私と踊っていただけませんか、|7階の死神さん《マドモアゼル》?

 そして、いよいよ待ちに待った日がやってきた。普段の淡白な病人服から脱却し、三人は私服姿で海に到着。
 無論、普通の車椅子だと砂浜の上で漕げないから、彼が暴れ出すよりも先に雅代(まさよ)が彼を確保し、現場で砂浜用車椅子を借りて乗り換える。
 しかし一人の力だけでは彼を抑えるには到底叶わず、姫とみおも彼女を手伝った。乗り換えることに成功して、一緒に閑散とした浜辺を歩く。

「すごぉーい。海なのに静かだね、お姉ちゃん」

「……もう秋だからね」

「冬になったらどうなるの?」

「……更に人が来ないんじゃない? それこそ、夏でもない限りは」

「へえー、そうなんだぁ~」

 みおは姫と繋いだ手を軽く振り回しつつ、感心する。
 実際に海に来たことがあるのなら、このような質問をしないはず。だとすれば、今回はみおにとって初めての海になるだろう。けれど、こんな人気のない海がみおの初めてになるのは少し不憫だと、姫は感じた。

――もし季節が夏で、服も私服ではなく水着だったら、もうちょっと雰囲気あるのに。
 姫は静かに揺れる波間に目を向けて、小さく息をついた。
 『万が一があったらすぐに病院に戻る』という条件で外出した以上、できればこれ以上のリスクを冒したくない。だから、このような形に落ち着いたけれど、やはりどこか物足りなさを感じてしまう。
 しんみりとなった姫の背中に気付いたや否や、亮は一際明るい声で静けさを破る。

「ヨシ! 追いかけっこをしようか、みおちゃん!」

「下郎貴様、ただワタシにリベンジしたいだけなのでは」

「ピンポンピンポ~ン! だーいせいかぁーい! さすが雅代(まさよ)さん、今日も冴えてますなぁ~。いてッ」

 雅代(まさよ)にぺちっと頭を叩かれ、反動で前のめりになった亮。少し大袈裟っぽく演出するように、彼は後頭部を押さえつつ座り直す。
 亮が言った『リベンジ』というのは、彼を確保した際に『姫とみお』という彼にとって効き目があり過ぎる防衛ラインを雅代(まさよ)が張ったとのこと。
 当時、彼を逃すまいと二人は両腕を伸ばした。そして、見事に術中に嵌った亮は「参りましタ!」と降参したおかげで、あっさりと彼を捕獲ならぬ、確保できたというわけだ。その腹いせに雅代(まさよ)に復讐したくなるのにも頷ける。

「全く、このワタシを辱めたいという魂胆が丸見えでございますね。全力で断っていただきます」

「ええ~、マイターお姉ちゃんも一緒に遊ぼうよぉ~」

「僭越ながら、全力でお相手させていただきます、みお様」

 雅代(まさよ)から手のひら返しをされて気持ちを切り替えるように、亮はコホンと咳払い一つ。

「では、これより第一回――『姫の尻を頂く選手権』、スタートゥ!」

「……ちょ、ちょっと! どうしていきなり――」

 何故か謎の選手権が開催され、しかも自分の身体の部位が賭けられたことに焦り出す姫。しかし、その言葉は某メイドには効果抜群で、聞いた瞬間に彼女の両目がいつになく鋭くなった。

「なにッ?! お嬢様のお美御尻は誰にも渡さん! とぅ!」

「って、雅代(まさよ)さああぁぁーん! お忘れ物しましたよぉぉぉ! 私を忘れましたよおおぉぉぉぉー!」

 見事なスタートを切って自分を置いてけぼりにした雅代(まさよ)の背中に手を伸ばしても、空虚を掴むだけ。姫は雅代(まさよ)の姿を見て笑いながらも走り出すみおの小さな背を見送り、立ち尽くす。
 例え場所が違っても、この四人と居れば落ち込む暇なんてない。間近(特等席)で散々見てきたのに、ついつい昔の癖に戻ってしまう。
 思い悩むのもバカバカしくなって、姫は唇だけで失笑して彼の隣を追い越す。

「……自分のものは自分で守らないといけないから、お先ね」

「そんなッ!? 姫にまで見捨てられ?! ハッ、もしやこれはいわゆるあの有名な放置プレー的なアレか?! 即ち、これはごほぉぉービッ! うひょぉー、ありがとうございます、神様ぁ~!」

 その場で変なことを連発する亮を尻目に、姫は今度こそ声に出して笑った。いつの間にか彼女の心を占めている暗いものが晴れ、自分が“生きている”ことにより強く実感できる。
 潮の匂いで胸がいっぱいになり、心地良い風に頬を撫でられる中で、彼女は内心で「ありがとう」と言う。

 勝負は結局雅代(まさよ)の勝ちで終わったが、姫が嫌がるから話自体が無効になった。けれど、一方的に無効させられても勝者本人があまりに気にしていないのは、今まで散々美味しい思いをしてきたからだろう。
 さざ波の音に傾けながら、白い浜辺を歩く一行。
 せっかく海に来たのに、みおは歩きながら波が押し寄せて引いていく様子を眺めるだけで、一切近寄ろうとしない。そこで姫は彼女の背中を一押しすることに。

「……ここで見てないで、もうちょっと近くまで行ってみない?」

「え、入っていいのっ?」

 上目遣いでそう尋ねてくるみおの声が弾んだ。
 もし彼女に犬の尻尾が付いていたら、今頃ぱたぱたさせているだろう。姫がその様子を想像してみると、思わず笑いが込み上げてきた。

「……足くらいまでなら、いいんじゃない? あ、でも今は秋だから、冷たいのかどうかは分かんないけどね」

 手を繋いだ二人は波打ち際へと近付いていく。そして海の手前で立ち止まると、姫がみおの足元に屈み込んだ。

「……はい、みおちゃん靴脱いで。入る前にこうやって裾をまくっておかないと濡れちゃうからね」

 「お嬢様、反対側はワタシが」、と雅代(まさよ)も屈みこんでみおの裾を捲くる。

「へへへ、ありがとぉ~、お姉ちゃん! マイターお姉ちゃん!」

「うふふ、マイスターお姉ちゃんでございますよ、みお様」

 みおのズボンの裾が捲くられ、膝から下が露わになった。姫は自らロングスカートをたくし上げて、彼女と同じ状態にする。
 成長途中であるはずのみおと、成熟した大人であるはずの姫。年齢差があるはずの二人なのに、脚の細さはあまり変わらないように見えて。それが少しばかり雅代(まさよ)の心を締め付けた。
 「よし、では私も……」、と亮までズボンの裾を捲くろうとした時に、

「ダメ。下郎、ハウス」

「ワン!」

 雅代(まさよ)に止められたが、それにもノリノリで応えた。
 あまりの可笑しさにみおは思わず吹き出し、姫に至っては困ったように笑う。そこで、みおは何か思い付いたかのような顔をし、「そうだ!」と姫を見上げる。

「ねえねえ、お姉ちゃん、『せーの』で一緒に入ろぉ~」

 意外な提案にドキッとしつつも「う、うん」と受け入れる姫。
 受け入れたとは言え、慣れないものをやろうとしたら自ずと表情が強張ってしまうもの。主人がカチコチになっている一方で、雅代(まさよ)は横でカメラを構えてスタンバイ。
 車椅子の手押しハンドルから離れたとは言え、亮が勝手に離れられないと理解したからこその行動だろう。
 すっかり置いてけぼりにされたことに怒り心頭の彼が、その場でてんやわんや騒いでいるが、彼をそっちのけでパーフェクトショットを撮ることに夢中だ。

 姫がゴクリと固唾を呑み込んで、眼下で寄せては返す白い波を凝視。長い間を置いて、彼女はきつく結んだ唇をゆっくりと開けて――。

「……い、いくよ」

「うん!」

「……せ、せーの」

「えいっ!」

 まるで明確な国境のラインを踏み越えるかのように、大きなアクションで漣の中へと足を踏み入れる二人。
 白い足首が同時に水の中へと入った瞬間、みおが小さく跳ねる。

「つめたぁーい!」

「……そうね」

 はしゃぐみおとは対照的な落ち着いた口調で返す姫。
 しかし、その無邪気な表情が、何かしらの疑問を抱えるものに転じた。彼女は自らの足元をじっと見つめる。

「……どしたの?」

「本当にしょっぱいのかなぁ~と思って」

「……ああ、海が? この前も言ってたよね」

「うん。お兄ちゃんそう言ってるから」

 そんなみおに、姫は笑いかける。

「……気になるなら、試しに舐めてみれば?」

「えっ、これ、飲めるのぉ~?」

「……まあ、本当はダメだけど。でも、ちょっとだけなら。こんな感じで、ね」

 お手本を見せるように、姫は人差し指を海面に浸すと、濡れた先端を舐めてみせた。やってごらんと言わんばかりに彼女は視線で促すと、みおも海水で指を濡らした。そして、それを恐る恐る舌先へと運び――。

「あはは、しょっっっぱぁぁーい!」

 海がしょっぱいであることを知り、みおは大はしゃぎ。その後、彼女は海水の冷たさを味わいつつも、笑顔で足を上げ下げする。

「見て見てお姉ちゃん! 足に砂がくっついてるぅ~!」

「……濡れてるからね」

「ははは、砂でベタベタだぁぁ~!」

 些細なことでも全力で楽しむみおの姿は、姫の心中にある石が取り除かれた。最初は海らしい経験をさせてあげられなかったらどうしようと悩んだけど、その燦々とした笑顔が見れてホッとした。
 それから彼女たちは水の掛け合いするわけでもなく、ただ冷たい浅瀬を歩くだけ。服を着ているも原因の一つなのだが、その前に彼女たちはまだ『患者』の身だ。
 もし幼稚な水遊びで風邪でも引いたりしたら、この先外出したくても許可が下りるわけがない。そんな未来を防ぐために今回の遊びは控えめにしよう、と移動中に皆と話し合って決めたのだ。


 しかし、途中まではみおも満足しているのに、思うところがあってか、彼女は亮の方に振り返って空いた手を差し伸べる。

「お兄ちゃんも手、繋ご?」

 不意討ちを喰らって、思わず小さく口を開ける亮。
 まるで、本日の主役であるみおに気遣われたことに意外とでも言いたげだ。
――こりゃあ、ピエロの名折れだ。
 彼は内心でそう思いつつも、みおの誘いに向けてサムズアップと共に笑顔を送った。

「勿論、喜んでッ!」

「下郎、みお様に無粋な真似をしたら、分かっていますよね?」

「今日の雅代(まさよ)さん、いつになく怖いなぁ……。だけど、それもご褒美ダッ」

「もう~。お兄ちゃん、早くしてよぉ~」

 はいはい、と小さな左手を掴む亮。握られて嬉しくなったみおは、両の手を軽く振り回してこう言い出す。

「えへへ、これで全員と一緒に繋がったねぇ~!」

 姫と亮は顔を見合わせては小さく笑い出して「そうだね」と賛同する。
 確かに、三人は手を繋がっているが、亮の車椅子を押している雅代(まさよ)までカウントされた。
 そう、彼の車椅子を経由して雅代(まさよ)とも手を繋ぐことができたのだ。それをワンテンポ遅れて気付いたは雅代(まさよ)は、ほっこりと微笑む。

「……」

 病院から程遠いと思っていた海の匂い。
 小さな手の温もりを確かめるように、手にほんの僅かばかりの力を込める姫。すると、みおの方からもぎゅっと握り返されて、自然と微笑が漏れた。
 緩い潮風にほんの少しだけ髪を揺らしながら、勝手に鼻腔に滑り込んだ潮の匂いで心が洗われる中、ふと姫はこう思った。

――いつまでもこの穏やかな時間が続きますように。
 ランチは海辺でのピクニックになったが、豪勢な五段弁当とは真逆の質素な病人食になっている。無論、これらを準備したのは雅代(まさよ)であるため、きちんとした理由がある。
 今回の日帰り旅行の参加者はほぼ全員が患者であるため、いきなり豪勢な食事をありつけては調子を崩してしまわないかという懸念があったとのこと。
 これを見て、開口一番に不平不満を垂れる亮ではあったが、

「これ以上文句を言い続ける人には、お食事が没収されますよ」

「いただきまぁーす!」

 雅代(まさよ)に脅された途端、彼がくるっと手のひら返しをして喜んで嚥下してくれたので、一件落着。昼食ピクニックが一段落ついたところで、姫がみおにまだ他にやりたいことがあるかと聞くと、

「うーんとね。みおはねぇ、また皆と手を繋いで歩きたい!」

 満面の笑みで返された幼い顔を曇らせないように、全員一致でその希望に応えることになった。

 先程と同様、亮と姫がそれぞれ、みおの左手と右手を繋いで、四人と一緒に浅瀬を歩く。ただし、靴の中まで汚すわけにはいかないから、みおと姫は裸足のまま。
 三人がみおの小さな歩幅に合わせるようにして、歩き続けていた時。彼女は急に口数が減り、幼い顔には似合わない小さな息を吐き出す。

「……みおちゃん、眠いの?」

「ううん。まだ疲れてないよ」

「……無理しなくてもいいんだからね」

 その碧眼には、微かな憂いが揺れていた。提案者の一人として、単純みおの体調を心配していることが他の二人にも伝わった。

「……疲れたらちゃんと言って。雅代(まさよ)がおんぶしてくれるから」

 「マイターお姉ちゃんが?」、と期待の眼差しと共に雅代(まさよ)に振り返るみお。
 ずっと入院していたせいで、両親に甘えられる機会が極端に少ないからこそ、こういった触れ合いへの憧れは人一倍強いだろう。ころりと変わった彼女の反応を見て、雅代(まさよ)は微笑みかける。

「ええ、今申し込めば『本日限定メイドにおんぶしてもらう無料券』がついてきますよ」

「え、めっちゃお得じゃないカ! 私も欲しいッ! 滑り込みで申し込みまぁース!」

「数量限定でかつ女性のみでお渡ししていますので。申し訳ございませんが、下郎にはご遠慮願いたい」

「そ、それって、他の男なら渡してたってコト?! くうー、羨ましいイィィィ!」

「マイターお姉ちゃん、おんぶしてぇ〜」

 みおは亮の大袈裟な芝居を無視して、自ら二人から手を離して、雅代(まさよ)に向かって両手を伸ばす。
 いいですよ、と彼女がその小さな身体に背中を向けながら屈み込む。みおが乗ったのを確認して、ゆっくりと立ち上がる。

「わーい、お姉ちゃんとお兄ちゃんよりも高くなったぁ〜!」

「……まさかみおちゃんを見上げる日が来るとはね」

「ハハハ、偉く高くなったねえー、みおちゃん」

 二人は雅代(まさよ)の肩口辺りに視線を向けながら笑うと、みおも笑い返した。年相応の表情を見て、内心で安堵の息をつく姫。

「感想がジジイ臭いでございますよ、下郎」

「そりゃあスンマセンねぇ」

「ではお嬢様、申し訳ございませんが下郎のことをお任せしてもよろしいでしょうか」

「……ええ、分かったわ」
 
 姫がそう答え、ハンドルを握ると、亮がフッフッフという変な笑いをする。

「ようやく私たちだけの二人きりのお時間デスネ、姫。どうです。これから一緒にホスピタル・ディナーと洒落込もうじゃあないか」

「……それ、訳すと病院食になるんだけど」

「ハハハ、バレましたか」

「……英語なら私の耳は誤魔化されないよ。ほら、行きましょ」

「いざ、しゅっぱぁぁーつッ!」

 亮の明るい声とは対照的に、ゆっくり車椅子を押し始める姫。茜色に染まる砂浜を歩き続けていると、徐々にみおの声は減っていって、やがて完全に消えてしまう。

「ひょっとしてみおちゃん、寝ちゃいました? 雅代(まさよ)さん」

「そう聞かれましても、分かるはずがないじゃありませんか」

「ちょっぴりの間だけ、振り向いてくださいよ。そしたら、分かりますんで」

「全く仕方がありませんね」

 嫌々と言いつつも、しっかりと亮の言葉を聞き入れて二人の方に振り返る。すると、彼女の肩口で静かに寝息を立てているみおのあどけない寝顔があった。

「……あ、ぐっすりと寝てる。かわいい」

 みおの寝顔に近寄って、覗き込んで優しく微笑む姫。その安らかな様子にホッとしたことを他の二人にまで伝わった。
 
「ハハハ、それだけ疲れたんでしょう。連れてきてよかったですね」

「……ええ、本当に。やっと来れたもんね~」

 姫は手を伸ばし、みおの頭を一撫でした。まるで実の姉のような、慈愛深い眼差しで。それだけ、彼女にとってみおが大切の存在なんだろう。

「……帰る前に一度洗い場に行って付着した砂を洗い流さないとね」

「お屋敷の車ですから、汚れたままでもワタクシめが責任を以て洗いますのに」

「……私がそんなことしない人間だって、知ってるでしょ? 雅代(まさよ)

 「フフフ、そうでございましたね」と返事する雅代(まさよ)。姫の顔こそ見ていないが、温かみのある声を聞いて心底から安堵した。
 もう塞ぎ込んでいた頃とは違って、前向きな響きを帯びた声色だった。

「……じゃあ、帰ろっか」

 姫が確認するように二人の顔を見比べると、普段相容れない二人が珍しく同意見。姫が車椅子のハンドルを握るのを横目で目視して、ゆっくりと歩き出す雅代(まさよ)。ワンテンポ遅れて、姫も歩みを再開させた。
 みおの背を見守りながら車椅子を押している最中に、ふと亮が「また四人で一緒に来たいですね」と言い出す。

「……今度は、夏がいいね」

「ハハハ、いいですね。姫の水着姿を拝むことができたら、是が非でも行かないと」

「……あはは、何それ」

 その言葉を聞いて、亮も内心でホッとした。
 姫の心はもう談話室に縛られていなく、少しずつ未来に向かって進んでくれたこと。
 翌日。亮がいつものように待ち合わせ場所でみおを待っていると、木村(きむら)さんが息を切らしながら向かい側からやってきた。

「どうしたんですか、綾乃(あやの)さん。そんな息を切らして。ハッ、もしかしてこれから何かいかがわしいコトをしようとしてるんじゃ――」

「今はそれどころじゃないのッ!」

 木村(きむら)さんの剣幕ですっかり遊び心が削がれたが、彼がこんな真面目な顔をする彼女を見るのが初めてだ。もしかして何かがあったのでは。そんな嫌な予感が胸中に膨らんでいく中、彼女に車椅子を押されていった。

 彼が連れられてきた場所は、西棟にある病室の前。目的地の前でボーっと立ち尽くしている姫が視界に入って、心がざわつく。ふと、彼はそこに入院する部屋番号と患者の名前が書かれたプレートを見やる。
 『409号室 芹澤(せりざわ)みお』――三人と同じく、個室だ。まさかと思い、彼はゆっくりとドアを開ける。

「あ、れ……?」

 間抜けた声と共に、室内を見回す。人のいた形跡が綺麗さっぱり片付けられた、酷く寂しい部屋。次の患者を迎えるための、ピンと張られたまっさらなシーツが余計に目立つ。

「こ、れは……一体……」

「これは担当看護師に聞いた話だけど。今朝方、みおちゃんの容態が急変してて、それでそのまま……」

 木村(きむら)さんが状況説明するも最後の方で喉が詰まってしまい、嗚咽が漏れた。だけど、無人の部屋が全てを物語ったから、これ以上の説明は余計だと言えよう。けれど、そんな木村(きむら)さんの代わりに、姫は惨い現実を突き詰める。

「……死んじゃった」

「え……?」

「……死んじゃったの」

 二度目に紡がれたその「死」という響きは、一度目よりも随分と軽く感じた。あまりにも唐突で噛み砕くことができなかった彼は、「そ、そんな……」と呟き、力なく背もたれに倒れ込む。長い沈黙を経て、亮の肘掛けを叩く音が破く。
 
「なんでだよ……。昨日はあんなに元気だったじゃないか……! あんなに……はしゃいでたじゃないかッ!」
 
 悔し涙を流し、理不尽な憤りを晴らすように叫んでも、内なる黒いものが消えるわけがない。
 思えば、今まで何度かヒントがあった。しかし、彼は姫のことばかり気に捉われていて、無意識にみおのことを無視していた。
 どうしてみおのことをもっと知ろうとしなかったとか、彼女が寝込んだ時にどうしてお見舞いに行かなかったとか。そんな悔恨ばかりが心中に渦巻く。一番親しい友人の最期の立ち会いにすら間に合わず、最後に「クソ」と車椅子の肘掛けに拳を叩いた。
 しかし、いくら言葉を吐いても虚しさは拭えず。それどころか、みおの死を口にしただけで、認めたくもない現実がより現実味を帯びてきて余計に惨めな気持ちになる。亮は後悔に歪んだ顔で、再び肘掛けを叩きつける。それが二度、三度、四度も続き、やがて歯軋り音だけが残る。

 そんな亮とは対照的に、先程とは何らと変わらず、ただ立ち尽くしている姫。俯くその姿は彼女なりに友人の死を悔やんでいると解釈しても良いが、生憎白い髪の毛の間から覗き込んだ表情は『無』そのまま。他人の死に慣れ過ぎていた故に、いつしかそれに何とも思わなくなったのだ。例えそれが親友の死であるとしても。
 感傷的な空気が流れる中、ふと姫の口からこんな言葉が零れた。

「……仕方ないよね」

 酷くあっさりとした台詞を聞いて、亮は耳をピクリとさせて「仕方、ない?」と言う。鼻声で紡がれた言と共に姫に振り向くのは、激昂の顔であった。

「みお、みおが死んだんだぞ! 人の死をそう簡単に片付けられるなッ!」

「……簡単に片付けるも何も、どうしようもないことは諦めるしかないんだし」

「ふざけんな!」

 亮の怒号が鼓膜に突き刺さり、廊下中に響き渡る。

「ほぼ毎日のように一緒に遊んでた友達が死んだんだぞ! 悲しいと思わないのか! 悔しいと思わないのか! 
 なんで、なんでさあ……親友の死をそう簡単に受け入れるのかよ! どうして……みおが『生きている』ことにそう簡単に諦められるんだよッ!!」

「そこまでです、お二人共」

 彼の八つ当たりを止めるために、二人の間に割って入る雅代(まさよ)。それぞれの顔を交互に一瞥をして言葉を続ける。

「もしみお様が今のお二人の姿を見たら、きっと悲しむでしょう。それに、ここは病院でございますよ」

 雅代(まさよ)は気丈に振る舞っているように見えるが、彼女もまた鼻声で。よく見ると、頬に慌てて涙を拭いた形跡が残り、目尻にはまだ雫が浮かんでいる。まるで、『悲しいと感じたのは別に亮だけではない』、『時と場所を弁えるように』と強く訴えているように見えた。それを受けて、亮はクッと奥歯を噛み締める。

木村(きむら)さん、彼のことをお願いします」

 急に話題に名前が上げられて、木村(きむら)さんは慌てて手で涙を拭きつつも首肯する。

「わ、分かりました。ほら、鶴喜クン、部屋に戻るよ」

「……クソッ」

 担当看護師に強制的に現場を離された亮は、苦し紛れにそんなことを吐き捨て、最後に掌底で肘掛けを叩きつける。二人が去った後、廊下には重苦しい暗雲が立ち込めたかのような空気が漂う。まるで冷たい雨に打たれているかのように、姫はただ俯いて黙り込むだけだった。
 華小路(はなこうじ)家四代目当主・華小路一三(はなこうじいちぞう)氏の遺言で一姫(かずき)を後継者に指名したことが発表されたのは、一三(いちぞう)氏が逝去された翌日のことだった。
 姉たちに比べても年の離れた一姫(かずき)が相続権を持つことに、当然反発は強かった。表向きでは従って見せても、内心納得していない者も少なかったのである。
 こうした状況がより顕著になったのは、一三(いちぞう)氏の1周忌が催された時だった。

「ほぉら、一姫(かずき)ちゃん! 新しいぬいぐるみだよ、これでぬいぐるみ王国には更に住人が増えちゃうね、ははは」

「もう、今時ぬいぐるみなんて古いよ。何せ今はスマホの時代なんだから。ほら、一姫(かずき)ちゃん。これはまだ発売されていない、あの有名なメーカーの最新機種よ」

「ええー、女の子ならスマホなんかよりも当然ドレスよね? 見て、ここの金の刺繡綺麗でしょ? これ、本物の金よ」

「私は一姫(かずき)ちゃんのために専用のお庭を造ったんだよ? ほら見て、この見渡す限りの薔薇畑を!」

「……」

 集まってきた分家たちが、ご機嫌を取ろうと次々に度の過ぎたプレゼントを披露していく。しかし彼らは一姫(かずき)の薄い反応を前にしても、それを止めることはなかった。他の使用人たちは来客の給仕に奔走しながら、その様子を窺っていた。

 華小路(はなこうじ)家ではこういう時、使用人によってどの分家のお世話をするのかが、明確に決められている。彼らの間には選抜試験をクリアした『精鋭組』と、他の分家の口利きで華小路(はなこうじ)家をお仕えするようになった『推薦組』に分けられていた。
 この二つのグループは表向きでは仲間意識を保っているかのように見せかけていたが、裏では互いをいがみ合うような関係だ。イジメといった深刻な問題はなかったものの、精鋭組は“楽して土足でプロの現場に踏み込んだ素人の集まり”と軽蔑し、推薦組は精鋭組のことを“自意識過剰な集まり”と見下す。

 そして、この日は“偶然”にも精鋭組の使用人たちが“研修旅行”で華小路(はなこうじ)邸を出払っていた。
 この異常事態を察知して急いで帰還した、ただ一人を除いて。
 
「ご無事でしたか、お嬢様」

「……雅代(まさよ)

「遅くなり誠に申し訳ございません、お嬢様。貴女様の雅代(まさよ)がただいまより、帰還しました」

 わざと分家たちの間を割って幼き主人に接近し、綺麗なお辞儀をする。無遠慮な舌打ちに雅代(まさよ)は耳をピクリとさせて、振り返って彼らを見据えた。

「自称お嬢様付き(レディース)メイドのお出ましか。おい貴様、研修旅行はどうした?」

 当時の雅代(まさよ)はただ一姫(かずき)お嬢様付き(レディース)メイドになるという口約束を交わしただけで、まだ正式な手続きを踏んでなどいなかった。しかしその直後、華小路(はなこうじ)家はすぐに大混乱に陥っただけあって、手続きをするタイミングを見逃した。
 それでも、彼女は『一姫(かずき)のお嬢様付き《レディース》メイド』として名乗り続けて、幼い主人のために行動した。
 この時から既に分家たちの間では『お飾りに魅入られた憐れなメイド』として定着したが、本人は気にも留めなかった。

「ハッ、せっかくのご厚意で恐縮ではございますが、すっぽかしてきました」

「たかが使用人の分際で勝手な真似は許さんぞ! 何様のつもりだ。一体、いくら金を積んでやったと思ったんだ! 我々の――」

「もう止めてやれ。まだお飾りの前だぞ」

 一人の分家に止められ、ハッとする男。人前でも一姫(かずき)のことをそう言い慣れすぎた結果、本人の前でも口を滑らせた。が、一姫(かずき)一姫(かずき)で言われ慣れ過ぎた故に、ただ足下を見つめるだけ。
 主人の代わりに、雅代(まさよ)が睨みを利かせると、分家の男もハッとなり。言い訳しようにも取り付く島すら与えられないまま、全員まとめて雅代(まさよ)に追い出されることになった。

「このクソメイド、覚えとけよ!」

「はいはい、二度とこの屋敷に踏み入れないよう、願うばかりでございます」

 重厚な正面玄関のドアを閉めて、そこに背中を預けて一息入れる雅代(まさよ)
 本来であれば、使用人がこのようなことをしても決して許されないはずだが、彼女は使用人であっても、本家に仕える精鋭組の使用人である。そのため、例え分家の連中でも彼女の言い分には逆らえない。
 けれど100人ものの使用人の内、推薦組が7割、精鋭組が僅か3割。
 そしてその精鋭組の中でも果敢に分家の連中に立ち向かうのは、残念ながらたった雅代(まさよ)一人のみ。だから、彼女は一年間ずっと一人で一姫(かずき)を守っているわけだが、さすがに限界があると感じた。

――一刻も早くこちら側の人間を確保しなければ、お嬢様おろか、ひいては本家の存続も危ない。
 扉から背中を離したと同時に、雅代(まさよ)がそう決心をついた。
 それから雅代(まさよ)は人員確保のために奔走していた。
 しかし、精鋭組の使用人は自分の職に並ならぬプライドを持っている故に頭も固く、当初雅代(まさよ)も難航していた。だけど彼女は挫けることもなく、猛アタックしていく内に、一人、また一人の仲間を手に入れ、ちょっとずつ陣営が拡大していった。
 その間に申請を済ませて正式に一姫(かずき)お嬢様付き(レディース)メイドになったら、今度は華小路(はなこうじ)家のために奔走。

 先代当主・一三(いちぞう)氏の秘書と二人三脚で、華小路(はなこうじ)財閥の内部事情の処理や分家との牽制するようになった。
 本来であれば、一使用人の出る幕ではないが、主がなき今、誰かが引き受かなきゃいけないことだ。
 そのため、一姫(かずき)の身の回りの世話は他人に任せる頻度も多くなり、夜遅くまで外出することも頻繁になり、主人のお顔を見れなかった日すらあった。

 けれど、いずれも『次期当主である一姫(かずき)の座を守る』に繋がるから仕方がない。今は耐え忍ぶ時だ。
 雅代(まさよ)はそう自分に言い聞かせて、肌身離さず持ち歩いていた一姫(かずき)の写真を見ることで自身を保つようになった。


 朝は一姫(かずき)の世話をし、昼は華小路(はなこうじ)家のために奔走し、夜は経済やビジネスの勉強に励む。
 そんな生活が続くうちに、あっという間に二年が経ち、一姫(かずき)もようやくお嬢様学校に入学する頃。丁度、雅代(まさよ)もメイド長にまで出世した。

 その日は、一日中雨が降っていた。
 一姫(かずき)の送迎を他の者に任せて、自分は新しく入ってきた使用人たちの研修の監修役を務めることになった。忙しなく業務をこなすうちに、いつの間にか夕食時を過ぎていた。だけど時間が過ぎても、一姫(かずき)はまだ部屋から下りていない。
 本来であれば、一姫(かずき)を呼ぶのは雅代(まさよ)の役目ではあるが。彼女は時間通りになったら自主的に下りてくるタイプで、遅刻するのは考えられない。
 
――もしかしたらお嬢様に何かあったのかもしれない。
 漠然とした不安を抱えて、雅代(まさよ)一姫(かずき)の寝室に訪れた。三度もドアを叩くも返事がない。それどころか、物音すら何一つもない。
 この時点で既に嫌な予感しかしないが、メイドのトップに立つたる者、決して油断してはならない。彼女は心中で諫めると、努めて冷静な口調で告げた。

「失礼します」

 身体の中で渦巻いている胸騒ぎが大きくなったと同時に、ドアノブを握る。
 自身を落ち着かせるために深呼吸してから、ゆっくりとドアを開けると、そこに広がる光景に驚愕し、思わず息を呑んだ。

「――――ッ」

 絨毯の上に気絶して倒れている一姫(かずき)の身体には、薔薇の花が赤黒く咲いている。
 見たこともない模様が彼女の身体を蝕んでいるような光景に理解が追い付かないまま、気絶した主人の元へと駆け寄った。
 
「お嬢様! 一姫(かずき)お嬢様! 誰か――」

 彼女の身に一体何かあったのか。そんな質問に支配されたまま、必死に救援を求める雅代(まさよ)
 もし、もっと早く気付いていれば。もし、もっとお嬢様のことを気にかけていれば。もし、傍にいれば――。
 そんな後悔ばかりが雅代(まさよ)の心中に渦巻く中、華小路(はなこうじ)家が私有したプライベートヘリコプターの到着を今か今かと待ちわびた。


 先代当主・一三(いちぞう)氏が逝去され、当主の座が空席のまま、次期当主になるはずの一姫(かずき)が正体不明の病気に侵され、気絶した。
 立て続けに二つの事件に見舞われた華小路(はなこうじ)家は、再び混乱状態に陥った。
 ある分家の繋がりで有名な大学病院に搬送され、綿密な検査を受けても、いずれも『原因不明』という結果が返ってきた。皮膚の上に赤黒く浮かび上がる薔薇の模様にちなんで『薔薇紋(ばらもん)病』と命名。
 念のため、まだ発見されたことがない病気という線で調査を進めるという話に落ち着いたのだが。一年後が経っても依然として『原因不明』と返ってきて、観察経過のために別の病院に転院することになった。
 後から雅代(まさよ)が独自の調査で調べた結果、大学病院と繋がっていた分家というのは、分家の中で最も勢力がある、友禅寺家だ。そして『原因不明』の裏には、恐ろしい事実が判明された。

 マスコミに察知されないように、大学病院の協力を得て薔薇紋(ばらもん)病の究明のために極秘裏に組織された研究チーム。その研究はある人物に大金を支払われ、止められていたことが発覚。そして調査の結果、ある人物の名が浮上した。
 友禅寺麗夏(ゆうぜんじれいか)
 先代当主・一三(いちぞう)氏が生前の頃、彼女の(いたずら)に嵌められた際に、『人の心がない悪魔だ』と評価したことが一度だけ。それ以来、彼女は当時一番勢力が弱い分家に嫁がせられることになったが、当時の彼女が妙に大人しかったのが印象的だった。
 使用人の間では、一三(いちぞう)氏が麗夏(れいか)嬢を恐れているあまりに、彼女を分家に追い出した、という噂が流れていたのは、あながち間違っていないようだ。

 そんな麗夏(れいか)嬢の魔の手から離れるように、そしてこれ以上一姫(かずき)を闘争に巻き込まれないように、雅代(まさよ)は敢えて都心から離れた病院を選ぶことにした。
 辺境で尚且つ自然に囲まれて、静かに療養できる病院。
 そんな理想的な転院先というのは、高山中央(たかやまちゅうおう)病院である。








 薔薇紋(ばらもん)病病の存在は、まだ世間に明かされていない。
 そのために、一姫(かずき)の病室は当時まだ誰も利用されていない北棟の7階の奥に位置した。これ以上一姫(かずき)の心労を増やさないためにも、雅代(まさよ)が自分以外の華小路(はなこうじ)家の関係者を名乗る者との面会を謝絶にした。
 一姫(かずき)が転院した初日、雅代(まさよ)が彼女の病室に訪れた時。そこで彼女は、一姫(かずき)の変化に直面した。

「……今度は私をここに監禁するんだ」

 そう口にした一姫(かずき)の双眼は、かつての光が失われていた。

 小さい頃から姉たちに無視され、やっと一緒に問題を解決してくれる仲間を手に入れたと思ったら、今度は祖父を亡くし。
 彼の者を亡くして間もなく、各々の自己利益のために、競うように派手な贈り物をする分家連中は無神経さに晒され。その対応に専属メイドが追われていたせいで、最初に交わした約束も果たせなかった。
 家のことが嫌になってきた頃にやっと念願の学校に通えると思ったら、今度は薔薇紋(ばらもん)病という訳の分からない病気に侵され。必ず治療法を見つけ出してみせる、という淡い希望を提示した研究チームにバクられ。そして、今回の転院。


 大人の身勝手な事情に振り回され、自分のことに関する決定権が何一つも与えられず。彼女の人生の大半は、ただ監禁場所を転々とした生活を送っただけに過ぎない。
 そして、そんな状況を作り出した原因の一つは、他でもない雅代(まさよ)だ。
 ずっと良かれと思ってしてきたことが、逆に一姫(かずき)の心を蝕む毒となってしまった。
 自分はいつの間にか仕えるべき主人を履き違えていた、と今更ながら罪悪感が生まれてきた。

――約束を交わした相手は一姫(かずき)お嬢様のはずなのに、いつの間にか華小路(はなこうじ)家に仕えていたようだ。

 どこでズレたのか。どうしてあの時は華小路(はなこうじ)家を守ることを優先したのか。お嬢様だけを考えていればよかった。そうしたら、彼女はこうはならなかったのだろうか。
 けれど、その思いも全て、何の意味も持たない虚しい後悔となった。

「 一日も早いご回復をお祈りしております。では、また明日」

 別れの言葉ですら虚しく室内に響くだけ。
 雅代(まさよ)が頭を上げた時、今度はそちらから声を掛けられた。

「……忙しいなら、もう来なくてもいいよ」

 雅代(まさよ)の方を見ずに発言する一姫(かずき)。しかし、雅代(まさよ)は彼女の鈍く光る碧の双眸を見ながら、もう一度心の中で誓った。
 
――今度こそ、こちらから約束を果たす番でございます。

 それから雅代(まさよ)はどれだけ忙しくても、必ず時間を作って一姫(かずき)の見舞いに行っていた。けれど、一姫(かずき)の顔が晴れることは一度もなかった。
「ここでちょっと頭を冷やしなさい」

 木村(きむら)さんに病室まで強制的に連れ戻され、ベッドに放り込まれた亮は叱声に刃向かうように彼女を睨みつけた。

「頭を冷やすも何もないだろ。仕方のない死なんてありゃあしないのに……。クソっ、何が『仕方がない』だ」

「もう、これ以上姫さんを責めるのを止めなさいって」

「じゃあ、綾乃さんもみおが死んだのは仕方がないとでも思ったか?! 看護師なのに一人の命をなんだと思って――」

「アタシだって悔しいよッ!」

 これまでの木村(きむら)さんの態度からは想像もつかないほどの大声に、酷くビックリする亮。彼女の目尻に滲み出ている涙が、自分は言ってはならないことを言ってはいけない相手に言ってしまったことに気付かせた。
 けれど、彼が後悔しようにももう手遅れだった。

「そりゃあ近しい人を亡くされたら、悲しいよ。看護師のくせに涙だって流しますよ。でもね、だからと言って、周りの人に八つ当たりしてもいいなんていいはずがないでしょ!」

 一喝して部屋を飛び出していった木村(きむら)さんの背を見送りさえもせず。かと言って、正論すぎて返す言葉もあるはずがなく。
 最終的に亮は白いシーツに向かって「クソッ」と吐き捨てただけであった。
 












 長い長い沈黙の帳が降りた。それは亮の病室であることを考慮すれば、非常に稀な出来事である。
 木村(きむら)さんが彼の病室から飛び出して以来、一度たりとも物音が聞こえなかった。普段耳を塞いで部屋の前を通るスタッフや患者たちですら、不思議がっている。
 彼に一体何があったのだ、と秘密裏に心配する人々が増える一方。
 ようやく沈黙を打破できそうな人の登場により、彼らはホッとなって心中で応援を送った。

 ハイヒールのカツカツ音を鳴らしながらドアの前で立ち止まる女性が一人。コンコン、とドアを叩いても返事がなく、仕方なく開けた。

「ここにいましたか下郎。さあ、今すぐお嬢様のところに行きますよ。無論、謝罪をしに、ではございますが」

 亮の顔を見るや、開口一番でそう言った雅代(まさよ)はベッドの傍らまで接近。
 彼女と目を合わせることもなく、ただ不貞腐れたように「ごめん、雅代(まさよ)さん。今はその気分では」とだけを言い、そっぽを向いた。
 しかし、そんな彼の拒否を無視するように、また一歩踏み込んでくる。

「謝るのにどうして気分が必要なのでございましょう。今日中に謝らないと後々色々とこじれますよ」

 雅代(まさよ)が優しく諭しても、だんまりを決め込む亮。
 別に彼は姫と仲直りしたくないわけではない。ただ、もし彼が行ったら姫のあの言葉を認めることになるのではないか。そう思っただけだ。

「最後の瞬間までずっとお嬢様の傍にいると申したのは下郎ではございませんか。あの時の言葉を果たさないつもりですか」

「……今はそっとしておいてください」

 短い沈黙が二人の間に落ちた。

「下郎がこんな意気地なしな男だとは思っていませんでした」

 失望したと言わんばかりの捨て台詞に亮は俯くままキッと睨み、シーツに皺ができてしまうほど、強く拳を握りしめた。
 そして、彼女の退室により、より多くの人をソワソワさせるだけであった。
 患者たちの夕食後の時間帯。
 それは、いつも木村(きむら)さんが仕事から解放された時間でもあるだが。今日の彼女はずっとこっそりストックしていたプリンを片手にある患者の病室に足を運んだ。
 本来であれば、一人の患者にここまで肩入れするのは良くないとされているが。初めての受け持ちなんだからこれくらいのことは普通だよね、と自問してもやはり答えが見つからず、病室の前に辿り着いた。
 最終的に彼女は「これはあくまでもアフターケアーというやつだ。うん、そういうことにしよう」と結論付けて二度ノックする。けれど中から物音がしなかったのでドアを開けると、

「まだ落ち込んでるのね、鶴喜クン」

「そうか。僕、落ち込んでるのか」

「自覚なしなのは相当ね」

 落ち込む亮を見て、思わず苦笑い。木村(きむら)さんは後ろ手でドアをスライドさせて、壁に置いてあった来客用の椅子をベッドまで引っ張ってそこに腰掛ける。

「あの子はね、ガンだったんだって。全く酷な話ね」

 みおの病気を告げても無反応の亮を見て、手を合わせる。

「お、お姉さんでよかったら、話聞いたげよっか! な、なーんてね。あはは、ご、ごめんね。今のなし」

 紅潮した頬のままで手をバタバタ振り、慌てて否定しようとする木村(きむら)さん。慣れないものをするんじゃなかった、という後悔が一瞬心中をかすめた。
 そんな彼女に亮は顔を向けて、こう言う。

「……綾乃さんらしくないですね。そんな発言」

「鶴喜クンには言われたくないよ。今落ち込んでるの、どこかの誰かさんだっけ」

 彼女の言葉を吟味するように、亮は少し考え込む。

「なあ、どうすれば綾乃さんみたいに割り切ることができるんですか。僕は、とてもじゃないけど、真似すらできる気が……」

「アタシなんてまだ全然だよ。もしこういうことに慣れていれば、あの時涙すら流していないと思うけどな。だけど、こういう仕事をしていく内に仕方なくこういうことに直面することもあって、それが偶々鶴喜クンの知り合いってだけ。
 割り切っているように見えたのは、そうね……。『まだ仕事中だから』なんじゃないかな」

 昔事だと思わせるような木村(きむら)さんの落ち着いた語り口。
 実際に起きたのは今朝だと気付き、後に苦笑いに転じた。だけど、亮は何やら考え込んでいてそのことに気付かぬ様子。

「姫がそうなのかな……」

 意外な名前に突如話題に上がって、木村(きむら)さんが目をまん丸に見開いた。

「うん? どうしてここで姫さんが出てくるの?」

「あいや、別になんでもないですハイ」

 亮が慌てて取り繕うにもすぐに木村(きむら)さんがムスッとした顔で追い打ちをかけてきて、逃げ道を塞ぐ。

「あ、今更隠し事なんてするんだ、鶴喜クンは」

「いや、これは綾乃さんが知るべきではないことと言いますか」

「患者の癖に何を言う。ここはアタシの職場なんだから、一番知る権利があるのはアタシのはずでしょ」

「そりゃあ……そうですけど……」

「ほら、ちゃんとアタシに話して。洗いざらい全部。あ勿論、誤魔化すのはなしね」

 亮が観念するようにため息をつくと、他言無用の念を執拗に押してから、彼女に7階の実態とそこでの姫の役割を教えた。
 一通り聞き終えて、彼女が「そんなことが……」という感想を漏らす。少し考え込んだ末、木村(きむら)さんは続ける。

「だけどそうね……。話を聞くと、姫さんは、アタシとは違う方法で『死』と向き合ってたって気がするね」

「え、どんな?」

「アタシは『これは仕事だから』割り切れるんだけど。姫さんにとっては切っても切れないものになるじゃないかな。
 あの子はね、7階患者……いや、恐らく彼女に関わった全ての人間の死を背負っているじゃないかな。あの談話室で、訪れるかもしれない自分の死を待ちながら。勿論、死神云々は関係なく、ね」

「……」

 彼女の見解を聞いて、亮の中では合点がいった。初めて会った時の姫はどこか悲壮感が漂っていたのにも納得がいく。あの悲壮感はただ7階の死神から来たものだけではない。昔事の積み重ねで人生に絶望したから、ああなったわけだ。
 亮は華小路家の全貌をまだ完全に把握しているわけではないが、病院(ここ)で起きた出来事を点と点と繋ぎ合わせれば、真実が自ずと浮かび上がってくるものだ。
 
 姉との不仲、祖父の逝去、姫の失脚を画策した分家、そして薔薇紋病。これだけの事実が揃った以上、導き出せる結論は3つ。
 一つは、雅代の言葉通り、姫がここに入院したのは経過観察中であるため。二つは、家のしがらみやら派閥抗争から逃げたくて、この病院に逃げ込んだ。
 そして三つは、
 
――雅代が過保護すぎて、姫をこの病院へと逃がした。

 雅代自身が気付いていないかもしれないけれど、彼女が薔薇紋病について説明している時、その表情はとても苦しそうだった。まるで、古傷がこじ開けられたかのように。
 患者の姫はともかく、どうして説明役の彼女までそんな表情をするのか。
 答えは一つだ。彼女は昔事に未だに罪悪感を抱いていた。そうとしか説明がつかない。

 自分の推測が核心についていることも知らずに、彼は一度目を伏せる。一通りまとまったところで、彼は真剣な顔つきで自分の考えを紡ぎ出す。

「やっぱり僕はみおちゃんの死が『仕方ない』だとは思いたくない」

「うん」

「だけど、彼女の死から逃げたくもない。それで何が変わるわけではないにしろ、ちゃんと自分なりに向き合っていきたい」

「……そうか」

 亮の気持ちを聞いて、安堵の笑みを浮かべる木村(きむら)さん。彼女にこれ以上心配させたくまい、と彼はわざと空元気を出して、ある質問を投げかけた。

「と、いうことで、もし綾乃さんが異性からプレゼントをもらえるとしたら、何が良いですか? 参考程度に是非聞かせてください」

「うーん、有休!」

「おい、こっちが贈れないと分かってて言いましたよね……あっ」

 木村(きむら)さんの意味深な笑みを見て、もう手遅れだったと知る。自分がまんまと彼女の罠に嵌っていたことに。

「やっぱり贈る気満々ね。誰かさんに」

「ほ、ほっといてくださいよ」

「でも、本当にごめんね。姫さんが好きそうなもの、何も思いつかないや。そうだ。(にしき)さんに聞くのは一番手っ取り早いじゃない?」

「誰も姫に贈ると言ったわけでは……。って、(にしき)さんって?」

 「ほら、あのメイドさん」と木村(きむら)さんが答えると、亮が思い出したかのように「ああ」と呟く。「雅代さんの苗字って(にしき)だったんだ」という感想がぼんやりと脳裏をかすめて、眼前の彼女がピンと人差し指を立ててみせた。

「では、ここで一つ、女の子にプレゼントを贈る最適解を教えて進ぜよう!」

「急にどうしたんですか?」

 「いいから、お黙り」と彼女に凄まれ、仕方なく「ハイ」と従う亮。
 普段は木村(きむら)さんを振り回す方なのに、いつもの立場が逆転されると思うと、自然と苦笑いが零れた。

「無論、相手が好きそうな物を贈るのが前提条件として。一番大事なのは、相手を想う気持ちをプレゼントに込めること。あとはそうね。女の子なら無難にサプライズが好きじゃないかしら」

「サプライズ……」

「そう。相手が想像つかないものを用意すること。こればかりは鶴喜クン自身で考えないと意味ないから、お姉さんが助言するのはここまで。分かった?」

 話の終了を合図するように、彼女は静かに手を合わせる。彼が僅かに眉尻が下げた表情で礼を言うと、

「そんな顔でお礼を言われるより、笑顔がいいな。いつもの煩わしい笑顔の方が鶴喜(つるき)クンらしい」

「そうか……。よし」

 予想外の苦情に少し困ったように笑って、目を伏せる。
 次に顔を上げた時には、その童顔からは憂鬱の気配が消えていた。

「では、煩わしい笑顔の方がご所望でしたので、ご要望に応えようじゃないカ!」

 頬一杯まで笑顔を広がせて、まるでミュージカル役者を彷彿させる喋り方で語り続ける。

「私は鶴喜亮(つるきりょう)! 世界中の人々にスマァーイルをお届けすると誓った、未来のエンターテイナー! これより、私は『落ち込む』から卒業し、更なる進化を遂げましたゾ!
 さすがミス・白衣の天使(ホワイト・エンジェル)代表、木村綾乃(きむらあやの)! 人を慰めるのがお上手ぅ! ヤサスィ! もうこれ上なくしゅきッ! ありがとうござい、マァース!」

 鬱陶しいくらいの眩しい白歯の並びを見せ付けられて、木村(きむら)さんは思わず苦笑い。当初の頃とは随分と印象が変わったなぁとしみじみに思った時、亮は両腕を広げた。

「さあ、返事の受け入れ態勢は準備おk! いつでもどこからでもウェルカムヨ☆」

「うん、ちょっとやりすぎたなと思ったけど……。ははは、どういたしまして」

 木村(きむら)さんが軽く肩をすくめて返すと、亮は一度赤の双眸から微笑を消して頭を下げる。

「それと、今朝はすみませんでした」

「……いいよ。こっちこそごめんね。その、看護師なのに患者に言い返したりしちゃって」

 しんみりとした空気になりそうな瞬間、亮の一言によって壊された。

「いや、それはご褒美になりますからむしろもっとやってくださいお願いします」

「うん。これから鶴喜クンのことを無視しよう」

「そんなつれないこと言わないで! ツッコミがなくなったら、私たちのコンビはどうなっちゃうノ!?」

「鶴喜クンのツッコミ担当はキツイから、一生パスでお願いね」

「そ、そんなァ?!」

 オーバーリアクションの彼を見て、木村(きむら)さんは内心で安堵した。自分をも鼓舞するためかのような、鳴り響くような大声。
 相変わらず鬱陶しくて、騒々しい患者だ。周囲の人間を振り回すことに一切躊躇わない癖に他人のためにすぐに行動する、非常識で優しい少年。
 何を考えているのか見当もつかないし、どういう風に生きていたらこんな人間になれるのかは非常に謎だ。
 だけど――

――よかった。いつもの鶴喜(つるき)クンに戻ったね。