職員室へ通じる廊下は、ひと際静かだ。
この校舎は生徒の教室がある学生棟と、音楽室や家庭科室、それに職員室等がある特別教室棟に分けられていて、渡り廊下で行き来する。
生徒の昇降口は学生棟にあるため、昇降口へはひたすらここを抜けて、元来た道を戻らねばならないのだ。先程と同じ道程だが、芽衣とおしゃべりをしながら歩くのと、ひとり無言で歩くのでは体感距離が大きく違う。
とぼとぼという擬音が似合う千結の足取りだったが、ふと耳についた歌声に顔を上げた。

合唱部の練習だ。

ちょうど真上に音楽室があるのだ。
千結も在籍していた合唱部は、この時期になると卒業式のための練習真っ只中だ。
校歌や卒業生へのメッセージソングなど、毎年数曲を披露していた。
過去形なのは、千結のひとつ上の学年までが熱心に練習していたからだ。
音大出身の顧問が率いていた頃は、休日まで練習する程の熱の入れようだった。しかし、その顧問が他校へ異動になり、音楽の教師が変わると途端に熱が冷め──今までが度を越していたのだから普通に戻ったと評するべきなのだろうが──今やゆるい部活の筆頭になっている。
だから千結も辞めずにいられたのだが、それでもこうして放課後に練習を繰り返しているところを聞くと、やはり卒業式は外せない行事なのだと感じる。
卒業式定番のメロディが同じフレーズを繰り返してぐるぐる回る。終われない曲はいつも同じところでふつりと途切れた。
確かにここは歌いづらい音の飛び方をするところだな、と千結は去年の自分を思い出した。

ようやく渡り廊下を抜けて学生棟へ戻る。昇降口へと更に進んでいると「千結先輩?」と声が降ってきた。
千結が見上げてみると、廊下の向こう、階段の踊り場から、ひとつ下の後輩である真澄が降りてくるところだった。
黒いタイツに包まれたしなやかで細い足は陸上部向きだけれど、彼女もれっきとした合唱部員である。
ふとしたことから仲良くなり、同じアルトパートになって距離が縮まった。物怖じせずになんでもぽんぽんと口に出す可愛い後輩だ。

「あー、やっぱり先輩だ」
「どうしたの」
「珍しくひとりで歩いてたからどうしたんだろうって。お友達とケンカでもしました?」

ふふ、と悪戯っぽく笑う真澄をじとりと半目で見上げれば、千結より背の高い彼女は「あら失言」とわざとらしく目を丸くした。
芽衣のいきさつを話せば真澄は気のない風に聞いていたものの「じゃあ一緒に帰りましょ」と言い出した。

「いいの? 部活は?」
「自主練なんで大丈夫です」

ゆるい部活ここに極まれりだ。
今も耳をすませば練習している声は聞こえてくるものの、一部の真面目な面々だけが自主的に集まっているだけなのだろうか。
荷物を取ってくると言った真澄は、降りて来た階段を軽やかに駆け上がって行く。ショートヘアがふわふわと上下に揺れているのを見送るうちに、あっという間に見えなくなった。
再びひとりになった千結は昇降口の柱になんとなくもたれる。
誰かを待ってばかりだな、と虚しくなった。憂さ晴らしと手持ち無沙汰の解消も兼ねて、リュックを下ろして体の前で抱えると、スマホを取り出す。ぐるぐる巻かれたイヤホンコードを解いて耳に入れるとプレーヤーを起動する。
合唱部の部室──音楽室は特別教室棟の最上階にある。いくらゆるいとはいえ勝手に帰るのは流石にご法度だろうから、部員を上手く言いくるめてここに戻るには時間がかかるだろう。
シャッフル再生リストからは耳馴染みのあるドラマ主題歌が流れてきた。
先の展開を読ませないサスペンスものの主題歌らしく、短い拍が小刻みに迫ってくるようなリズムと切なげな歌声が気に入っている。

「──……♪、♪♪」

鼻歌になるかどうかギリギリのラインで口ずさんでいると、たたたと足音がメロディラインに割り込んでくる。
顔を上げれば真澄が降りてきていた。

「早いね」
「荷物少ないんで」

彼女が言う通り、真澄は小ぶりなリュックひとつだった。
千結がそれを持っていたとしても、絶対にサブバッグだらけになって、腕がちぎれそうになること間違いなしだ。
イヤホンを外してまたスマホに巻き付けていると「それだとコード、中で断線しますよ」と真顔で真澄が言う。

「わかってるけど、これが楽でしょ。なくさないし」
「ワイヤレスは?」
「そんな富豪だったらとっくに買ってる」

食い気味に返せば真澄はころころと屈託なく笑った。芽衣の笑顔とは違う。どちらが良いとか親しく感じるとか、そういう比較ではない。ただ、面白いから笑う──そんなシンプルな笑い声だった。

「なら真澄は? まさかこの流れでワイヤレス持ってる自慢じゃないよね?」

シンプルで心地よいはずの笑い声を遮って問うと、真澄は意外だとでも言うように目を丸くした。

「何言ってるんですか。ワイヤレスどころか有線のすら持ってませーん。てか音楽プレーヤー自体を使わないし」
「嘘ぉ!」

千結は真澄との練習を思い出す。
音程の取れたゆらがない歌声。
日頃からデモ音源を聴き込んでいないと再現は難しいメロディラインでも、彼女の声はいつもしっかりと捉えていた。

「ほんとですって。先輩に嘘ついてどーするんですか。強いて言うならここです」

真澄は自分の頭をコツンと握りこぶしで示す。

「頭の中で鳴らすんです。だから機械はいらない」

「…………はあ」

間抜けな声が出た。
いわゆる絶対音感だろうか。あれは聞いた音を何とも比べずに捉える能力だ。
それを頭の中で再現できるのだから、確かに真澄は耳がいいのだろう。
ずっと近くで練習していたにも関わらず、知らなかったことに千結の胸はちくりと痛んだ。
それぞれの学年の靴箱に向かい、出口で再び顔を合わせる。
千結はその間に表情を切り替えた。