「おはよう」
下駄箱の中に入っている上履きを取っていると、後ろから声が聞こえた。おはよう、と返しながら振り向いて、我が目を疑った。
「...圦里」
「そうだよ、挨拶しちゃ不味かった?」
圦里が戯けたように目を白黒させて笑う。
「いや...そうじゃないけど、その...今まで挨拶されたことなかったから」
「...それはごめん」
「此間の栞ありがとね」
「ううん、全然」
「で、どうしたの?」
上履きを履きながら尋ねると、圦里は最大限に声を抑えて言った。
「告白して華麗に玉砕したものだから、もう潔く伊藤くんの応援に回ろうと思ってね」
「...は?」
「伊藤くんさ、好きな子いるでしょ」
此方を見て、にやりと笑う。
頬がにわかに熱くなるのを感じた。
「はぁあ⁉︎」
思わず大きな声を出した俺に、圦里はケタケタと愉快そうに笑った。
「いやぁ、まさか伊藤くんがここまで顔に出るタイプだと思ってなかったなぁ、えー誰だろ?」
尚も愉快そうに笑っている。俺は半ば呆れて溜息を吐いた。
「...圦里」
「ん?」
「俺で遊んでるだろ」
「あ、バレた?」
「うん、結構前からバレてる」
顔を顰めたつもりだったのに、圦里はどこか嬉しそうに、跳ねるように歩いていく。
「...あのさぁ」
俺も声を抑えて圦里に話しかけた。
「うん」
「告白して華麗に玉砕しただろ、気まずいとかない訳?」
「あるよ、そりゃ」
さっきからずっと疑問に思っていたことを訊くと、あっけらかんとした調子で返されたので拍子抜けした。
「...じゃあなんでわざわざ挨拶してくれたの」
「気まずいままじゃ嫌だし。それに、『瑠衣ちゃん』じゃなくて『伊藤くん』と話すのも意外と楽しいよ、こんなに表情豊かな人だったんだなぁって」
「表情乏しい暗い奴に何故告白してくれたのか俺は不思議だよ」
「纏ってる空気感が異質だったから面白い人がいるなぁと思ってね、そこから」
「...ふぅん」
纏っている空気が異質だった。
圦里の口調には棘が感じられないし、莫迦にされている感じもしない。
どんな風に異質なのだろうか、などとあれこれ考えているうちに、圦里は「じゃ、自分の席行くね」とさっさと教室に入っていってしまった。
「空気が異質、ねぇ」
真後ろから急に声が飛んできて、俺はびくりと身を震わせた。俺のすぐ後ろに、楓が立っている。
「おはよう」
そう言って、楓がにっと笑った。
「...耳良いな。いつからいた?」
「瑠衣が下駄箱で靴を履き替えてたあたりから」
「最初からじゃねぇか」
「えー何のこと?」
楓がしらを切るのを見て、俺は半ば呆れながら笑った。
* * *
「ねぇ、前から気になってたんだけど」
昼休みに、購買のパンの袋を開けながら話しかけると、同じく購買で買ったパンを齧りながら瑠衣がこちらに顔を向けた。
「なに?」
昼休みはいつも、瑠衣と屋上に出る為の階段に座ってご飯を食べるのが常だった。人が通るのは見たことがないし、周りで同じようにご飯を食べる人もいない。2人だけの、落ち着く空間だ。
「瑠衣ってさ、弟か妹いる?」
「妹が1人いるけど。...なんで?」
「なんか瑠衣、すごく不器用だけど面倒見良いよなと思って」
「...不器用は余計だ」
瑠衣が俯いてぼそぼそと呟いた。
私は少し笑って続ける。
「妹ちゃんとは仲良いの?」
「仲良く...は、ないかな。特別険悪って訳でもないけど。前は割と仲良い方だったんだけどね」
どこか寂しそうな、諦めたような笑顔を浮かべながら、瑠衣が云った。
「ふぅん...何かあったの?」
私の問いに、瑠衣はすぐには答えようとしなかった。瑠衣がふぅ、と息を吐き出す。
その吐息が僅かに震えているのを感じて、私は瑠衣の方に顔を向けた。
「...中3の時に、家族に話したんだ、その...」
瑠衣の首筋に冷汗が流れた。
「...無理に話さなくても良いんだよ」
私の声掛けに、瑠衣は首を横に振った。
「や、話しておきたい。前から話そうか迷ってたし」
「...そう」
「その、俺が...トランスジェンダーだってこと、家族に話した」
その時の光景が蘇ったかのように、瑠衣が顔を顰める。
「母親には、『あなたに限ってそんな筈ない』って言われて、父親と妹は...『変なこと言うな』ってさ。嗚呼、人間って自分の常識から外れたことを打ち明けられると、信じないか、受け入れないかの二択なんだなって、そん時思った」
私は息を呑んだ。
「そっから、妹とは...前ほど仲良くなくなっちゃったんだけどね」
瑠衣がそう言って、笑った。
なんだか壊れそうな笑い方だ。
「...そう、だったんだね」
私は僅かに下を向いた。
「ご馳走様でした」
急に瑠衣がぱちんと手を合わせて声を上げたので、私はぴくりと身を震わせた。
「...早」
「楓が遅いんだよ、あと5分で予鈴鳴るぞ」
「やっば!」
慌てた私を見て、瑠衣は愉快そうに笑った。
「ま、これで俺のつまんない過去の話はお終い。楓も機会があったら教えてよ、自分のこととか。無理のない範囲で良いけど」
脈拍が一気に早くなって、胸がずきりと痛む。声が震えないように気をつけながら頷いた。
「...うん」
瑠衣の方を見て、笑顔を作って見せる。
「分かった。機会があれば、ね」
ニコリと笑ってから、感情を悟られぬように顔を逸らす。少し不思議そうな顔をした瑠衣には、気づかない振りをした。
下駄箱の中に入っている上履きを取っていると、後ろから声が聞こえた。おはよう、と返しながら振り向いて、我が目を疑った。
「...圦里」
「そうだよ、挨拶しちゃ不味かった?」
圦里が戯けたように目を白黒させて笑う。
「いや...そうじゃないけど、その...今まで挨拶されたことなかったから」
「...それはごめん」
「此間の栞ありがとね」
「ううん、全然」
「で、どうしたの?」
上履きを履きながら尋ねると、圦里は最大限に声を抑えて言った。
「告白して華麗に玉砕したものだから、もう潔く伊藤くんの応援に回ろうと思ってね」
「...は?」
「伊藤くんさ、好きな子いるでしょ」
此方を見て、にやりと笑う。
頬がにわかに熱くなるのを感じた。
「はぁあ⁉︎」
思わず大きな声を出した俺に、圦里はケタケタと愉快そうに笑った。
「いやぁ、まさか伊藤くんがここまで顔に出るタイプだと思ってなかったなぁ、えー誰だろ?」
尚も愉快そうに笑っている。俺は半ば呆れて溜息を吐いた。
「...圦里」
「ん?」
「俺で遊んでるだろ」
「あ、バレた?」
「うん、結構前からバレてる」
顔を顰めたつもりだったのに、圦里はどこか嬉しそうに、跳ねるように歩いていく。
「...あのさぁ」
俺も声を抑えて圦里に話しかけた。
「うん」
「告白して華麗に玉砕しただろ、気まずいとかない訳?」
「あるよ、そりゃ」
さっきからずっと疑問に思っていたことを訊くと、あっけらかんとした調子で返されたので拍子抜けした。
「...じゃあなんでわざわざ挨拶してくれたの」
「気まずいままじゃ嫌だし。それに、『瑠衣ちゃん』じゃなくて『伊藤くん』と話すのも意外と楽しいよ、こんなに表情豊かな人だったんだなぁって」
「表情乏しい暗い奴に何故告白してくれたのか俺は不思議だよ」
「纏ってる空気感が異質だったから面白い人がいるなぁと思ってね、そこから」
「...ふぅん」
纏っている空気が異質だった。
圦里の口調には棘が感じられないし、莫迦にされている感じもしない。
どんな風に異質なのだろうか、などとあれこれ考えているうちに、圦里は「じゃ、自分の席行くね」とさっさと教室に入っていってしまった。
「空気が異質、ねぇ」
真後ろから急に声が飛んできて、俺はびくりと身を震わせた。俺のすぐ後ろに、楓が立っている。
「おはよう」
そう言って、楓がにっと笑った。
「...耳良いな。いつからいた?」
「瑠衣が下駄箱で靴を履き替えてたあたりから」
「最初からじゃねぇか」
「えー何のこと?」
楓がしらを切るのを見て、俺は半ば呆れながら笑った。
* * *
「ねぇ、前から気になってたんだけど」
昼休みに、購買のパンの袋を開けながら話しかけると、同じく購買で買ったパンを齧りながら瑠衣がこちらに顔を向けた。
「なに?」
昼休みはいつも、瑠衣と屋上に出る為の階段に座ってご飯を食べるのが常だった。人が通るのは見たことがないし、周りで同じようにご飯を食べる人もいない。2人だけの、落ち着く空間だ。
「瑠衣ってさ、弟か妹いる?」
「妹が1人いるけど。...なんで?」
「なんか瑠衣、すごく不器用だけど面倒見良いよなと思って」
「...不器用は余計だ」
瑠衣が俯いてぼそぼそと呟いた。
私は少し笑って続ける。
「妹ちゃんとは仲良いの?」
「仲良く...は、ないかな。特別険悪って訳でもないけど。前は割と仲良い方だったんだけどね」
どこか寂しそうな、諦めたような笑顔を浮かべながら、瑠衣が云った。
「ふぅん...何かあったの?」
私の問いに、瑠衣はすぐには答えようとしなかった。瑠衣がふぅ、と息を吐き出す。
その吐息が僅かに震えているのを感じて、私は瑠衣の方に顔を向けた。
「...中3の時に、家族に話したんだ、その...」
瑠衣の首筋に冷汗が流れた。
「...無理に話さなくても良いんだよ」
私の声掛けに、瑠衣は首を横に振った。
「や、話しておきたい。前から話そうか迷ってたし」
「...そう」
「その、俺が...トランスジェンダーだってこと、家族に話した」
その時の光景が蘇ったかのように、瑠衣が顔を顰める。
「母親には、『あなたに限ってそんな筈ない』って言われて、父親と妹は...『変なこと言うな』ってさ。嗚呼、人間って自分の常識から外れたことを打ち明けられると、信じないか、受け入れないかの二択なんだなって、そん時思った」
私は息を呑んだ。
「そっから、妹とは...前ほど仲良くなくなっちゃったんだけどね」
瑠衣がそう言って、笑った。
なんだか壊れそうな笑い方だ。
「...そう、だったんだね」
私は僅かに下を向いた。
「ご馳走様でした」
急に瑠衣がぱちんと手を合わせて声を上げたので、私はぴくりと身を震わせた。
「...早」
「楓が遅いんだよ、あと5分で予鈴鳴るぞ」
「やっば!」
慌てた私を見て、瑠衣は愉快そうに笑った。
「ま、これで俺のつまんない過去の話はお終い。楓も機会があったら教えてよ、自分のこととか。無理のない範囲で良いけど」
脈拍が一気に早くなって、胸がずきりと痛む。声が震えないように気をつけながら頷いた。
「...うん」
瑠衣の方を見て、笑顔を作って見せる。
「分かった。機会があれば、ね」
ニコリと笑ってから、感情を悟られぬように顔を逸らす。少し不思議そうな顔をした瑠衣には、気づかない振りをした。