「瑠衣ちゃん、おはよう」
「...おはよう」
 驚きつつも、隣の席のクラスメイトに目を向ける。にっこりと笑って、そのクラスメイトの女の子は優しげに笑った。
「なんの本読んでるの?」
「...哲学関係の評論文だけど」
「うわぁ、難しそう」
「慣れれば面白いよ」
 会話を軽やかに展開させながらも、俺は心の中で口をあんぐりと開けていた。それを悟られないよう、少しだけ俯く。
「ごめんね、今まであんまり話しかけなくて。そういえば、瑠衣ちゃんに対する噂話は、全部デマだったって。葵ちゃんが、『間違ってた』って訂正してた」
「そうなんだ、...大丈夫だよ」
「酷いよねぇ」
「え?」
「葵ちゃん、確実じゃない話持ち出してさ、瑠衣ちゃんと楓ちゃんが孤立しちゃったじゃない。確実じゃないなら、最初から話さなければ良いのに」
 酷い?圦里が?
 要するに、この子は圦里たちのことを「無責任だ」と言いたいのだろうか。
 勿論、嘘の情報を流した圦里たちが、悪くないわけがない。あの出来事を、ころっと簡単に許せるわけでもない。
 でも、俺が思うに、その不確定な情報に踊らされて、事実確認もせずにクラスメイトを孤立させた挙句、間違いだったと分かった途端に掌を返し、自分が信じた情報源を叩く大多数の人間の方が、哀れで、無責任に思える。
「ごめんね、読書の邪魔しちゃって」
「ううん、全然」
 ぱっと笑顔を作って、かぶりを振った。
 ほっとしたように表情を緩ませて、その子は席を立って行った。

「瑠衣」
 放課後、俺は人気のない教室で本を読んでいた。楓に呼ばれて其方に顔を向けると、楓がにこにこと笑って言う。
「来週の月曜日、空いてる?」
「...学校は?」
「土日月と三連休じゃん。空いてる?」
「あ、そっか。なら空いてるけど、なんで?」
「どっか行こうよ。デートしよ」
 また此奴は。ニコニコしながら、おっそろしいことを言う。
「...場所は?」
「お、乗り気だね」
「あいにく、用事もないのに恋人?の誘いを断るほど堕ちていないもので」
「ちょっと待ってそれもう一回言って」
 僅かに頬を染めて、楓が嬉しそうに捲し立てる。俺は困って目を逸らした。
「あいにく?」
「違う」
「堕ちていないもので?」
「違う、もうちょっと前」
「誘いを断るほど」
「その前」
「用事もないのに」
「なんで飛ばしちゃうの!」
「楓は俺を殺したいのか?」
「そんなわけないじゃん。なんで?」
「キャパオーバーで俺が倒れかねない」
「自分から言ったくせに」
 楓が少し意地悪く声を尖らせる。でもその表情は、どこか楽しそうに輝いていた。
「じゃあ、駅前に9:30集合とかでどう?」
「良いよ」
「やったぁ、楽しみにしてるね」
「うん、俺も」
 思わずそう言うと、楓がにっと笑ったのが見えた。
「瑠衣は随分素直になったねぇ」
「誰のせいだと...」
「嫌だなぁ。褒めてるんだよ」
「いや、褒めてる顔にはとても見えない」
「ひどーい」
 楓がそう言って、楽しそうに笑った。

「...家族に言う口実考えないとなぁ」
「なんで?友達と出掛ける、って言えば良いじゃん」
 俺がぼそりと呟くと、俺のシャーペンをいじくり回しながら楓が応えた。
「俺の口から友達って単語が出たことほぼ無いんだよ」
「まあ、確かにねぇ。瑠衣は嘘が下手だから」
 悪びれずにサラリと楓が言った言葉が、俺の胸にさくっと刺さった。
「心が痛い。デリカシーない」
「あ、ごめん」
 楓が申し訳なさそうに眉を下げた。
「でも、下手にはぐらかされるよりかはずっと良い」
「どういうこと?」
「上辺だけの付き合いよりかは、何でも言ってくれた方が居心地が良いってこと」
「そういうもん?...まぁ、言い回しには気を付けるよ」
「うん」
 そう返しながら、俺は頬杖をついて考えを巡らせた。
「...いっそのこと放っておいてくれればなぁ」
「え?」
「いっそのこと放っておいてくれれば、俺がどこに行こうが何をしようが干渉されないだろ、楽じゃん」
「...放っておかれるくらいなら、なんでも良いから目を向けてくれた方が嬉しいでしょ」
 そう言いながら俯いた楓の声には、僅かに棘があった。でも、その棘は細くて、柔くて。俺はその棘をへし折ってしまったことに、その時は気づいてすらいなかった。

    *     *     *

「...いっそのこと放っておいてくれればなぁ」
 瑠衣の声が聞こえて、心臓が大きく波打ったのを感じた。
「え?」
「いっそのこと放っておいてくれれば、俺がどこに行こうが何をしようが干渉されないだろ、楽じゃん」
 何でもないように言う瑠衣の言葉に、吐いた息が震える。
「...放っておかれるくらいなら、なんでも良いから目を向けてくれた方が嬉しいでしょ」
 刺々しい声にならないように気を付けたつもりではあったけど、自分の口から零れた言葉は柔らかな棘で自分の心を刺してきて。
 でもその棘には全く気づかなかったみたいに、瑠衣は曖昧に笑っていた。


「で、一体何があったよ」
 翌日の放課後、教室でぼんやりと物思いに耽っていると、上から声が降ってきた。
「...葵ちゃん」
 葵ちゃんが私の席の前の椅子に座って、此方の顔を覗き込んできた。葵ちゃんときちんと顔を合わせるのはあの謝罪以降、初めてなような気がする。
「何があった、と言うと?」
「今日一日、楓ちゃん伊藤くんとまともに話してないでしょう」
 サラリと核心を突かれて、私は微かに目を泳がせた。
「なんで知ってるの?」
「そりゃあね」
 葵ちゃんが、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「諦めたとはいえ、一目惚れした人間と元恋敵の関係性は気にするでしょ。あ、奪う気も奪える気も毛頭ないから、そこは安心して」
「...一目惚れだったんだ」
「言ってなかったっけ?」
「聞く気も聞く機会もなかったよ」
「ふふ、そっか」
 葵ちゃんは、きっと不器用な子なのだ。
 時間をかけて話せば、素直になれない人なんだなって分かるような気がする。
 今までだったら想像もできなかったような、穏やかな空気が私たちの間を満たしていく。
「最初に戻るよ、何があったの?」
「うーん、喧嘩ってほどでもないんだけどさ。ちょっとした考え方の違い、っていうの?私がちょっと避けちゃってる感じ」
「具体的に訊いても良いやつ?」
「うーん、うん。かいつまんで話すと...親との距離感の話、かな。考え方の違いなんだけどね。瑠衣は放っておかれた方が楽で、私はなんでも良いから目を向けて欲しかった。で、瑠衣に悪気がないのは百も承知なんだけど、私がちょっと...避けちゃった、というか」
 ふぅん、と葵ちゃんが頬杖をつきながら相槌を打つ。
「聞きたいことも言いたいことも沢山たるけどさ。まぁとりあえず...召喚しようか、本人」
「え?」
 スマートフォンを取り出して軽やかに指を走らせ始めた葵ちゃんを見て、私は慌てて声を上げた。
「え、ちょっ、ちょっと待って!瑠衣を呼ぶってこと?待って待って待って葵ちゃんちょっと、え、てか連絡先」
 私の声をガン無視して、葵ちゃんがスマートフォンを耳に当てる。
「あ、もしもし伊藤くん?圦里です。...うん、まだ学校いる?...あ、いる?良かった。いま楓ちゃんと一緒に教室にいるんだけどさ、ちょっと呼ばれてくれない?...うん、うん。あ、はーい、了解。ありがとう、じゃ」
 短い会話を終えて、葵ちゃんが私に向き直った。私は机に突っ伏したまま、唸り声を上げる。
「こういうのは、拗らせる前に腹割って話すのが手っ取り早いと思うよ?」
「ゔーん、うーん、ゔー、そうなんだけど」
「二人揃って優柔不断だなぁ。ま、伊藤くんよりかはマシか」
「...葵ちゃん、意外と毒舌だよね」
 そう呟くと、葵ちゃんが首を傾げて私を見た。
「...楓ちゃんも大概でしょう」
「...瑠衣にもよく言われる」
 苦笑いして答えると、葵ちゃんが愉快そうに笑った。

「おつかれ」
 瑠衣の声がして顔を上げると、瑠衣が椅子を引いて私たちの側の机に腰掛けるところだった。
「おつかれ、ありがとね召喚されてくれて」
「...召喚って」
 瑠衣が呆れたように笑ったのが見えた。
「さて、早速だけど」
 葵ちゃんが私たちに向き直って話し始める。
「あたし、こういう仲介とか橋渡し役とか面倒臭くてやりたくないから、とっとと話し合って仲直りしてよ。早く帰りたい」
「早く帰りたいなら放っておいて良かったのに」
 私が思わずそう言うと、葵ちゃんはむすっとしたまま刺々しい声を上げた。
「2人がギクシャクしてると気になるから、あたしの生活に支障が出るの、ほんのちょっとだけどね。それが嫌なだけだから」
「何だかんだお人好し」
「ツンデレだぁ」
「違う‼︎はいじゃあ、とっとと始めるよ。何があったかは楓ちゃんから何となく聞いたけど、伊藤くんはどう思ってるの?」
「...考え方の違いは人によって勿論あるだろうし、言い方が悪かったなと思うよ。自分の考え押し付けちゃったみたいで申し訳ない」
 瑠衣の声が、静まり返った教室の空気を震わせていく。それを感じて、私はそっと顔を上げた。
「それを考えてくれてるのは分かってるよ、ごめん私が」
「あーもー埒が開かないよ。ごめん合戦で曖昧になる奴でしょそれ、絶対」
 葵ちゃんが私の言葉を遮って声を上げた。口は悪いけど、言っていることは間違っていると思えない。
「行くよ。じゃあ楓ちゃん、本当に目を向けてくれるなら何でも良いって思ってる?」
「...暴力とか暴言は嫌だけど、でも...自分の存在があるかどうか分からなくなっちゃうから...何もないよりはマシかな」
「なるほどね。伊藤くんは?放っておいて欲しいって心の底から思ってる?」
「干渉されて、自分の好きなものとかやりたいこととか、ねじ曲げられちゃうから...それなら、放っておかれた方が良いかなって」
「...なんであたしが聞き取り調査しなきゃいけないの。じゃあ、2人が親に本当に求めることは何?」
 葵ちゃんが机に突っ伏しながら言う。
 態度は雑だけど、葵ちゃんはこういうトラブルの原因を解きほぐすのが本当に上手い。
 問われた私たちの声が揃った。
「「自分を真っ直ぐ見て欲しかった」」
 葵ちゃんが顔を上げて、ふっとその目が優しく笑った。
「なぁんだ、2人とも考えてること一緒だったのね。じゃあお互いがお互いを真っ直ぐ見てあげれば良いじゃない。家族の問題を今すぐ解決することは難しいかもしれないけどさ、2人とか、あたしは、他の人よりは真っ直ぐ見てあげられるんじゃない?」
 お互いが、お互いを、真っ直ぐ見てあげる。
 葵ちゃんの言葉が、私の胸にすとんと落ちてきた。苦しかった呼吸が、少しだけ楽になったような気がする。
「...葵ちゃん」
「なに?」
「ありがとう」
「あ、何解決した感じ?」
 ぽかんとした様子で葵ちゃんが私と瑠衣の顔を交互に見やる。それを見て、私と瑠衣は顔を見合わせて笑った。
「うん、解決した。ありがとう圦里」
「そ、じゃああたし帰るわ」
「葵ちゃん」
 立ち上がった葵ちゃんに声を掛けると、ふいと葵ちゃんが振り向いた。
「葵ちゃんも、何かあったら頼ってね、力になれるかもしれないからさ」
 葵ちゃんの目が一瞬驚いたように見開かれて、ふっと笑った。
「楓ちゃんに頼るくらいなら香織と燈璃(あかり)に頼るわ」
「...酷すぎる」
「嘘ウソ。ごめんね、ありがとう。じゃあね」
「うん、またね」
「また」
 葵ちゃんの足音が聞こえなくなってから、瑠衣に向き直って小声で尋ねた。
「ねぇ、アカリって誰?」
「え?」
 瑠衣が素っ頓狂な声を上げる。
「クラスメイトの名前ぐらい覚えろよ。原中燈璃、いつも圦里と鈴谷と一緒にいるだろ」
「あ、あの子か」
 やっと合点がいった私を見て、瑠衣が全く、といった調子で笑った。