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 黒槍が宙空で二股、四股、八股、十六股へと分かたれ、歳三を貫殺しようと殺到する。

「しゃあッ」

 歳三はぐんと屈み、飛び上がった。

 大地から得た反動が歳三の両脚に伝導し、歳三はその反動の力を利用して右脚で宙に真円を描く。

 ──望月(もちづき)

 原理としては空手の回し受けに近く、腕の力では受けきれない攻撃を受ける際に使用される。ただし、歳三の場合はただの受けでは済まない。受けは受けだが、攻勢防御のそれに近い。

 なお、技は例によって我流であり、元ネタもゲームだか漫画だか窺い知れない。ただ、技の名称についてはやや感慨深いものがあった。

 望月とは人名である。

 歳三が中学生だった頃、同級生に望月何某という生徒がいた。その生徒は非常にオツムの出来が良く、更に趣味も良かった。和歌やら詩歌を好んでいた彼は、ある日歳三に一つの教訓を教えてくれる。

「いいかい、佐古君。こんな歌がある。

 ──この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も無しと思へば

 これはね、藤原道長という人物が歌った和歌だ。これは簡単に言うと、"私の世界は完全で揺るぎない、まるで欠けることのない満月のようだ"という意味だ。藤原道長の自信と誇りを表していると言えるね。男は皆、彼を目指さなくっちゃいけない。野望なくして何が男だ。君もそう思うだろ?僕はね、自分の姓が入っているこの歌が大好きなんだ。いずれ僕は世界を奪るよ」

 ──完全で揺るぎない、まるで欠けることのない満月

 そのフレーズは歳三の心中に長く残る事となる。
 穴だらけで欠けまくっている人生を送っている彼だからこそ、目指す場所は満月…望月のようなものでなければいけない。

 あらゆる害意を弾き飛ばす完璧な護りの技に『望月』と名づけられたのは、今でも胸の奥で燻る歳三の想い、願いが発露したからなのかもしれない。
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 迫る黒槍、しかし甲高い金属音が鳴り響く。
 触れるもの全てを蹴り斬り飛ばす殲滅の刃と黒槍がかちあい、前者が後者を一方的に蹴り斬ったのだ。

 高速度で繰り出される蹴りは、円形の蹴撃圏内の全てを断ち斬る。守りと攻めを同時に為せる非常に便利な技と言える。

 しかし、地面に着地した歳三の表情に緩みはない。

 先の一瞬の攻防が単なる前哨戦だと歳三は理解していたからだ。

 それは勿論、眼前のモンスターも同様だろう。

 ウゾウゾと蠢く黒い塊の奥から覗く一つ眼。
 そこから放射される殺意の悍ましさは、眼前の生物が紛れもなく人類種の天敵であることを雄弁に示唆していた。

 しかし歳三はその殺気の奔流を平然と受け流す。

 かつてSNSで晒された際、日本中から

 "痴漢野郎" だとか

 "性犯罪は年齢に関わらず実刑を喰らわせてやれ" だとか

 "コイツ妖怪ひょうすべに似ているな" だとか

 "性犯罪者は二足歩行しているというだけで有害鳥獣と同じなんだから、見つけ次第射殺してしまえ" だとか


 ともかくもそんな事を延々と言われてきた歳三だ。何より恐ろしいものは人の悪意、彼はそう考えている。

 そして殺意は悪意に非ず。
 
 強く何かを達成しようとする意志自体は悪いものではない…それが歳三の考えだ。

 お互いがお互いの死を強く希求しているという状況に、歳三はどこか尊さのようなものを覚えて僅かな笑みを零した。

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 時は少し遡る。

 飯島比呂、四宮真衣、鶴見翔子の三名は所々負傷しながらも、順調に探索を続けていた。三人の表情は明るい。

 自分達は一端の探索者であるという自信が持てたからだ。

 未踏査エリアがどんどんStermのマップアプリに書き込まれていく。これは名誉と金になるデータだ。そして襲い掛かってくるモンスターも順調に斃せている。

 これまで彼等は踏破済みのダンジョンにばかり挑んでいた。

 もっと新しいダンジョンを、別の困難なダンジョンを、という思いはあったが、協会がこれを制限していたのだ。

 ダンジョン探索者協会は探索者の徒な死亡を防ぐ為、実績を基準にして探索者を甲・乙・丙・丁・戊の五つの等級に分けて管理している。

 そして、その等級に応じて入場出来るダンジョンを制限しているのだ。戊級で実績をあげれば丁級となり、丁級で実績をあげれば…というように。

 この場合、実績とは協会に納めた素材の換金総額や、もしくは未知の発見、依頼遂行件数やその成功率などがあたる。

 なお、1級~5級、A級~E級というようにシンプルに分ければいいじゃないかという意見もあったのだが、1級~5級だと1が最大なのか最小なのか分からなかったり、アルファベットを使用するのは英語圏のそれと被る。

 ダンジョン探索者協会に類する組織は諸外国にも存在しているが、それらはあくまでも別個の組織だ。系列などと思われれば沽券に関わるとして、結局甲乙式を採用した。

 この辺りは当然中国が採用している形式も鑑みた結果だ。中国では壹、贰、叁、肆、伍という大写表現を採用している。

 話が戻るが、三名は地道に実績を積み上げてきた。

 戊と呼ばれる最下級探索者から始まり、瞬く間に丙級まで至る。

 ここまで等級をあげないと雑司ヶ谷ダンジョンには挑戦ができない。協会がこのダンジョンを "丙級相当" と分類したからだ。

 協会専属の探索者が浅層を軽く探索し、出現するモンスターや内部環境について軽く調査をし、探索者達と同様に甲・乙・丙・丁・戊に分類をする。これはかなり雑な分類法で、後日分類等級が上昇したり下降したりすることもままある。

 ちなみに探索者として一端であると言われるのはこの丙級からだ。

 そして残念な事に探索者界隈では、丁級は "丁稚"、戊級に至ってはそのまま "犬野郎" と蔑む風潮があった。

 それまでの彼等には雑司ヶ谷ダンジョンに挑む資格がなかった。だが弛まぬ努力により等級を上げ、いざダンジョンに挑めば…案外にも順調に探索出来るではないか。

 丙級相当のダンジョンのモンスターと十分以上に戦えているという事実に彼等は自分達の確かな成長を感じ、その前途に無限の可能性を見ていた。

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 彼等の自信。

 これはあるいは驕りかもしれない。
 だが驕るだけの理由が彼等にはあった。

 幼馴染である彼等は、幼少の頃より三人が三人共に天才児であった。身体能力、頭の出来、共に同年代の者達を遥かに凌駕しており、その身体能力たるや中学三年生になる頃には。既に大変異前の陸上種目各種の日本記録を塗り替える程であった。

 頭の出来も似たようなものだ。
 中学三年の秋時点には。既に東京大学理科三類の合格に至る程の冴え具合を見せた。これは偏差値77を誇る日本最難関の学部だ。
 なお、中卒である歳三は掛け算の7の段と4の段がぱっと出てこない。

 しかし彼等の才は、探索者として迷宮を出入りするようになってから更に開花する事となる。

 低難度のダンジョンとはいえ、彼等は何度も探索を成功させてきた。モンスターとの戦闘も問題はない。野生の獣などより遥かに危険なモンスターをいとも容易く葬り去る手際はとても探索者になりたてのヒヨコには見えなかった。

 探索を通して、彼等はメキメキと身体能力を向上させていく。
 鶴見翔子に至ってはPSI能力と呼ばれる所謂サイキック…超能力を発現するに至った。

 大変異前には超能力など騙りか詐欺の代名詞の様に思われていたが、現在に至ってはその印象は払拭されている。
 そもそも人間の脳のスペックを考えれば超能力の一つや二つは出来てもおかしくないのだ。

 そしてモンスターの素材や、希少金属は彼等に年に見合わぬ財を齎した。

 正しく、この世の春だ。
 これはもう一種の万能感に支配されても無理からぬ事ではあった。

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 ところで、ダンジョン探索に於いては死というものは非常に身近な存在となる。5分前まで元気に仲間と話していた探索者が、300秒後には原型を留めぬミンチ肉になってしまうというのはめずらしくはない。

 そんな無慈悲な死だが、ではダンジョンではどういう状況が一番危ないのだろうか?
 罠にはまった時か、手ごわいモンスターに相対した時か、ダンジョン内で迷った時か。
 いずれも一応は正解だが、満点ではない。

 精神の高揚が自信ではなく過信に変わった時、ダンジョン内での危険度は極めて危うい域にまで達する。
 そして多くの探索者がその時に命を散らす。

 飯島比呂、四宮真衣、鶴見翔子の三名は友人知人や、あるいは親族の忠告を無視して雑司ヶ谷ダンジョンの未踏破エリアを探索した。自分達ならばそれが出来ると信じて。

 事実として薄気味悪い囁き声は鶴見翔子のサイキックにより散らされ、屍人も骨人も、墓石の怪異ですらも彼等の身体能力で蹴散らして見せた。

 これらのモンスターは決して容易い存在ではない。

 囁き声は長く聴いていれば精神に異常を来たすし、屍人は叩いても突いても斬っても体液の噴出でもって反撃をしてくる。この体液は猛悪な毒液であり、皮膚に付着でもしようものならたちまち体内に浸透する。

 その毒性は中南米に生息する小型のカエル、金色箒星(ゴールデンポイズンダートフロッグ)とほぼ同等だ。
 このカエルの毒性は非常に強い。
 体重に対する毒量が少ないにも関わらず、成体のカエル一匹分の毒で数十人の大人を殺すことができる。
 小動物などは毒をしみこませたタオルに触れるだけで死ぬ。

 また、骨人も並々ならぬ存在である。
 このダンジョンでもっとも多く出現するのがこの骨人である。見た目はそのまま人骨で、錆びた刃物や時には尖った骨で襲い掛かってくる。動きは案外に機敏で、探索者ではない一般成人男性と同程度には動ける。
 しかしそれだけで探索者を殺害できるはずもなく、当然種がある。
 この骨人というモンスターの体は "内部までみっしりと詰まった骨" で構成されているのだ。

 骨のモース硬度は4であり、これは鉄と同等である。
 骨に脆いイメージがあるのは、内部が空洞だからだ。
 "内部までみっしりと詰まった骨"であるなら、これはもう鉄人形の様なもので、並大抵の膂力では骨人を破壊する事は出来ない。

 墓石の怪異は墓石の群体とも言うべきモンスターだ。
 数個から数十個の大量の墓石が宙に浮き、探索者達を押しつぶそうと乱舞する。司令塔となる墓石が一体だけ存在し、これを破壊しない事には永久に襲われ続ける。墓石にしてもただの石ではない事は言うには及ばないだろう。

 そんな怪物共を苦戦しながらも20もそこそこの若さで蹴散らしてきたのは、まさしく彼等の才が綺羅星の如く煌めいているからだ。

 しかし、どんな場合であってもイレギュラーというものは存在する。何処のどの様なダンジョンでも起こり得る事だが、他と比して遥かに異常な危険性を持つモンスターが出現する事がある。

 この雑司ヶ谷ダンジョンにおいてのイレギュラーとは、毛玉であった。

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 雑司ヶ谷ダンジョン某所。
 墓石の影に三人の人影があった。
 彼らが件の三人の探索者なのだが、どうも様子がおかしい。

「しょ、翔子ぉ…しっかりしてよぅ…」

 四宮真衣は今にも泣きそうな声をあげた。
 いや、もう泣いているのかもしれない。
 ぽたりと零れた水滴が汗なのか涙なのか、真衣は自分でもよくわからなかった。

 ──私のせいだ、姉さんが止めてくれたっていうのに…

 彼女の膝の上には一人の少女が横たわっている。
 鶴見翔子。
 真衣の親友であった。

 目を瞑り、息を荒げ、口の端からは血を流している。
 如何にも苦しそうだが、当たり前であった。
 鶴見翔子の腹部は大きく朱に染まっていたからだ。
 読書家の彼女は所謂眼鏡女子なのだが、その大切にしているプラダのラウンドフレーム眼鏡もグラスに罅が入っている。
 ついでに言えば、彼女自身の命にも罅が入っていた。

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「真衣!声を出しちゃだめだっ…!」

 声を殺し、脂汗を滲ませながら注意を発したのは飯島比呂だ。
 "ヒーロー"などというこっ恥ずかしい渾名の彼ではあるが、30分ほどあれば軽自動車を素手で全損させる事が出来る程度に人間を辞めている。

「アイツに気付かれたら今度こそ終わりだ…」

 §

 飯島比呂が言う "アイツ" とは。
 墓石の陰から何かが地面を擦る音がする。
 衣擦れとも違うその細かい音は、例えるならば極めて細い糸だか紐だかを束ねた箒の様なもので地面を掃き清めている様な。

 比呂たちは "それ" と正面から対峙した。
 というより、相手の方から襲い掛かってきたのだ。
 "それ" の無音の奇襲を鶴見翔子が察知した。

 "それ" は一言で言うならば毛髪の怪物だった。
 
 何万何十万、いや、何百万という毛髪が球形に寄り集まった怪物だ。球形の中心部の巨大な目玉が三人を凝視しており、飯島比呂はその視線から一つの強く濃密な意思を感得する。

 すなわち、"お前たちを殺す" という意思を。

 そして交戦。
 だが"それ" はこれまで交戦してきたモンスターとは一線も二線も画していた。

 飯島比呂はダンジョン素材でつくられた槍を得物としており、四宮真衣は同じくダンジョン素材でつくられた日本刀を得物としている。鶴見翔子は後述するが、やや "特殊なモノ" を扱う。

 銃器の類は所持していなかった。
 というのも、ダンジョンのモンスターにはいまいち効果が薄いのだ。純粋に威力が足りない。では銃器もダンジョン素材を使ってつくればいいではないかと思われるかもしれないが、確かにそういった得物は販売されている。威力もそれなりにある。

 しかし、二つ問題がある。
 一つは銃本体も弾も、余りに高額だという点だ。
 彼等三人は皆良い所のボンボンなのだが、探索者協会は他人の金で武器だの防具だのを購入することを許可していない。
 あくまで身の丈にあったモノを扱えという事であり、これは探索者達の練磨を目的としている。
 良いモノを使いたければダンジョンに沢山潜って沢山稼げということだ。

 いま一つは、音の問題だ。
 轟音が鳴り響き、周辺のモンスターにわらわらと集まられてはかなわない。

 ともあれ、槍と刀、そしてちょっと特殊なモノで "それ" に挑んだ三人だが、粘戦虚しく敗走するに至った。

 厚さ5cmの鉄板を容易くぶち抜く飯島比呂の刺突は毛髪に絡めとられてダメージを与えるに至らず、同じ様に鉄板をまるで紙の様にばらばらに斬り裂く四宮真衣の斬撃はいとも容易く弾き返された。鶴見翔子の念動が不可視の衝撃となって毛玉を打ち据えるが全く堪えた様子もない。

 そればかりではない、長大な毛髪が縒り合わされて、まるでドリルのような形状と化した凶器が鶴見翔子の腹を貫いたのだ。

 ただの毛髪の塊ではない事は明々にして白々であり、飯島比呂、四宮真衣らは重傷の鶴見翔子を連れて逃げを打つ事を決めた。

 戦闘に限らず、人生には無理をしなければいけない場面、しなくてもいい場面というものがある。無理をしなければいけない場面で無理ができない者の末路は破滅だし、無理をしなくていい場面で無理をする者の末路もまた破滅だ。

 相性が悪いと見るや逃げを打つ事を決めた三人の判断の早さは称賛されて然るべきだが、不運が一点。

 後にダンジョン探索者協会によって『毛羽毛現(けうけごん)』と名づけられるこのモンスターは、彼らが戦って勝つには10年早いし、一人の死者も出さずに逃げ切るには5年早い相手であったという事だ。

 最初の交戦時、逃げを打つ際に鶴見翔子は腹を穿たれながらも強力な念動を行使した。周辺の墓石という墓石、樹木という樹木を操作し、質量攻撃を仕掛けた。
 しかし鶴見翔子もこんなもので斃せるとは欠片も思ってはいない。

「私を置いて逃げて!」

 鶴見翔子は親友二人を逃がすため、この場で囮となって死ぬつもりであった。しかし、彼等はそれこそ寝小便を垂れ流していた頃からの親友同士なのだ。そんな自殺志願を聞き入れられるわけがない。

「そんなことを言うな!」

「そんな事を言わないで!」

 飯島比呂と四宮真衣はほぼ同時に叫んだ。
 見捨てろなど、死ねと言われるより辛い事だったからだ。

 まあ随分な話ではある。なぜなら、彼等は三人が三人とも、仲間が自ら死を選ぶ事は、殴ったり蹴ったりする物理的な暴力以上に残酷な行為だと思っているにも関わらず、まず自分が囮となって残る二人を逃がそうと思っているのだから。
 三人が三人とも、囮となって死ぬのは自分はOKで親友たちはNGだと本気で思っていた。

 結句、飯島比呂と四宮真衣は重傷を負った鶴見翔子を背負い、彼女と共に逃走しようと図る。

 そして、髪の怪物はほどなくして鶴見翔子による質量攻撃から復帰した。その時には既に三人は逃げおおせていた…わけはなく、無数の墓石の裏に隠れて息を潜める事になった。今の場所から出口まで数キロはあり、その距離を追いつかれずにやり過ごす事は出来そうにもない。

 ダンジョン内でこういう状況に陥った場合、まあ大抵は死ぬのだ。
 奇跡でも起きれば話は別だが。

 §

 歳三は微弱な大気の振動を感得した。
 丁度、要救助者の信号が消失した方角だ。
 歳三はおもむろに屈みこみ、クラウチングスタートの体勢を取る。

 正直こんな体勢など取らないでも速く走る事は出来るのだが、これは全く気分の問題である。

 佐古 歳三の最高時速はマッハ4。ドゥ、と爆音に近い音がしたかとおもえば、既に歳三の姿は消えていた。