雲の広がる土曜日だった。
気晴らしに少し遠い図書館に出かけ、弁当を食べて帰っていたところで、激しい雨が降ってきた。雨は夜からだと聞いていたのに。ひええ、と僕は変な声を零しながら、急いで帰り道を走る。あっという間に出来た水たまりが、足の下で飛沫を上げて弾ける。髪を伝い、うなじに入り込んだ雨粒の冷たさに、ぶるりと身体が震える。
近道に通りかかった公園に、既にひと気はなかった。みんな逃げ足が速い。冷え切った天気の悪い日だから、そもそもあまり人もいなかったんだろう。
そこで僕は、見覚えのある赤色を見つけた。
お椀を伏せたドーム型の遊具の中には、椎名がいた。
「津守?」
彼女は僕を見て驚きの声をあげる。
「椎名、どしたの、こんなとこで」
僕も中に一歩入ったところで、本当に椎名がいたことに驚いた。ちらりと見えた赤色は、彼女が登下校時にいつも巻いているマフラーの色だった。もこもこのダウンジャケットを着てマフラーを巻き、二月の雨の中、彼女は遊具の壁面に背中をつけてしゃがみ込んでいた。
手招きされて、そばに寄って、隣にしゃがむ。椎名はイヤホンを外すと、両手に持っていたスマホを操作し、見ていた動画を一時停止した。
なんだか、見てはいけない彼女の姿である気がした。
それは、見過ごしてはいけない姿でもある気がした。
「雨宿り?」
僕が訊くと、「そんなとこ」と彼女は嘘を吐く。一瞬見えたスマホ画面のシークバーは終わりの方を指していて、彼女がついさっき飛び込んできたのだとは思えなかった。
「……久しぶり、津守」
「久しぶりって、昨日も教室で会ったじゃん」
僕は軽く笑う。昨日の放課後は、椎名が用事だというので一人で帰った。それでも、久しぶりという言葉はあまりに不似合いだ。
「なんとなく、言いたかった」
僕に釣られて笑わず、椎名はぽつんと呟いた。まさにぽつんという表現が似合う、心細い呟きだった。
「何見てたの」
彼女がスマホの画面を明るくして僕の方に向ける。それは、テレビ番組や映画を一気見することのできるサブスクの画面だった。中央に貼りついた一時停止マークの上には、つい先日、三話目が放送された、今期のドラマのタイトルが載っている。このドラマの主題歌にピリオドの新曲が起用され、僕らは共に喜んだ。
「曲だけ聴きたいんだけど、でもせっかくだから、一話から見てるの」
「僕も家で録画して、主題歌だけ聴いたんだけど。中身面白い?」
「まあまあかな」
椎名がイヤホンの片方をつまみ、僕に向ける。途中から見てもわからないよ。そんな無粋な言葉は言わず、僕は黙って受け取ったイヤホンを右耳につける。もう片方を椎名が左耳につけ、再生ボタンに触れた。
案の定、途中から見ても何もわからない。よく知らない、大学生風の美男美女カップルが、何ごとか揉めている。それでも僕らは、黙って画面を見つめる。
聞き覚えのあるイントロが流れ、ピリオドの曲が流れ始めた。音は小さく、更に片耳しかイヤホンをしていないから、体内の鼓動にもかき消されそうなほどだった。
「……津守だけだ」
だから、椎名が再びぽつりと落とした声も聞き取ることができた。
「私と友だちになってくれるのは、津守だけだ」
「なに、いきなり」
意味深な言葉に首をひねると、俯き加減の椎名はきゅっと唇を横に引く。もともと肌が白いせいか、顔も手も、この空気に凍えてしまいそうに見える。その手を握って温めたい衝動を、僕は堪えなければならない。
「……新谷くんとは、友だちになれなかった」
昨日の放課後の用事は、新谷に契約書を渡すことだった。椎名は僕にサインさせたのと同じ書類を、新谷に見せたらしい。
だが、彼はそれを一笑に付した。冗談だと思ったんだろう。最後まで本気にしなかったらしい。
新谷の気持ちはわかる。僕も最初、そう思ったから。
だけど、新谷は椎名の瞳をきちんと正面から見たのだろうか。彼女の真っ直ぐな眼差しを目の当たりにして、尚も冗談だと捉えて笑ったのか。
彼女が、独りぼっちで雨宿りをしていた理由が、わかったような気がした。
いつの間にか音楽は消え去り、画面の中で俳優が至近距離で向き合っている。歩道橋の上で雨に打たれるという、古臭いシチュエーション。何を言っているのか、よく聞き取れない。
それでも、彼と彼女がこれからどうするのか、想像がついた。
僕が椎名に顔を向けると、彼女も僕の方を向いた。ここに来て、今日初めて椎名の顔をきちんと見た。それは今までにないほど近く、マフラーで互いの口元が覆われていなければ、吐息さえかかる距離だった。
僕は、何も言わなかった。椎名の濡れた瞳に、自分の姿を見つけただけだった。
友だち契約が終わるまで、あと一ヶ月。
雨はしばらく止まなかった。
気晴らしに少し遠い図書館に出かけ、弁当を食べて帰っていたところで、激しい雨が降ってきた。雨は夜からだと聞いていたのに。ひええ、と僕は変な声を零しながら、急いで帰り道を走る。あっという間に出来た水たまりが、足の下で飛沫を上げて弾ける。髪を伝い、うなじに入り込んだ雨粒の冷たさに、ぶるりと身体が震える。
近道に通りかかった公園に、既にひと気はなかった。みんな逃げ足が速い。冷え切った天気の悪い日だから、そもそもあまり人もいなかったんだろう。
そこで僕は、見覚えのある赤色を見つけた。
お椀を伏せたドーム型の遊具の中には、椎名がいた。
「津守?」
彼女は僕を見て驚きの声をあげる。
「椎名、どしたの、こんなとこで」
僕も中に一歩入ったところで、本当に椎名がいたことに驚いた。ちらりと見えた赤色は、彼女が登下校時にいつも巻いているマフラーの色だった。もこもこのダウンジャケットを着てマフラーを巻き、二月の雨の中、彼女は遊具の壁面に背中をつけてしゃがみ込んでいた。
手招きされて、そばに寄って、隣にしゃがむ。椎名はイヤホンを外すと、両手に持っていたスマホを操作し、見ていた動画を一時停止した。
なんだか、見てはいけない彼女の姿である気がした。
それは、見過ごしてはいけない姿でもある気がした。
「雨宿り?」
僕が訊くと、「そんなとこ」と彼女は嘘を吐く。一瞬見えたスマホ画面のシークバーは終わりの方を指していて、彼女がついさっき飛び込んできたのだとは思えなかった。
「……久しぶり、津守」
「久しぶりって、昨日も教室で会ったじゃん」
僕は軽く笑う。昨日の放課後は、椎名が用事だというので一人で帰った。それでも、久しぶりという言葉はあまりに不似合いだ。
「なんとなく、言いたかった」
僕に釣られて笑わず、椎名はぽつんと呟いた。まさにぽつんという表現が似合う、心細い呟きだった。
「何見てたの」
彼女がスマホの画面を明るくして僕の方に向ける。それは、テレビ番組や映画を一気見することのできるサブスクの画面だった。中央に貼りついた一時停止マークの上には、つい先日、三話目が放送された、今期のドラマのタイトルが載っている。このドラマの主題歌にピリオドの新曲が起用され、僕らは共に喜んだ。
「曲だけ聴きたいんだけど、でもせっかくだから、一話から見てるの」
「僕も家で録画して、主題歌だけ聴いたんだけど。中身面白い?」
「まあまあかな」
椎名がイヤホンの片方をつまみ、僕に向ける。途中から見てもわからないよ。そんな無粋な言葉は言わず、僕は黙って受け取ったイヤホンを右耳につける。もう片方を椎名が左耳につけ、再生ボタンに触れた。
案の定、途中から見ても何もわからない。よく知らない、大学生風の美男美女カップルが、何ごとか揉めている。それでも僕らは、黙って画面を見つめる。
聞き覚えのあるイントロが流れ、ピリオドの曲が流れ始めた。音は小さく、更に片耳しかイヤホンをしていないから、体内の鼓動にもかき消されそうなほどだった。
「……津守だけだ」
だから、椎名が再びぽつりと落とした声も聞き取ることができた。
「私と友だちになってくれるのは、津守だけだ」
「なに、いきなり」
意味深な言葉に首をひねると、俯き加減の椎名はきゅっと唇を横に引く。もともと肌が白いせいか、顔も手も、この空気に凍えてしまいそうに見える。その手を握って温めたい衝動を、僕は堪えなければならない。
「……新谷くんとは、友だちになれなかった」
昨日の放課後の用事は、新谷に契約書を渡すことだった。椎名は僕にサインさせたのと同じ書類を、新谷に見せたらしい。
だが、彼はそれを一笑に付した。冗談だと思ったんだろう。最後まで本気にしなかったらしい。
新谷の気持ちはわかる。僕も最初、そう思ったから。
だけど、新谷は椎名の瞳をきちんと正面から見たのだろうか。彼女の真っ直ぐな眼差しを目の当たりにして、尚も冗談だと捉えて笑ったのか。
彼女が、独りぼっちで雨宿りをしていた理由が、わかったような気がした。
いつの間にか音楽は消え去り、画面の中で俳優が至近距離で向き合っている。歩道橋の上で雨に打たれるという、古臭いシチュエーション。何を言っているのか、よく聞き取れない。
それでも、彼と彼女がこれからどうするのか、想像がついた。
僕が椎名に顔を向けると、彼女も僕の方を向いた。ここに来て、今日初めて椎名の顔をきちんと見た。それは今までにないほど近く、マフラーで互いの口元が覆われていなければ、吐息さえかかる距離だった。
僕は、何も言わなかった。椎名の濡れた瞳に、自分の姿を見つけただけだった。
友だち契約が終わるまで、あと一ヶ月。
雨はしばらく止まなかった。