三月十三日、僕らの卒業式の日。
 春の訪れを感じる晴天が広がっていた。僕も椎名も、互いの志望校に合格していた。春から違う高校に通うことになる俊輔とは、また四月に遊びに行く約束をした。教室では多くのクラスメイトが涙ぐんでいて、僕ももらい泣きしてしまいそうだった。長いようで短い三年間だった。
 そして一人、また一人と学校を去っていく。
 僕と椎名も、いつもと変わらず並んで校門を出た。正門脇の桜はまだ咲いていない。けど、来月の入学式の日には満開となるだろう。僕らは、否が応でも変わっていく。そんな仕組みが出来上がっている。
「じゃあ、消すね」
 いつもの公園にやって来て、ベンチに荷物を置いた椎名が立ったままで言った。
 僕らも、変わってしまう。
 向かいで返事をしない僕を見て、椎名がどうしたのという顔をする。彼女がスマホに置いている指を数回動かすだけで、僕との連絡手段は絶たれてしまう。中学校を訪れても彼女はいないどころか、もう僕の席さえ存在しない。並んで歩くことも、彼女と会って話をすることも出来なくなる。
「……契約延長って、出来ないかな」
 僕の言葉に、椎名はふっと笑って自分の鞄を探った。取り出したクリアファイルには、昨年の四月に僕が署名した、友だち契約書が入っている。そこにはしっかり、三月十三日の契約満了日の記載がある。そして「契約の更新はしないものとする」という文言も。
 彼女はきっと、新しい高校では友だち契約なんて結ばないだろう。普通の女の子として契約のいらない友だちを作って、普通の生活を歩む。
「津守のおかげで、友だちをまた信じてみようって思えた」
 この一年は、友人をもう一度信じられるか否かを決める、彼女にとって勝負の時間だったんだ。契約を結んだ僕が決まり事を全て守り、一年間友だちでいたから、彼女はもう一度友人を信じることにした。それは僕の誇りでもある。
 だけど、こんなのあんまりだ。僕の気持ちは、津守と一緒にいたい気持ちは、どこに持っていけばいいんだ。
「勝手すぎるよ」
 僕の呻き声に、椎名の顔が歪んだ。
「こんなの、勝手すぎるよ。僕は、本気で椎名の友だちだったのに」
 卒業式でも泣かなかった彼女の瞳から、涙が零れ落ちた。
「こんな紙切れ一枚で、僕の気持ちを全部収めようっていうのかよ」
 僕は必死で泣くのを堪えた。椎名も同じ気持ちなのを、痛いほど理解していた。これからもずっと友だちでいたい。何でもない時間を一緒に過ごして、他愛ない話に笑い転げたい。この気持ちを、たった一枚の契約書に集約できるはずがない。
 同時に僕らは理解している。契約違反をした途端、僕らの根幹が崩れてしまうことを。五十万円を払ったところで到底修復できない崩壊が、僕らを襲うことを。そうなれば、椎名は高校生になっても同じ契約書を作らなければならないのだ。
「ごめん、津守」
 のみ切れない涙をぽろぽろと頬に零しながら、椎名が謝る。僕は鼻の奥がツンとなるのを感じ、奥歯を強く噛み締めて我慢する。下手に喋れば、泣いてしまいそうだった。
 スマホを取り出し、同じアプリを立ち上げ、椎名唯の名前に触れる。椎名は、津守七季の名前に触れる。オプションを選び、削除の文字をタップする。

 ――本当に削除しますか?

 ポップの表示に、僕らは顔を見合わせた。僕が頷くと、椎名も黙って頷いた。
 「はい」を選択すると、互いの名前は友だち一覧から跡形もなく姿を消した。あまりにあっさりした幕引きには、余韻さえ残らなかった。
「今まで、ありがとう」
 椎名は震える声で言って、ぺこりと頭を下げる。僕らはただの元クラスメイトで、もう友だちではない。
「元気でね」
 鞄を手に取り、椎名は最後にそう言って、踵を返す。
 こんなの、あんまりだ。僕は、こんな終わりのために、契約を結んだわけじゃない。
「椎名さん」
 一歩踏み出しかけた彼女の背に、僕は声を掛けた。もう彼女を呼び捨てにする権利はない。泣き腫らし、未だに潤んだ瞳が僕の方を振り向く。
「きみは、わがままだ。僕の想像を超えた、とんでもないわがまま女子だ」
 悲しい瞳が伏せられる。僕はなおも続ける。
「一年間、本当に振り回されてきた。それは楽しくもあったけど、最初は困惑した。きみは、僕を何度も困らせた」
「ごめん……」
「けど、僕はやり切った。椎名唯の友だちを卒業した」
 鞄から取り出したそれを、僕は項垂れる彼女に差し出す。
「だから、一度くらい僕にもわがままを言わせてほしい」
 今日は二重の卒業式。僕らは中学校を卒業し、次に進んでいく。同時に友だちを卒業したのなら、次に進んでもいいのでは。
 一枚の紙を受け取った彼女は、中の文字を見て目を丸くした。
「僕のわがままだから、断ってくれてもいい。だけど、これを言い出す権利ぐらい、僕にもあると思う」
 僕の頭はすっかり涙が引っ込むほど、熱くなっている。柄にもないことに、脳の水分が蒸発してカラカラになって、気絶してしまいそうだ。
 恋人契約書。彼女が手にした紙に、僕はそう記入していた。
「もう友だちでいられなくても、僕はきみと一緒にいたい。嫌になればいつでも解約してくれていい。だから、どうか一度、サインしてください」
 僕は深く頭を下げた。同時にぎゅっと瞼も強く瞑った。彼女の顔なんて見られない。恥ずかしくて恥ずかしくて、このまま地面に頭を突っ込んで埋もれてしまいたい。
「……顔、上げて」
 聞き慣れた声が降ってきて、恐る恐る頭を上げた。
 彼女の瞳から、再び涙が零れていた。薄い唇が、ゆっくりと動いて言葉を紡ぐ。
「どこにサインしたらいい?」
 頭を下げたくせに、僕は「いいの?」なんて間抜けた言葉を返してしまう。彼女は頷いた。
「何も、規約が書かれてないけど……」
「それは、一緒に決められたらと思って」
 もう一度頷いた彼女の顔が、次第に赤くなっていく。滅多に見せない恥ずかしげな様子で、「じゃあ」とおずおず切り出した。
「名前で呼び合う……っていうのは、どう?」
 もちろん、僕に不都合のあるはずがなかった。「ありがとう!」と声をあげて思わず彼女の両手を握る。僕の手を握り返す彼女の手は、小さくて温かくて、いつまでも握っていたいと思う。
 少しの間、真っ赤な顔で見つめ合った後、どちらからともなく笑顔を零した。
「よろしく、唯」
「……よろしく、七季」
 僕らはベンチに腰掛け、消したばかりの連絡先を交換し合う。ふと見上げると、頭上にせり出す桜の枝では、蕾が一足早く花びらをのぞかせていた。最高の卒業の日だと、僕は思った。