亮が車椅子の生活を送ってから暫く経った頃。
 スタッフの間ではある病室の前を通りかかる際の注意事項が広まっていた。

『本棟302号室を通りかかる際に十分気を付けよ。まず、ドアに耳を傾けて患者さんの不在を確かめること。不在ならば大丈夫だが、在室の場合は必ず迂回するように』

「いや、それだとプライバシーの侵害にならないのかな」

 先輩から聞かされたことを思い出し、廊下を歩いている看護師が一人。この病院で働いていた以上、無論、亮の存在はある程度知っている。
 けれど、普段の職場は西棟にあってか、彼の部屋の番号まで浸透していなかった。そのため、その注意事項は些か役に立たないとも言えるだろう。

「……ッ」

 丁度、問題となる病室に差し掛かってきて、自然と全身が強張る。彼女が持ち場に戻るのにはここが近道なわけで、急いでいる身としてはここを通らなければ到底間に合うはずがない。
――いやいや、ここは動物園ではあるまいし、怖がる必要なんて……。
 そんな思考が脳裏をかすめた次の瞬間、病室のドアがバタンと開けられ、中から人が飛び出してきた――!

「イイィハアアアー! ヒョッホォーウ! あ、おはようございまぁぁぁぁぁぁーー」
 
「お、おはようございます……」

 想像をも超越した出来事に、茫然自失の体で亮が消えた方向を見たまま。気が付いたら、自分はその場で座り込んでいて、さっきまで抱えた書類が散らばっていた。

――な、なるほど、だからここを通る時に気を付けないといけないのか。 
 彼女がそう納得するも、やはり不満が募ってしまうもの。一度、散りばめられた書類を見回したら、自然とため息が零れる。
 ここが彼の部屋ならそうだと言って欲しかったな。心の中でそんな文句を言った彼女は、タイムロスを挽回するべく書類を拾うことにした。








 本棟1階に到着したエレベーターのドアが開けて、亮は車椅子を漕ぎ出す。つい5分前の大はしゃぎっぷりとは思わぬ大人しさで、廊下を進んでいる。
 T字路の突き当たりが見えてきたら、彼は口角を持ち上げて回す手を速めた。しかし到着した途端、彼が笑顔を取り下げ、少し見開いた目で左右を確認する。

「みおちゃん、まだ来ていないのか……」
  
 そうとだけを呟き、彼女を待つことにした。
 みおの病室は西棟にあることが判明してから、二人は待ち合わせをするようになった。彼女が談話室に行くには、必ず本棟を通らないといけない。
 『途中からでもいいから一緒に行く』という亮の提案にみおは大賛成してから、二人はほぼ毎日のようにそうしていた。


 待つことに十五分、右の方向から「お兄ちゃーん」のみおの明るい声に亮も「みおちゃーん」と大きく手を振り返すと、一緒に肩を並べて彼女の歩幅を合わせて歩く。
 丁度雑談も一段落ついたところで、ふとした疑問が彼の頭によぎった。


「みおちゃんはどうやって姫と知り合ったのか、教えてくれるかい?」

「うん、いいよ! へへへ、ええとね……。それはね〜」

 みおは頬を緩ませながら、ぽつぽつと語り始める。