「...ってことがあってさ。その子にどうしてあげれば良いと思う?」
 人気のない、蒸した教室で、自分の机に突っ伏してペラペラと喋り続ける俺の前には、困惑した様子の圦里が座っている。
「...なんであたしに聞くの?」
「此間、潔く応援に回ろうと思うって言われたし、さっきも嫌だったら言ってって伝えたのに了承してくれちゃったし。何より他に相談できる人がいない」
「確かに言った。けどさ、それ、あたしが判断できたことじゃないと思うんだけど」
 呆れた様子で頬杖を突く圦里に、心の中で尤もだと思いながらも続ける。
「圦里に丸投げしようとは思ってないけどさ。俺も判断に困って」
 はぁと溜息を吐いてから、圦里は此方を向いて無愛想に尋ねる。
「伊藤くんは?どうしたいのさ」
「本人が言いたくないなら訊かない。でも話して楽になるなら話して欲しい」
「それを言えば良いじゃん」
「むり。そんなの言えない」
「じゃあ諦めな」
「酷」
 圦里は情けない顔をする俺の頭をこつんと小突いて、
「前から思ってたけど、その優柔不断さ、どうにかならないの」
と刺々しい声を上げる。
「...前ってどのぐらい前だよ」
「あたしが勇気を振り絞って瑠衣ちゃんに告ったのに逃げられたときから」
「...その節は誠にすみませんでした」
「アイス買ってきたら許す」
「アイスで許してくれるんだ、楓も言ってたけど優しいよな、圦里って」
「うん、1番高いやつね」
「え、むり」
「じゃあ許さん」
 圦里が悪戯っぽく笑った。
「てかさ、楓ちゃんいつ言ってたのあたしが優しいなんていうデマ」
「圦里と和解した直後に」
「うわ。あの子すぐ悪い人に騙されそう」
「同感。でも俺圦里と腹割って話すまでこんなに口が悪い奴だと思ってなかったよ」
「口が悪いとはなんだ。伊藤くんも似たようなもんでしょ」
「...それはそうだけどさ」
 俺は俯いてぼそぼそと呟く。
「ま、その子の為に伊藤くんがしてあげたいと思うことしたら良いよ、その子もそれで十分だと思う」
「...ん、そっか。ありがとう」
「うん」
 圦里が嬉しそうに笑った。
「それはそうと、楓ちゃんは?どこに居るの、見当たらないけど?」
「楓は職員室に課題出しに行ってる」
「課題なんてあったっけ?」
「来週が提出期限のやつ」
「早」
「でも、まぁ、そろそろ戻ってくるんじゃないかな」
 俺が頬杖をついてそう言うと、圦里はガタガタと椅子を引いて立ち上がった。
「そっか。じゃ、あたしそろそろ帰るね」
「...分かった。ありがとな、話聞いてくれて」
「どういたしまして。全然頼ってね」
 じゃ、と圦里が片手を挙げて、何かに追い立てられるように教室を出て行った。
「...やっぱり気にするよなぁ」
 圦里の足音が聞こえなくなってから、俺はぽつりと呟いた。
 圦里も鈍感な奴じゃない。俺の交友関係の狭さから、俺の想い人が誰なのか察しはついているだろう。其奴と、元々自分が片想いしていた相手。なんとなく避ける気持ちも分かる。
 ゔー、と唸り声をあげて、俺は再び机に突っ伏した。
「...人間関係面倒くせぇ」
 楓や圦里と関わるのを決めたのは自分自身だし、自己判断の結果だと頭では理解しているものの、そう思わずにはいられなかった。
「何1人で黄昏てるの」
 急に真横から声が聞こえて、俺はガーと音を立てて椅子ごと飛び退った。
「びっっくりした。足音させろよ」
 へへ、と楓が机に顎を乗せて笑った。
「課題出してきたよ。帰ろ」
 小さい子供のように呟いて、立ち上がる。
「...応」
 俺が短く応えると、楓がにこっと笑った。立ち上がった俺に、楓が手を差し出してくる。
「...?もう立ってるぞ」
「そうじゃなくて。手ぇ繋ご」
 尚も小さい子供のように、ただサラッと恐ろしいことを言う。
「...人に見られると面倒だ」
「大丈夫大丈夫。人いないよ」
「根拠は?」
「私が課題出して帰ってくるとき1人も会わなかった」
 ぽんぽんと言葉が飛び出してくるのを聞いて、うーんと唸り声を上げた。
「どしたの?」
「...断る理由が見当たらない」
「じゃ、良いじゃん」
「......う、ん」
 にこりと笑って、楓が俺の手を取った。そのまま、俺に歩幅を合わせて歩き出す。
 廊下に出ると、楓が俺の顔をちらりと見て楽しそうに笑った。
「瑠衣」
 笑いを堪えるような、微かに震える声で楓が俺に呼び掛ける。
「何」
「顔が赤いよ」
「...煩い」
 俺がふいと顔を背けると、楓がまたも楽しそうに笑った。
 繋いだ手から、楓の体温が伝わってくる。
 嗚呼、と思う。
 人の温もりというのは、これほどまでに安心するものなのか。
 今まで、できるだけ人と関わらないように生きてきた。波風立てずに、なんとなく周りと一緒に流れていければそれで良かった。人の温かさを恋しく思ったこともない。
 でも、そう思っていたのは上辺だけで、無意識にそう思い込もうとしていて、本当はずっと求めていたのかもしれない、人の温かさとか、優しさみたいなものを。
「...ありがとう」
 言葉が俺の口から零れ出た。
「何が?」
「何でもだ」
 変なの、と言う楓を見て、ふっと笑った。

     *     *     *

『楓も機会があったら教えてよ、自分のこととか。無理のない範囲で良いけど』
 数日前の瑠衣の言葉を思い出して、薄暗い自室で1人、思わずうーんと唸り声を上げた。
 自分のこと。自分のことって、何だろうか。現在のこと?未来のこと?...それとも、過去とか...家族、のことだろうか。
 話してしまいたい、という気持ちが、ゆっくりと頭を擡げる。
 でも、話してしまって、そこから学校の先生とかに話がいってしまったら、知られてしまったら、母に何をされるか分からない。
 それは、怖い。
 額に嫌な汗が浮かんだ。母に暴力を振るわれたのは、暴言を吐かれたのは、もう何年も前のことなのに、その出来事は今も私の心の奥深くに根を張って、隙あらば私を呑み込もうとしてくる。
 はぁと溜息を吐いた。
 ぎゅっと目を瞑って、両頬を叩く。
「ご飯買いに行こっと」
 あえて明るい声を出して、立ち上がった。
 空腹のせいか恐怖のせいか、はたまた別の何かのせいなのか、微妙に力の入らない足を無理矢理に動かして、私は部屋を出た。

 翌日。
「楓」
 瑠衣に声を掛けられて、私はゆっくりと振り向いた。
「なぁに?」
「何かあった?」
 私は笑顔を崩さないようにしながら、
「なんで?」
と問うた。
 朝の下駄箱には、早い時間だからか人気がない。
「なんとなく、元気ないような気がするから」
「そんな風に見えるかなぁ。...何にもないよ、大丈夫」
 瑠衣に向かって、にっこりと笑って見せる。
「ほんとに?」
「え?」
「普段の楓なら、そんな歯切れの悪い返事はしないよ」
 嗚呼、この人は。
 本当に、私をよく見ていてくれているのだ。でも、今は、その優しさが、思いやりが、少しだけ、苦しい。
 おかしいな、私に目を向けてくれているのは、嬉しいはずなのに。
「そうかな?疲れてるのかも。もう行くね」
「いや、俺も」
 首を傾げる私に、少し困ったように瑠衣が続ける。
「...同じ、クラスだから、方向一緒なんだけど...別々に行った方が良い?」
「あ、そっか。ごめんごめん、一緒に行こ」
 へらりと笑った私に、心配そうな目を向けながら、瑠衣がゆっくりと歩き出す。
「何でも話せとは言えないし、言わないけどさ。...もっと頼ってくれて良いんだぞ」
「うん、ありがとう」
 私も瑠衣に歩幅を合わせながら、ゆっくりと思考を巡らせる。
 頼る。
 頼るって、どんな感じなんだろうか。
 1人で解決できないのは、悪いことじゃ、ないんだろうか。
 勿論、「1人で抱え込むと潰れてしまう」「人はそれぞれ得手不得手があるから、分担して物事を進めるべき」という考えがあることも、言っていることが正しいのも、知っている。
 でも、頭では分かっていても、身体が動かない、心が受け入れない。
 「なんでも1人でできる」のが素晴らしくて、「他人に助けを求める」のは弱い人がすること、そうやって母に刷り込まれてきたから。
「楓、あなた、こんなことも出来ないの?」
「ダメな子ね。誰に似たのかしら。私じゃないわ、じゃあきっとあの男ね」
「何でも1人でやるのよ。誰かに助けてもらってちゃ、周りに舐められるから。周りからの評判が下がると、私も困るの」
 母の呪いのような言葉を思い出すたびに、息が苦しくなって、頭をざーざーと血が巡る音が聞こえて、世界が私の周りからまるで引き潮みたいに遠くなって。

「......えで、楓」
 はっと顔を上げた。
 瑠衣が、心配そうに此方の顔を覗き込んでいる。
「どうした?顔色悪いぞ」
「...あ、え」
「保健室寄るか?」
「えーと、ううん、大丈夫。何でもない」
「何でもない、ねぇ」
 口の中でそんな風に呟きながら、瑠衣が教室の扉を開けて、私に先に入るよう促す。
「無理だけはするなよ」
「うん」
 真っ直ぐ正面を見たままぼそりと呟いた瑠衣に、にこりと笑って返す。
 心臓にずきりと走った鋭い痛みには、気づかないふりをした。