「春だなあ、七季」
 何言ってんだよ夏だぞ。僕はそう返すが、前の席の俊輔は「またまたあ」などと言う。梅雨時の席替えで椎名とは離れていたが、僕は大して気にしなかった。朝からバンドの話が出来ないのは惜しかったけど、僕らは既に隣の席というきっかけがなくても、気軽に話せる間柄になっていた。
 俊輔の言う春とは、廊下側の席にいる椎名のことだ。僕は窓際の真ん中。今度は前の席に俊輔がいる。奴は勝手に僕のシャーペンを使って、勝手に僕の机に落書きをしている。
「おい、やめろよバカ!」
 それを覗き込んだ僕は、慌てて消しゴムを取り出して落書きを消した。「そういうことじゃないの~?」へらへらするバカが書いていたのは、相合傘のイラストだった。津守と椎名の名前に、傘の天辺にはハートマークまで入れやがった。
 近くのクラスメイトに見られていなかったのを確認し、僕は奴からペンを取り上げる。
「ほんとにこういう話が好きだな」
「だってどう見てもそうじゃん」
「違うっつの」
 ざわつく昼休みの教室で、僕と俊輔はちらりと椎名の方角に目線をやる。彼女は僕らのやり取りなんか知る由もなく、自分の席でノートを広げていた。休み時間ぐらい騒ぎたい周囲と比べれば、彼女は一見して真面目な学生だ。友だち契約なんて突飛なことを言い出す女子にはこれっぽちも見えない。
「でもさ、七季。もしその気があるなら、さっさとした方がいいぜ」
 内緒話をするように、俊輔が声量を落とした。僕も思わず、「何が」と返す声を絞る。
「椎名さん狙ってるやつ、何人かいるみたい」
「……椎名を?」
 俊輔の言葉に僕の頭にははてなマークが浮かんだが、奴はうんうんと大きく頷いてみせた。
「二組の新谷(しんたに)とか、結構気にしてるってよ、椎名さんのこと」
 僕は新谷の顔と名前ぐらいしか知らないが、同じ陸上部に所属する俊輔が言うなら間違いないだろう。
 しかし、よりによって椎名を。理解に苦しむが、再び彼女の方をチラ見して納得する。転校生である彼女の変人ぶりを知らなければ、成績優秀で真面目な女子だと思い込むのかもしれない。
「へえ」
 僕はただ変な声を漏らした。
「だから、その気があるなら早くした方がいいと思うけどなあ」
 俊輔の言葉が、妙に不快だった。

 自宅の勉強机で居眠りする僕を、椎名の声が叱咤する。はっと頭を上げて、机上のスタンドに立てかけてあるスマホに返事をした。僕の返事がないから、寝落ちしているのに気付いたらしい。
「どしたの、まだ八時だよ。小学生でも起きてる時間」
 夏休みの課題に目を落とし、僕は大あくびをする。その気配に気付いた椎名の、呆れたため息が聞こえた。
「ちょっと走り過ぎて」
「走り過ぎって? テニスしてたの?」
「いや、ランニング」
 テニスクラブがない代わりに、僕は夕方に近所を走るようにしていた。何年もテニスをしていた僕の身体は、夏休みに何日も運動をしないことに慣れていなかった。家にこもっていると、むしょうにうずうずしてしまう。それが運動不足のストレスだと気付き、涼しくなる夕方に外を走ることにしたのだ。走っていると嘘のように苛々が去り、その開放感を求めて、僕はランニングを日課にするようになっていた。
 そんな事情を聞くと、相槌を打つ椎名は声を弾ませた。
「私もやる!」
 見なくてもわかる。彼女の目がきらきら輝いているのが。
「明日、私も誘ってよ」
「それ、本気?」
「うん」少し間が空いて、椎名は珍しく自信なさげな声を出す。「もしかして、一人の方がいい?」
「いや、たまには、話しながらとかも……いいけど」
 やった、とはしゃいだ声がする。それが妙に嬉しかった。

 午後五時前、僕らは近所の公園で待ち合わせ、周囲を軽く走ることにした。白が眩しいTシャツに、水色のハーフパンツ。頭に青いキャップを被る椎名は、如何にもこれからランニングに出ますという格好をしていた。
 水筒とタオルを公園のベンチに置いて、いざ走り出す。夕方になっても日差しは強く照り付け、僕らの肌をじりじりと焼いた。腕や首筋に日光が形になって突き刺さるような感触だ。あっという間に背や額には汗が滲む。散々汗をかいてから、家に帰って浴びるシャワーは最高なんだ。
「ちょ、ちょっと待って!」
 僕は椎名の声に振り向いた。彼女は足こそ止めていなかったが、既に息を切らしていた。
「速いよ、津守!」
 顔を赤くする彼女は、亀のようなペースで走りながら僕を睨みつける。そうは言われましても、僕だって普段よりぐっと速度を落としていたつもりだ。テニスクラブの女の子も、悠々ついてこられるペースだ。
「もしかして、もう疲れた?」
 僕がにやりとすると、椎名は「むむ」とわかりやすい唸り声を漏らす。
「ちょっと、速いって思っただけ」
「まだ一キロも走ってないけど」
「別に平気だし!」
 珍しく優位に立つ僕の腕を叩こうと、椎名は手を上げる。僕はなんなくその手を避け、早歩きのようなペースの椎名に合わせた。今日は妙に静かだと思っていたけど、喋る余裕がなかっただけのようだ。持久走という、彼女の知られざる弱点を見つけてしまった。
 再び公園の入口が見え、僕は中に戻ろうと提案した。普段ならまだ半分も走っていない距離だったけど、僕らは車止めのポールの脇を抜け、公園に入った。ゆっくり歩いてクールダウンをする。椎名は両手を大きく動かして、真っ赤な顔を扇いでいた。
 大きな公園の隅のベンチに腰掛け、手にした水筒で水分補給をする。椎名は隣でごくごくと勢いよく水を飲み、ぷはーと息を吐いた。
「生き返ったー」
「椎名って、マラソン苦手なんだ」
「そんなんじゃない。津守のペースが速いだけ」
 憎まれ口を叩いて、彼女はむすっとした表情を作る。
「走ってきなよ。まだ足りないでしょ」
 悔しいながらも彼女なりに気を遣っているらしい。僕は「いいって」と笑う。
「マジでやってるわけじゃないし。汗かければ充分」
 タオルで汗を拭いながら、「ほんと?」と椎名は僕を横目で見た。
「ま、気が向いたらまた来なよ。ていうか、椎名は毎日走った方がいいかも」
「うるさいなー」
 僕らの影が、夕陽に照らされて長く長く前に伸びている。その先では、小学生たちが歓声を上げて走り回っている。鬼ごっこをしているらしい。向こうにはシーソーにブランコにすべり台。お椀を伏せた形の大きな遊具にはぽっかり口が空いていて、小さい頃よく遊んでいた僕は、その中がひんやりして涼しいことを知っている。けれど小学生たちを押しのける勇気も図々しさも持ち合わせていないから、今は汗を拭いて我慢をする。
 しばらく話をして、公園が少し静かになって、そろそろ街灯に明かりが点く頃、僕らは立ち上がった。
「あー、汗かいた、きもちわる!」
 自分のシャツの首元を掴んで鼻を近づけ、顔をしかめていた椎名は、「でも」と続けた。
「津守の言う通り、シャワー浴びたらすっごくすっきりしそう。勉強する前に寝落ちしちゃうかも」
「その寝落ちがいいんだよ」
 いつもみたいに馬鹿にされるな。そう思いながら言ったのに、椎名は馬鹿にしなかった。
「また来てもいい?」
 代わりにそんなことを言って、当然僕は頷く。ピースサインを見せる笑顔が眩しいのは、夏のせいだけではないだろう。