「楓」
 声をかけると、楓はびくりと身を震わせた。
「お、はよ」
 どぎまぎしながら此方を見る楓に、俺は首を傾げた。
「どした?なんかあった?」
「へ?」
 楓が驚いたように目を見開いた。
「え、先週のさ、あれ、えっと」
 困ったように目を伏せる楓を見て、俺もやっと先週の出来事を思い出した。
「あ」
「あー、あれ、ごめんね」
「いや、良いよ、なんていうか、嬉しかったし」
「え、...ふーん、そっか、なら良かった」
 居心地の悪い沈黙が俺たちの間に流れていく。それを堪え切れずに口を開いたのは俺の方だった。
「そういや、圦里達に殴られたの大丈夫だったか?」
「あ、うん、大丈夫、大したことなかったから」
 柔らかく笑った楓を見て、俺は無意識のうちにふぅと息を吐き出した。
「あれ、珍しい、心配してくれたの?」
 楓が茶化してきたが、俺は困って目を逸らした。
「心配しちゃ駄目なのか?」
「お、マジか、ありがとね」
 楓が珍しく素直に言った。
「なぁ、楓、お前真面目に何かあった?」
「なんで?」
「いや、今日はやけに素直だから」
「なに、あんた、普段私が天邪鬼って言いたいの?」
「違うよ、ただ妙に素直だからなんかあったのかなって」
「ふーん、別に。特に何もないよ」
「そうか?」
「そうそう」
 楓が無邪気に笑った。

 教室に入っても、誰も此方を見ることは無かった。最初はなかなかショックだったのだが、良くも悪くも人は慣れるもので、俺は平然と席に座った。
「瑠衣ちゃん」 
 隣に座っている女の子が、内緒話でもするかのように俺に声を掛けた。
「ん?」
 俺が其方を向くと、女の子が口を開いた。
「その、瑠衣ちゃん、が、二重人格者って、ほんと?」
 恐る恐るといった調子で俺の方を見た。
「違うよ。 二重人格って私の中に別人格があるってことだよね?」
「うん」
「自分でも違うと思うし、周りからそんな風に言われたことも一度もないよ」
「葵ちゃんにも?」
「うん、ないよ」
「そうなんだ」
 その子は少し驚いたような、安心したような、複雑な笑みを浮かべた。

     *     *     *

「楓ちゃん」
 数日後の放課後、教室の席に座っていると、葵ちゃんが声を掛けてきた。
「なに?」
 私はなんてことないように返そうとしたのだけど、無意識のうちに身構えていたようだ。声が少し上ずっていた。
「瑠衣ちゃん、何処にいるか知らない?」
 珍しく瑠衣に用があるらしい。いつも突っかかってくるのは私の方だったのに。
「瑠衣なら今、職員室まで日誌届けに行ってるよ、ちょっとすれば来ると思う」
「そっか、じゃあ待ってようかな」
 葵ちゃんが廊下に出ていくのが見えた。
 はぁ、と息を吐いて机に突っ伏したら、ガタンと大きな音が空っぽの教室に響いた。
 西日が美しく差し込んでいる。それを私は、虚ろな目で眺めていた。

「ごめん、遅くなった」
 瑠衣が勢い良く教室に飛び込んできて、私ははたと顔をあげた。
「ううん、大丈夫、あれ」
 私は頭を巡らせて辺りを見回してから言った。
「葵ちゃんと会った?」
「さっき?」
「うん」
「会ってないけど」
「ふーん、なんか用事あるみたいだったから」
「え、圦里が、......私に?」
「うん」
 ふーん、と軽く流してから、瑠衣も辺りを見回した。
「いないな、帰るか」
 かなりあっさりと決定し、瑠衣がさっさと歩き出した。私も慌てて後を追った。

 校門を出ようとした私たちに、少し遠くから声が聞こえてきた。葵ちゃんのようだ。
「瑠衣ちゃーん」
 瑠衣が戸惑ったように振り返った。
「ちょっと話したいんだけどさ、良い?」
 葵ちゃんが珍しく目を泳がせながら言った。
「...うん」
 瑠衣がゆっくりと葵ちゃんの後を追う。
 あれ?これ、なんか...此間と立場が逆転してない?
 あー、瑠衣ー、と私は声を張り上げた。
「この辺で待ってるよ」
「了解」
 瑠衣と葵ちゃんが校舎の方に逆戻りしていった。

 待ってる、とは言ったものの、私はどうも落ち着かない気分だった。
 瑠衣も殴られたりするのだろうか。私は慣れているから良いけど、瑠衣は––––
 私はゆっくりと寄り掛かっていた塀から身体を起こすと、2人が歩いていった方向に足速に歩いていった。