あれから1ヶ月経った。
 俺たちの孤立は、まだ続いていた。
 俺は、こんなこと思うのも心底情けないけど、本当に精神的に参っていた。

 放課後。
 俺は近所にある、人気のない廃工場の前に立っていた。
 家に居れば、息苦しくなる。
 学校に居れば、陰口を叩かれているのがすぐに分かる。
 町に出たところで、俺を優しく迎えてくれるような場所なんて無い。
 もう、俺の居場所はどこにも無いのだ。
 だったら。
 俺は意を決して、「立ち入り禁止」と書かれているフェンスを乗り越えた。

 埃にまみれた工場の中は、静かに西日が差し込んでいた。
 こんな綺麗な橙色も、もうきっと見ることはないのだ。ドラム缶や鉄の棒が散乱している中を、俺は出来るだけ音を立てないように歩いて行った。
 俺は、誰にも迷惑をかけたくない。よく駅のホームから電車の前に飛び込んで自殺を図る人のニュースが流れてくるけど、俺はあんな風に、数えきれない人に迷惑をかける死に方はしたくなかった。
 ここなら、人は入ってこないだろうし、誰にも迷惑がかからない。
 ふう、と息を吐き出す。
 ここで、首の頸動脈にナイフを突き立ててしまえば。
 逝ける。
 震える手で、銀色に光るナイフを取り出した。首に、ひんやりとした感覚が広がった。思いっきり、押し込んだら、
 死ねる。
 腕に力を込める。首に僅かに痛みが走る。もっと力を入れれば––––
 そう思った瞬間、ガラン、と大きな音がして、工場の中に誰かが飛び込んできた。
「伊藤、なに、やってんの...?」

 坂巻だった。

 坂巻が、目を見開いて、此方を見て。
立ち尽くしていた。

  *     *    *

「いとーはさ、今日は放課後何するの?」
 帰る前に話しかけると、伊藤は少し考えて、言った。
 何もしないよ、と。
 ホントに何もしないの?と問いかけても、何もしない、の一点張りだった。
 伊藤と喋るようになってから何回かこの質問をしているけど、「何もしない」という答えが返ってきたのは初めてだった。いつも、「勉強する」とか、「寝る」とか、「ぶらぶらする」とか、いつも何かしら答えてくれたのに。
 私お得意の好奇心と、そして微かな不安が私を動かした。伊藤から10m程離れて、この廃工場まで後をつけてきたのだ。
 今も、私と伊藤は10m程離れてただ立っていた。私たちが廃工場に居ることと、伊藤が自らの首に刃物を当てていること以外は、私たちはいつも通りだった。
「伊藤、なに、やってんの...?」
 でたらめに鼓動を打つ心臓を必死に抑え込みながら問いかけても、伊藤は動かなかった。
 たった一言だけ、呟いて。
「あっち行ってろ」
と。危ないし坂巻のトラウマになりかねないから、あっち行ってろ、俺にはもう、居場所がないんだと。
 そこで私は、素直に伊藤の言う通りに––––

 する訳がない。

 私は咄嗟に伊藤の方に走り寄って、伊藤が持っていた刃物を払い落とした。
 カラン、というような音が響き渡る中を、伊藤はただただ驚いて佇んでいた。
 伊藤が驚いた理由は、多分2つだ。
 1つ目は、私が急に走ってきてナイフを払い落としたこと。
 そして2つ目は、私が伊藤のことを思いっきり抱きしめたこと。
 私の声が建物の中に反響していた。
「そんなに簡単に自分の居場所を諦めるなよ!伊藤の居場所が無いなら、私が伊藤の居場所になるから!伊藤のことひとりぼっちにはさせないから!...だから、 だからもう、二度と、こんなことしないで...」
 私が一気にここまで喋ってしまっても、伊藤はただただ魂が抜けたみたいに突っ立っていた。でも、ずっと動いていなかったその瞳が微かに揺れた。
「...情けねぇな」
 彼奴の顔には、泣き笑いのようなものが浮かんでいた。
 いつからだったか、今まで伊藤はメンタルが強い方なのだと思っていた。いつだって挫けない奴だと思っていた。
 でも違う。此奴は今まで、必死に隠してきたのだ。自分の本心を。弱みを見せないように、ずっと頑張っていたのだ。 
 それを唐突に理解した瞬間、私は伊藤に対して、どうしようもないほどの申し訳なさと、自分の不甲斐なさに対する落胆、その他にも色々な感情が溢れて、視界が滲んでいくのをどうしようもできなかった。