ザ・平均女子。僕が椎名(しいな)(ゆい)を初めて目にした時の感想はそんな単純なものだった。中学三年生になって初めての席替えで、僕は廊下側の前から二番目の席を引いた。隣の席のくじを引いたのが、彼女だった。今年の一月に転入してきた彼女を、僕はそれまで見たことがなかった。ちらちらと横顔を盗み見る僕に、「よろしく」とだけ彼女は言って、僕も「よろしく」と会釈をした。
 髪を肩で切りそろえ、きちんと制服を着こなした彼女は、真面目な普通の女の子にしか見えなかった。僕らは特に仲の良い会話をすることもなく、ただ授業を受ける席が隣なだけというクラスメイトだった。
 彼女が少し変わった女子だと認識したのは、席替えから二週間も経ってからだ。
 教室や廊下で見かける彼女の姿は、いつも一人だった。目立っていじめられているわけでもなく、会話を女子同士で交わしているのも目にしたが、それはあくまで「会話」であり、楽しそうな「お喋り」ではなかった。
 そんな風にちょっとだけ彼女に意識を向けた頃、僕は気が付いた。
「それ……」
 頬杖をついて教科書を眺めていた彼女は、僕の声に顔を上げる。僕の指先を見て「これ?」と言うのに、僕は頷いた。
period(ピリオド)のグッズだよね」
 アイボリー色のペンケースには、黒を基調に金色の文字で「period」とロゴが描かれたリボン型のストラップがついている。新進気鋭のスリーピースバンド「period」の、オンライン限定で購入できる公式グッズだ。
 僕は鞄からポーチを取り出して見せた。端にくくりつけている同じストラップは僕もお気に入りで、発売日にネットショップでポチって手に入れたものだ。
「知ってるの?」
 彼女の眠たげな目が少しだけ開かれた。
「うん。いっつも聴いてる」
「CD買ってる?」
「大体レンタルだけど、お金がある時は買ってるよ。全曲持ってる」
「私も」
 この日初めて、僕は彼女と十分間の休憩時間をお喋りして過ごした。それは中々に楽しい時間で、次の授業が終わっても、昼休みになっても僕らはバンドの話をした。彼女をてっきり暗い女の子だと思っていた僕は、椎名唯への印象を大きく変えることになった。
「今度のライブ、申し込む?」
 放課後、僕の問いかけに彼女は「もちろん」と首肯する。僕らの地元でピリオドの初ライブが十二月に開催される。八か月も先の話だが、なんとしてでもチケットを手に入れなければならない。来月に抽選申込みが始まる予定で、ライブ自体が初めてな僕は、申込み用のアカウントを準備して心待ちにしていた。
津守(つもり)くんは申し込むの?」
「もちろん」
 彼女を真似て僕も頷いた。
「椎名さんは、当たったら誰かと行くの」
「ううん。ひとり」
 迂闊な質問をしてしまった。僕の身近にもピリオドを聞いている友人はいるけど、グッズを買ったりライブに申し込むほどではない。だから彼女のストラップを目にしてこんなにはしゃいだんた。これは、「それなら一緒に」というのが自然な流れだ。
 だが、今日初めて話した女子をライブに誘う度胸はなかった。むしろ、初めてのライブで他人に気を遣いたくないという思いまである。気まずさを感じる僕の心境に気付いていないのか、彼女は「一緒に行く?」と鞄を肩にかけた。
「あ、でも、こういうのって友だちと行くもんだね」
 ぽんと手を叩きそうな、思いついた表情をして僕を見る。僕は何と答えればいいのか、咄嗟に思いつかない。僕らは友だちではないからだ。
「じゃ、友だちになればいいんだ」
 顎に指を当てる彼女は、何ごとか考えついたらしい。僕を見る瞳は「どう?」と言っているみたいで、呆気に取られていた僕は思わず笑ってしまった。そもそも抽選が当たるかもわからない。「確かに」という言葉が今度は口から出た。
「友だちになる?」
 ふざけながら言った僕に、彼女は右の手のひらを突きつけ「待った」のポーズを取った。
「考えさせて」
 彼女はふざけなんて微塵も感じさせない真剣な表情で、真っ直ぐ僕を見つめた。告ったわけでもないのに、なんて大袈裟な仕草だろう。時計を見て、僕は笑いながら彼女に軽く片手をあげる。もう学校を出ないといけない時間だ。「そんじゃ」と軽く挨拶をして、僕は教室を後にした。

 翌朝、隣の席の彼女は、席に着いた僕に「はい」と一枚の紙を突き出した。ついそれを受け取って、書かれている内容に驚く。
 「友だち契約書」。紙の上部には太いゴシック体の文字が並んでいた。下にはもう少し小さな文字が連なっている。
 ――私は当契約に基づき、契約満了時まで椎名唯の友人となる。契約時、以下のことを約束する。

 ・互いの名を口にする際、敬称を略する
 ・奢る行為を含め、金銭の貸し借りを禁ずる
 ・犯罪行為、及びそれを教唆する行為を禁ずる
 ・契約満了時、互いに連絡先を削除する
 ・期限まで必ず友人関係でいる
 ・契約の更新はしないものとする
 ・本契約の期間は、契約時から翌年三月十三日までとする
 上記のいずれかを破った場合、五十万円の罰金を課す。

 なんだこりゃ。口を半開きにしたまま目線を上げると、彼女は当然な顔をして僕を直視していた。何の冗談、という言葉を口にできないほど、その視線には淀みも揺れもない。まさか彼女は本気なのか。昨日「考えさせて」と言ったのは、この契約書を準備するためだったのか。
 契約書の最後は、署名欄で括られていた。
「……これに契約しろって?」
「うん」
 はは、と僕は白けた笑い声を絞り出した。それでも彼女は釣られて笑うこともなく、ストラップのついたペンケースを開け、ボールペンを取り出して僕に差し出す。これでサインしろということらしい。
 彼女に友だちがいない理由がわかった。変な子だ。圧倒的に変わっている。
 そう思いながら、僕はペンを受け取っていた。彼女の行為を馬鹿にし、紙を突き返す選択肢もある。それが一番全うなようにも思える。だが、それだと自分が情けない気がしたのだ。女子の気概に破れた悲しき男子。そんな自分を想像し、悪ノリのテンションで、僕は契約書に自分の名前と今日の日付を書き込んだ。
 ペンと紙を渡すと、彼女は契約書をじっと見つめ、満足そうに頷いた。
「卒業式の日まで、よろしく」
 そうか、来年の三月十三日は卒業式なのか。奇妙に納得する僕は、こうして椎名唯と友だち契約を結んだのだった。

七季(ななき)、いつの間に椎名さんと仲良くなったんだよ」
 トイレから教室に戻る途中、廊下を通りかかったクラスメイトの俊介(しゅんすけ)が僕の肩を小突いた。
「別に、そんなことないし」
「いやいや、そう見栄を張らなくても」
 俊輔がにやにやしているから、僕は二センチだけ低いその肩を小突き返した。やつは痛い痛いと大袈裟に自分の肩をさすりながら言う。
「だって、椎名さんが言ってたぜ。友だちなんだって」
「いや、それは」
 否定しかけて、その言葉を呑み込んだ。期限まで必ず友人関係でいる。契約書の文言が頭に浮かぶ。
 黙った僕を見て、俊輔は「図星じゃーん」と笑う。僕はその背をいつもより強く叩いてやった。
 彼女、椎名は、躊躇いなく僕を呼び捨てにし話しかけるようになっていた。
「ねえ、津守」
 僕が教室に戻り席に着くと、隣の席から身を乗り出してくる。
「いつ、ライブ申込みする?」
 僕は実に単純な男子だ。ピリオドの話を女子から持ちかけられれば、苛立っていても返事をしてしまう。「そりゃ、日付が変わったら」なんて言う。明日の五月三十日からチケットの申込みが始まるのだ。
「でも、抽選だよ。早い者勝ちじゃないのに」
「そう言う椎名は」
「日付変わったら。だから今日は夜更かし」
「なんだよ、同じじゃんか」
「うん、そう」
 僕の方を向いて床に両足を伸ばし、可笑しそうに笑う椎名を見ていると、苛立つどころかつい笑顔が出そうになる。だが、向こうの席の俊輔と目が合ったから、無理矢理頬を噛んで耐えた。その顔が変だと言って、椎名は更に笑った。我慢できなくなって、僕は吹き出してしまった。