あれから長い月日が経ち、7階には新たな患者がやってきた。
 別に男は普段から病気とは縁がある方ではなかった。ただある日、寝覚めから胸が苦しかったから病院に行った。
 初診受付の待ち時間は酷く長いものだと経験し、やっと診察が終わったと思いきや、今度はレントゲンと血液検査に行かされた。待合室でポチポチとゲームで暇を潰していると、そのまま入院の手続きをさせられた。
 それが、男の入院の始まりでもあった。
 
 幾度の入退院を繰り返し、初めて手術というものまで経験した。ただ、入院を小刻みに繰り返していくうちに、いつの間にか入院の方が長くなった。食欲が減った代わりに、貰う薬の量と種類が増え。
 彼自身でも、目に見えて体力が衰えてきたと実感した。
 足首も細くなったが、それでも頭の中でどこか“これは夢なんじゃないか?”と思った。だが、“それは気のせいじゃない”と、体重計の数字が彼に教えてくれた。それなのに、男はどこか客観的に自分を見ていた。
 まるで他人事かのように、映画のワンシーンでも眺めているような感覚。自分自身のことはずなのに、どこか遠い場所から冷めた目でしか見れなかった。


 やがて世間がクリスマスで騒いでいる頃、年末ということもあって、彼は一時的に退院させられた。久しぶりに自宅に帰ったら、何故か家族全員が揃っていた。いきなり親戚一同の集まりに連れていかれ、そこで少し豪華な晩餐にありつけられた。
 普段からそれほど交流がなかった親戚なのに、どこかギクシャクしながらも社交辞令で彼を迎えた。いつも素っ気ない両親が、積極的に彼のお椀に食事をよそった。皆がやけに優しかったのが印象的ではあると同時に、これが仮初の優しさだということに気付いた。
 この時点で、彼は少しだけ察した。

――自分の人生は、もうすぐ終着点に迎えようだ。

 上辺だけの笑顔に迎えられて、どこか冷静に、曖昧に、薄っぺらく、他人事のように思った。

 年が明けて、彼は病院に帰ってきた。しかしいつもの病室ではなく、一階にある談話室に行かれた。
 そこで、両親と医師と彼を交えて、四人で色々な話を聞かされたが簡潔にまとめると、彼は遠回しに宣告されたのだ。
 「誠に残念ではありますが」から始まったが、医師の態度は終始事務的だった。そして、その日を境に彼の病室は2階から7階へと、4人部屋から個室へと変わった。



 人気のない7階の廊下を歩いていると、男はすぐここは他の階と違うことに気付いた。
 ピカピカな床に、高く広々とした天井。日光を採り入れる仕組みになっている大きな窓。あからさまに患者の快適さを追求して設計された環境に、少し目眩がする。
 やがて、彼は談話室のプレートが掛かっているドアに辿り着いた。中に他の患者がいることに少し期待しながらもドアノブを回す。
 
「お邪魔します。……って、誰もいないか。そりゃあそうか」

 閑散とした室内を見て、男は小さくため息をつく。明らかに他者との交流を意識して作られた空間に自分一人を使うのは、ちょっと気が引ける。何をしようか、と何気に辺りを見回すと、一箇所だけ目立ったことが発見。

 窓辺に置かれたテーブルと椅子。一個人のために設置されたものであることは明らかだ。
 かつて、ここに何者かが存在した――。
 その事実だけで、彼の心に押しかかる寂しさを埋めるのには十二分だ。白いカーテンが穏やかに揺れる中、そこへと歩いていった。
 ふと、その時、彼の目がテーブルの上に白い封筒を確認した。

「宛先は誰だろう――――え」

 『未来の7階の患者へ』
 一行にドキッとした男は恐る恐ると拾い上げて、裏面にひっくり返す。しかし、裏面には差出人の名が記されなかった。
 暫しの間、男は開けるのにためらう様子だったが、やがてそれを開けた。


 読み進めると、ほとんどは7階に関する内容ばかり。
 医師の話では、ここは医療技術の進歩を待つ場所と同時に、心を癒す場所でもある、とのこと。
 しかし、この手紙によると、どうやらそれは建前らしい。この北棟7階は、病院内にあって、唯一治療をする場所ではないらしい。
 只、命を尽きるのを待つ場所。そのためだけに、この場所が存在する、とのこと。男はそれらの内容に共感して、筆者と同じ認識を持っていることに心のどこかで安堵した。
 
 この7階という場所は、最初の入院でそのまま死ぬまでいることは、まずないらしい。治る自体は夢物語でも、体調がマシになると一度は家に帰してくれるらしい。でも悪化すると、またここへ帰ってくる。
 その繰り返しで、いつか死ぬ。
 ただ家か7階の違いだけで、確実にどちらかで死ぬらしい。この運命から避けた患者はいないようだ。残酷な話ではあるが、これは事実だ、と強調され。筆者はこれまで何度も7階の患者を看取ってきたから、それだけは間違いはない、とまで付けられた。

 その後の内容は、死にゆく当事者だけ伝え続けてきたルールというようなものが記された。どれも身に詰まるような内容ばかりだ。しかし、これらさえ従っていれば、家族への負担を最小限にすることができる。
 このルールが出来上がったのは、そのため。これは実例で何度の検証を重ねて作ったルールだから従いなさい、と付け加えられ、男は眉をしかめた。

 初めて7階にやってきた患者には必ずこの手紙の内容を伝えるようにしてきたから、この手紙を読んでいる者にも筆者の代わりに、その役目を引き継いで欲しい、とまで記されて、男は小さく「了解っと」と漏らす。
 しかし、彼は手紙の最後に締めくくられた一行に、大きく目を見開いた。

「身勝手なことではありますが、いつでも貴方たちのことを見守っています。 7階の死神さんより」

 男は手紙から顔を上げて、改めて室内を見回した。
 かつて、ここは何人ものの患者が亡くなったと知ってから、彼は談話室に対する認識が少し変わった。

「まるで、天国への待合室のようだ……」

 そう呟いて、男はもう一度手紙に視線を落とす。それが、かつて談話室のもう一つの呼び名だということを知らずに。

「死神さん、か……」

 彼は元々一人きりでも、命を尽きるのを待つ気満々だった。
 だけど、7階の死神が見守ってくれていると分かって、心強い安心感があった。
 例え死神さんの生死が分からなくても、これから死にゆく者にとって、これほどまでに心強いものがあるだろうか。

 いつの間にか、男の顔には笑顔があった。
 例え彼がここで命を尽きることになったとしても、『7階の死神さん』という守り神が付いていれば、もう怖いものなしだ。