷めたようで……「一緒に来て」と言うので三人で下に行った。

 浩くんは、純子ちゃんと静子おばさんの布団の横に正座すると……

「お母ちゃん? さっきはごめん。僕、本当はね……今日お母ちゃんにお父ちゃんとお揃いのお祝い渡して『誕生日おめでとう』って言いたかったの……『お母ちゃんもお父ちゃんも大好きだよ』って言おうとしてたのに反対の事言っちゃってごめん」

「いいのよ浩……浩は何も悪くない」

「さっきね、夢を見たの……お父ちゃん言ってたよ? いつでもそばにいるって……星から見守ってるんだって」

「私も小さい時お父ちゃんに教えてもらったわ……お父ちゃんのお父ちゃんも北極星にいて、どんなに時が経ってもずっと同じ場所から見守ってるんだって」

「だからね……お母ちゃんは一人じゃないよ? 姉ちゃんもさ……僕がいるよ? 僕、絶対お母ちゃん達を守れる強い男になるよ! だからね……泣いてもいいんだよ?」

 家族を守ろうとする小さな背中は、頼もしい勇者に見えた。

「浩ちゃん!」「浩!」

 純子ちゃんと静子おばさんは、浩くんを強く抱き締めながら、いつの間にか泣いていた。

「あり……がと……まさか浩ちゃんに教えてもらうなんてな……いつまでも見守ってるって昔お父ちゃん言ってたよね……お星さまにした願いは、いつか必ず届くんだって」

「ありがとね浩、大事な事を教えてくれて……おかげで思い出したよ……『たとえ距離が離ればなれになっても、心はずっとそばにいるから結婚して下さい』って言ってくれた時のお父ちゃんを……」

「戦争に行く前に『必ず帰る』と指切りげんまんで約束した通り、お父ちゃんはこうやって帰ってきてくれた……」

「お父ちゃんは、ちゃんと……あんたたちの中に生きてるんだねぇ……あんたたちがお父ちゃんからの最高の贈り物だよ」

 そういうと、静子おばさんはしっかりと浩一さんの忘れ形見である二人を抱き締めた。

「弘光さんも高田さんも色々ありがとね……そうだ、仏壇の位牌の中に空洞があるからお父ちゃんの骨とお星さまはそこに入れましょうか」

「賛成~それならお父ちゃんとずっと一緒にいられるね」

「そうだ! はい……これ遅くなっちゃったけど、お揃いのお茶碗……お母ちゃんもお父ちゃんも誕生日おめでとう! これで一緒にごはん食べよう?」

 僕達はそれからみんなで夕食を食べた。
 お揃いで色違いのお茶碗をちゃぶ台に並べて、浩一おじさんのお茶碗にもご飯をよそって……
 おじさんの思い出話に時には泣きながら、時には笑いながら……

 僕はアルバムの写真を見ただけで浩一おじさんには会ったことはないが……まるで食卓に一緒にいるような気がした。
 浩一おじさんの訃報があった翌月である6月6日の浩くんの誕生日には、好きな戦艦である長門の絵を描いた手作りのメンコをあげた。
 本当はもっといいものをあげたかったが物資が少なくなってきており、丁度メンコ遊びが流行っているそうで喜んでもらえてよかった。

 6月25日には戦争拡大による労働力不足で「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され……学校報国隊の強化、戦技・特技・防空訓練が始まり、女子は救護訓練を行うことになった。

 『欲しがりません勝つまでは』のスローガンが紙芝居にまで書かれるようになったご時世的に、昨年のお祭りや七夕のような日々を過ごすこともなく……
 ヒロとの共同制作の漫画には打ち込んでいたものの寂しい夏を過ごしていた。

 そんな1943年の8月12日……
 「金属類回収令」が強化されて「金属回収本部」が設置され、東京では「金属回収工作隊」が編成されて国民が持つ鉄や銅・青銅製品の他に鋼や鉛なども回収対象となり、回収が強行された。

 マンホールの蓋や鉄柵、銅像や寺院の仏具や梵鐘などの回収は既に始まっていたが、家庭の鍋や釜、洗面器、そしてブリキの玩具までもが対象で……

 誕生日に浩一おじさんから送られた戦艦長門も対象になった浩くんは、回収の人達の前で泣きじゃくっていた。
 僕もヒロ達と一緒に「父親の形見なので見逃して下さい」と頼み込んだが、「今は皆が我慢している時だ」と特例は許されず……
 浩くんが大事そうに抱えていたブリキの戦艦長門は取り上げられてしまった。

 大人だけでなく小さな子供の……しかも亡くなってしまった父親の形見まで取り上げる政府のやり方に、僕は疑問を感じずにはいられなかった。

「本当に持ってっちゃうの? 僕の宝物なのに……」

 泣きじゃくる浩くんの頭を撫でながら、僕はある話を思い出した。

「長門はね……関東大震災の時に正式な出向命令が出る前に、いち早く救援物資を積んで助けに来てくれた立派な船なんだ……だからあの船もきっと日本を助けに行ったんだよ」

 浩くんは泣き止んで真っ直ぐに僕を見つめた。

「知ってる…………僕の長門は誰かを助けられるかな? 生まれ変わってもカッコイイかな? 溶けて形が変わっても大切にしてもらえるかな?」

 ブリキが兵器に変わってしまう事を知っていた僕は、「そうだね」と言いながら浩くんを抱き締めることしかできなかった。

 浩一おじさんの戦死広報は8月末頃になってようやく届き……
 静岡の連隊の所属だったという浩一おじさんは、『ガダルカナル島にて腹部盲管銃創により戦死』という短い文字のみでその訃報を伝えられた。
 隊の皆に慕われて後輩を庇って死んだ素晴らしい人だったのに……定型文が並ぶ中に書き込まれた死を知らせる文章はたった20文字だった。
 戦死広報を仏壇に備えて涙を浮かべながら手を合わせる純子ちゃん達の横で、ヒロは「何もできなかった」と悔しそうに拳を握り締めていた。

 ヒロが変わっていったのは、その頃からだった。

 1943年9月16日……
 僕と純子ちゃんはヒロに誘われて、三人で公開されたばかりの『決戦のあの空へ』という映画を見に行った。

 霞ヶ浦海軍航空隊から海軍飛行予科練習部を独立させたという土浦海軍航空隊が舞台で、『若鷹の歌』という軍歌が映画の中で訓練予科練生が作った歌として出てきた。
 面倒見のいい姉と身体の弱い弟が予科練生と交流する中で入隊を決意する物語で、ヒロや他の観客は熱心に見入っていたが……攻撃精神や犠牲的精神を植え付ける国策映画に見えて僕は余り好きになれなかった。
 見終わった後の感想は三者三様で……

「予科練の制服の七つボタンかっこええのう……土浦に行ってみたくなったわ~海軍は食べ物に困らないらしいで?」

「でもハンモックに寝るのや、走ったり水泳や相撲で訓練するのは大変そうだよ」

「訓練場でウサギを大切に育てていた先輩が魚雷を抱えた体当たり戦闘攻撃で亡くなった話は悲しかったわ」

 すっかり映画の虜になってしまったヒロが「姉役の原田節子さん可愛らしかったな~」と言うと、純子ちゃんが「松竹三羽烏の高田みのりさんも素敵だったわ」と怒ったように言うので、二人の間にいた僕は頷くしかなかったが……
 内心はヒロの言葉にモヤモヤしていた。

 僕には大打撃を受けて少なくなってきた兵力を補充するために、海軍少年航空兵育成機関の予科練を宣伝する海軍のプロパガンダ映画に見えたが……
 家族が戦死したりで敵を討ちたい者達にとっては、若者が厳しい訓練に打ち込み勇ましく戦場に向かおうとする姿は心を打つものであったようだ。
 そこには家族・親族を失った者とそうでない者で、戦争に対する意識の違いが少なからず影響していたのであろう。

 純子ちゃんが帰った後、僕はヒロを自宅に誘い……眠る前に初めての喧嘩をした。

「ヒロ……お前変わったよな……戦争に邁進している今の日本を変えたいんじゃなかったのかよ」

「なんじゃ急に、えらい剣幕で……」

「争いのない世の中を作ろうとした坂本龍馬みたいになりたかったんじゃないのかよ!」

「仕方ないやろ! 今はもう、戦争を始めた……真珠湾攻撃を発案した連合艦隊司令長官が戦死する時代なんや! 家族を守るには戦うしかないんや!」

「本当にそうなのかな? 戦争を終わらせる方法ってないのかな?」

「お前は本当に甘いやつやな……でも喧嘩なんてしてられへん! せめて今描いてる漫画は完成させて純子の誕生日祝いに渡すぞ……もし戦争に行ったら最後かもしれんしな」

「そんなに弱気になってどうする……お前は純子ちゃん達のそばにいてやれ! そうじゃないと皆、悲しむ」

 僕の声が聞こえていたのか分からないままヒロは寝てしまった。

 『決戦のあの空へ』の最後には予科練の卒業式の場面があったが、読み上げられた卒業証書の日付は昭和18年である1943年8月15日だった。
 その2年後の1945年8月15日を迎えるまでに日本は悲劇的な状況を迎え、多大な犠牲を払った末に負けることになるなんて……映画に熱狂していた人達は誰一人思っていなかっただろう。

 僕達も関わることになる学徒出陣の日は、刻々と迫っていた……
 ヒロが急に戦争賛同映画を見ようと言い出した背景には、アッツ島の玉砕も影響していると思った。
 「玉砕」……この言葉が初めて使われたのはアッツ島の戦いが最初だ。
 
 アッツ島はベーリング海に面するアメリカ領土の島だったが、1942年6月に日本軍が上陸し占領した。
 それを奪還しようと計画していたアメリカは、1943年5月12日……日本の守備隊約2600人の約4倍となる1万人余りのアメリカ軍をアッツ島に上陸させた。

 守備隊は援軍が来る事を期待して待っていたが、大本営はこれ以上の戦力の消耗を心配して増援部隊の派遣や補給は行わなかった。
 守備隊は孤立無援となって死ぬまで戦うことを求められ、兵士達は銃剣や手りゅう弾を手に夜間突撃を繰り返すも食糧や弾薬が底をついた5月29日……
 玉砕命令が下りて負傷して歩けない者は自決を命じられ、飢えに苦しみながらも生きていた者達約100人は弾丸の雨の中に銃剣のみで突撃し、捕虜になった27人以外は全滅した。

 大本営は、それまで敗北を伏せる傾向にあったが……アッツ島の戦いに関しては守備隊が補給を求めずに自ら「玉砕」したことにして、日本軍の神髄を発揮したと新聞やラジオで大々的に発表した。

 国葬や慰霊祭が執り行われて「アッツ島守備隊につづけ」、「英霊に応えよ」と一般市民にも死ぬまで戦うことを求めるようになった。
 玉砕した者たちは軍神として祭られたが、その遺骨箱には只の砂が入っていたという。

 僕は大本営発表や新聞の記事の内容に懐疑的だったが、ヒロはそれを信じてしまい……
 父親のように慕っていた浩一おじさんの戦死広報を受け取ったことで、敵を討つ気概が更に高まったようで好戦的な発言が増えていた。

 『決戦のあの空へ』を見に行った6日後の9月22日……
 いつものように播磨屋を訪ねた僕は、静子おばさんと純子ちゃんからとんでもない話を聞いた。

「高田さん! さっきラジオで放送があって……」

「今度から学生さんも出征することになったんですって……」

「えっ?」

「よう源次! ようやく俺らの出番が来るぞ~もし海軍に入れたら、めっちゃ活躍したるわ」

「光ちゃん……」

 純子ちゃんは何とも言えない表情でヒロを見つめていた。

 日本の戦況は9月に入りイタリアが無条件降伏して日本・ドイツ・イタリアの三国同盟の一角が崩れたため益々悪化していた。

 1943年9月22日……今まで徴兵が免除されていた大学生であっても理工系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校の在学生については徴兵延期措置が撤廃された。
 いわゆる学徒出陣は大学生も対象になり、その年齢要項は今年度20歳以上である者……
 つまり1923年生まれである僕達は、学徒出陣の要件に当てはまるギリギリの世代となってしまった。

 暗いニュースばかりだったが、10月21日に出陣学徒壮行会があると周知されていた10月16日……
 敵性スポーツとして弾圧を受けていた野球の六大学リーグは解散となっていたが、早稲田と慶応の学生や関係者が掛け合って最後の早慶戦が開催されたのは、学生達にとってせめてもの救いだった。

 1943年10月21日、出陣学徒壮行会は明治神宮外苑競技場で行われた。
 その日は暗い雲に覆われ冷たい雨が降っていて、まるで僕の……自ら志願した者以外の者達の代わりに空が泣いているようだった。

 文部省主催で77校、約2万5千人もの首都圏に住む出陣学徒を、学校ごとに集められた学生を含む約6万5千人が見送る。
 家族以外にも女子学生や出陣予定にない男子学生に対しては、送る側としての参加が求められていた。

「10月21日……まさか尊敬する江戸川散歩先生の誕生日に壮行会に出ることになるなんて……」

 式が始まる前、僕が隊列に並びに行く前に呟きながらボーッと歩いていると……
 突然誰かとぶつかった。

「……っすみません」

「いやすまない、私がよそ見をしていてね……息子が参加するんで来たんだが、見失ってしまって探していたんだ」

「そうですか……見つかるといいですね」

「ありがとう。君も大変だと思うが、命を大事にするんだよ」

「は……い、ありがとうございます」

 ご時世的に命を大事になんて誰かに聞かれたら大変なのに、そう言ってくれたのが嬉しかった。
 あと、なんとなく誰かに似ているような気がした。

 スタンドには大勢の人がいて雨が降っていたが、傘を持つ者は誰もいなかった。
 壮行会が始まると、僕達は学生帽・学生服にゲートルを巻いた姿で……大学等から渡された歩兵銃や木の銃を肩に担いで分列行進をした。

 軍楽隊の演奏に合わせて進み、先頭の校旗がゲートをくぐる度に歓声が沸きおこっていたが……
 立教大学は校旗の十字のデザインが問題視されて持つことを許されなかった。
 僕達は行進曲に合わせ、降り続く雨でぬかるんだ地面の泥水を跳ね返しながら行進した。

 国歌の演奏が流れ、皇居方面に敬礼した後に軍服の胸に勲章をつけた総理大臣からの訓示があり、その後整列した学徒を前に出陣学徒の代表が答辞を読む。

 その中でも「生等(せいら)もとより生還を期せず」、つまり私たちは生きて帰ってくるつもりはない……という言葉にヒロは感激していたが、僕には何だか虚しく響いた。
 
 答辞が終わると『海行かば』をスタンドの皆も合わせて大合唱したが、大人数だったせいか余り上手く揃っていなかった。
 そして最後に全員の万歳の奉唱をもって壮行会が終わる……

「天皇陛下、バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!」

 女学生たちは学生達の勇ましい姿に感動したのか、泣きながら手に持っていた小旗やハンカチを振っていた。
 母は結局来なかったようだが、退場を見送る観客の中に宮本家族や純子ちゃんの姿を見つけた時……

 本当は寂しかろうに無理矢理「バンザイ」を言わされ、反戦を匂わせようものなら非国民と引きずっていかれる今の日本の状況が悔しくて、不甲斐ない自分が情けなくて……涙が込み上げそうになった。

 約10万人の学生が今までより訓練も不十分なまま突然軍隊に送り込まれることになる学徒出陣が、とうとう始まってしまった……