月曜日の朝、中学へ向かう坂道を息を切らせて登っていると、御坂くんが並んだ。

「はよ」

 観劇のときとは打って変わって、口調がぶっきらぼうだ。
 今日もぶちくんが御坂くんに飛びかかって、わたしはこっそり笑った。

「おはよう、御坂くん」

 御坂くんは運動神経のよさがうかがえる素早い身のこなしで、ぶちくんの攻撃をかわしている。
 飼い猫じゃないって言ってたけど、いいコンビだなあ。

「この前は、誘ってくれてありがとう。楽しかった!」
「そ。……あ、そうだ、これ」

 御坂くんが紺色のブレザーの内ポケットを探る。

「やる。押入れから出てきた」
「うそ、これ……! いいの!?」

 差しだされたのは、亘さんのチェキだった。
 わたしがお母さんと観た公演のときのものだろう、見覚えのある衣装姿だ。
 受け取った手が、びりびりする気がする。まるでそこから、電流が流れこんでくるような。

「昔のだけど、おれが持っててもしかたないし」

 御坂くんがおれって言うの、珍しいな。
 だけどそれより、手の中のお宝のほうが大事だ。

「ありがとう! 一生大切にするよ」
「そんなに?」
「そんなに、だよ。宝物だよ!」

 わたしはチェキを両手で押し抱く。どうしよう、なにも考えられない。
 看板役者ならともかく、亘さんのチェキが存在するなんて。
 亘さんは、最近では大きな役を演じることが少なく、一場面のみだったりするときのほうが多いのだ。
 そもそも、劇団自体も大きくない。地方公演があることすら稀だし。
 わたしは思う存分チェキに見入ってから、おもむろに生徒手帳を取り出した。
 表紙をめくり、カバーに挟んでいたQuicheの大空が写ったチェキを抜き取る。
 冬休みに美結ちゃんたちと隣町に遊びに出たとき、アイドルグッズ専門店でお揃いで買ったものだ。

『莉子はこれ買ってね、はい』

 問答無用で、商品とともにレジに連れていかれたっけ。
 わたしは大空に心の中で謝ってポケットに入れ、亘さんのチェキをそうっとカバーに差しこんだ。
 ひそやかな満足感で、胸が高鳴る。
 生徒手帳がきらきらと輝いて見えた。

「ほんとうは、ずっとこうしたかったの」
「あ、そ。探したかいがあった」

 わざわざ探し出してくれたのかな。心がふわふわと軽くて、あったかい。
 今なら教室までの五階分の階段だって、駆け足で上がれるくらい。
 それから数時間も経たないうちに心がぺしゃんこになるなんて、このときのわたしは思いもしなかったのだ。


 
 昼休み。わたしと奈々香ちゃんは列を挟んで隣同士の席なので移動はせず、美結ちゃんだけ別の子の席を借りてくっつける。
 今日もそうやって、三人で机を合わせてお弁当を食べていたときだった。
 それは、美結ちゃんの発言が発端だった。

「いよいよ今週だね、卒業式。奈々香とお昼食べるのもあと少しかぁ……寂しいよぅ、奈々香も東陽に上がればよかったのに!」
「だってあっちなら、系列の大学にそのまま上がれるもん。わたし大学受験する頭ないしー。でも、美結も莉子も、週末は遊んでよね」

 奈々香ちゃんが、さやいんげんの煮物を食べながらびしっと指を立てる。わたしたちの中では、奈々香ちゃんだけが外部進学組だ。
 昨年の秋のうちに、推薦で市内の私立高校の入学を決めていた奈々香ちゃんはしっかり者だと思う。
 わたしたちはまだ受験なんて先で、高校になれば教室が三階より下になって助かるという程度の意識しかない。

「そうだ! ね、あたしたちの親友の証に、生徒手帳に寄せ書きしない?」

 肩が跳ね、わたしはあやうく箸でつまんでいたミニトマトを取り落としそうになった。

「せ、生徒手帳に?」
「そう! あれ、たしかうしろにメモ欄あったじゃん。あそこにあたしたちのプリ貼って、寄せ書きするの。どう?」

 喉がからからに渇いて、とっさに返事ができない。心臓がばくばくと打ち鳴らし始める。
 そんなわたしと反対に、奈々香ちゃんが「それいい!」と身を乗り出した。

「私らだけの卒業アルバムって感じ! 美結、天才じゃん」
「でしょでしょ?」
「そこにQuicheのステッカーも貼らない? 私らの友情の歴史って感じしない?」
「それ、アリ寄りの大アリじゃん! アルバムっぽく貼るのヤバい! 明日さっそく、家にあるステッカーぜんぶ持ってくる!」

 美結ちゃんは食べ終えたお弁当も広げたまま自席に戻ると、生徒手帳を手に戻ってきた。

「どんなデザインにする? やっぱりまずは推しを貼ってから、あたしたちのプリで囲ってーー」

 奈々香ちゃんも美結ちゃんの話を聞きながら、自分の鞄を開ける。
 美結ちゃんも奈々香ちゃんも、まず表紙裏見返しの部分を嬉しそうに眺める。そこには、推しのチェキが挟まれているのだ。

 どくん、と大きく胸が鳴った。どうしよう。今日は持ってきてないって言おうか。

 でも、それはそれで大空のチェキを持ち歩いてないなんてと責められるだろうか。

 ぐるぐる考えるあいだに生徒手帳がふたつ、合わさった机の上に並んだ。

「莉子のも出すよー!」

 えっ、と言うまもなく奈々香ちゃんが机をずらしてわたしの鞄を鞄掛けから取りあげる。
 言い逃れできない。
 わたしがぎゅっと唇を噛むのと、奈々香ちゃんがわたしの生徒手帳をめくるのは同時だった。

「……は? 誰、こいつ」

 心臓が凍りついた。