親にも、たまにはいいんじゃない? と言われるほどに勉強を頑張り、僕らは遂にライブ当日を迎えた。奇しくも終業式と同日なので、心置きなく楽しむことができる。十七時会場、十八時開演の会場に僕らは十六時には着いたが、既に会場前の広場には多くの人がいた。普段は全く興味のない会館が、妙に偉大な建物のように見えた。
「ほれほれ、早く並ぼう」
広場にはグッズを販売するテントが設営されていて、大勢が並んでいる。椎名に袖を引かれて、僕も列に並んだ。ピリオドは二十代半ばの男三人で構成されたロックバンドで、グッズもシンプルなものが多い。僕もあまりごてごてした物が好きじゃないから、許されるなら買い漁りたい。だけどそれは、自分でお金を稼げた暁の楽しみにして、今日は椎名と同じリストバンドを一つだけ購入した。
列から離れると、椎名は早速ビニール袋からリストバンドを取り出した。
「付けるの? なんかもったいなくない」
これは保存用になると考えていた僕に、彼女はわかってないなと人差し指を立てた。
「ライブにはグッズを付けて臨むものだよ。……ほら」
彼女が視線をやる先に目を向けると、高校生ぐらいの男子が二人で歩いていた。どちらも、グッズ売り場にあるのと同じ、会場限定のパーカーを着ている。買ってすぐに着替えたようだ。よく見ると、鞄にストラップをつけていたり、僕らと同じリストバンドを手首に巻いているファンの姿がある。
「津守もさっさと付けなきゃ。盛り上げるためのグッズだよ」
なるほど、そういうものなのか。大人しく自分のリストバンドを取り出す。なんだかんだいって、椎名はライブというものをきっちり予習していたらしい。
会場が開き、開演まで長い時間だったけど、僕らはちっとも退屈しなかった。二人でライブへの期待を話し合っているだけで楽しかったし、周囲にも目を輝かせているファンがたくさんいた。自分と同じものが好きな人がこれだけ集まっているなんて、例え相手が知らない人であっても無性に嬉しくなる。もこもこした左手首のリストバンドに触れて、行列に並んで、ライブに来たのだという実感を確認する。
一階は立見席で、二階が椅子席の満員御礼で千五百人規模。ブロックごとに位置がおおむね決まっていて、僕らに当てられてのは一階の右寄り、可も不可もない場所だ。
会場には人が詰まっているが、一応列になっている。
「椎名、前見える?」
僕の方が少しだけ背は高い。それでも前の人の頭が視界に入る。けど椎名はちょっと背伸びをして、「大したことないよ」と言った。
「多分、始まったら列なんてぐちゃぐちゃになるし。最前列じゃないから、しょうがないよ」
「そういえばそうか」
納得した僕の左手を、椎名の右手がぎゅっと握った。
「けど、はぐれないでね」
そう言って笑った椎名の笑顔に、僕の心臓が跳ねた。それはライブ前の興奮とは種類が違っていて、手のひらに感じた熱が、手を離されてもそこに残っている気がした。こういう風に触れられたのは、手を握るなんてことは、出会ってから九ヶ月で初めてのことだった。
会場の照明が徐々に暗くなり、ステージに誰かが現れる。その誰かが手を振ると、会場から歓声が上がった。
スポットライトが当たる。ミュージックビデオや雑誌の写真で目にする、ピリオドの三人がいた。彼らはテレビへ番組の露出はしておらず、詳細を明かさないミステリアスさでも知られている。実在を疑ったことはなかったけど、生身の本人が実際目の前に現れるのは、却って非現実感さえ覚えてしまう。
曲が始まった。僕が毎日プレーヤーで聞いている曲だ。だが、実際にステージから流れる声や楽器の音色は、イヤホンから聴くのとは全く別物だと知った。空気が全て音楽という塊になり、僕らの周りを支配していた。耳だけでなく、目から、皮膚から音を感じる。ボーカルの歌声が頭を貫き、人々の興奮が熱気となって渦を巻く。
僕らもリストバンドを付けた腕を上げたり跳ねたりした。重厚で繊細な音楽の一つになれる気がして、楽しくて心地よい。皆の視線はステージに釘付けになり、列はすっかり乱れている。
はぐれないよう、跳ねる椎名に少しだけ身体を寄せる。彼女が一度ちらりと満面の笑みをこっちに向けた。歌詞をなぞる口が違う動きをし、「楽しいね」と形作った。僕は頷いた。
ステージに集中しないともったいない。それなのに、僕の視線は何度も椎名の横顔に向いた。興奮に頬を赤くして、曲の合いの手の部分で声を張り上げて、全身で「ファン」を表現している。心の底から会いたかったのだと、全ての仕草が語っている。
僕はピリオドが好きで、努力で人気を博した彼らを尊敬している。僕には人生周回しても手の届かない天上人だと思っている。
そんな彼らに羨ましさを感じたのは、この夜が初めてだった。
ライブが終了した二十時、僕らは大勢の観客と共に会場を後にした。誰もが興奮気味に会話を交わし、出入口には記念に看板を撮影する人が集まっていた。僕らもそれに乗じて、数枚だけスマホのシャッターを切った。
椎名は電車で、僕は自転車で会館を訪れていた。僕も電車にしておけばよかったと悔やむ。そうすれば、帰りの電車でも感想をお喋りすることができたのに。
余韻を楽しみたい気持ちは、椎名も同じだったらしい。歩いて帰ると彼女は言い出した。自転車で来たことを僕はいっそう悔しく思う。
「でも、流石に歩いて帰るのは遠いよ。椎名、体力ないんだし」
僕の言葉に彼女は不満顔を見せるが、持久力のない彼女が二時間も跳ね回っていたのだ。今はテンションが上がっていても、徐々に疲れを感じてくるに違いない。
「じゃあ後ろ載せてよ。私重くないから」
椎名が自転車の荷台をぽんぽんと叩いた。家は同じ方角だし、それはいい考えだと僕も思った。
「あれ、でも契約書に犯罪はしないって書いてなかったっけ」
「あ、そっか。道交法違反だ」
ふざけたつもりだったのに、荷台を握っていた彼女は、あっさりその手を離してしまった。僕は自分のパッとしない記憶力がこんな所で発揮されたことに、更に後悔を重くした。だけど、今更冗談だと言うわけにもいかない。
僕らは一駅分だけ歩いてから別れることにした。
曲のアレンジからMCの内容まで、ライブについて語り合う。あそこがかっこよかった、ここに感動した。話は尽きることがない。
「ねえ、聞いてる?」
それでも幾度となく上の空になり、叱られてしまうのは、ライブと同じく、もしかするとそれ以上に心が動くことがあったからだ。
椎名と、もっと一緒にいたい。
僕はそう思う自分に気付いていた。ライブの前に手を握ってくれた時から。いや、実はもっと前からそう思っていたのかもしれない。けれどここまではっきりと自分の気持ちを認識したのは今日が初めてで、ライブ中はピリオド以上に彼女の横顔に見惚れてしまっていたのだ。
これは充分、そういう想いだ。友達以上の関係まで踏み込みたい。素直に自分の感情を吐露して、受け入れてもらいたい。椎名が好きなのだと言って、理由がなくても一緒にいて、意味もなく手を握りたい。
自転車を押す僕の心臓は、ライブ中より遥かに鼓動を激しくしていた。椎名は僕の反応が悪いから、不思議で不満げな顔を見せている。僕が本心を言ったらどんな表情をするだろう。椎名が好きで、付き合いたいと言えたら、どんなに楽だろう。
カラカラとタイヤの回る音が頭の中に戻ってきて、僕は笑った。
「ごめん、なんか疲れてぼーっとしてた」
それが重大な契約違反だと、僕は知っている。椎名が友だち契約を結ぶようになった経緯も知っている。破ってしまえば、彼女は誰かに近づくことも二度とできなくなるかもしれない。だから決して、それを破るわけにはいかない。五十万円払ってもいいとさえ思っても、実行してしまえば僕は僕を許せなくなる。
「なーんだ。津守、人のこと言えないじゃん」
椎名がけらけらといつも通り笑った。その笑顔を見られるのが嬉しくて、なのに胸の奥がぎゅうっと苦しく窄まるのを感じた。
「ほれほれ、早く並ぼう」
広場にはグッズを販売するテントが設営されていて、大勢が並んでいる。椎名に袖を引かれて、僕も列に並んだ。ピリオドは二十代半ばの男三人で構成されたロックバンドで、グッズもシンプルなものが多い。僕もあまりごてごてした物が好きじゃないから、許されるなら買い漁りたい。だけどそれは、自分でお金を稼げた暁の楽しみにして、今日は椎名と同じリストバンドを一つだけ購入した。
列から離れると、椎名は早速ビニール袋からリストバンドを取り出した。
「付けるの? なんかもったいなくない」
これは保存用になると考えていた僕に、彼女はわかってないなと人差し指を立てた。
「ライブにはグッズを付けて臨むものだよ。……ほら」
彼女が視線をやる先に目を向けると、高校生ぐらいの男子が二人で歩いていた。どちらも、グッズ売り場にあるのと同じ、会場限定のパーカーを着ている。買ってすぐに着替えたようだ。よく見ると、鞄にストラップをつけていたり、僕らと同じリストバンドを手首に巻いているファンの姿がある。
「津守もさっさと付けなきゃ。盛り上げるためのグッズだよ」
なるほど、そういうものなのか。大人しく自分のリストバンドを取り出す。なんだかんだいって、椎名はライブというものをきっちり予習していたらしい。
会場が開き、開演まで長い時間だったけど、僕らはちっとも退屈しなかった。二人でライブへの期待を話し合っているだけで楽しかったし、周囲にも目を輝かせているファンがたくさんいた。自分と同じものが好きな人がこれだけ集まっているなんて、例え相手が知らない人であっても無性に嬉しくなる。もこもこした左手首のリストバンドに触れて、行列に並んで、ライブに来たのだという実感を確認する。
一階は立見席で、二階が椅子席の満員御礼で千五百人規模。ブロックごとに位置がおおむね決まっていて、僕らに当てられてのは一階の右寄り、可も不可もない場所だ。
会場には人が詰まっているが、一応列になっている。
「椎名、前見える?」
僕の方が少しだけ背は高い。それでも前の人の頭が視界に入る。けど椎名はちょっと背伸びをして、「大したことないよ」と言った。
「多分、始まったら列なんてぐちゃぐちゃになるし。最前列じゃないから、しょうがないよ」
「そういえばそうか」
納得した僕の左手を、椎名の右手がぎゅっと握った。
「けど、はぐれないでね」
そう言って笑った椎名の笑顔に、僕の心臓が跳ねた。それはライブ前の興奮とは種類が違っていて、手のひらに感じた熱が、手を離されてもそこに残っている気がした。こういう風に触れられたのは、手を握るなんてことは、出会ってから九ヶ月で初めてのことだった。
会場の照明が徐々に暗くなり、ステージに誰かが現れる。その誰かが手を振ると、会場から歓声が上がった。
スポットライトが当たる。ミュージックビデオや雑誌の写真で目にする、ピリオドの三人がいた。彼らはテレビへ番組の露出はしておらず、詳細を明かさないミステリアスさでも知られている。実在を疑ったことはなかったけど、生身の本人が実際目の前に現れるのは、却って非現実感さえ覚えてしまう。
曲が始まった。僕が毎日プレーヤーで聞いている曲だ。だが、実際にステージから流れる声や楽器の音色は、イヤホンから聴くのとは全く別物だと知った。空気が全て音楽という塊になり、僕らの周りを支配していた。耳だけでなく、目から、皮膚から音を感じる。ボーカルの歌声が頭を貫き、人々の興奮が熱気となって渦を巻く。
僕らもリストバンドを付けた腕を上げたり跳ねたりした。重厚で繊細な音楽の一つになれる気がして、楽しくて心地よい。皆の視線はステージに釘付けになり、列はすっかり乱れている。
はぐれないよう、跳ねる椎名に少しだけ身体を寄せる。彼女が一度ちらりと満面の笑みをこっちに向けた。歌詞をなぞる口が違う動きをし、「楽しいね」と形作った。僕は頷いた。
ステージに集中しないともったいない。それなのに、僕の視線は何度も椎名の横顔に向いた。興奮に頬を赤くして、曲の合いの手の部分で声を張り上げて、全身で「ファン」を表現している。心の底から会いたかったのだと、全ての仕草が語っている。
僕はピリオドが好きで、努力で人気を博した彼らを尊敬している。僕には人生周回しても手の届かない天上人だと思っている。
そんな彼らに羨ましさを感じたのは、この夜が初めてだった。
ライブが終了した二十時、僕らは大勢の観客と共に会場を後にした。誰もが興奮気味に会話を交わし、出入口には記念に看板を撮影する人が集まっていた。僕らもそれに乗じて、数枚だけスマホのシャッターを切った。
椎名は電車で、僕は自転車で会館を訪れていた。僕も電車にしておけばよかったと悔やむ。そうすれば、帰りの電車でも感想をお喋りすることができたのに。
余韻を楽しみたい気持ちは、椎名も同じだったらしい。歩いて帰ると彼女は言い出した。自転車で来たことを僕はいっそう悔しく思う。
「でも、流石に歩いて帰るのは遠いよ。椎名、体力ないんだし」
僕の言葉に彼女は不満顔を見せるが、持久力のない彼女が二時間も跳ね回っていたのだ。今はテンションが上がっていても、徐々に疲れを感じてくるに違いない。
「じゃあ後ろ載せてよ。私重くないから」
椎名が自転車の荷台をぽんぽんと叩いた。家は同じ方角だし、それはいい考えだと僕も思った。
「あれ、でも契約書に犯罪はしないって書いてなかったっけ」
「あ、そっか。道交法違反だ」
ふざけたつもりだったのに、荷台を握っていた彼女は、あっさりその手を離してしまった。僕は自分のパッとしない記憶力がこんな所で発揮されたことに、更に後悔を重くした。だけど、今更冗談だと言うわけにもいかない。
僕らは一駅分だけ歩いてから別れることにした。
曲のアレンジからMCの内容まで、ライブについて語り合う。あそこがかっこよかった、ここに感動した。話は尽きることがない。
「ねえ、聞いてる?」
それでも幾度となく上の空になり、叱られてしまうのは、ライブと同じく、もしかするとそれ以上に心が動くことがあったからだ。
椎名と、もっと一緒にいたい。
僕はそう思う自分に気付いていた。ライブの前に手を握ってくれた時から。いや、実はもっと前からそう思っていたのかもしれない。けれどここまではっきりと自分の気持ちを認識したのは今日が初めてで、ライブ中はピリオド以上に彼女の横顔に見惚れてしまっていたのだ。
これは充分、そういう想いだ。友達以上の関係まで踏み込みたい。素直に自分の感情を吐露して、受け入れてもらいたい。椎名が好きなのだと言って、理由がなくても一緒にいて、意味もなく手を握りたい。
自転車を押す僕の心臓は、ライブ中より遥かに鼓動を激しくしていた。椎名は僕の反応が悪いから、不思議で不満げな顔を見せている。僕が本心を言ったらどんな表情をするだろう。椎名が好きで、付き合いたいと言えたら、どんなに楽だろう。
カラカラとタイヤの回る音が頭の中に戻ってきて、僕は笑った。
「ごめん、なんか疲れてぼーっとしてた」
それが重大な契約違反だと、僕は知っている。椎名が友だち契約を結ぶようになった経緯も知っている。破ってしまえば、彼女は誰かに近づくことも二度とできなくなるかもしれない。だから決して、それを破るわけにはいかない。五十万円払ってもいいとさえ思っても、実行してしまえば僕は僕を許せなくなる。
「なーんだ。津守、人のこと言えないじゃん」
椎名がけらけらといつも通り笑った。その笑顔を見られるのが嬉しくて、なのに胸の奥がぎゅうっと苦しく窄まるのを感じた。