「おはよう」
楓に声を掛けられて、俺は出来るだけゆっくり振り向いた。
「...おはよ」
「瑠衣、なんか今日元気ない?」
「ないよ、誰かに回答を考えてこいと言われて悩んでたら夜になってて、夜中に課題やってたんだから」
「あー、誰だろうな其奴、酷いなぁ」
楓が思いっきりしらばっくれる。
「酷いなぁー」
俺も前を向いて声を上げた。
「で、どうなったの?夜まで悩んで」
楓は相変わらずデリカシーがない。
「今聞くか?それ」
「気になるじゃん」
「...頼む、後にしてくれ」
「えええー」
楓が大袈裟に顔を顰める。
それより、と俺は話を逸らした。
「圦里と話してこなくて良いのか?」
「うん、それはそのつもりだけど。瑠衣は来ないの?」
「違うタイミングで行った方が良いと思う」
「それはそうだね」
楓が素直に同意してくれたのを見て、俺はほっと溜息をついた。
昼休みの終わり頃、俺がぼんやりと席に座っていると、楓が声を掛けてきた。
「葵ちゃんと話してきたよー」
「早いな、どうだった?」
「許してくれた。それから、殴ってごめんねって。葵ちゃん優しいね」
「...そっか、良かった」
「許してもらえないと思ってた?」
俺の素っ気ない返答に、楓が眉を顰める。
「うん、まぁ、ね。...許してくれたのは優しいなぁ、すごいなぁと思うけど、殴られた奴がよく優しいなんて言うなぁとも思っちゃって」
「それはもうひと月も前の話でしょ?それにちゃんと謝ってくれたし」
「楓は根に持たない方だと思ってはいたけど、もう少し気にしても良いと思うぞ」
「何それ。根に持って引き摺っても良いことないじゃん」
楓がからからと笑い声を立てるのを見て、俺も堪えきれずに笑った。
「確かに」
「でしょ?」
楓は嬉しそうに顔を輝かせた後、真面目な顔をして俺にぐぐっと顔を近づけた。思わず俺は楓が近づいてきた分顔を離してしまう。
「放課後は瑠衣の番だよ」
「...はい」
俺は力なく答えた。
放課後。
俺はどうも落ち着かない気分で、自分の爪先を見るとはなしに眺めていた。
目の前には圦里が立っている。
楓は私も残ると言い張っていたが、昨日のような面倒臭い展開になるのが嫌なので追い立てて帰らせてしまった。面倒臭い展開は嫌だったけど、いざ楓がいないとなると少し、いやかなり心細いのは事実だった。
「なんか、残ってもらっちゃってごめんね」
俺が声を発すると、圦里が顔を上げて、ぎこちなく微笑んだ。
「ううん、全然大丈夫。部活も今日休みだし」
「そうなんだ、良かった」
俺は笑顔を作った後、息を吸い込んで真っ直ぐ圦里を見た。
「単刀直入に言うね、昨日のことなんだけど」
圦里が身体を硬くして俯いた。俺はできるだけ静かな調子で続ける。
「話してくれてありがとう、嬉しかった」
圦里が顔を上げた。
「...え」
圦里が微かに声を震わせながら早口で捲し立てた。
「私、変じゃない?引いてない?私のこと嫌ってない?」
「全然。誰が誰を好きになったって良いんじゃない?」
回答があっさりしすぎかな、と俺は微かに不安になった。圦里は下を向いたまま、ぴくりとも動かない。
「...ありがとう」
ありがとう。
予想外の返答に困惑して、何も言えずに佇んでいると、圦里がゆっくりと顔を上げた。その瞳が水面のように揺れた。
「ありがとう、否定しないでくれて」
圦里は、俺が今まで見たことがないような優しい笑顔になった。
「今まで、自分がレズビアンっていうのを心のどこかで認めたくなくてさ。でも、瑠衣ちゃんが否定しないでくれたから、その...自分でも自分のこと、少しずつ認めていってあげられそう」
その笑顔を見て、俺の心が決まった。
息を吸い込む。
「あのさ」
「ん?」
「もしかすると、楓から聞いたかもしれないんだけど、」
息が震える。
「私、は、トランスジェンダーなんだ」
圦里の目が少し驚いたように大きくなった後、ふっと優しく微笑んだ。
「うん、楓ちゃんから聞いた。吃驚したけど、『そうなんだ』って感じだったよ」
「...引いた?」
「まさか。ありがとうね、話してくれて」
確固たる意思を持った人間の口調だった。俺のかちこちに固まっていた心が少しだけ解れたのが分かった。
「...ありがとう」
ううん、と圦里が笑って首を横に振る。
「私は...俺は、多分圦里が思っているような『瑠衣ちゃん』じゃないから。だから、圦里とは付き合えない。ごめん」
「うん、分かった」
圦里は泣き出しそうな笑顔になった。
「楓ちゃんから聞いた後から、分かってた。でも、ごめんね。諦められなくて」
「うん」
胸がずきりと痛んだ。
「カッコ悪いね、私」
いや、と俺は首を振った。
「圦里は、すごいよ」
濡れた瞳が俺の方に向けられた。
「俺は、自分の気持ちを伝える勇気がない。臆病だからさ。自分の気持ちをちゃんと言葉にできる圦里は、すごいよ」
圦里は少し驚いたように目を見開いた後、照れたように笑った。
「ありがと、伊藤くんも自分の気持ちは伝えられる時に伝えた方が良いと、私は思うよ。じゃ、最後にこれ。本当は昨日渡そうと思ってたんだけど」
左手を俺の方に差し出してきた。
その手には、一輪の向日葵が描かれた栞があった。
「向日葵ってね、本数によって花言葉が違うらしいよ。じゃ、また明日」
圦里は俺の手に栞を押し付けると、身を翻らせて行ってしまった。
「...また明日」
呆然と圦里を見送った俺の手の中には、悲しいほどに明るい一輪の花が咲いていた。
「.......自分の気持ちは伝えられるうちに、か」
さっき貰った栞を眺めてみる。
以前の俺なら、そんなことをしたところで自分が痛い目見るだけだろうと相手にしなかったに違いない。
でも。
恋をすると人は変わる、とはよく言ったものだ。
「いよいよ自分の気持ちから逃げられなくなったじゃないか」
額に手を当てて、少し笑った。
一輪の向日葵。
花言葉は、一目惚れ。
* * *
私が何をするでもなく、公園のベンチにぼんやりと座っていると、ふらりと瑠衣が現れた。
「おかえり」
私が笑ってそう言うと、瑠衣は安心したように表情を緩ませた。
「...ただいま」
涼しい木陰の下にあるベンチに腰を下ろすと、瑠衣が盛大に溜息を吐いた。
「疲れた」
「...お疲れ」
夏特有の湿気の多い重たい空気に、私はすこし汗ばんでいた。
「で、早速聞いても良い?どうなったの?」
「...断ったよ」
「ふぅん、そっか」
ぽつりと呟いた後、私も瑠衣もなんとなく黙り込んで空を眺めていた。
どんよりとした雲が、空からずり落ちそうに垂れ込めている。
「...月が綺麗だな」
瑠衣がぼそりと呟いたのが耳に入った。
私はきょろきょろと夕焼け空を見渡して、首を傾げた。月なんて何処にも出ていない。
「月なんて出てないよ」
驚いたように瑠衣が目を見開いた。
「知らないの?夏目漱石の名訳」
「何それ?」
夏目漱石は教科書にも出ているからなんとなく分かる。ただ、メイヤクと言われてもさっぱりだ。
ポカンとする私を尻目に、瑠衣はまたも盛大に溜息を吐いて項垂れた。
「...俺の勇気を返せよ」
「あー、えー、うん、なんかごめんね」
瑠衣が顔を上げて、呆れたように笑う。
「まぁ、気が向いたら調べてみてよ。よし、じゃあ帰るか」
「...うん」
なんて言うか、瑠衣がおかしい。
普段からあんまり回り諄い言い回しはしない人だから、余計にそう感じるのかもしれないけど。
もやもやとした気持ちを抱えながら、私はゆっくりと立ち上がった。
その後はいつものように話をしながら帰り道を歩いて、何事もなく別れた。
帰り道、道端に咲いたアガパンサスの花に妙に目を引かれたのは、きっとたまたまだろう。
翌日、どうしても昨日の瑠衣の言葉が気になって、図書館に行った。
図書館の隅にある、調べ物用のパソコンを立ち上げ、インターネットに繋げる。
《月が綺麗 夏目漱石 意味》
と打ち込んで、エンターキーを押した。
ずらりと並んだ記事の文章を斜め読みしながら、思わず声が洩れた。
「...え」
《「月が綺麗ですね」は、明治時代の文豪、夏目漱石が生んだ告白の言葉です。「I love you」の訳、つまり「あなたを愛しています」という意味になります。》
ふぅ、と溜息を吐いて、椅子の背もたれに身体を預ける。
頬が一気に熱くなった。
確かに、本好きの瑠衣が考えそうなことだ。
「...分かりづらいなぁ」
文句を言ったつもりだったのに、自分の声は私が想像していたよりもずっと嬉しそうに弾んでいた。
楓に声を掛けられて、俺は出来るだけゆっくり振り向いた。
「...おはよ」
「瑠衣、なんか今日元気ない?」
「ないよ、誰かに回答を考えてこいと言われて悩んでたら夜になってて、夜中に課題やってたんだから」
「あー、誰だろうな其奴、酷いなぁ」
楓が思いっきりしらばっくれる。
「酷いなぁー」
俺も前を向いて声を上げた。
「で、どうなったの?夜まで悩んで」
楓は相変わらずデリカシーがない。
「今聞くか?それ」
「気になるじゃん」
「...頼む、後にしてくれ」
「えええー」
楓が大袈裟に顔を顰める。
それより、と俺は話を逸らした。
「圦里と話してこなくて良いのか?」
「うん、それはそのつもりだけど。瑠衣は来ないの?」
「違うタイミングで行った方が良いと思う」
「それはそうだね」
楓が素直に同意してくれたのを見て、俺はほっと溜息をついた。
昼休みの終わり頃、俺がぼんやりと席に座っていると、楓が声を掛けてきた。
「葵ちゃんと話してきたよー」
「早いな、どうだった?」
「許してくれた。それから、殴ってごめんねって。葵ちゃん優しいね」
「...そっか、良かった」
「許してもらえないと思ってた?」
俺の素っ気ない返答に、楓が眉を顰める。
「うん、まぁ、ね。...許してくれたのは優しいなぁ、すごいなぁと思うけど、殴られた奴がよく優しいなんて言うなぁとも思っちゃって」
「それはもうひと月も前の話でしょ?それにちゃんと謝ってくれたし」
「楓は根に持たない方だと思ってはいたけど、もう少し気にしても良いと思うぞ」
「何それ。根に持って引き摺っても良いことないじゃん」
楓がからからと笑い声を立てるのを見て、俺も堪えきれずに笑った。
「確かに」
「でしょ?」
楓は嬉しそうに顔を輝かせた後、真面目な顔をして俺にぐぐっと顔を近づけた。思わず俺は楓が近づいてきた分顔を離してしまう。
「放課後は瑠衣の番だよ」
「...はい」
俺は力なく答えた。
放課後。
俺はどうも落ち着かない気分で、自分の爪先を見るとはなしに眺めていた。
目の前には圦里が立っている。
楓は私も残ると言い張っていたが、昨日のような面倒臭い展開になるのが嫌なので追い立てて帰らせてしまった。面倒臭い展開は嫌だったけど、いざ楓がいないとなると少し、いやかなり心細いのは事実だった。
「なんか、残ってもらっちゃってごめんね」
俺が声を発すると、圦里が顔を上げて、ぎこちなく微笑んだ。
「ううん、全然大丈夫。部活も今日休みだし」
「そうなんだ、良かった」
俺は笑顔を作った後、息を吸い込んで真っ直ぐ圦里を見た。
「単刀直入に言うね、昨日のことなんだけど」
圦里が身体を硬くして俯いた。俺はできるだけ静かな調子で続ける。
「話してくれてありがとう、嬉しかった」
圦里が顔を上げた。
「...え」
圦里が微かに声を震わせながら早口で捲し立てた。
「私、変じゃない?引いてない?私のこと嫌ってない?」
「全然。誰が誰を好きになったって良いんじゃない?」
回答があっさりしすぎかな、と俺は微かに不安になった。圦里は下を向いたまま、ぴくりとも動かない。
「...ありがとう」
ありがとう。
予想外の返答に困惑して、何も言えずに佇んでいると、圦里がゆっくりと顔を上げた。その瞳が水面のように揺れた。
「ありがとう、否定しないでくれて」
圦里は、俺が今まで見たことがないような優しい笑顔になった。
「今まで、自分がレズビアンっていうのを心のどこかで認めたくなくてさ。でも、瑠衣ちゃんが否定しないでくれたから、その...自分でも自分のこと、少しずつ認めていってあげられそう」
その笑顔を見て、俺の心が決まった。
息を吸い込む。
「あのさ」
「ん?」
「もしかすると、楓から聞いたかもしれないんだけど、」
息が震える。
「私、は、トランスジェンダーなんだ」
圦里の目が少し驚いたように大きくなった後、ふっと優しく微笑んだ。
「うん、楓ちゃんから聞いた。吃驚したけど、『そうなんだ』って感じだったよ」
「...引いた?」
「まさか。ありがとうね、話してくれて」
確固たる意思を持った人間の口調だった。俺のかちこちに固まっていた心が少しだけ解れたのが分かった。
「...ありがとう」
ううん、と圦里が笑って首を横に振る。
「私は...俺は、多分圦里が思っているような『瑠衣ちゃん』じゃないから。だから、圦里とは付き合えない。ごめん」
「うん、分かった」
圦里は泣き出しそうな笑顔になった。
「楓ちゃんから聞いた後から、分かってた。でも、ごめんね。諦められなくて」
「うん」
胸がずきりと痛んだ。
「カッコ悪いね、私」
いや、と俺は首を振った。
「圦里は、すごいよ」
濡れた瞳が俺の方に向けられた。
「俺は、自分の気持ちを伝える勇気がない。臆病だからさ。自分の気持ちをちゃんと言葉にできる圦里は、すごいよ」
圦里は少し驚いたように目を見開いた後、照れたように笑った。
「ありがと、伊藤くんも自分の気持ちは伝えられる時に伝えた方が良いと、私は思うよ。じゃ、最後にこれ。本当は昨日渡そうと思ってたんだけど」
左手を俺の方に差し出してきた。
その手には、一輪の向日葵が描かれた栞があった。
「向日葵ってね、本数によって花言葉が違うらしいよ。じゃ、また明日」
圦里は俺の手に栞を押し付けると、身を翻らせて行ってしまった。
「...また明日」
呆然と圦里を見送った俺の手の中には、悲しいほどに明るい一輪の花が咲いていた。
「.......自分の気持ちは伝えられるうちに、か」
さっき貰った栞を眺めてみる。
以前の俺なら、そんなことをしたところで自分が痛い目見るだけだろうと相手にしなかったに違いない。
でも。
恋をすると人は変わる、とはよく言ったものだ。
「いよいよ自分の気持ちから逃げられなくなったじゃないか」
額に手を当てて、少し笑った。
一輪の向日葵。
花言葉は、一目惚れ。
* * *
私が何をするでもなく、公園のベンチにぼんやりと座っていると、ふらりと瑠衣が現れた。
「おかえり」
私が笑ってそう言うと、瑠衣は安心したように表情を緩ませた。
「...ただいま」
涼しい木陰の下にあるベンチに腰を下ろすと、瑠衣が盛大に溜息を吐いた。
「疲れた」
「...お疲れ」
夏特有の湿気の多い重たい空気に、私はすこし汗ばんでいた。
「で、早速聞いても良い?どうなったの?」
「...断ったよ」
「ふぅん、そっか」
ぽつりと呟いた後、私も瑠衣もなんとなく黙り込んで空を眺めていた。
どんよりとした雲が、空からずり落ちそうに垂れ込めている。
「...月が綺麗だな」
瑠衣がぼそりと呟いたのが耳に入った。
私はきょろきょろと夕焼け空を見渡して、首を傾げた。月なんて何処にも出ていない。
「月なんて出てないよ」
驚いたように瑠衣が目を見開いた。
「知らないの?夏目漱石の名訳」
「何それ?」
夏目漱石は教科書にも出ているからなんとなく分かる。ただ、メイヤクと言われてもさっぱりだ。
ポカンとする私を尻目に、瑠衣はまたも盛大に溜息を吐いて項垂れた。
「...俺の勇気を返せよ」
「あー、えー、うん、なんかごめんね」
瑠衣が顔を上げて、呆れたように笑う。
「まぁ、気が向いたら調べてみてよ。よし、じゃあ帰るか」
「...うん」
なんて言うか、瑠衣がおかしい。
普段からあんまり回り諄い言い回しはしない人だから、余計にそう感じるのかもしれないけど。
もやもやとした気持ちを抱えながら、私はゆっくりと立ち上がった。
その後はいつものように話をしながら帰り道を歩いて、何事もなく別れた。
帰り道、道端に咲いたアガパンサスの花に妙に目を引かれたのは、きっとたまたまだろう。
翌日、どうしても昨日の瑠衣の言葉が気になって、図書館に行った。
図書館の隅にある、調べ物用のパソコンを立ち上げ、インターネットに繋げる。
《月が綺麗 夏目漱石 意味》
と打ち込んで、エンターキーを押した。
ずらりと並んだ記事の文章を斜め読みしながら、思わず声が洩れた。
「...え」
《「月が綺麗ですね」は、明治時代の文豪、夏目漱石が生んだ告白の言葉です。「I love you」の訳、つまり「あなたを愛しています」という意味になります。》
ふぅ、と溜息を吐いて、椅子の背もたれに身体を預ける。
頬が一気に熱くなった。
確かに、本好きの瑠衣が考えそうなことだ。
「...分かりづらいなぁ」
文句を言ったつもりだったのに、自分の声は私が想像していたよりもずっと嬉しそうに弾んでいた。