翌日、姫がいつものようにつまらなさそうに暗雲を見上げながら、雅代にある質問を投げかける。
「……彼には言ったの、雅代」
「はい、ご命令通りに」
「……そう」
これで談話室があるべきの姿に戻った。
別に亮のことが嫌いではないが、もしあのまま彼を自由に出入りさせたら、死神としての役目を果たすことが難しくなる。
そうなる前に、この茶番に終止符をつけないと。生者とこれから死にゆく者たちの境界線をハッキリにするためにも。
だけど、彼女の願いを相反するように、談話室のドアが勢いよく開けられた。
「おはようございます、ヒメエエエェェエエ~!」
亮は開口一番でビブラートを効かせながら入室して、真っ直ぐに姫に向かう。
彼女は少し驚いて、彼から背けるように顔ごと窓の方に向けさせた。それでも、彼は話を続ける。
「さあ、今日は何して遊びます? 鬼ごっこ? それとも、かくれんぼのリベンジ? あ、大富豪でもいいヨ!」
「……どうして」
「うん?」
「……雅代から聞いたじゃないの」
「うん? 何をですか?」
「……とぼけないで。7階のこととか、私のこととか」
姫の声が委縮したように段々と暗くなっていくのに対し、亮は明るく「はい、聞きましたよ」と答える。
「……だったら、どうして――」
『またここに来たの』。
それを言わせないように、彼はわざと笑顔で遮った。
「その上で、私は姫と一緒にいたい」
「……バカじゃないの? 死にゆく人間に関わっても結局時間の無駄になるだけだよ。どうせ、いなくなるわけだし」
姫は自嘲めいた声で言い、視線を窓の方へとスライドさせた。
絶望に濁りきった碧眼が窓ガラスに映ったその様子は、まるで見る者の心を凍りつかせるような『虚無』の底なし沼のよう。
その光景に、雅代はきゅっと唇を結んだ。
「私は姫と一緒に遊びたい! 一緒にお喋りしたい! イチャイチャしたいっ!」
「……イ、イチャイチャって」
「しまった! つい欲望の方を言ってしまっタ!」
てへぺろ、と照れたように頭を叩いた亮。
「一生を掛けてもお嬢様を渡すつもりは毛頭ございませんのでお引き取りください、下郎。というか、先にお嬢様のお美尻にハンコを押したのはこの、錦雅代でございます。下郎の出番は永遠に来るはずがありませんので、ご安心ください。あと、気持ち悪いです」
マシンガンのように畳み掛けられたのも彼は悪びれることなく、ピンと人差し指を立てた。
「じゃあ、一つ取引しましょう」
「ほう? この期に及んで取引とは。内容は?」
「左半分はお尻マイスターさんに譲って、私は右半分を頂く、というのはいかがでしょうか」
「却下ッ!」
「そんな……! お互いウィンウィンな条件でもダメだなんて……一体どうしてッ!」
「フッ、決まっているではないですか。……何故なら、お嬢様のお御美尻を独り占めしとうからでございますっ!」
「……いい加減、私の尻から離れて頂きたいものね」
二人の変態っぷりに内心ドン引きしつつも、ボソッとツッコミを入れた。
次第に「この二人、実は仲がいいのでは?」という疑問が頭によぎり、一観客になった気持ちで奇妙な茶番劇を眺め続ける。
「それでは、お嬢様のご意向に沿って、お嬢様のお御美尻はワタシのもの、ということでよろしいでしょうか」
「……いや、雅代にも渡すつもりはないからね」
「そんなッ!」
ガックリと項垂れる雅代の様子に眉尻を下げる姫。
そこで雅代は両目をかっぴらき、ぷるぷる震えている両手を見下ろし、嘆き悲しむ。
「ワタシが手塩に掛けて大切に育ったお御美尻が、ワタシを裏切るなんて……! クッ、この恨み、いつか晴らしてみせます。覚悟しなさい、下郎め」
「なして矛先が私に?!」
「お嬢様大好き人間がご本人様を恨むわけにはいきませんのでしたがって、下郎を恨むのは至極当然でございます」
「なんて理不尽なっ! けど……それが萌えル痺れルゥ! というわけで、私と踊っていただけませんか、姫」
「……何が『というわけ』よ。話がまとまった風に言わないでもらえる?」
姫は心底呆れたとばかりに、ため息を吐き出す。
一瞬、彼の言に感動した自分のことがバカバカしくなってきた。
「7年間」
「え?」
「姫が入院してから凡そ7年間が経ちましたね。多くの方々を看取っても姫だけが残ったまま……。きっと、そこには理由があるなんじゃないかな?」
亮の微笑を見て、姫は考え込む。
理由。ただ7年間、死に損なってこの場に留まっているだけな人間に理由なんて、あるはずがないのに。卑屈な気持ちが彼女の胸中に充満していく。
「姫がどんな思いでこの7階で過ごしてきたのかは、私には想像がつきません。だけど、私が思うに、理由なんてそう小難しく考える必要なんてありません。
――私と出会うために、姫がここにいる。それだけでは、ダメでしょうか」
「…………」
「というわけで、私たちの出会いを祝して、私と踊っていただけませんか、マドモアゼル?」
同じセリフを繰り返し、亮は絶句している姫に手の平を差し伸べる。けれど、二回目に聞かされたそれには、一回目の時とは違う温かみが含まれていた。
その温もりが、枯れた姫の心にじんわりと浸透していく中で、ある人の言葉が彼女の脳裏に蘇る――。
『オレたちはこれから死にゆくんだ。だったら、そんな辛気臭え面で死ぬより、笑って死んだ方がずっといい。そう思わないのか、姫さんよ』
死ぬための場所の中で、他人と出会うために存在する。全くおかしな話だ。
だけど、そう考えると、不思議なことに心が幾ばくし軽くなった気がした。たっぷりと間を置いて、姫は恐る恐る口を開ける。
「……バカだね、亮は」
「ハハハ、よく言われます」
「……それに、車椅子なのにどうやって踊るつもり?」
「ほら、こうして片手でくるくるっと回しながら、片手で姫の手を握る、というのは?」
言いながらも、亮はさり気なく姫の手を左手で優しく包み込み、持ち上げる。
彼に笑い返そうとするも長年硬く引き締まっていた表情筋を上手く動かせるはずもなく、微苦笑になってしまった。
だけど、その第一歩こそ、何より重要である。
例え今彼女の顔にある表情が不格好なものとしても、彼は決して笑えなどせず、肯定するように更に笑みを深めた。
「……これじゃあ、亮が永遠に回り続けると思うけど? オルゴールのバレリーナみたいに」
「ハッ、確かに」
姫の細い唇から漏れたぎこちない微笑につれられ、彼も小さく笑い出す。
どんよりとした空がいつの間にか晴天になり、窓から差し込む陽光が二人の重なった手に温かく触れた。
まるで、天が二人を祝福しているかのような光景に、満足そうに目を細めて笑う雅代。ふと、昨日の亮の言葉が脳裏をよぎる。
『僕は――最初から決めたんだ。姫を笑顔にしたい、と。だから、僕は最後の瞬間までずっと姫と一緒にいたい。
それまでは、まあ、僕は全力で騒ぐから。これからは今まで以上に騒がしくなる、ので、それまでは、ちょっと我慢してくれるとむちゃくちゃあ有難い』
最後の方で軽く肩をすくめて、白い歯並びを見せる亮。実にお茶目気たっぷりな彼らしい、眩しい笑顔だ。
あの時、雅代は雰囲気に呑まれて二つ返事で了承したが。今思えば、主人のためなら多少のおふざけにでも付き合ってやらないでもない。
フッ、と自然と笑いが込みあがり、もう一度二人に目を戻す。
きっとそう遠くない未来に主人の笑顔が見られるだろう――雅代はそう確信した。
「……彼には言ったの、雅代」
「はい、ご命令通りに」
「……そう」
これで談話室があるべきの姿に戻った。
別に亮のことが嫌いではないが、もしあのまま彼を自由に出入りさせたら、死神としての役目を果たすことが難しくなる。
そうなる前に、この茶番に終止符をつけないと。生者とこれから死にゆく者たちの境界線をハッキリにするためにも。
だけど、彼女の願いを相反するように、談話室のドアが勢いよく開けられた。
「おはようございます、ヒメエエエェェエエ~!」
亮は開口一番でビブラートを効かせながら入室して、真っ直ぐに姫に向かう。
彼女は少し驚いて、彼から背けるように顔ごと窓の方に向けさせた。それでも、彼は話を続ける。
「さあ、今日は何して遊びます? 鬼ごっこ? それとも、かくれんぼのリベンジ? あ、大富豪でもいいヨ!」
「……どうして」
「うん?」
「……雅代から聞いたじゃないの」
「うん? 何をですか?」
「……とぼけないで。7階のこととか、私のこととか」
姫の声が委縮したように段々と暗くなっていくのに対し、亮は明るく「はい、聞きましたよ」と答える。
「……だったら、どうして――」
『またここに来たの』。
それを言わせないように、彼はわざと笑顔で遮った。
「その上で、私は姫と一緒にいたい」
「……バカじゃないの? 死にゆく人間に関わっても結局時間の無駄になるだけだよ。どうせ、いなくなるわけだし」
姫は自嘲めいた声で言い、視線を窓の方へとスライドさせた。
絶望に濁りきった碧眼が窓ガラスに映ったその様子は、まるで見る者の心を凍りつかせるような『虚無』の底なし沼のよう。
その光景に、雅代はきゅっと唇を結んだ。
「私は姫と一緒に遊びたい! 一緒にお喋りしたい! イチャイチャしたいっ!」
「……イ、イチャイチャって」
「しまった! つい欲望の方を言ってしまっタ!」
てへぺろ、と照れたように頭を叩いた亮。
「一生を掛けてもお嬢様を渡すつもりは毛頭ございませんのでお引き取りください、下郎。というか、先にお嬢様のお美尻にハンコを押したのはこの、錦雅代でございます。下郎の出番は永遠に来るはずがありませんので、ご安心ください。あと、気持ち悪いです」
マシンガンのように畳み掛けられたのも彼は悪びれることなく、ピンと人差し指を立てた。
「じゃあ、一つ取引しましょう」
「ほう? この期に及んで取引とは。内容は?」
「左半分はお尻マイスターさんに譲って、私は右半分を頂く、というのはいかがでしょうか」
「却下ッ!」
「そんな……! お互いウィンウィンな条件でもダメだなんて……一体どうしてッ!」
「フッ、決まっているではないですか。……何故なら、お嬢様のお御美尻を独り占めしとうからでございますっ!」
「……いい加減、私の尻から離れて頂きたいものね」
二人の変態っぷりに内心ドン引きしつつも、ボソッとツッコミを入れた。
次第に「この二人、実は仲がいいのでは?」という疑問が頭によぎり、一観客になった気持ちで奇妙な茶番劇を眺め続ける。
「それでは、お嬢様のご意向に沿って、お嬢様のお御美尻はワタシのもの、ということでよろしいでしょうか」
「……いや、雅代にも渡すつもりはないからね」
「そんなッ!」
ガックリと項垂れる雅代の様子に眉尻を下げる姫。
そこで雅代は両目をかっぴらき、ぷるぷる震えている両手を見下ろし、嘆き悲しむ。
「ワタシが手塩に掛けて大切に育ったお御美尻が、ワタシを裏切るなんて……! クッ、この恨み、いつか晴らしてみせます。覚悟しなさい、下郎め」
「なして矛先が私に?!」
「お嬢様大好き人間がご本人様を恨むわけにはいきませんのでしたがって、下郎を恨むのは至極当然でございます」
「なんて理不尽なっ! けど……それが萌えル痺れルゥ! というわけで、私と踊っていただけませんか、姫」
「……何が『というわけ』よ。話がまとまった風に言わないでもらえる?」
姫は心底呆れたとばかりに、ため息を吐き出す。
一瞬、彼の言に感動した自分のことがバカバカしくなってきた。
「7年間」
「え?」
「姫が入院してから凡そ7年間が経ちましたね。多くの方々を看取っても姫だけが残ったまま……。きっと、そこには理由があるなんじゃないかな?」
亮の微笑を見て、姫は考え込む。
理由。ただ7年間、死に損なってこの場に留まっているだけな人間に理由なんて、あるはずがないのに。卑屈な気持ちが彼女の胸中に充満していく。
「姫がどんな思いでこの7階で過ごしてきたのかは、私には想像がつきません。だけど、私が思うに、理由なんてそう小難しく考える必要なんてありません。
――私と出会うために、姫がここにいる。それだけでは、ダメでしょうか」
「…………」
「というわけで、私たちの出会いを祝して、私と踊っていただけませんか、マドモアゼル?」
同じセリフを繰り返し、亮は絶句している姫に手の平を差し伸べる。けれど、二回目に聞かされたそれには、一回目の時とは違う温かみが含まれていた。
その温もりが、枯れた姫の心にじんわりと浸透していく中で、ある人の言葉が彼女の脳裏に蘇る――。
『オレたちはこれから死にゆくんだ。だったら、そんな辛気臭え面で死ぬより、笑って死んだ方がずっといい。そう思わないのか、姫さんよ』
死ぬための場所の中で、他人と出会うために存在する。全くおかしな話だ。
だけど、そう考えると、不思議なことに心が幾ばくし軽くなった気がした。たっぷりと間を置いて、姫は恐る恐る口を開ける。
「……バカだね、亮は」
「ハハハ、よく言われます」
「……それに、車椅子なのにどうやって踊るつもり?」
「ほら、こうして片手でくるくるっと回しながら、片手で姫の手を握る、というのは?」
言いながらも、亮はさり気なく姫の手を左手で優しく包み込み、持ち上げる。
彼に笑い返そうとするも長年硬く引き締まっていた表情筋を上手く動かせるはずもなく、微苦笑になってしまった。
だけど、その第一歩こそ、何より重要である。
例え今彼女の顔にある表情が不格好なものとしても、彼は決して笑えなどせず、肯定するように更に笑みを深めた。
「……これじゃあ、亮が永遠に回り続けると思うけど? オルゴールのバレリーナみたいに」
「ハッ、確かに」
姫の細い唇から漏れたぎこちない微笑につれられ、彼も小さく笑い出す。
どんよりとした空がいつの間にか晴天になり、窓から差し込む陽光が二人の重なった手に温かく触れた。
まるで、天が二人を祝福しているかのような光景に、満足そうに目を細めて笑う雅代。ふと、昨日の亮の言葉が脳裏をよぎる。
『僕は――最初から決めたんだ。姫を笑顔にしたい、と。だから、僕は最後の瞬間までずっと姫と一緒にいたい。
それまでは、まあ、僕は全力で騒ぐから。これからは今まで以上に騒がしくなる、ので、それまでは、ちょっと我慢してくれるとむちゃくちゃあ有難い』
最後の方で軽く肩をすくめて、白い歯並びを見せる亮。実にお茶目気たっぷりな彼らしい、眩しい笑顔だ。
あの時、雅代は雰囲気に呑まれて二つ返事で了承したが。今思えば、主人のためなら多少のおふざけにでも付き合ってやらないでもない。
フッ、と自然と笑いが込みあがり、もう一度二人に目を戻す。
きっとそう遠くない未来に主人の笑顔が見られるだろう――雅代はそう確信した。