水曜日の自動販売機

 共感性羞恥。言葉としてだけ知っていたことを今まさに体験している。
「新入生の皆さん、高校ご入学おめでとうございます。えー、本日はお日柄も良く、皆様におかれましては、……えっと、なんだっけ」
 新生徒会長である水谷慎之介(みずたにしんのすけ)のふわふわとしたスピーチを聞いて、清野杏実(せいのあずみ)は衝撃を受けた。水谷の後頭部の髪の毛があちこちに跳ねている。セットしているようにも見えないから寝癖なのだろう。それがますます彼の情けなさを助長していた。切れ長の目を細め、眉尻を下げている。ついでに寝癖付き。せっかくのイケメンが台無しだ。
「えーっと、緊張、みなさん緊張していると思いますが、この学校に入ったからには大丈夫です。違う。あー。僕、変なこと言ってますよね、緊張しているのは僕ですよね、あはは」
 水谷の空笑いの声が静かな体育館に響いた。
「今日に限って原稿を家に忘れてしまって。えっと、あー……」
 言いよどんだまま、水谷が舞台袖をちらりと見た。その視線をたどっていくと、水谷と同じく三年生で副会長の桧山歌恋(ひやまかれん)がいた。足を肩幅に広げて立っており、スケッチブックを持った両手を上げ始めた。大きな目をさらに開き、口を真一文字に引き結んでいる。美人にその表情をされると、余計に恐ろしく見える。プラカードのようにスケッチブックを頭上で掲げると、桧山はぴたりと止まった。
『落ち着いて』
 スケッチブックには黒マジックで大きくそう書いてあった。
 体育館後方に座っている杏実たちに見えているということは、ステージに一番近い席に座っている新入生には丸見えだろう。生徒会長が慌てている様子を目の当たりにして、不安げな表情を浮かべる人、にやにやと馬鹿にするような笑みを浮かべる人、心配そうに見上げる人、反応は様々だった。
「やっぱり、会長に水谷先輩を選んだのは間違いだったんじゃない?」
 隣に座る友人、さくらに耳打ちされ、深く頷いてしまった。

 杏実は、去年の生徒会役員の選挙を思い出していた。生徒会長選は、野球部キャプテン奥田と水谷の一騎打ちだった。水谷はそれまで部活などで目立った活躍はなく、生徒会役員でもなかったから、杏実たち後輩にはその存在が知られていなかった。当然、奥田が勝つものと誰もが思っていた。
「えーっと、クラスメイトにお前が適任だって言われて、断り切れず、いつの間にかこんなところに立ってしまっています。へへ……」
 最後の演説で、水谷は頭を掻きながら力なく笑った。イケメンが困っている様子にきゅんときてしまったのは杏実だけではなかったらしい。もしくは、やりたくない人にやらせる方が面白いという考えの人が多かったのかもしれない。立候補は自分の意志ではないと主張する、消極的で歯切れの悪い演説だったにもかかわらず、奥田に大差をつけて勝ってしまった。
 開票後、水谷が口をあんぐりと開けて奥田を見た。奥田は「頑張れよ」と笑顔で声をかけ、水谷の背中を叩いていた。奥田は負けてもさわやかだった。あの先輩だったら今頃完璧な祝辞を述べていただろうと思うと、杏実は水谷に票を入れたことを後悔した。
「あー。あわわわわ」
 水谷が意味をなさない言葉を発し始め、杏実は目を丸くした。桧山がスケッチブックをめくる。
『深呼吸!』
 指示通りに水谷がその場で深呼吸を始めると、体育館の中がざわつき始めた。
 ありのままの自分でいい、というのが昨今の風潮だが、これはありのまますぎではないだろうか。
『練習通りに』
 桧山が掲げるスケッチブックに向かって、水谷が何度も頷いた。
 ――練習した上で、本番こんなに喋れないの!?
 あの場に立っているのが自分だったら、と想像して、杏実は瞬時に体が熱くなった。
 同時に、こんな状態でもこの場から逃げ出さない水谷を尊敬もしていた。
 ――私だったら絶対に無理。あんなにみっともないこと、できない。
「えっ」
 ある日の放課後、昇降口を出てすぐにある自動販売機の前でしゃがみ込む水谷を見かけた。思わず声を出してしまったのは、傍らにペットボトル飲料でいっぱいのエコバッグがあったからだ。もしかしてパシられてる? 一応この学校の生徒のトップに立つ人間なのに。
 杏実の声に反応して、水谷が立ち上がった。お茶のペットボトルを持ちながら笑う姿には、何かを強制されている様子は見られなかった。
「こんにちは。君は、二年生かな?」
 水谷が、杏実のネクタイに目をやった。学年はネクタイの色の違いで分かるようになっている。今年は三年生が緑、二年生が青、一年生が赤だ。
「はい。そうです。清野杏実と言います」
「清野さんね。僕は水谷慎之介。一応、この学校の生徒会長をしてる」
「知ってます」
「そう、だよね。あんなに悪目立ちしたら、ね……」と水谷が笑った。
「今帰り? 部活は休みなのかな」
「はい。料理部なので」
「そっか、料理部の活動は火曜と金曜だよね」
 杏実は水谷と普通に話せていることに驚いていた。舞台上での彼の姿がひどすぎて、コミュニケーション能力に問題がある人なのかと思っていたのだ。
「あ」
 水谷が言う。杏実がちらちらと足元のエコバッグを見ていることに気づいたようだ。
「勘違いしないで。これ、僕が自発的にやってることなんだ。清野さんも入学式での祝辞、ひどいなって思ったでしょ?」
「あー」
 杏実が目を泳がせる。水谷が困ったように空をあおいだ。
「気を遣わなくていいよ。僕のあとの新入生代表のあいさつの方が立派だったよね。あんな感じで、僕、何もできないお飾り生徒会長だから。役に立つことがないかなって思ったんだ。それで見つけた仕事が、生徒会メンバーの飲み物調達。これくらいなら僕にもできるし、お金はみんなからもらってるから、心配しなくていいよ。ほら」
 水谷が、握りしめていたがま口財布を杏実に差し出してくる。杏実が手を差し出すよりも先に水谷が指を離してしまったので、地面に落ちた。衝撃でがま口が開いてしまい、小銭がばらまかれた。
「ああっ、またやっちゃった」
 水谷がへたり込んで十円玉を拾い上げた。
「大丈夫ですか!」
 二人で地面にはいつくばって小銭を集めていると、何をやっているのだろうという気持ちになってくる。そんな杏実の気持ちを代弁するように、頭上から声が聞こえた。
「何してんの。早く戻ってきて」
 顔を上げる。三階にある生徒会室の窓から、副会長の桧山が顔をのぞかせていた。
「お金落としちゃった。集めたら戻るから」
 水谷が上に向かって手を振った。
「あっそ。なるべく早くね」
 ぴしゃりと窓が閉められる。桧山の顔が引っ込む直前、睨まれたような気がしたのは杏実の思い違いだろうか。
 それから毎週水曜日、自動販売機の前で水谷に会うようになった。待ち合わせしているわけではなく、単純に杏実の下校時刻と水谷の買い出しの時間が被るだけだ。
 聞けば、生徒会の定例会議が毎週水曜日にあるらしい。
 六月になり、長雨がだらだら続くようになったが、今日は久しぶりの晴れだった。
 今日の水谷は珍しくジャージ姿だ。上下紺色で、上は前にファスナーがついているタイプだ。最後の授業が体育だったのかもしれない。うちの学校は、最後の授業がジャージで受けるものだったら、放課後も制服に着替えなくてもいいというルールがあるのだ。
「こんにちは」
 自動販売機の前にしゃがみ込む水谷の背中に話しかける。
「おー、清野さんだ。こんにちは」
 振り向いて、杏実の顔を認めた瞬間に笑顔になる。イケメンがその顔をするのは反則だろう。杏実の心臓が跳ねた。
「あ、そうだ」
 水谷が再び自動販売機に向き直って、尻ポケットから財布を取り出した。いつものがま口ではなく、三つ折りの紺色の財布だ。そこから出した千円札を入れた。
「清野さん、何がいい? いつも缶やお金を拾ってくれるから。そのお礼」
 こちらを向かずに言う。全く予想していなかった言葉に、杏実は返答に詰まった。
「何でもいいよ」
「あ」
 水谷が杏実の方を向いた瞬間、水谷の人差し指がコーラのボタンを押していた。振り向きざまに力が入ってしまったのだろう。がこん、と音がして商品が取り出し口に落ちてきた。
「……ごめん」
 うなだれる水谷。
「大丈夫です、コーラ好きですから」
 水谷の代わりに取ろうと手を伸ばすと、コーラの上で二人の指が触れ合った。
「ひゃっ」
 ――お父さん以外の男の人の手、初めて触った。
 考えるより前に手を引っ込めてしまい、そのはずみでコーラが地面で跳ねて転がっていった。
「ごめん、新しいの買うからっ! 拾わなくていいよ!」
 水谷の制止の声を聞き流して、杏実は缶を小走りで追いかけた。全身が熱かった。拾い上げ、ごまかすように笑顔を作って、水谷を見た。
「ありがとうございます。いただきます」
「危ない、開けちゃだ――」
 水谷の「め」が聞こえる前にプルトップを引き上げると、液体が飛び出してきて杏実の顔面を濡らした。
「あああああ……」
 水谷の絶望したような声が聞こえる。
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。コーラが噴出したのだと気づいた時には、顔も上半身も濡れていた。もしかしたら、スカートの裾にもかかったかもしれない。
「本当にごめんね! 僕が止められなかったばっかりに。いや、その前からだ。僕がコーラのボタンを押さなければこんなことにはならなかった。とりあえず、これ着て」
 水谷がいきなりファスナーを下げてジャージを脱ぎ、Tシャツ姿になった。脱ぎたてのそれを腕に押し付けられ、杏実は赤面した。水谷の体温が残っており、あたたかい。
 何が起こったのか理解する前に、ウェットティッシュで顔まで拭かれてしまった。拭いたら化粧取れる、と心配しながら、水谷はそこまで考えておらず、完全な親切心なのだろうと杏実は思う。それとも、薄付きすぎてノーメイクだと思われているのだろうか。勝手に落ち込んだ。
「私、帰るだけですし、ジャージはいりません。お気持ちだけいただきます」
「僕は制服着るから大丈夫。それよりも、このまま君を帰す方が嫌だよ。ジャージ返すの、いつでもいいから。じゃあね」
 戸惑っている杏実を置いて、水谷が爽やかな笑みを浮かべた。飲み物でパンパンのエコバッグを持ち、手を振ってくる。杏実も反射的に振り返してしまう。
 水谷が立ち去ったあと、意を決した杏実は、ブレザーを脱いで、シャツの上から水谷のジャージを羽織った。まだ生温かい。先ほどまで水谷が着ていたものだと思えば思うほど、鼓動が早くなった。胸元の名前の刺繍「水谷」が見えないように、リュックの紐を持つふりをして隠した。
「あ、おつり」
 水谷が釣り銭を取らずに帰ったことに気づく。すくい上げるようにして手のひらに乗せ、そっとスカートのポケットに入れた。小銭の感触が内側で太ももに擦れて、くすぐったかった。

 帰宅後、こっそり一人で洗濯機を回していると、母親に見つかってしまった。
「何? そんなに急ぎの洗濯物あったの?」
 訝しげに聞いてくる。
「う、うん! 制服にジュースこぼしちゃって」
「まったく、あなたはおっちょこちょいなんだから」
 母がキッチンに引っ込んだので、ほっと一息ついた。ブレザーとスカートは、水で濡らしたタオルを使ってトントン叩いた。長期休みの時に、クリーニングに出してもらおう。
 自分の制服は家族共有の物干し場に干したが、水谷のジャージだけは部屋に持って帰った。
 カーテンレールにハンガーをかけて眺める。
 ――明日までに乾くかな。お母さんに見つかりませんように。
 水谷と刺繍されているジャージ。自室に自分以外の人のものがあるということは、こんなに落ち着かないものなのか。初めて知った感情だった。
 いつでもいいとは言われたものの、名前入りのジャージを家に置いておけば、母に余計な詮索をされるリスクがある。翌日返そう、と借りた時から心に決めていた。ジャージと釣り銭を入れた封筒を紙袋に詰め、学校に向かった。
 教室に荷物を置き、水谷のクラスに行く途中の階段で桧山とすれ違った。目が合ったのでなんとなく会釈をして通り過ぎようとすると、早口で言われた。
「昨日、慎之介くんからジャージ借りてた二年生でしょ」
 とても低い声、杏実のことを快く思っていないことを示すような声だった。杏実は一瞬で体が冷たくなっていくのを感じ、足が動かなくなった。
「見てたんですか」
 自分の声がわずかに揺れていることに気づく。桧山はにこりともせずに答えた。
「自販機、生徒会室の真下だからさ、見ようとしなくても見えんの。それ、慎之介くんのジャージでしょ? あたし返しとくよ」
 桧山の手が紙袋に伸びた。とっさに背中に隠すと、舌打ちされた。怖かったが、それを悟られてはいけないと思った杏実は、まっすぐに目を見て答えた。
「私が借りたものなので、私が責任持って返します」
「あなた、名前は?」
「清野杏実です」
「清野さんね」
 桧山の口角が上がった。上から下まで、じっくりと値踏みするような視線を送られ、気分が悪い。
「髪型はセミロング、スカートは膝下、ナチュラルメイクというか、ただ薄いだけの化粧。あなたみたいな『普通』のおとなしめな女子生徒は、慎之介の隣にふさわしくない。付き合ったとしても共倒れになるだけ」
 最後の言葉に固まった。
 ――どういうこと? 桧山先輩は、私が水谷先輩を好きだって思ってるってこと?
 ぐるぐると考えが回っている間に、背中から紙袋を抜き取られた。
「じゃ、返しとくね。二年生の清野さんは、三年生の教室に来るのは緊張するでしょうから」
 嬉しそうな笑みを浮かべ、桧山が階段を登っていった。その背中を見ながら思う。
 ――私、水谷先輩のことが好きなの?
 桧山の姿が見えなくなっても、自分の教室に帰っても、答えは出なかった。
 金曜日の放課後、部活を終えて下駄箱を開けると、たたんだ白いルーズリーフが入っていた。正確に言えば、ルーズリーフを貼ったり折ったりして作った封筒だった。表には「清野さんへ」と書道のお手本のような楷書で書いてある。差出人はと思ってひっくり返すと、意外な名前があった。
「水谷先輩?」
 呟いてしまってから、きょろきょろと周りの様子を確認した。なんとなくこのことは誰にも知られてはいけないと思ったからだった。
「あずー、早く帰ろー」
 同じ調理部の友人の声が、背後から聞こえてきて、杏実はブレザーのポケットに手紙を突っ込んだ。友人は隣のクラスなので、下駄箱が通路を挟んで向こう側にあるのだ。
 頷きかけたが、昨日のことが気にかかった。桧山は水谷にジャージを返してくれただろうか。どんな会話を交わしたのだろうか。水谷に会いに行くのを怖がって、杏実が桧山に託したのだと思われていないだろうか。
「ごめん、忘れ物っ。先帰ってて」
 中に何が書いてあるのか気になる。とにかく一人になりたかった。
「えっ、待ってるよ」
「いいから! ばいばい」
 友人が外履きを脱ぐより早く、来た道を走って戻った。
「なんで、そんなに急ぐの? なんかあったんでしょ」
 バタバタと追いかけてくる音がする。杏実は角を曲がったところにある女子トイレに駆け込み、個室の鍵を閉めた。
 口を両手でおさえ、乱れた息を殺す。
「そんなにヤバかったの? 忘れ物なんて嘘つかなくていいのに。昇降口で待ってるからね」
 トイレに入るところは見られてしまったみたいで、外から友人の声がした。幸いにも中には入ってこない。急に便意を催したと思われてしまった。とっさにトイレに入ってしまったことを後悔したが、もうどうしようもない。
 便座の蓋を閉め、その上にリュックを置いた。ブレザーのポケットから手紙を取り出した。封を開けようとしたが、きっちりとのり付けされていて開かない。杏実は封筒の上部を手でちぎって中身を取り出した。入っていたのは四つ折りされたルーズリーフ。開くと、表書きと同じく綺麗な字が並んでいた。

『清野さんへ
ジャージを迅速に返してくれてありがとう。あと、お釣りも。僕が気づいていなかったのだから、持ち帰ってしまっても良かったのに、そうしなかった君の心はとても綺麗なのだと思います。
本来ならば直接会って君にお礼を伝えるのが一番なのだけど、今日は予定があって早く帰らなければならないのと、来週の水曜日だと遅すぎると思ったので、こうして手紙を書きました。
まずはお礼まで。また水曜日に。
水谷慎之介』

 思わず持っていた手に力がこもり、手紙にしわができた。慌てて伸ばす。
 また水曜日に。
 水谷の字を指でなぞる。偶然会っているだけだと思っていた。彼は違ったのだ。水曜日は杏実と会う日だと認識してくれていた。
 ルーズリーフを元の通りに折りたたみ、封筒にしまった。リュックのファスナーを開け、縦向きに入れた教科書類の中から、一番分厚かった国語便覧を選び出す。真ん中あたりを開き、手紙を挟んだ。現代文の教科書とノートの間に手を差し込み、できた隙間に便覧を置くようにして入れた。ファスナーを閉める。いつも通りにしているつもりが、少しだけ時間をかけて丁寧に閉めていることに気づいてしまった。
 リュックを背負い、個室の鍵を開ける。リュックは水谷からの手紙のぶん重くなったはずなのに、杏実の足取りは軽かった。
 次の水曜日の放課後、杏実は初めて水谷に「会いに」行った。といっても、教室まで行く勇気は出ず、いつも通り昇降口前の自動販売機の横に立っていただけなのだが、「たまたま会う」と思っていた今までと、「また水曜日に」と言われた今日では、杏実の心持ちが違ったのだ。
 風が吹いた。刈られたばかりのグラウンドの芝生の匂いが舞い上がって、季節が夏に移行しようとしているのを感じた。
「清野さん、こんにちは」
 後ろから現れた水谷に声をかけられ、思わず笑みがこぼれた。そんな自分に戸惑う。桧山から「あなたは慎之介の隣にふさわしくない」と言われてから、水谷を変に意識してしまっている。
「こんにちは」
 目を合わせられなかった。
「この前はありがとう。忙しい中、ジャージをすぐに返してくれて助かったよ。お金も」
 水谷がエコバッグからがま口財布を出し、自動販売機にお金を入れ始めた。
「いえ。お礼を言うのは私の方です。本当にありがとうございました」
「歌恋から聞いたよ。自販機の前で偶然会った歌恋が声掛けたんでしょ? 三年生の教室まで来るのは大変だろうから預かっておいたって言ってたよ。『清野さん、びっくりして固まってた。悪いことしたかな』って言ってたけど、そりゃあ、突然声かけたら驚くよね。ごめんね」
 がごん。一本目の緑茶が落ちた。
 会長と副会長は、お互いにファーストネームを呼び捨てするような親密な関係なのだ。心臓がわしづかみされたように痛んだ。実際に会った階段ではなく、「自動販売機」と言ったのは、毎週水曜日に水谷と会っている杏実に対するけん制だろう。桧山が杏実の紙袋をだしに水谷と喋ったことも、紙袋を預かったのはあたかも自分の好意であるかのように語った桧山も、桧山の代わりに謝る水谷も、全部気に入らなかった。
 違いますと言いたかったのに、口の中がからからで、うまく声が出ない。
「歌恋は、なんでもズバッと言う性格だから、きついと思われがちだけど、根はいい子なんだよ。仕事もできるし、すごく頼りにしてる。だから清野さんも今回はびっくりしたかもしれないけど許してあげて」
 がごん。二本目はフルーツティーだ。マスカット味の甘くて冷たい紅茶。クラスの女子がよく飲んでいるイメージだ。これは一体誰のリクエストなのだろう。
「手紙、嬉しかったのに」
 こんな言葉に限って、はっきりと声に乗ってしまった。
「え?」
 水谷の動きが止まった。ゆっくりと振り返る。
「のに、ってどういうこと?」
 杏実はその質問を無視する。
「水谷会長は、桧山副会長と付き合っているんですか?」
「付き合ってないよ。家が近所で昔から付き合いがあるっていうだけ。分かりやすく言えば幼馴染かな」
 幼馴染。杏実が絶対に構築することのできない関係性だ。それって、恋人よりも深い関係なのではないか、と思った時に、再びあの疑問が首をもたげる。
 ――私、水谷先輩のことが好きなの?
 よく分からない。でも、水谷の口から桧山の話を聞くのは、不快だった。
「いつもふがいない僕のことを支えてくれて、すごく助かってるんだよ。僕がここまで生きてこられたのは、歌恋のおかげと言ってもいい。そのくらいお世話になってる」
「会長は、どうしてそのままで平気なんですか!」
 大きな声が出た。窓が開く音がした。きっと桧山が聞き耳を立てている。でも、そんなことはどうでもよかった。目の前にいる水谷がとても無責任に見え、ふつふつと怒りがわいてきた。
「生徒会長に立候補したくせにやる気なくて、入学式であんな無様なスピーチして、副会長にカンペまで出してもらって、それで一年生にも在校生にも笑われて、悔しくないんですか? 羞恥心はないんですか? 私だったら絶対に無理です。あんなスピーチしたあと、学校に来られません。先輩は違うんですね。醜態をさらした上に、生徒会メンバーの買い物なんて雑用引き受けて、この学校の上に立つ者として恥ずかしくないんですか? 選挙で敗れた奥田先輩に、申し訳ないとは思わないんですか?」
「思うよ」
 ヒートアップする杏実とは対照的に、水谷の声は穏やかだった。逆上されるならまだ理解できた。水谷が何を考えているか分からず、恐ろしかった。
「友達から向いてるよって言われたのを真に受けて立候補して、本当に生徒会長になってしまったけど、後悔してる。他の人の方が優秀だから。奥田くんや歌恋が生徒会長だった方が、この学校にとって良かったんじゃないかと思うよ」
「そんなことないです」
 とっさに否定するが、
「さっき清野さんがそう言ったんだよ?」
 墓穴を掘って笑われた。
「でもね、最近分かったんだ。人それぞれ得意なことは違うから、得意なことは得意な人に任せればいい。そう思ってる」
 まっすぐに杏実を見つめる瞳は凪いでいて、心からそう思っていることが伝わってきた。
「ごめんなさい、今のは八つ当たりでした。私、幼稚園の時、おゆうぎ会で頭が真っ白になったことがあって、勝手に先輩と自分を重ねてしまったんです」
 水谷が静かにまばたきを繰り返した。桧山の邪魔は、まだ入らない。喋ってもいい、今なら友人にも言えなかったことが喋れると思った。
「私のセリフは一言しかなかったんです。今でも覚えています。『みんな、一緒におにぎり食べよう』これだけです。前の人のセリフが終わって、次に行くはずが、誰も話し始めないんです。どうしたんだろう、おかしいな、と思った瞬間、自分のせいだって気づいたんです。みんな私のセリフを待ってるんだって」
 水谷がゆっくり頷いた。分かるよ、と言ってもらえたような気がして、滑らかに口が動いた。
「練習では一度も飛ばしたことがありませんでした。だからみんな驚いていました。思い出そうとすればするほどパニックになって、何と言えばいいか分からなりました。客席の最前列にいた先生が小声で教えてくれて、なんとかなりましたが、その時の感覚――たとえば体が冷えていく感じや、頭はフル回転しているはずなのに何も思い出せなくて、より焦るような感覚は未だに覚えています。私は人前に立つのが苦手です。その時のことを思い出してしまい、また失敗するんじゃないかと思うと何も話せなくなるんです。この引っ込み思案な性格をなんとかしたいです」
 しばらくしてから水谷が口を開いた。
「無理に変える必要はないと思う。苦手を克服するんじゃなくて、得意なことを見つければいい」
 優しい声だった。心がふわりと浮いたような心地がした。
 毎日顔を合わせるクラスメイトの前でさえ発表できず、「ここで話せないと社会で通用しないわよ」と怒られてばかりいた杏実にとっては、予想外の答えだった。
「無様でもですか?」
 水谷が苦笑して頭を搔く。
「まあ、無様なのは嫌だけどね」
「どっちなんですか」
 腹の底から笑いがこみ上げてきた。人前に立つことが苦手だろうと得意だろうと、そこに優劣はないのだろう。舞台で堂々としているだけが正解じゃない。だって、水谷先輩はこんなにも優しい。こだわっていたのは周囲の人達ではなく、杏実自身なのだと気づかされた。
「私、水谷先輩が無様なおかげで、自信を持てそうです」
「はあ? どういうこと?」
 水谷が素っ頓狂な声を上げた。杏実はくすくすと笑う。
「人前に立つことが向いていなくても、それを無理に矯正する必要がないんだって思えました。ありのままに生きている先輩のおかげです」
「馬鹿にしてるの?」
「まさか! 褒めてるんですよ」
 杏実が顔を上げ、水谷の目を見据えた。水谷は苦笑いを浮かべている。
「ありのままついでに言いますね。私、たぶん水谷先輩のことが好きです」
「たぶんって何?」
 水谷が眉根を寄せた。杏実が息を吸い込んだ瞬間。
「慎之介! まだ買い終わらないの? みんな待ってるよ。早く」
 桧山が上の窓から顔を出し、声をかけてきた。それを聞いて我に返った。
「引き留めてしまってすみません。私は帰ります」
 水谷が何か言う前に杏実はその場を立ち去った。背負っているリュックのひもを両手でぎゅっと握り、駆け足で校門へと向かう。
 ――どうして桧山先輩に見られてるって分かってたのに、あんなこと言っちゃったんだろう。
 人生で初めて、自分を受け入れてもらえたような気がした。だから油断した。杏実の邪魔をしてくるところを見るに、桧山はきっと水谷のことが好きなのだろう。
 幼馴染で頼りになって美人な桧山に、凡人の自分が勝てるわけがない。失敗が怖いなら、挑戦しなければいい。
 雑念を振り払うように、走るスピードを上げる。水谷と桧山が手を繋いでいる幻影が脳裏をかすめた。普段運動をしなれていないせいで、息が苦しい。