「全く、兄さんって人は……。今度会ったら、絶対に首輪を付けてやるんだから」

 梨衣(りえ)はブツブツ文句を言いながら腕を組んで、廊下を進んでいる。一度亮を部屋に連れ戻すことに成功したとはいえ、彼から目を離したほんの一瞬の隙に、またどっかに行かれてしまっては、全ては振り出しに戻ったことになる。

 大怪我で両足が不自由な癖に、昔の素早さを保っているままとか、とても同じ人間の仕業だとは思えないと梨衣(りえ)は思う。
 だけど、残念ながらその『普通に考えたらあり得ないこと』を平然とやってのけるのが亮である。人生のほとんどを彼に振り回されてきた妹の彼女ですら、この不可解な原理に理解が及ぶには程遠いだろう。
 
「ここはもう村じゃないのに、気付いたら同じことをしてるあたしって……」

 梨衣(りえ)が呟いて、小さく息を漏らす。
 遥か北の方に位置する人口約100人の小さな集落、仁郡村(じんぐんむら)。そこは鶴喜(つるき)兄妹の生まれ育った故郷である。
 元々二人を含めて、子供の人数は僅か5人だったが。梨衣(りえ)が11歳になった頃には、彼ら二人しか残っていなかった。父親は幼くして他界、母親は育児ノイローゼで蒸発。以後、二人は村長に引き取られて、すくすく成長していった。

 けれど、ある日を境に、亮がおかしな行動を取るようになり、それ以来、梨衣(りえ)はずっと彼の尻拭いをするようになった。それをキッカケに、元々人見知りな彼女が村の住人たちと世間話をするようになったのだが。本人からにしてみれば、それは余計なお世話である。
 しかし、その数々の奇行のおかげで、村全体の空気も明るくなったのは事実だから、余計に複雑な気持ちになる。思い出すだけで頭が痛くなるような内容ばかりだ。


 昔の洋画に感化された亮が、村の一番高い家の屋根を登って、

『アイ キャン フラァーイ』

 と叫びながら飛び降りたら、家畜排泄物の山にダイブしてしまい、全身がウンコまみれになった。(その後、謝罪も後処理したのも梨衣(りえ)

 一番酷かったのは、村で随一の羊飼いを生業としていた有栖(ありす)さんの手伝いをした時のことだった。当時は社会見学の一環として、二人は有栖(ありす)さんの放牧を手伝うことになった。
 そこで、亮が初めて牧羊犬の働く様子を見ることになった。犬のキレキレな働きっぷりに感動した彼は、犬の真似し出したら、周りの羊たちに驚かれて四方八方に逃げられて大騒ぎ。(その後、謝罪も羊を回収したのも梨衣(りえ)
 今となって、ただの笑い話で済ませられたからよかったというものの、当時の心労は半端なく、ずっと彼のことを嫌っていた。

「全く、一体どこにいるのよ、兄さん」

 梨衣(りえ)が独り言を漏らし、ハッとなった。
――まさか、またどこかで問題を起こしているわけじゃ……。
 そんな嫌な予感が当たったのは、彼女がある女性の声を耳にした時だった。

「馴れ馴れしくしないでください。大体、どうして苗字ではなく、下の名前の方ですか?」

 梨衣(りえ)は咄嗟に観葉植物の陰に隠れて顔を覗かせる。その視線の先によく見慣れた黄色い髪の存在に気付いて、すぐに眉根を下げた。

「だって、雅代(まさよ)さんのこと、ずっと“お尻マイスターさん”と呼ぶわけにはいかないでしょう?」

「下郎の癖に正論言わないでいただきたい」

「ほらほら、どうぞ遠慮なく、真心を込めて『亮』と呼んでください。お互いの仲を深めた証にもなるからサ!」

「結構でございます」

 あからさまに嫌な顔をされているのに、グイグイとメイドを責める亮。早く止めなければ、という気持ちに駆られた梨衣(りえ)は、二人の前に姿を現した――!

「先程の美人だけも飽き足らず、メイドさんにまで手を出すとは。この、バカ兄さぁぁぁぁぁーん!」