ひとしきり笑い終えて満足したのか、真澄は目尻を拭いつつ、何度か深呼吸して空を見上げた。
千結もつられて顔を上げる。
教室の窓から見たのと同じだ。日差しを薄く遮る薄灰色の雲に覆われている。

「やー、笑わせてもらいました。すっきりした。先輩に何かお返ししなきゃなって思ってたんですけど、生憎手持ちは無いし……うーん、すっからかんですね」

千結の少し前を歩いていた真澄は、手をひらひらさせて降参のポーズを取る。

「だからお礼とか、そういうのいいって」
「千結先輩、無欲〜。何かありません?」

千結はそこではたと閃いた。スマホを取り出し、イヤホンジャックから引き抜いて真澄を手招きした。
近づいてきた真澄の手にプラグを握らせる。

「…………え?」

当惑する真澄をそのままに、千結はイヤホンを両方耳にはめた。

「歌って。頭の中にぐるぐる回ってる曲、スッカラカンになるまで」

真澄が手のひらを固く握る。
やがて聞こえてきた歌声は、卒業式のために練習していたメロディではない。
先程、千結が聞きながら口ずさんでいたドラマの主題歌だった。

「……これ」

フレーズを途中で区切った真澄が声を戻す。

「さっき、待っててくれてた時に歌ってましたよね。その部分しか残ってないけど……ドラマの曲でしたっけ」
「そう。日曜の夜やってる、刑事モノの」
「あー……あれか。今から見て追いつけますかね」
「見逃し配信あるし、最終回前におさらいみたいな特番やるから大丈夫……と思う」

配信アプリを立ち上げて作品ページを開く。
宣伝動画が再生されて主題歌も流れてきた。
ふんふんと頷きながら真澄はリズムを取る。
耳馴染みのあるフレーズに差し掛かったのか、口角が上がる。
いつしか、千結もそのフレーズを口ずさんでいた。真澄の声も合わさりユニゾンが白い空に溶けていく。
ワンコーラス分をふたりで歌い切ると、余韻のままに見つめ合って小さく笑った。

「……千結先輩と歌うの、結構好きでしたよ」
「そう? じゃあ今、頭に入った声は忘れないように鍵かけてしまっておいて」
「だからプレーヤー人間じゃないですって。でも……そうですね。この歌声だったらずっと回ってても悪くないかな」

まっさらな真澄の笑顔に、ひとつ何かが響いて芽生えた。音符に質量はないけれど、そんな感覚が千結の心をくすぐる。
そして自分の背負うリュックの重さがほんの少し愛おしく思えるような──そんな錯覚に身を委ねる。

歌ひとつで劇的に何かが変わった訳では無い。
ただ、天秤の傾きが入れ替わるように、目の前の世界は瑞々しさを増した。
薄い雲の向こうに見つけた夕日に目を細めて、千結はリュックを背負い直した。