瞳から涙が溢れ出て、頬を伝って廊下に落ちていく。痛い、痛い。好きだった、今でも好き。叶わないってわかってても、好きだった。先生のことが、ずっと、ずっと。
音楽室に飛び込めば、ピアノの前に桜ちゃんは座っている。触れられない指で鍵盤をなぞりながら。
「先生に振られたの悲しくて、辛くて、逃げてきちゃった」
ぽつり、と言葉にすれば、桜ちゃんが透ける体で私を抱きしめてくれる。ぬくもりも、感触もしないのに、涙が落ち着いていく。
ひぐっ、ぐすっという音だけが音楽室に響いて、桜ちゃんは何も言わずに私を抱きしめる真似を続けてくれている。
閉め忘れた音楽室の扉の外から、聞き覚えのある先生の声がして。
「待ってください、さ、さくら……?」
私を呼んでるはずなのに、響きが違う。先生の顔を見つめれば、先生の目は私を通り抜けて桜ちゃんを見ていた。
知りたくない、気づきたくない真実に、気づいてしまった。
「龍之介くんだったんだ、舞ちゃんの先生」
そして、桜ちゃんの声のトーンも明らかに私と話してる時とは違う。あぁ、先生の好きな人は桜ちゃんで、桜ちゃんの好きな人は、先生なんだ、って痛いくらいわかってしまう。
「佐久良さんが、見つけたんだね」
「先生、私……」
「僕はずっと探してたのに……」
桜ちゃんがその言葉に嬉しそうな顔をする。
「ずっと言えなくて、心残りになっちゃって、ここに居たみたい」
「桜の心残りは、何?」
二人の時間に口を挟みたくなくて、じいっと押し黙る。先生の恋が叶う瞬間なんて見たくない。それでも、先生がずっと探してたのに想いを知ってるから、二人の邪魔はしたくない。
「龍之介に好きって言えなかったこと! ずっと好きだったの」
「俺も! 俺も、あの時、言えてればよかった、桜が居なくなる前に言えばよかった」
「あぁ、やっと言えたなぁ。好きだったの。あの時だって、好きだって素直に伝えたかったの。龍之介が好きだよ」
桜ちゃんが、瞳から涙をこぼしてどんどん透明になっていく。先生は、桜ちゃんが消えないように必死に手を伸ばして、でも、触れられていない。
「でも、約束覚えててくれたんだね」
「死んだら化けて出る?」
「冗談だと思って普通は信じないよ」
透き通っていきながら、桜ちゃんが幸せそうに笑う。先生も泣いてるくせに、心の底から幸せそうな表情をしていた。優しい瞳も、声も、想いも、全部桜ちゃんのためのものだったんだ。
失恋の痛みはまだ胸の奥でちくちくとしてるのに、どうしてか、心が温かい。
「龍之介、最後にもう一個だけ約束だよ」
「なに?」
「幸せに生きてね」
答えも聞かずに、桜ちゃんが消えていく。先生はその場に立ち尽くして、ただ何回も何回も「うん」と言葉にしていた。
泣いてる先生に何を言おうかと、言葉を探しても、何も思いつかない。私の存在を思い出させたら、いけない気がして、ただ息を止める。
ポケットからハンカチを取り出した先生が、涙を拭い取って私に笑顔を作ってみせた。
「格好悪いところを見せたね」
「そんなことないです」
「桜を見つけてくれてありがとう」
感謝の言葉に、なんて言っていいかわからなかった。好きな人の好きな人を見つけるのが私だなんて、どういう奇跡なんだか。
「気持ちには応えられなくてごめん。でも、僕も、桜みたいに佐久良さんの幸せを願ってるよ」
そう言って先生が手に持っていた紙袋を渡してくれる。
「特別扱いは本当は良くないんだけど。佐久良さんは、僕の初めて真剣に応援した生徒だから」
紙袋の中には、先生がおすすめリストに書いてくれていた本が二冊入っていた。胸にぎゅっと抱き寄せて、私も何事もなかったように笑う。
「ありがとうございます」
「うん、これからも応援してるよ」
「先生が後悔するくらい、負けないくらい、幸せになって自慢しにきますね」
胸を張って告げれば、先生はいつものように困った顔で笑う。先生の幸せに私がなれれば、最高だった。でも、きっとそうはならない。わかってるから。
先生への想いも、胸の痛みも、この音楽室に置いて行こう。
「幸せ自慢、待ってるよ」
そう言って先生が桜ちゃんが消えていった宙に目を移す。きっと先生も、これから新しい幸せを探すんだろう。そして、いつか桜ちゃんに幸せ自慢をしにいくんだろうな。
たとえ、三人の幸せが交わらないものだったとしても。私も、先生も、生まれ変わった桜ちゃんも、どこかで幸せになって、また会って、幸せの自慢をしあえたらいいな。そんなことを、心の底から願っていた。
<了>