土曜日。集合場所は駅前だったけれど、早めに向かおうと意気揚々とマンションを出たら、御坂くんと鉢合わせした。
「今日はぶち猫いないんだね」
どちらからともなく、並んで歩調を合わせる。肌寒かったからパーカーを羽織ってきたけれど、駅へ向かう道にはいたるところに春の気配が満ちている。
「あいつ、今日は僕のベッドでふて寝してると思う」
「ぶちくん、なにかあったの?」
ぶち猫がオス猫だってことは、この前御坂くんが攻撃されているときに偶然、確認したところだ。
「あったんだろうね。それより、今日の舞台だけど――」
御坂くんはどことなくそわそわした様子で、演目について語りだした。
そう、今日はこれからとある劇団の地方公演を観る予定なのだ。
『親から二枚もらって』
と、チケットを見せられたときには、声がひっくり返りそうになった。
だってそれは、亘さんの所属する劇団だったから。
こんな偶然ってある?
もちろん、二つ返事でOKした。もしかして、亘さんに会えるかもしれないのだ。断る選択肢なんてどこを探してもあるわけがない。
そんなわけで、わたしはずっとドキドキしているのだけれど、見たところ御坂くんも浮き足立っている気がする。
その証拠に、舞台を語る目が生き生きしてる。
声だって、この前の朝みたいにそっけない感じじゃなくて嬉しそうで。
ひょっとして初めて、おなじ好みのひとと出会ったのかもしれない。わたしは「御坂くん」と声をかけた。
「楽しみだね、舞台」
我慢して美結ちゃんたちに合わせなくても、いいのかもしれない。
拍手のしすぎで、手がじんじんする。カーテンコールが終わり、わたしたちは興奮冷めやらぬまま席を立った。
「クライマックスの、別れのシーン。感動した、泣いちゃったよ……!」
ハンカチで目頭を押さえて言うと、御坂くんが「僕も」と同意した。ロビーの照明の下でその顔を見ると、御坂くんも目元がほんのり赤い。
「最高だった。やっぱり舞台はいいな。迫力が違う」
このまま帰るのがもったいないくらい、頭の中にはさっきまでの物語の世界がうずまいている。
それは御坂くんもおなじだったようで、わたしたちは劇場を出ると手近なファーストフード店に入った。
ドリンクを持って席に着いて早々に、感想を語り合う。ストーリーのこと、演技のこと、演出のこと。
わたしもたいがい、学校で話すよりもよくしゃべったほうだと思う。けれど、御坂くんの様子は、わたしの目から見ても熱かった。
「御坂くんは演劇に詳しいんだね」
「うん、好きだからね」
「わたしも! でも、今日は残念だったな。亘さん出てなかったし」
「亘さんって?」
「佐藤亘。あの劇団の団員なの。実はわたし、亘さんが推しで」
とっておきの秘密を打ち明けると、御坂くんが飲みかけのアイスコーヒーを噴きかけた。
「大丈夫?」
「うん、げほっ、げほっ……その役者、僕も知ってる」
「ええっ、ほんと? 嬉しい。あんまり知名度は高くなくて、知ってるひとがいるなんて思わなかった」
「莉子ちゃんはなんで知ってるの?」
そうそう、わたしだって誰かに話してみたかったのだ。
わたしはグレープジュースをひと口のんで唇を湿らせてから、口を開いた。
「中一のときに、お母さんがパート先の人からチケットをもらってきたの」
それまでにも、小学生のときに学校行事で参加した「おはなし会」で劇を観たことはあったけれど、印象に残らなかったというのが本音だ。
だから実質的には、お母さんとふたりで観たその劇が初めての観劇体験だった。
「ダルマが人間に転がされ続けた運命を呪って、人間たちを転がしていく群像劇でね」
御坂くんの顔をうかがうようにして、話す。さいわい、「は? なにそれ」というような反応はなくてほっとした。
「亘さんは、ダルマに転がされて街金に手を出すおじさん役だったの」
御坂くんが神妙な顔で相づちを打つ。
聞いてもらえているとわかると、説明にも力が入った。
「テイヘンは……あ、テイヘンっていうのが亘さんの役名だったんだけど、彼はそこから怒濤の転落人生を歩むのね。それがもう観てるだけで心臓がぎゅーってして、目が奪われてたの」
ボロを着て、よろよろと歩くおじさん役だった。でも真に迫るというのはこういうことだと、肌で感じたのだ。
お母さんに頼みこんで買ってもらった公演プログラムは、今もわたしの机の鍵のついた引きだしの中でさんぜんと輝いている。
「初めて、役者さんってすごいって思ったんだよね。テレビとか動画で観るよりもずっと生々しかったし……圧倒されて」
うんうん、と御坂くんが無言でうなずいてくれた。
「それ以来、ずっと亘さん推しなんだ。って言っても、地方公演を追っかけたりは、できないんだけど……」
中学生のお小遣いでは、せいぜいDVDを買うぐらいが関の山。
劇団のYooooTubeのチャンネルは登録しているものの、亘さんは滅多に出ない。残念ながら、亘さんは看板役者ではないからだ。
「でも、愛はあるから!」
「伝わってきたよ」
「へへ」
満たされた思いと、今さらながら熱く語りすぎた恥ずかしさで、ジュースを飲む勢いが加速した。
ずずっ、と行儀の悪い音をストローが立て、慌てて口を離す。御坂くんは気づかなかったみたいだ。
今度はだんだん、頬が緩んできた。好きなものについて、こんなに語れる日がくるなんて。
だけど、わたしの満ち足りた気分は、次の御坂くんのひと言で冷水を浴びたようになった。
「でも、佐藤亘とQuicheって、だいぶ方向性が違うね?」
わたしは思わずぎゅっと目をつむった。
空になった紙コップを持つ手に無意識に力がこもる。
御坂くんの顔を見られず、わたしは左手で紙コップを潰しながら、右手で水滴を拭うという不毛な作業にいそしんだ。
「Quicheは……美結ちゃんたちが、好きだから」
その先を言えずにいると、御坂くんはなにかを察したようだった。
「そういうこと」
「お願い、御坂くん」
わたしはうつむいていた顔を跳ね上げた。
美結ちゃんたちに知られたら、馬鹿にされる。
楠葉先生にクス婆というあだ名をつけたみたいに、亘さんのことも変な風に笑われたら……。
「わたしが佐藤亘を推してることは、誰にも言わないで。美結ちゃんたちにもぜったい言わないで」
「……いいけど、それでいいの?」
わたしがこくこくとうなずくと、御坂くんはふぅっと息をついた。
「わかった」
「ありがとう」
心臓が嫌な音を立てている。わたしは胸に手を押さえた。こんなに話すんじゃなかった。
美結ちゃんたちにだけは、知られたくない。
想像するだけで、ずきん、と胸が痛みを訴えた。
「今日はぶち猫いないんだね」
どちらからともなく、並んで歩調を合わせる。肌寒かったからパーカーを羽織ってきたけれど、駅へ向かう道にはいたるところに春の気配が満ちている。
「あいつ、今日は僕のベッドでふて寝してると思う」
「ぶちくん、なにかあったの?」
ぶち猫がオス猫だってことは、この前御坂くんが攻撃されているときに偶然、確認したところだ。
「あったんだろうね。それより、今日の舞台だけど――」
御坂くんはどことなくそわそわした様子で、演目について語りだした。
そう、今日はこれからとある劇団の地方公演を観る予定なのだ。
『親から二枚もらって』
と、チケットを見せられたときには、声がひっくり返りそうになった。
だってそれは、亘さんの所属する劇団だったから。
こんな偶然ってある?
もちろん、二つ返事でOKした。もしかして、亘さんに会えるかもしれないのだ。断る選択肢なんてどこを探してもあるわけがない。
そんなわけで、わたしはずっとドキドキしているのだけれど、見たところ御坂くんも浮き足立っている気がする。
その証拠に、舞台を語る目が生き生きしてる。
声だって、この前の朝みたいにそっけない感じじゃなくて嬉しそうで。
ひょっとして初めて、おなじ好みのひとと出会ったのかもしれない。わたしは「御坂くん」と声をかけた。
「楽しみだね、舞台」
我慢して美結ちゃんたちに合わせなくても、いいのかもしれない。
拍手のしすぎで、手がじんじんする。カーテンコールが終わり、わたしたちは興奮冷めやらぬまま席を立った。
「クライマックスの、別れのシーン。感動した、泣いちゃったよ……!」
ハンカチで目頭を押さえて言うと、御坂くんが「僕も」と同意した。ロビーの照明の下でその顔を見ると、御坂くんも目元がほんのり赤い。
「最高だった。やっぱり舞台はいいな。迫力が違う」
このまま帰るのがもったいないくらい、頭の中にはさっきまでの物語の世界がうずまいている。
それは御坂くんもおなじだったようで、わたしたちは劇場を出ると手近なファーストフード店に入った。
ドリンクを持って席に着いて早々に、感想を語り合う。ストーリーのこと、演技のこと、演出のこと。
わたしもたいがい、学校で話すよりもよくしゃべったほうだと思う。けれど、御坂くんの様子は、わたしの目から見ても熱かった。
「御坂くんは演劇に詳しいんだね」
「うん、好きだからね」
「わたしも! でも、今日は残念だったな。亘さん出てなかったし」
「亘さんって?」
「佐藤亘。あの劇団の団員なの。実はわたし、亘さんが推しで」
とっておきの秘密を打ち明けると、御坂くんが飲みかけのアイスコーヒーを噴きかけた。
「大丈夫?」
「うん、げほっ、げほっ……その役者、僕も知ってる」
「ええっ、ほんと? 嬉しい。あんまり知名度は高くなくて、知ってるひとがいるなんて思わなかった」
「莉子ちゃんはなんで知ってるの?」
そうそう、わたしだって誰かに話してみたかったのだ。
わたしはグレープジュースをひと口のんで唇を湿らせてから、口を開いた。
「中一のときに、お母さんがパート先の人からチケットをもらってきたの」
それまでにも、小学生のときに学校行事で参加した「おはなし会」で劇を観たことはあったけれど、印象に残らなかったというのが本音だ。
だから実質的には、お母さんとふたりで観たその劇が初めての観劇体験だった。
「ダルマが人間に転がされ続けた運命を呪って、人間たちを転がしていく群像劇でね」
御坂くんの顔をうかがうようにして、話す。さいわい、「は? なにそれ」というような反応はなくてほっとした。
「亘さんは、ダルマに転がされて街金に手を出すおじさん役だったの」
御坂くんが神妙な顔で相づちを打つ。
聞いてもらえているとわかると、説明にも力が入った。
「テイヘンは……あ、テイヘンっていうのが亘さんの役名だったんだけど、彼はそこから怒濤の転落人生を歩むのね。それがもう観てるだけで心臓がぎゅーってして、目が奪われてたの」
ボロを着て、よろよろと歩くおじさん役だった。でも真に迫るというのはこういうことだと、肌で感じたのだ。
お母さんに頼みこんで買ってもらった公演プログラムは、今もわたしの机の鍵のついた引きだしの中でさんぜんと輝いている。
「初めて、役者さんってすごいって思ったんだよね。テレビとか動画で観るよりもずっと生々しかったし……圧倒されて」
うんうん、と御坂くんが無言でうなずいてくれた。
「それ以来、ずっと亘さん推しなんだ。って言っても、地方公演を追っかけたりは、できないんだけど……」
中学生のお小遣いでは、せいぜいDVDを買うぐらいが関の山。
劇団のYooooTubeのチャンネルは登録しているものの、亘さんは滅多に出ない。残念ながら、亘さんは看板役者ではないからだ。
「でも、愛はあるから!」
「伝わってきたよ」
「へへ」
満たされた思いと、今さらながら熱く語りすぎた恥ずかしさで、ジュースを飲む勢いが加速した。
ずずっ、と行儀の悪い音をストローが立て、慌てて口を離す。御坂くんは気づかなかったみたいだ。
今度はだんだん、頬が緩んできた。好きなものについて、こんなに語れる日がくるなんて。
だけど、わたしの満ち足りた気分は、次の御坂くんのひと言で冷水を浴びたようになった。
「でも、佐藤亘とQuicheって、だいぶ方向性が違うね?」
わたしは思わずぎゅっと目をつむった。
空になった紙コップを持つ手に無意識に力がこもる。
御坂くんの顔を見られず、わたしは左手で紙コップを潰しながら、右手で水滴を拭うという不毛な作業にいそしんだ。
「Quicheは……美結ちゃんたちが、好きだから」
その先を言えずにいると、御坂くんはなにかを察したようだった。
「そういうこと」
「お願い、御坂くん」
わたしはうつむいていた顔を跳ね上げた。
美結ちゃんたちに知られたら、馬鹿にされる。
楠葉先生にクス婆というあだ名をつけたみたいに、亘さんのことも変な風に笑われたら……。
「わたしが佐藤亘を推してることは、誰にも言わないで。美結ちゃんたちにもぜったい言わないで」
「……いいけど、それでいいの?」
わたしがこくこくとうなずくと、御坂くんはふぅっと息をついた。
「わかった」
「ありがとう」
心臓が嫌な音を立てている。わたしは胸に手を押さえた。こんなに話すんじゃなかった。
美結ちゃんたちにだけは、知られたくない。
想像するだけで、ずきん、と胸が痛みを訴えた。