状況をよく理解していない間に、俺は坂巻に引っ張られて廃工場を出た。
「大体さぁ、なんで俺がここに居ること知ってたんだよ」
 坂巻が建物の中に現れた時からずっと疑問に思っていたことを坂巻に聞くと、坂巻は何故か盛大に溜息をついた。
「あんた、意外と莫迦だね」
「へ」
「後ろから誰かつけてくることぐらい、想像できなかったの?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる坂巻を見て、驚きから思わず大きな声が出た。
「まさか、俺の後つけてきたの?」
 そのまさかだよ、と奴が呟いた。
「そんなことより」
 いきなり坂巻が大きな声を上げたので、俺はびくりと身を震わせた。
「私に精神的苦痛と肉体的苦痛を与えた罰を与えます」
 そう言われて、俺の頭に疑問符が浮かんだ。
 精神的苦痛、というのはなんとなく分かる。唯、肉体的苦痛というのは––––
 俺は相当分からない顔をしていたらしい、坂巻が左の手の甲を俺の前に差し出した。
 その手には、痛々しい、浅いものの大きな生傷が走っていた。
「あんたの持ってた刃物を払い落とした時に切れたの」
「えっ!?」
 あのナイフは建物の中に置いてきてしまった(と、いうか坂巻に強制的に置いて行かされた)し、まず周りをよく見る余裕なんて無かったから、全く気づかなかった。
 思いっきり混乱する俺に、坂巻が続けた。
「どうせあんたのことだから、自分が自殺する時に刃物を持ち出したのが悪いんだとか、私が素手で刃物に触ったのが悪いんだとか思ってると思うけど、違うよ、伊藤が誰かに助けも求めずに死のうとしたのが悪いの、私に話してくれたら力になれたかもしれないのにさ。独りぼっちと2人ぼっちは全然違うよ」
 廃工場にいた時、俺は混乱していて分かっていなかったけど、実は坂巻は、俺が死のうとしたことに相当怒っているらしい、歪めた顔がそれを物語っている。
「スミマセンデシタ」
 ぼそぼそと謝る俺にむかって、容赦なく坂巻が更に続ける。
「それで、その罰を決めるよって言ってるの」
「ハイ...」
「今、この瞬間から、私のことは下の名前で呼ぶこと」
 ん?思っていたのと違う。混乱がそのまま声に出た。
「はぁぁ!?」
 うん、思っていたのとだいぶ違う。かなり違う。
 もっとこう、なんというか、怖いことをされるのかと思っていたのだけど...
「だって伊藤さ、今まで何回か提案してるけどちっとも受けてくれないじゃん」
「それは、まぁ、そう、だけど」
「だったら一番良い罰かなぁと思って。殴りつけるのも嫌じゃん」
 これはこれで坂巻なりの優しさなのだろうか、一応俺が痛い目に遭わないように気を配ってくれているらしい。
「ドウシテモ...?」
「どうしても!」
 譲ってくれない。
 ここはもう、交渉できないらしい。
「はあぁぁ...」
 俺は思いっきり溜息をついた。
 坂巻は勝ち誇ったような顔をしている。
「分かったよ」
「やったぁ」
 坂巻、否、楓がそこまで喜ぶ理由はよく分からないけど、多分この先坂巻と呼んだ日には滅茶苦茶怒られるだろう。
 楓はその辺りに異常に厳しいのだ、何故かは俺には分かりかねるが。
 突然、俺の横を歩いていた楓が
「あ」
と小さく呟いて後ろを振り返った。
「綺麗」
 俺も後ろを振り返ると、眩しすぎる夕陽が目に沁みた。
 もう二度と見ることのない、見なくていいと、安堵感すら抱いていたそれは、悲しいほどに明るかった。

     *     *     *

「瑠衣ー」
 声を掛けると、ガタンと大きな音を立てて下駄箱に頭をぶつけた伊藤が見えた。
「なんで最初の呼び方に戻ったの⁉︎」
 頭をさすりながら困惑する伊藤に、私は笑いを噛み殺しながら答えた。
「最初はちゃん付けだったよ」
「そっか、いやでもじゃあなんで呼び捨てに」
 一人で動揺している伊藤––––たったいまから瑠衣と呼び始めたけど––––を眺めながら私はかなり面白がっていた。
 あの日から週末を挟んで3日経って、瑠衣は大分落ち着いてきたように見える。
 教室へと歩きながら続けた。
「だって、私は瑠衣に名前で呼ばれてるのにアンタだけ伊藤のまんまだったら変でしょ」
「それは、まぁ、そうだな、うん」
 私は、3日前、(色々と)かなり強引なやり方をとってしまったけど、とりあえず瑠衣に避けられるとか、話しかけづらくなるということが無くて良かったと安堵した。
 私たちは相変わらず、クラスの中で孤立してはいるけど、私たち2人が話せないように仕向けられるとか、暴力を振るわれるとか、そういったことは特になくて、とりあえず周りの圧と無視に耐えていれば、なんとかなることを私たちは理解していた。
「それ、大丈夫か?」
 瑠衣に指をさされた私の左手は、包帯がぐるぐる巻きになっていた。
 あの後、家に帰って私は怪我の治療をしようと思ったのだが、絆創膏で間に合うような傷ではなく、仕方がないのでガーゼの上から包帯を巻いたのだ。
「うん、傷は大きいけど浅いから大丈夫だよ」
「そうか」
 素気なく返されたが、瑠衣の固かった表情が微かに緩むのを、私は眺めていた。
「なんかさぁ、アンタ変わったよね」
というと、
「はい?」
訳がわからない、みたいな顔をされたので笑ってしまった。
「なんていうか、4月はロボットみたいな顔してたのに、段々表情筋が生き返ってきたなぁって」
「なんだそれ、ひでぇ」
 思いっ切り顔を顰める瑠衣に、だからそういうところだ、と返して、私たちは教室に入っていった。