在りし日の春香を語る元クラスメイト達の多くは僕より一足早く社会人になっている。こういう節目にだけ春香を偲んでいる彼らも、普段は仕事の付き合いでの飲み会が忙しいとかそんな愚痴ばかりをグループトークに投下している。
あの頃の僕がもう少し大人で、仕事上の付き合いやビジネスの世界の常識についてもう少しわかっていれば何かが変わったのだろうかと考えたところでもう遅い。
永遠にあの日には帰れないのに、僕はずっとあの日にとらわれている。僕は春香の両親のもとから逃げ帰った後、ひきこもりになった。春香の面影を求めて春香の出演していた番組を四六時中ずっと見ていた。
留年が決まった日に、両親にやるべきことをやらないのならDVDをすべて捨てると激怒され、やむなく心が空っぽのまま復学した。家と大学を往復するだけの日々が続いた。泳ぎ方はもう忘れてしまった。
春香の追悼番組は終盤に差し掛かる。春香が主演を務めたドラマのダイジェスト、春香の主演女優賞を祝うバラエティ番組のワンシーンと来て、最後のVTRは生前の春香が出演した最後のバラエティ番組だ。収録日は事故の前日だという。見たことの無い番組だった。
随分と砕けた雰囲気の番組だった。女性アイドルが「春香ちゃんに百の質問!」のコールと共に次々と質問をしていく。
「好きな飲み物は?」
「クリームソーダです」
「幸せを感じるのはどんな時?」
「お散歩をしている時ですね。コースは秘密です。こういう何気ない時間が一番幸せです」
「最近嬉しかったことは?」
「お花見に行くことになったんです。すごく楽しみです」
春香も楽しみにしてくれていたんだ。春香に別の日に行こうと言った時、飲み会を優先されて悲しかった。僕だけが楽しみにしていたのだと思ったから。今なら分かる。春香は本当に楽しみにしてくれていたけれど、本当に仕方がない事情があったのだ。
「自分の直したいところは?」
「カッとなるとつい心にもないことを言ってしまうところです」
分かっていたはずじゃないか。僕があまりに馬鹿なことを言うから春香を怒らせた。あげく、別れようだなんて言わせて、永遠に仲直りできなくなった。もしも明日があったのなら、ちゃんと謝って、来年はお花見できたらいいねって笑い合うはずだった。
「もらって嬉しいプレゼントは?」
「大切な人が私のために選んでくれたものなら何でも」
僕は卑屈な男だった。喜んでくれるか不安だった。今なら分かる。安物でも、センスが悪くても、春香は喜んでくれた。渡せなかったプレゼントは捨てられず、未だに空っぽの金魚鉢の隣で埃をかぶっている。
「それじゃ最後の質問! ずばりっ、好きな男性のタイプはー?」
アイドルが一際テンションを上げて質問をする。春香の答えを聞くと同時に、僕は走り出していた。行かなきゃ、春香の眠る場所へ。
灰色の空の下、灰色の雑踏を駆け抜けて僕はひたすら走った。僕たちの思い出の場所を走り抜けて、辿り着いたのは春香のお墓。場所は知っていたのに、五年間ずっと来る勇気がなかった。
今日は春香の命日だと言うのに、先客は二人だけだった。僕が春香のお墓の前まで行くと、彼らは振り返る。あの日一度だけ会った春香の両親だった。
「あら、あなた……どこかで……」
春香の母親が、僕を見てあの日のことを思い出そうとしている。それよりも、と言うように春香の父親が頭を下げた。
「もう五年になるのに、わざわざ来てくださってありがとうございます。こんなに長い間忘れないでくれる方がいらっしゃるなんて春香は幸せ者ですね」
ごめんなさい。僕は春香を幸せにしてあげられませんでした。それでも、僕は春香に伝えないといけないことがあるんです。渡したいものがあるんです。何も言えないでいる僕に、春香の母親が質問する。
「春香の、お友達ですか?」
五年前、僕が春香の何なのか尋ねられた時、数々の幻聴が僕を苛んだ。今、僕の頭に響くのは笑顔でインタビューに答えていた春香の声。
――魚みたいな人が好きです。
五年前、僕はずっと不安だった。付き合い始めてからも、これは夢なんじゃないか、いつか夢から覚めるんじゃないかと怖くて仕方なかった。永遠を求めて恋人になったのに、恋人になっても永遠を信じられなかった。
――僕の人生には春香が必要だけど、僕は春香に何ができるか全然分からないんだ。魚は水がないと生きられないけど、水は魚がいなくても生きていける。それが怖いんだ。
五年前の僕は、春香と並んで川辺に並んで腰かけて、随分と弱気な発言をした。春香は僕の弱さを受け止めてくれた。
――魚心あれば水心って言うじゃない?
そう言うなり凍り付かないのが不思議なほどに冷たい川の水を、春香は両手で掬った。透き通った川の底では、静かに魚が眠っていた。
春香の手から透明な水が零れて、川に還っていく。その水の煌めきは水に心が、命があることを証明していた。
――水だって、魚がいないと生きていけないんだよ。
あの言葉が僕に存在理由をくれた。悲しい記憶に塗りつぶされてその言葉をはっきり思い出せなくなっても、僕の心の根幹の部分にずっとその言葉はあった。
だから、五年間ずっと答えられなかった問に今なら答えられる。僕は何者なのか。
「春香さんは水でした。誰にも踏み荒らされていない山の雪解け水みたいな、澄んだ水でした」
どうか届いてくれ、五年前まで。
「僕は魚です。春香さんに春だよって伝えに来た、春告魚です」
墓地の桜は花開き始めていた。もう、春だ。
春香の両親はお互いに顔を見合わせた。
「私たちはもう帰るところでしたから、ゆっくりおふたりで話してやってください。春香も喜ぶと思いますので」
そう言うと二人は静かに歩き去って行く。僕は二人の背中に頭を下げた。
僕は改めて、お墓に手を合わせて春香に語り掛ける。
「久しぶり。あの時は男のくせに小さいこと言ってごめん。寂しかったんだ。不安だったんだ。春香のことを信用していないわけじゃなかった」
当然、返事はない。それでも、僕は続ける。小糠雨が降り始めた。細かい水滴が顔と体を濡らす。
「勝手な話だと思うけど、僕はまだ春香の恋人でいたいんだ。嫌だって言うなら、直接教えてほしい。理由が僕を振るためでもいいから、もう一度会いたい」
頭上の桜に視線を移す。桜の花びらから雫が落ちた。
「今年も春が来たよ。よく考えなくても分かることだけどさ、桜って毎年咲くんだよな。あの時お花見できなかったなら、来年の約束をすればよかったんだ。今日も曇ってるから、また晴れた満開の日にでも来るよ。出来なかった五年分、これから一緒に取り戻そう」
僕は桜を見上げながら、他愛もない話をする。あの日できなかったお花見の続きだ。
「水泳、また始めようと思ってるんだ。今更プロにはなれないけどさ、ずっと立ち止まってるんじゃなくて、あの頃みたいにがむしゃらに泳ぎたいんだ」
僕がそう宣言すると、雨が強くなった。雨粒が大きくなり、静かだったこの場所に雨音が溢れかえる。
「雨、強くなって来た。そろそろ帰るね。でも、またすぐに来る。何度だって会おう」
あの日渡せなかったペアリング。安物で、今改めて見ると値段よりも安っぽく見えるセンスのない指輪かもしれない。それでも、桜色の石のついた魚モチーフのペアリングが最高に僕たちらしいと思えたのだ。僕は薬指にペアリングをはめた手を掲げてみせた。
僕は立ち上がり、墓石に背を向けて歩き出す。その時、ふっとバニラの香りがした。忘れるはずのない冬風に揺らめく君の髪の香り。
僕は思わず振り返る。供えたばかりの指輪が消えていた。
春告魚の生まれた川の水は、海へと流れる。海の水はやがて雲になり、雨となってこの世界を巡る。きっと春香が雨になって帰って来たのだ。
雨の中を泳ぐように、傘もささずに僕は歩き出す。けじめとして明日の卒業式には出ようと思う。
春告魚のように、君への執着を卒業して、きちんと就職して社会という荒海を泳いで生きていく。君が生きたこの世界を疲れ果てるまで泳ぎきろう。いつか、僕が愛した水のような人の元へと帰るその日まで。
fin
あの頃の僕がもう少し大人で、仕事上の付き合いやビジネスの世界の常識についてもう少しわかっていれば何かが変わったのだろうかと考えたところでもう遅い。
永遠にあの日には帰れないのに、僕はずっとあの日にとらわれている。僕は春香の両親のもとから逃げ帰った後、ひきこもりになった。春香の面影を求めて春香の出演していた番組を四六時中ずっと見ていた。
留年が決まった日に、両親にやるべきことをやらないのならDVDをすべて捨てると激怒され、やむなく心が空っぽのまま復学した。家と大学を往復するだけの日々が続いた。泳ぎ方はもう忘れてしまった。
春香の追悼番組は終盤に差し掛かる。春香が主演を務めたドラマのダイジェスト、春香の主演女優賞を祝うバラエティ番組のワンシーンと来て、最後のVTRは生前の春香が出演した最後のバラエティ番組だ。収録日は事故の前日だという。見たことの無い番組だった。
随分と砕けた雰囲気の番組だった。女性アイドルが「春香ちゃんに百の質問!」のコールと共に次々と質問をしていく。
「好きな飲み物は?」
「クリームソーダです」
「幸せを感じるのはどんな時?」
「お散歩をしている時ですね。コースは秘密です。こういう何気ない時間が一番幸せです」
「最近嬉しかったことは?」
「お花見に行くことになったんです。すごく楽しみです」
春香も楽しみにしてくれていたんだ。春香に別の日に行こうと言った時、飲み会を優先されて悲しかった。僕だけが楽しみにしていたのだと思ったから。今なら分かる。春香は本当に楽しみにしてくれていたけれど、本当に仕方がない事情があったのだ。
「自分の直したいところは?」
「カッとなるとつい心にもないことを言ってしまうところです」
分かっていたはずじゃないか。僕があまりに馬鹿なことを言うから春香を怒らせた。あげく、別れようだなんて言わせて、永遠に仲直りできなくなった。もしも明日があったのなら、ちゃんと謝って、来年はお花見できたらいいねって笑い合うはずだった。
「もらって嬉しいプレゼントは?」
「大切な人が私のために選んでくれたものなら何でも」
僕は卑屈な男だった。喜んでくれるか不安だった。今なら分かる。安物でも、センスが悪くても、春香は喜んでくれた。渡せなかったプレゼントは捨てられず、未だに空っぽの金魚鉢の隣で埃をかぶっている。
「それじゃ最後の質問! ずばりっ、好きな男性のタイプはー?」
アイドルが一際テンションを上げて質問をする。春香の答えを聞くと同時に、僕は走り出していた。行かなきゃ、春香の眠る場所へ。
灰色の空の下、灰色の雑踏を駆け抜けて僕はひたすら走った。僕たちの思い出の場所を走り抜けて、辿り着いたのは春香のお墓。場所は知っていたのに、五年間ずっと来る勇気がなかった。
今日は春香の命日だと言うのに、先客は二人だけだった。僕が春香のお墓の前まで行くと、彼らは振り返る。あの日一度だけ会った春香の両親だった。
「あら、あなた……どこかで……」
春香の母親が、僕を見てあの日のことを思い出そうとしている。それよりも、と言うように春香の父親が頭を下げた。
「もう五年になるのに、わざわざ来てくださってありがとうございます。こんなに長い間忘れないでくれる方がいらっしゃるなんて春香は幸せ者ですね」
ごめんなさい。僕は春香を幸せにしてあげられませんでした。それでも、僕は春香に伝えないといけないことがあるんです。渡したいものがあるんです。何も言えないでいる僕に、春香の母親が質問する。
「春香の、お友達ですか?」
五年前、僕が春香の何なのか尋ねられた時、数々の幻聴が僕を苛んだ。今、僕の頭に響くのは笑顔でインタビューに答えていた春香の声。
――魚みたいな人が好きです。
五年前、僕はずっと不安だった。付き合い始めてからも、これは夢なんじゃないか、いつか夢から覚めるんじゃないかと怖くて仕方なかった。永遠を求めて恋人になったのに、恋人になっても永遠を信じられなかった。
――僕の人生には春香が必要だけど、僕は春香に何ができるか全然分からないんだ。魚は水がないと生きられないけど、水は魚がいなくても生きていける。それが怖いんだ。
五年前の僕は、春香と並んで川辺に並んで腰かけて、随分と弱気な発言をした。春香は僕の弱さを受け止めてくれた。
――魚心あれば水心って言うじゃない?
そう言うなり凍り付かないのが不思議なほどに冷たい川の水を、春香は両手で掬った。透き通った川の底では、静かに魚が眠っていた。
春香の手から透明な水が零れて、川に還っていく。その水の煌めきは水に心が、命があることを証明していた。
――水だって、魚がいないと生きていけないんだよ。
あの言葉が僕に存在理由をくれた。悲しい記憶に塗りつぶされてその言葉をはっきり思い出せなくなっても、僕の心の根幹の部分にずっとその言葉はあった。
だから、五年間ずっと答えられなかった問に今なら答えられる。僕は何者なのか。
「春香さんは水でした。誰にも踏み荒らされていない山の雪解け水みたいな、澄んだ水でした」
どうか届いてくれ、五年前まで。
「僕は魚です。春香さんに春だよって伝えに来た、春告魚です」
墓地の桜は花開き始めていた。もう、春だ。
春香の両親はお互いに顔を見合わせた。
「私たちはもう帰るところでしたから、ゆっくりおふたりで話してやってください。春香も喜ぶと思いますので」
そう言うと二人は静かに歩き去って行く。僕は二人の背中に頭を下げた。
僕は改めて、お墓に手を合わせて春香に語り掛ける。
「久しぶり。あの時は男のくせに小さいこと言ってごめん。寂しかったんだ。不安だったんだ。春香のことを信用していないわけじゃなかった」
当然、返事はない。それでも、僕は続ける。小糠雨が降り始めた。細かい水滴が顔と体を濡らす。
「勝手な話だと思うけど、僕はまだ春香の恋人でいたいんだ。嫌だって言うなら、直接教えてほしい。理由が僕を振るためでもいいから、もう一度会いたい」
頭上の桜に視線を移す。桜の花びらから雫が落ちた。
「今年も春が来たよ。よく考えなくても分かることだけどさ、桜って毎年咲くんだよな。あの時お花見できなかったなら、来年の約束をすればよかったんだ。今日も曇ってるから、また晴れた満開の日にでも来るよ。出来なかった五年分、これから一緒に取り戻そう」
僕は桜を見上げながら、他愛もない話をする。あの日できなかったお花見の続きだ。
「水泳、また始めようと思ってるんだ。今更プロにはなれないけどさ、ずっと立ち止まってるんじゃなくて、あの頃みたいにがむしゃらに泳ぎたいんだ」
僕がそう宣言すると、雨が強くなった。雨粒が大きくなり、静かだったこの場所に雨音が溢れかえる。
「雨、強くなって来た。そろそろ帰るね。でも、またすぐに来る。何度だって会おう」
あの日渡せなかったペアリング。安物で、今改めて見ると値段よりも安っぽく見えるセンスのない指輪かもしれない。それでも、桜色の石のついた魚モチーフのペアリングが最高に僕たちらしいと思えたのだ。僕は薬指にペアリングをはめた手を掲げてみせた。
僕は立ち上がり、墓石に背を向けて歩き出す。その時、ふっとバニラの香りがした。忘れるはずのない冬風に揺らめく君の髪の香り。
僕は思わず振り返る。供えたばかりの指輪が消えていた。
春告魚の生まれた川の水は、海へと流れる。海の水はやがて雲になり、雨となってこの世界を巡る。きっと春香が雨になって帰って来たのだ。
雨の中を泳ぐように、傘もささずに僕は歩き出す。けじめとして明日の卒業式には出ようと思う。
春告魚のように、君への執着を卒業して、きちんと就職して社会という荒海を泳いで生きていく。君が生きたこの世界を疲れ果てるまで泳ぎきろう。いつか、僕が愛した水のような人の元へと帰るその日まで。
fin