校門を出て、しばらく歩く。
途切れ途切れに聞こえる真澄の鼻歌は、卒業式の練習曲だ。もちろん正しい音程を保っている。

「そうやってる時も、頭の中で鳴ってるの?」
「音のことです? うん、直前まで聞いてると耳に残っちゃうんで」
「すごいね」

抑揚のない声音で言ってしまってから、皮肉に聞こえなかったかと千結は慌てて口を噤む。しかし、真澄は気にした様子を見せなかった。

「制御不能なんで、すごくはないです。脈絡なく鳴るし、もう聞きたくないのに止まらないこともあるし。自分のことながらどうにもならないです」
「そう、なの?」

意外だった。
思いのままに再生したり止めたりできると思っていた。だからそのまま素直に言ったのだが、「それじゃプレーヤー人間じゃないですか」と真澄はまたしてもころころ笑った。

「──だから、ごちゃごちゃとっ散らかってるんです。私の頭の中」

語尾にいくにつれて真澄の声が下がった。
声量も、温度も。
口を挟むのが憚られて、千結には言葉の続きを待つしかできない。

「一度聞いた音がぐるぐる回り続けるんです。やめたくても言うこと聞いてくれない。自分の頭なのにですよ? 退屈な授業なら暇潰しになるけど……だからって好きなメロディが鳴る保証も無いし。体から音楽を放出すればいいのかと合唱部に入りましたけど──だめでした。当たり前ですよね。出すためにはメロディを頭に入れなきゃいけないんですから」

そこで真澄は顔を上げる。バッカみたいですよね、と千結にではなく、空に言い放った。

「そんな──バカ、なんて言わないで」
「私、千結先輩が羨ましいんです」

ありきたりすぎて慰めにもならない言葉を一応返してみたものの、その後が続かない千結を見切っていたのか、真澄は脈絡のないことを言い出した。

羨ましい? 
それでも千結は懸命に思考を巡らせるが、どうしてもその感情に行き着く道筋はわからない。

「千結先輩は、いろんなものを持ってるじゃないですか」

そう言われて、家族や友人の顔が浮かぶ。それともこの三年間、曲がりなりにも合唱に打ち込んだ努力のことだろうか。
しかし、真澄は千結のリュックを指さした。

「準備万端っていうか、転ばぬ先の杖? みたいな感じでいつでも何にでも備えられててすごいなーって、わりと本気で思ってるんですよ」

千結の予想は外れた。
目に見えない、感傷に浸れるようなものではなく、もっと即物的な──まさしく“物”を持っているということか。
ロマンチックな思考をそのまま口に出さずに済んでほっとすると同時に、直前まで真澄が頭の中の話をしていたからそれにつられたのだと、誰に聞かせる訳でもない言い訳が脳内をつらつらと巡っていく。
それを振り切るように首を振ると、真澄は怪訝な顔をした。

「や、確かに持ってないと不安っていうか、何かあったらどうしようって考えてついあれもこれも詰め込んではいるけど……そんな、大層なものじゃない、よ?」
「でも、私は先輩のその不安に救われたんですよ。誰かに何かを差し出せるって、どんな才能にも勝ると思います。これ──覚えてます?」

そう言って立ち止まった真澄が、小ぶりなリュックから何かを取りだして見せる。
千結には見覚えがあった。
ヘ音記号を模したペーパーリングだ。

「入部したてで楽譜バラまいて途方に暮れてた時、千結先輩がくれたものですよ。穴あけパンチまで持ってた千結先輩がこれに通してくれてどれだけ助かったか」
「そ、それまだ持ってたの……」

確かにそれは千結があげたものだった。
まだ真澄が入部したての頃は声の大きな熱血部員も残っていたため、その名残として多くの課題曲に取り組んでいた。
右も左もわからぬ新入部員にあれもこれもと楽譜だけ積み上げて渡してもわからないだろうにと気を揉みつつも、彼女たちに意見のできなかった千結だが、目の前で1枚ずつファイルに綴じていた真澄が緊張やら困惑で束ごとバラまいてしまった時、千結も流石に見過ごせなかったのだ。
咄嗟に荷物を開けて見つけたのはペーパーリング。
ト音記号とヘ音記号のセットで買ったものだった。
あーあ、と嘲笑するような声を押しのけて、無言で楽譜を掻き集める真澄に駆け寄ると、一緒に拾い集めて音楽室の隅に連れて行った。
埃を払ってからこれまた用意しておいた穴あけパンチを使い、くるりとヘ音記号を通して留めてやればとりあえずの体裁は繕えた。
ありがとうございます、と泣きそうな声で礼を言った、真澄の辛そうな顔が重なるように思い出される。

「嫌な思いさせちゃったよね。結局あの後、あの子たちと揉めたし。だから──そんな嫌な思い出の品なんて、大事に持ってなくてもいいんだよ」
「千結先輩のせいじゃないです」

目線を泳がせる千結の言葉を、真澄はきっぱり遮った。
驚いた千結が顔を上げると、唇を引き結んだ真澄が目の前にいる。
怒っている訳では無い。
僅かにわなないた唇が、別の感情を押し殺していた。

「……備えあれば憂いなしって、誰の憂いをなしにしたいんだろうって思ってる」

一度ごくりと喉を鳴らしてから、明るさを装った声で千結は言う。真澄は怪訝そうに続きを待っている。

「もちろん、自分が困らないためにあれこれ用意してるのが一番の理由だけど……持ってるもので誰かの助けになるならラッキーだなって。それで感謝されたら、こっちだってなんか嬉しいじゃない?」

真澄は無言で頷く。
唇のわななきが小さくなっているのを見て、千結は頷いた。

「だからさ、私の大荷物は自分がいい思いするためにやってることだから、あんまり気負わなくていいよ。あの時は見てられなかったからだし、たまたまリングを見つけただけだし、ト音記号はお気に入りだけど、ヘ音記号はそうでもなかったから手放してもいいやって思ったから──かもしれないし」

そうおどけて結べば、真澄が眉を八の字にして「ええ……!?」と脱力した。

「せっかくのいい話、そんなオチにします?」
「そうかもしれないってこと。私だってあの時の自分の気持ち、はっきり覚えてはいないし……それなら、面白いほうがいいかなって」

本心だった。
あれこれと物理的に抱え込むばかりの千結だが、思考は別だ。
あっけらかんとそう言ってしまえば、真澄は肩の力を──否、頭でっかちになった思考を手放すように大口を開けて笑った。

「ちょ、笑いすぎ」

若干引き気味に突っ込む千結だが、真澄はお構い無しに笑い続けた。
通学路が住宅街のド真ん中でなくて良かったと心から思う。