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佐古歳三は今年47となる。
ダンジョン探索者としてはもう25年勤め上げている。
紛れもなくロートルと言えるだろう。
白髪混じりの短髪、もう若くはない。
森の中……そんな中年オヤジである歳三と、銀色の体毛に覆われた巨大な熊の様な化け物が睨みあっていた。
熊は銀熊と呼ばれる羆に似た生物だが、その体長は6メートル近い。かつて日本に存在した羆の中で、もっともサイズが大きい個体が2.7メートルなのでその化け物具合がよくわかるだろう。
最初に仕掛けたのは歳三である。
踏み込みと同時に加速、そして推進。
宙空で完璧な攻撃姿勢を取った歳三は、斜め上方から膝を袈裟に落とした。
「しゃあッ」
──半月落とし
これは歳三が勝手に名づけた我流の技だ。
分かりやすく説明すれば、胴捻り飛び膝蹴りとでもいうべきか。
両の脚に力を溜め、爆発的な勢いで前方に跳躍し、腰と胴の捻りからくり出す変則的な飛び膝蹴りだ。
歳三曰く、この技は半月板でもって敵の頭を叩き潰すという威勢の良い技なのだが、歳三が想像している箇所は半月板ではなく膝蓋骨である。ただその辺の事は歳三には学がないため分からない。
歳三の身体能力からくり出されるこの恐るべきでたらめな技は、銀熊の側頭部に叩きつけられ、結果として紅い花が咲く事となった。
そう、佐古歳三は強い。
実戦で鍛え抜かれた筋肉は制式銃の至近距離からの銃撃をも弾き返し(何だったら戦車砲が直撃してもへいちゃらである)、格闘漫画を読んで覚えたよく分からないパンチは高層ビルを一撃で崩壊させてしまう。
ダンジョン探索者とは誰も彼もが異常ともいえる身体能力を有するものだが、歳三の身体能力は頭を一つどこか三つ四つ、いや、いくつも抜けていた。25年間ストイックに探索を続け、地道に鍛えれば人間だって熊の化け物を蹴り殺せる様になるのだ。
そんな彼はここ最近、とある悩みを抱いていた。ずばり自身の社会性に対しての改善欲求だ。
要するに、まともな対人関係を築きたかった。
しかし一方で彼はそんなものは見果てぬ夢だと理解している。
なぜならば歳三の外見は悪い。更にこれが致命的なのだが、彼には前科があるのだ。
それは27年前の事だ。
まだ大変異前の旧時代と呼ばれる頃、当時バイト通勤の為に埼京線を使っていた彼は、出来心からついつい目の前に立つOLのむっちりした尻に目を奪われてしまったのである。
だが目を奪われただけで、コトに及んだわけではない。歳三は性欲に囚われた事を恥じ、すぐに目を逸らそうとした。
ここまでなら罪にはならない。
しかし運が悪い事に、そのOLは実際に痴漢されてしまったのだ。そして、歳三が自身の尻を見ていたことに気付き、声をあげた。
歳三は何も反論できなかった。
アーだのウーだの、白痴めいた呻きを漏らすだけである。
自分へのあまりの自信の無さからくるコミュニケーション能力の不足が、その場の弁明を不可能なものとすた。
当時の歳三は率直に言って不細工という概念を人に落とし込んだ様な容姿で、かといってべしゃりが上手いわけでもない。趣味と言えばサボテンの飼育である。運動神経は並み以下だし、物覚えも悪い。自信なんぞ持てる筈もなかった。
更に運が悪い事に、それをスマホで撮影していた者にSNSで拡散され、彼は大炎上し、バイトを辞める事となった。それ以降は食品デリバリーの仕事とチラシ配りなどをして日々の生活を稼いで暮らしていたのだ。
歳三は逮捕され、示談だのなんだのという話をしたり……だが結局、罰金刑を受けるに至った。まごうことなき冤罪である。
彼はその事件以降、自分がまるで二足歩行の生ごみであるような気がして、ありとあらゆる自信を喪ってしまった。罪を犯していないにも関わらず、である。
性欲を感じていたこと自体が罪なのだ、と。視線を向けた事への罰なのだ、と、自戒する日々である。彼は人間が怖くなってしまった。
だが、こんな哀れな虫けらのような男にも怖くないモノがある。
それはモンスターだ。
怪物であれば話は別だ。
怪物は影でヒソヒソ歳三を小馬鹿にしたりはしない。まっすぐに、本気で、一切の裏もなく自分を殺そうと純粋な感情を向けてくる。そんな怪物連中は、歳三にとってはまるで友人のような家族のようなそんな存在であった。
勿論、それだけ親しく思っている相手であっても、戦っているんだから殺すには殺すが。
■
ここは東京都豊島区池袋にある探索者協会の本部ビルだ。 大変異前はサンシャイン60ビルと呼ばれていた。
しかし、大変異と呼ばれる世界規模のダンジョン発生後、様々な経緯を経て、政府が所有者である株式会社サンシャインシティから買い取り、改修を施したのだ。
例えば、旧サンシャインにあった専門店街サンシャインALTAは、現在ではダンジョン素材の買い取りセンターとなっている。
普段は多くの探索帰りの男女で賑わうセンターだが、この時ばかりは普段とは様子が違っていた。
原因は歳三である。
彼がセンターに足を踏み入れた途端に皆が距離を取り、ひそひそと互いに囁き合い始めたのだ。
──おい、奴だ
──手に持っているのは……銀熊の毛皮か! 頭が潰れてる……惨い事をするぜ……
──心底殺しを楽しんでいるんだな、嗤ってやがる……
──目を合わせるな、因縁をつけられても助けてやれないぞ
囁き声は歳三には聞こえない。
いや、歳三は努めて聴覚を失調させていた。
彼ほどの強者ともなると、視覚、聴覚などはある程度自身の意思で拡張なり縮小なりが出来るのだ。
歳三はガチッと歯を食いしばり、羞恥の余りに顔を紅潮させた。
よくよく聴けば、この場の誰も彼も歳三を馬鹿にしたりしていないことが分かるだろう。
しかし歳三は聴こうとはしない。
自分がこの上なく嫌悪されているという事は分かるが、嫌悪の言葉が直接耳に届くのとそうでないのとでは精神的なダメージが大きく変わるからだ。
要するに勘違いをしているのだ。
過去の大炎上により、歳三の対人関係における自信は原子より細かく木っ端微塵となっている。
誰も彼もが自分を嫌悪し、憎悪し、蔑んでいると思い込んでいる。
若くしてダンジョン探索者という危険な職に身を投じたのは、社会からの逃避という意味もあったかもしれない。
「ひっ」
喉の奥から絞り出す様な声。
歳三がちらりと声の方を見ると、黒髪の20代前半とおぼしき女性が恐れに戦慄きながら後ずさりをしていた。
買取センターの職員、青葉日美子である。
センター内には複数の受付があり、日美子はその内の一つを任されていた。
彼女はつい先日まで新米扱いだったが、最近になってようやく一端と見なされ、受付の一つを一人で担当するようになったのだが……
見目も良く快活真面目な彼女は、可哀そうに歳三の紅潮した面を真正面から拝む羽目となってしまった。激怒した歳三など、ダンジョンのモンスターより余程恐ろしい……と考えているのかもしれない。
これは歳三自身は気づいていない事だが、探索者の間でも職員の間でも、佐古歳三という男は自身が思う程みっともない男と言うイメージは持たれていない。むしろ武器も使わずに魔物を嬲り殺しにする非常に危険な男として受け止められている。
歳三がむやみやたらに無口なのも良くない。
何を考えているか分からないからだ。
極一部の職員と交友を持っているとはいえ、普段の態度が彼から人を遠ざけてしまっていた。
歳三は内心、そこまで避けないでもいいじゃないか、いや俺の様な犯罪者は避けられて当然かなどと思いつつ、別の受付窓口へと向かった。
「これを……」
無言で素材の数々をカウンターに乗せていく。
銀熊の牙、眼球、肝、全長8mの猛毒を持つ大蛇の皮、厚さ2㎝の鉄板でも食い千切る巨大な狼の毛皮……
探索者の多くが得物を使ってモンスターを狩る中、歳三は徒手空拳でモンスターをぶち殺している。
確かにダンジョン探索者という存在はダンジョンに潜っている内に生物としての強度が上昇していき、ハンドガンでパンパン撃つよりも殴ったほうが強いというような者も頻繁に現れるのだが、それでも歳三の様に何もかもを自身の肉体で殺ってしまおうという者は稀であった。
買取センターの職員、金城権太は悪党面を緩ませ不気味な笑顔を浮かべて電卓をバチバチと弾く。
権太はこのセンターの古株職員で、年の頃は五十路の手前、身長165センチ、体重103キロ、頭髪が無く、髭剃り跡が青々しい中年男性である。
風俗キチで女房に逃げられたという輝かしい経歴を持つ。ねっとりとした喋り口調とねっとりとした視線は女性探索者からは大不評だ。
探索者たちも権太の受付窓口は極力避けていた。歳三以外は。
「えへへぇ、これはこれは……。ふむ、軒並み頭部が欠けておりますね……まあよござんしょ、買取額はこれで如何です?」
歳三は頷き、"振込で" と一言述べる。権太は再び "えへへぇ" などと言う返事なのか笑い声なのか分からぬ事を言い、手元の用紙に何やらメモを書き記した。
「そうだ、佐古さん。今晩どうです?」
権太はくいっと何かをしゃくる仕草を見せる。
歳三は頷き、北口で、と言い残してその場を去っていった。
JR池袋駅の北口はラブホテルが乱立し、風俗店と飲み屋が立ち並ぶ所謂大人向けといった街並みをしている。
権太は歳三にとって数少ない友人……知人? のような存在だ。権太という男は不細工で色キチだが、歳三は彼の事が嫌いではない。
しょうもない大人同士、しょうもない話をしながら安酒を飲むのが歳三の数少ない人生の楽しみであった。
■
池袋北口。
歳三は駅から地上に向けて階段を昇り、適当な壁にもたれながら権太を待っていた。
右手には大きな白い塔が見える。
歳三は大変異の前からそれが何なのか、今度調べようと思いつつもいまだに調べていない。
権太は10分程遅れてやってきた。
「やあ~、佐古さん。待ちました?」
権太の問いに"いえ"と言いながら首を横に振る。 歳三は例え何時間待たされても"いえ"というだろう。
「いえねぇ、先日雑司ヶ谷のダンジョンで若い子のチームが消息不明になっちゃってね。あそこもほら、ウチの管轄だから。親族の方が怒鳴り込んできたわけでしてね。でもまあダンジョン探索中の事故は全て自己責任ってことになってるでしょう?その辺を説明したんだけれどどうにも興奮しちゃってねぇ。最初は怒っていたんだけれど、ついには泣き出しちゃって、もう参っちゃいました。とりあえずウチの方でも救出依頼を出すということでね、でもじゃあ報酬はどうするんだって話になるじゃないですか。ウチも慈善事業じゃあないんだから…」
権太は到着と同時に怒涛の勢いでまくし立てた。歳三は大変そうだな、とは思いながらもそれ以上の感想は持たなかった。
"若い子のチーム" など、歳三にとっては南アフリカだかどこかの錫の埋蔵量と同じ程度の興味しかない。世界が違いすぎるのだ。
「ああ、すみませんね。じゃあいきましょうか。といってもすぐそこですけど」
権太は北口出口から歩いて15秒、まさにすぐ前の居酒屋を指さす。
居酒屋「超都会」
センスの欠片もない名称のその居酒屋は、営業時間が24時間というアル中御用達の名店である。
ただしつまみは余り美味しくないし、店内は汚いし、浮浪者じみた連中も多い。
ただ、そういう人生の落後者の様な連中はなんというか…まぶしくないのだ。
前途有望な若者を視界に入れるだけで陰鬱な気分になる歳三だが、自身と同じ様に小汚い、何か前科的な意味で瑕の一つや二つはついていて当然という様なツラをした中年オヤジに対してはそこまで圧力を感じずに済む。
彼がそう感じるのは、彼等に仲間意識を抱いているからだ。店内の薄みっともない中年オヤジたちもかつては成功を追求していたのかもしれない。
しかし熾烈な競争の中で挫折し、年齢と共に希望が失われていったのだろう。
そんなオヤジ共は歳三にとって痛みを伴う鏡像ではあるが、しかしどこか慰めや安らぎに似た何かを与えてもくれる。
「あ、佐古さん、あっちに空きがありますよ」
権太は、居酒屋の奥に目を向ける。
歳三はうなずき、カウンターの方へ歩いていく。自分と同じ道を辿ったであろう中年男性たちが、酒を飲みながら無言の慰めを求めている様子が見えた。
歳三は権太の隣に座り、取りあえずとばかりにビールを注文した。権太もビールだ。
「や、や、や。まあお疲れ様でした」
権太がビールのジョッキを両手に持ち、歳三のジョッキの下半分と合わせようとする。
しかし歳三もまた権太のジョッキの下半分に合わせようとするため、中々乾杯が出来ない。
やがてどちらともなく笑いだし、ガチンとジョッキをあわせて黄金色の液体を飲み下した。
「そうそう、さっきの話。救出隊なんですが、報酬は結局その親族が出すことになってね。まあ、今依頼を出してる最中ってわけですわ。でもねえ、多分無理でしょうなあ。場所がちょっと悪いです。お気の毒様ですけどねぇ」
権太がそういうと、歳三は端末を取り出していじくりまわす。これはスマートフォンに似ているが、それより更に高機能だ。
探索者専用端末、Stermである。
Searcher's terminalを省略した名称のそれは、ダンジョンから産出された特殊な素材を使ってつくられている。この素材はStermが非常に高い耐久性と耐磁性を持つことを可能にしており、一般的な電子機器が壊れやすい厳しいダンジョン環境でも、このStermは常に探索者たちの信頼できる相棒となる。
さらに、Stermには多機能性が備わっている。
通常の通信機能に加えて、ダンジョン内の精密な地図を作成したり、探索者同士の位置情報を共有したりすることができる。さらに、ダンジョン内で遭遇する可能性のある生物や罠のデータベースを内蔵しており、探索者たちはStermを使ってリアルタイムでこれらの情報にアクセスできる。
特筆すべきはStermが持つ自己修復機能だ。ダンジョンから採掘された特殊素材は、損傷したStermの一部を修復する能力を持つ。これにより、Stermは探索者たちが遭遇する厳しい条件にも対応し、長期間にわたって使用できるのだ。
歳三がアクセスしたのは探索者協会の依頼掲示板である。依頼は探索者協会が随時発布しており、協会所属の全探索者たちに開放されている。
掲示板には探索依頼、アイテム収集、特定のモンスターの討伐、さらにはダンジョン内部の詳細な探査や救出依頼など、多種多様なものがあり、探索者は自身の能力と相談してこれを受ける事が出来る。
また、依頼掲示板はリアルタイムで更新され、新たな依頼が発生するたびに探索者たちはその情報を瞬時に得ることができる。依頼の詳細な説明、期限、報酬等の具体的な情報も掲示されているため、探索者たちは自分の能力と時間を考慮して最適な依頼を選択することが可能である。
歳三が依頼掲示板に目を走らせると、確かに権太の言う救出依頼が掲載されていた。
場所は雑司ヶ谷ダンジョン。
救出対象は三名の探索者で、皆20代前半の若者たちだった。
掲示板によれば、彼らが雑司ヶ谷ダンジョンへ進入したのは約一週間前のことで、それ以来一度もダンジョンから出てきていないとのことだ。ダンジョンの中で数日間過ごすのは探索者にとっては珍しいことではないが、一週間も音沙汰がないとなると、何らかの事故が発生した可能性が高くなる。
彼らが携帯していたStermからの通信が途絶えて以降、何度も連絡を試みたものの全く返答がないという。それは彼らがダンジョン内部で何らかの問題に遭遇したことを示唆している。それが単なる通信トラブルなのか、それとも彼らがダンジョン内部の怪物や罠によって危機に瀕しているのかは不明だ。
この依頼は、ダンジョン内部に侵入し彼らを探し出すことを求めている。そして彼らが無事であれば安全に外へと連れ出すことが要求されている。
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難しいだろうな、と歳三は思った。
雑司ヶ谷ダンジョンは比較的新しいダンジョンだ。
住所としては東京都豊島区南池袋四丁目で、広さは約10ヘクタール。これは10万平方メートルで、東京ドーム1個分の建築面積が、約47000平方メートルである事を考えるとそれなりに広い。
ダンジョンのタイプとしては、平面タイプのものだ。これは要するに、階層が分かれていると言った事はなく、平面上にダンジョンが展開されているという事である。
元はといえば雑司ヶ谷霊園という広大な霊園であり、大変異後もその形状を変化させたりはしなかったのだが、つい最近になってついに変化してしまった。
元々ダンジョンでない建築物、広場などが、ある日突然ダンジョンに変化してしまうというのは大変異以後はままあることであった。
ともかくも、新しいダンジョンには未知の素材が眠っている可能性があり、そういったものは莫大な財となる事も珍しくはない。だから新しいダンジョンが見つかってもすぐに探索者の手が入るのだが、雑司ヶ谷ダンジョンについては調査が遅々として進まない。
というのも、このダンジョンには元が霊園だからであろうか、不気味なモンスターが数多く出没するのだ。
不気味な囁き声が耳元で囁き、腐った死体がヒタヒタと背後から迫り、白骨死体が立ち上がり、刃物を振るってくる。
ダンジョン全体の雰囲気も、元霊園らしく不気味で陰鬱だ。こんな場所を好んで探索しようという者は余りいない。
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「まあ御察しの通りなんですけどねえ。ま、仕事は仕事ですから」
権太はビールを煽り、面倒そうに言う。
仕事は仕事か、と歳三は何かを感得した様に頷いた。
面倒な事、理不尽な事であっても、仕事は仕事だと割り切って淡々とやるという姿勢は歳三にとって好ましいものであった。
自身がまともな社会人ではない事を自覚している歳三は、しかしそれゆえに "まとも" というものに憧れている部分がある。
権太がタバコを咥えると、歳三は右手の人差し指と親指を合わせて権太のタバコの先へ近づけ、強くこすり合わせた。
バチンという音と共にタバコに火がつく。
どうも、と権太は頭を軽く下げ、一服しながら歳三にもタバコの箱を差し出した。
歳三もまた、どうも、と頭をさげて一本貰い、指ぱっちんで着火して深く深く紫煙を吸い込んだ。
アルコールとニコチンが体内を巡り、ふわりといい気持ちになっていく。
薄汚い店内の天井に向けて煙がたちのぼるのを見ていると、地を這うような人生にやや飽きたらなさを感じる。嗚呼、俺もあんな風に昇っていけたらいいのにと思う歳三であった。
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翌朝。
歳三の元に一本の通信が入った。
電話ではない。通信である。
Stermは特殊な方式で通信を行う。
電話回線を使わず、専用の信号塔から送出される特殊な波長を利用する。これにより、ダンジョン内部のような電波が届かない場所でも問題なく通信が可能となっている。
「やあ、やあ、歳三さん。寝起きですか?すみませんねぇ、ちょっと急用がね。ありましてね。もしお時間があるようでしたら、センターまでご足労願えませんか?どぉ~~しても!歳三さんに会いたい、会って話がしたいという人がいるんですよぉ…。直接連絡すればいいのかもしれませんが、ほら、歳三さんの個人通信先を知っている人は少ないでしょう?ウチも規則でそういうのは教えるわけにはいきませんから。まあほら、個人依頼っていうやつです。正直ね、面倒な話だとは思います。だからアレでしたら断ってくださってもいいんですよ。でもねぇ…」
歳三は権太の話はもうしばらく続きそうだと感じ、ともかくそちらまでいくと答えた。
歳三にとって権太という男は悪い男ではないが、何かのスイッチが入ってしまうととにかく話が長くなるのだ。そしてねちっこい。
急用だというので押っ取り刀で準備を済ませ、センターへと向かう。
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「やあやあやあ、歳三さん、わざわざすみませんねぇ、それで用事というのは…」
「は、はじめましてっ…!私は四宮由衣と言います。佐古歳三さんですよね、お噂はかねがね…。佐古さん、お、お願いがあります。雑司ヶ谷ダンジョンで消息を絶った私の妹の救出依頼を受けてくださらないでしょうか。わ、私が行ければいいのですが、私は雑司ヶ谷ダンジョンへの入場を許可されていないのです…。救出依頼は出してもらったのですが、いまだに受注してくださる人もいなくて…。佐古さんがこんな依頼を普段は受けない事を知っております。モンスターとの死闘にしか興味がない方だというのも。ですが、それを押してなおお願い致します…妹は私にとって…」
権太の言葉に被せるようにまくしたててきたのは、歳三の知らない娘であった。
パープルのボディスーツの腰には大振りのナイフが佩かれており、頭髪は黒髪のポニーテールと言った具合で、探索者の姉の様だった。
容姿の良し悪しは歳三には分からない。
一定以上の容姿の女性は、歳三の目には全員同じに見えるのだ。
ワァワァと言い募る彼女の話を要約すると、探索者の妹が仲間達と共に雑司ヶ谷で消息を絶った。
救出依頼を出したが誰も受けてはくれない。
お前の噂は聞いている、強いんだって?
だから助けてくれないか。
と言った所だろうか。
歳三は唸り声をあげた。
悩みの発露としての唸り声で、怒っているとかそういう意味ではない
受けるべきかどうか悩んでいるのだ。
雑司ヶ谷ダンジョンは余りデータがない。
データが無ければどうなのか?
そう、危険である。
だが歳三が悩んでいる理由は危険だからではない。
助けるのはいいにしても、間に合わなかった場合、失敗した場合が怖いのだ。
無事救出できればいいが、出来なければ?
大なり小なりバッシングされるだろう。
依頼という形で受けるのだから、全探索者に結果の情報が公開される。
歳三は炎上の恐ろしさをよく知っている。
故に即断できかねた。
しかし、断るというのもどうにも気分が良くない。
歳三は "まとも"に、"真っ当に" 生きられればいいなと常々思っている。人助けとはそれらを為す大きな一助足りえるのではないか?
だが失敗すれば…?
歳三は延々と悩み、ようやく結論を出した。
「さ、佐古さんっ!お願いします!お願いします…どうか…」
背を向けて立ち去る歳三の背に、由衣の嗚咽めいた声がぶつかり、弾ける。
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1時間後。
歳三は雑司ヶ谷ダンジョンの入場口の前に立っていた。
歳三は一つの策を巡らせたのである。
あの場では受けずに、黙って救出に赴き、無事ならそのまま救出、しかし間に合わなければそれはそれで仕方ないと撤退…この策の最大のメリットは、仮に失敗したとしても責任を負う事がない、
つまり炎上しないという点にある。
デメリットは報酬が出ない事だろうか。
しかし、それは仕方がないと歳三は割り切っていた。大体、金ならあるのだ。
そう、唸るほどある。
歳三はダンジョンに入る前に、ヤニを補充しておくことにした。彼は喫煙歴ン十年というヤニ中毒者である。
鯉の様にパクパクと口を開閉すると、不細工な煙の輪がいくつかできて歳三は嬉しくなった。
輪は〇の意味を持つ。
そして〇は合格、及第点という意味だ。
歳三はこの形が好きだった。
×ばかりの人生だったからかもしれない。
■
歳三がダンジョン入場口のリーダーに端末を翳すと、入場を許可する旨の機械的なアナウンスが流れる。
入退場の際には端末を読み込ませなくてはならない。
ただし、退場の際には端末が破損している場合もあるため、この場合は事後報告で構わない。
ダンジョン新法と呼ばれる探索者を対象にした法律でそう決められているのだ。新法では他にも様々な法律が探索者向けに調整され、施行されている。探索者は常人と比べて身体能力が非常に高く、既存の法律を適用するのはやや具合が悪いといった所だろう。
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雑司ヶ谷ダンジョンに足を踏み入れると、それまで気持ちよく晴れていた空から一変し、周辺の明度が瞬く間に落ちた。
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歳三の眼前に広がるのは暗く昏い墓地だ。
ダンジョンの恐ろしい所は、外見からそうとは分からない点にある。
"領域" に足を踏み入れて初めて分かるのだ。
故に大変異初期は思わぬ事故が絶えなかった。
しかし現在では技術も進歩し、ある程度は予測がつけられる様になっている。
墓地を見回し、Stermを取り出す。
信号が消失したのは北西に300m。
ただし、方角はともかく距離はあてにならない。
ダンジョン内では時空が歪んでいる場合もままある。つまり、このダンジョンの領域面積は10万平方メートルだが、内部では100万平方メートルに及ぶといった事も考えられるという事だ。
とりあえず北西へ向かおうと歩を進める歳三。 しかし歩き始めて数分で耳元で何かが囁きかけてくる。
何を言っているのかは分からない。ただ、その声色には多分な怨みつらみが籠められている様にも思える。
これはただの囁き声ではない。
聴覚毒とも言う様なもので、長く聞いていると精神に異常を来たす。
歳三はおもむろに鼻毛を抜いた。
長く太い鼻毛は男の証だ。
そして、それを丁寧に掌へ付着させる。
気が狂ったと思われるかもしれないが、きちんと意味がある。
歳三の上腕二頭筋がもりりと膨れ上がるやいなや、彼は両の掌を打ち合わせた。
──爆手
拍手ならぬ爆手…だが、この場合は柏手(かしわで)だ。幽霊っぽい何かに対応しようと繰り出した技であるので。
主に神社での参拝に使用されるその所作は、魔除けの意味合いも持つという。しかし歳三から繰り出される柏手は、魔除けなどという甘っちょろいモノではない。
高速で撃ち合わされた歳三の掌内で、圧縮された空気の温度が161℃にまで上昇し、掌に付着させていた鼻毛に着火して爆発を起こした。
爆風が声諸共周囲を吹き飛ばす。
だが、至近で爆撃を浴びた筈の歳三は平気の平左であった。歳三はこの程度の爆発事故では傷一つ負わない。
鍛え上げられているからだ。
歳三に火傷を負わせるとするならば、プラズマあたりをもってこなければ話にならない。
気体圧縮に伴う爆発の原理など中卒の歳三には全く分からない事だが、空気を圧縮すると爆発するという現象を彼はアニメで見た事がある。歳三の技の大部分は漫画やアニメ、小説、特撮といったものから発想を得ていた。
ダンジョン探索者という生物は探索を繰り返すうちに、その身体能力を飛躍的に向上させていくという性質を持つ。
ダンジョン内部の特殊な気体が作用しているのだとか、人間という種の真骨頂がこの窮場において発揮されたのだとか色々な説があるが、真相は定かではない。
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ところで、ダンジョン探索者になれば生物として強くなるというのなら、それこそ人類皆探索者を志してもおかしくはないようにも思える。だが現実としてそうはなっていない。
その理由は異常なまでの死亡率にあった。
例えば2019年度におけるアメリカでもっとも死亡率が高い仕事は伐採作業員だ。労働者10万人あたり、70人の死亡事故が発生している。
しかしダンジョン探索者に至っては、探索者10万人あたり、3万人の死亡事故が発生している。
素人がダンジョンに飛び込めば大体死ぬのだ。
しかしそれでも高額報酬につられて飛び込む者はいる。何せダンジョンから産出されるものときたら、既存の物理法則を引っ繰り返すようなものが珍しくもないのだから。
協会がまだ設立されていない時代、ダンジョンからよく分からない古びた直剣を拾ってきた自称探索者が、自宅で戯れに素振りをしたところ、室内で高強度の放電現象が発生してその探索者は感電死。それどころかアパート一棟が焼け焦げてしまったという事例もある。こういったものを売れば云千万は疎か、億に届く事も珍しくはない。
政府は慌ててダンジョンの立ち入りを禁止したが、警戒線を掻い潜って侵入するものは後を立たなかった。
だがとある政治家の一言が状況を激変させた。
『規制したって法律で罰則を定めたってダンジョンに潜る奴は潜るのだ、死にたい奴は死なせておけ。それよりもいっそ国で支援してしまった方が良いのではないか。その結果、ダンジョン産の希少な物品が流通する可能性もあるし、探索者とやらが死んでしまってもそれはそれで日本国内のダニが一匹消えただけの事』
この政治家の発言は賛否両論であったが、最終的に政府のスタンスもその様なものとなっていく。
政府はダンジョンの危険性を認識しているが、同時にダンジョンから得られる希少な物品の価値を理解し、それが経済に対しても影響を与える可能性を見据えていた。
経済的利益を最優先とする現実主義の一種とも言えるだろう。
ダンジョン協会はそういった流れで設立されたのだ。
■
黒槍が宙空で二股、四股、八股、十六股へと分かたれ、歳三を貫殺しようと殺到する。
「しゃあッ」
歳三はぐんと屈み、飛び上がった。
大地から得た反動が歳三の両脚に伝導し、歳三はその反動の力を利用して右脚で宙に真円を描く。
──望月
原理としては空手の回し受けに近く、腕の力では受けきれない攻撃を受ける際に使用される。ただし、歳三の場合はただの受けでは済まない。受けは受けだが、攻勢防御のそれに近い。
なお、技は例によって我流であり、元ネタもゲームだか漫画だか窺い知れない。ただ、技の名称についてはやや感慨深いものがあった。
望月とは人名である。
歳三が中学生だった頃、同級生に望月何某という生徒がいた。その生徒は非常にオツムの出来が良く、更に趣味も良かった。和歌やら詩歌を好んでいた彼は、ある日歳三に一つの教訓を教えてくれる。
「いいかい、佐古君。こんな歌がある。
──この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も無しと思へば
これはね、藤原道長という人物が歌った和歌だ。これは簡単に言うと、"私の世界は完全で揺るぎない、まるで欠けることのない満月のようだ"という意味だ。藤原道長の自信と誇りを表していると言えるね。男は皆、彼を目指さなくっちゃいけない。野望なくして何が男だ。君もそう思うだろ?僕はね、自分の姓が入っているこの歌が大好きなんだ。いずれ僕は世界を奪るよ」
──完全で揺るぎない、まるで欠けることのない満月
そのフレーズは歳三の心中に長く残る事となる。
穴だらけで欠けまくっている人生を送っている彼だからこそ、目指す場所は満月…望月のようなものでなければいけない。
あらゆる害意を弾き飛ばす完璧な護りの技に『望月』と名づけられたのは、今でも胸の奥で燻る歳三の想い、願いが発露したからなのかもしれない。
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迫る黒槍、しかし甲高い金属音が鳴り響く。
触れるもの全てを蹴り斬り飛ばす殲滅の刃と黒槍がかちあい、前者が後者を一方的に蹴り斬ったのだ。
高速度で繰り出される蹴りは、円形の蹴撃圏内の全てを断ち斬る。守りと攻めを同時に為せる非常に便利な技と言える。
しかし、地面に着地した歳三の表情に緩みはない。
先の一瞬の攻防が単なる前哨戦だと歳三は理解していたからだ。
それは勿論、眼前のモンスターも同様だろう。
ウゾウゾと蠢く黒い塊の奥から覗く一つ眼。
そこから放射される殺意の悍ましさは、眼前の生物が紛れもなく人類種の天敵であることを雄弁に示唆していた。
しかし歳三はその殺気の奔流を平然と受け流す。
かつてSNSで晒された際、日本中から
"痴漢野郎" だとか
"性犯罪は年齢に関わらず実刑を喰らわせてやれ" だとか
"コイツ妖怪ひょうすべに似ているな" だとか
"性犯罪者は二足歩行しているというだけで有害鳥獣と同じなんだから、見つけ次第射殺してしまえ" だとか
ともかくもそんな事を延々と言われてきた歳三だ。何より恐ろしいものは人の悪意、彼はそう考えている。
そして殺意は悪意に非ず。
強く何かを達成しようとする意志自体は悪いものではない…それが歳三の考えだ。
お互いがお互いの死を強く希求しているという状況に、歳三はどこか尊さのようなものを覚えて僅かな笑みを零した。
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時は少し遡る。
飯島比呂、四宮真衣、鶴見翔子の三名は所々負傷しながらも、順調に探索を続けていた。三人の表情は明るい。
自分達は一端の探索者であるという自信が持てたからだ。
未踏査エリアがどんどんStermのマップアプリに書き込まれていく。これは名誉と金になるデータだ。そして襲い掛かってくるモンスターも順調に斃せている。
これまで彼等は踏破済みのダンジョンにばかり挑んでいた。
もっと新しいダンジョンを、別の困難なダンジョンを、という思いはあったが、協会がこれを制限していたのだ。
ダンジョン探索者協会は探索者の徒な死亡を防ぐ為、実績を基準にして探索者を甲・乙・丙・丁・戊の五つの等級に分けて管理している。
そして、その等級に応じて入場出来るダンジョンを制限しているのだ。戊級で実績をあげれば丁級となり、丁級で実績をあげれば…というように。
この場合、実績とは協会に納めた素材の換金総額や、もしくは未知の発見、依頼遂行件数やその成功率などがあたる。
なお、1級~5級、A級~E級というようにシンプルに分ければいいじゃないかという意見もあったのだが、1級~5級だと1が最大なのか最小なのか分からなかったり、アルファベットを使用するのは英語圏のそれと被る。
ダンジョン探索者協会に類する組織は諸外国にも存在しているが、それらはあくまでも別個の組織だ。系列などと思われれば沽券に関わるとして、結局甲乙式を採用した。
この辺りは当然中国が採用している形式も鑑みた結果だ。中国では壹、贰、叁、肆、伍という大写表現を採用している。
話が戻るが、三名は地道に実績を積み上げてきた。
戊と呼ばれる最下級探索者から始まり、瞬く間に丙級まで至る。
ここまで等級をあげないと雑司ヶ谷ダンジョンには挑戦ができない。協会がこのダンジョンを "丙級相当" と分類したからだ。
協会専属の探索者が浅層を軽く探索し、出現するモンスターや内部環境について軽く調査をし、探索者達と同様に甲・乙・丙・丁・戊に分類をする。これはかなり雑な分類法で、後日分類等級が上昇したり下降したりすることもままある。
ちなみに探索者として一端であると言われるのはこの丙級からだ。
そして残念な事に探索者界隈では、丁級は "丁稚"、戊級に至ってはそのまま "犬野郎" と蔑む風潮があった。
それまでの彼等には雑司ヶ谷ダンジョンに挑む資格がなかった。だが弛まぬ努力により等級を上げ、いざダンジョンに挑めば…案外にも順調に探索出来るではないか。
丙級相当のダンジョンのモンスターと十分以上に戦えているという事実に彼等は自分達の確かな成長を感じ、その前途に無限の可能性を見ていた。
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彼等の自信。
これはあるいは驕りかもしれない。
だが驕るだけの理由が彼等にはあった。
幼馴染である彼等は、幼少の頃より三人が三人共に天才児であった。身体能力、頭の出来、共に同年代の者達を遥かに凌駕しており、その身体能力たるや中学三年生になる頃には。既に大変異前の陸上種目各種の日本記録を塗り替える程であった。
頭の出来も似たようなものだ。
中学三年の秋時点には。既に東京大学理科三類の合格に至る程の冴え具合を見せた。これは偏差値77を誇る日本最難関の学部だ。
なお、中卒である歳三は掛け算の7の段と4の段がぱっと出てこない。
しかし彼等の才は、探索者として迷宮を出入りするようになってから更に開花する事となる。
低難度のダンジョンとはいえ、彼等は何度も探索を成功させてきた。モンスターとの戦闘も問題はない。野生の獣などより遥かに危険なモンスターをいとも容易く葬り去る手際はとても探索者になりたてのヒヨコには見えなかった。
探索を通して、彼等はメキメキと身体能力を向上させていく。
鶴見翔子に至ってはPSI能力と呼ばれる所謂サイキック…超能力を発現するに至った。
大変異前には超能力など騙りか詐欺の代名詞の様に思われていたが、現在に至ってはその印象は払拭されている。
そもそも人間の脳のスペックを考えれば超能力の一つや二つは出来てもおかしくないのだ。
そしてモンスターの素材や、希少金属は彼等に年に見合わぬ財を齎した。
正しく、この世の春だ。
これはもう一種の万能感に支配されても無理からぬ事ではあった。
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ところで、ダンジョン探索に於いては死というものは非常に身近な存在となる。5分前まで元気に仲間と話していた探索者が、300秒後には原型を留めぬミンチ肉になってしまうというのはめずらしくはない。
そんな無慈悲な死だが、ではダンジョンではどういう状況が一番危ないのだろうか?
罠にはまった時か、手ごわいモンスターに相対した時か、ダンジョン内で迷った時か。
いずれも一応は正解だが、満点ではない。
精神の高揚が自信ではなく過信に変わった時、ダンジョン内での危険度は極めて危うい域にまで達する。
そして多くの探索者がその時に命を散らす。
飯島比呂、四宮真衣、鶴見翔子の三名は友人知人や、あるいは親族の忠告を無視して雑司ヶ谷ダンジョンの未踏破エリアを探索した。自分達ならばそれが出来ると信じて。
事実として薄気味悪い囁き声は鶴見翔子のサイキックにより散らされ、屍人も骨人も、墓石の怪異ですらも彼等の身体能力で蹴散らして見せた。
これらのモンスターは決して容易い存在ではない。
囁き声は長く聴いていれば精神に異常を来たすし、屍人は叩いても突いても斬っても体液の噴出でもって反撃をしてくる。この体液は猛悪な毒液であり、皮膚に付着でもしようものならたちまち体内に浸透する。
その毒性は中南米に生息する小型のカエル、金色箒星(ゴールデンポイズンダートフロッグ)とほぼ同等だ。
このカエルの毒性は非常に強い。
体重に対する毒量が少ないにも関わらず、成体のカエル一匹分の毒で数十人の大人を殺すことができる。
小動物などは毒をしみこませたタオルに触れるだけで死ぬ。
また、骨人も並々ならぬ存在である。
このダンジョンでもっとも多く出現するのがこの骨人である。見た目はそのまま人骨で、錆びた刃物や時には尖った骨で襲い掛かってくる。動きは案外に機敏で、探索者ではない一般成人男性と同程度には動ける。
しかしそれだけで探索者を殺害できるはずもなく、当然種がある。
この骨人というモンスターの体は "内部までみっしりと詰まった骨" で構成されているのだ。
骨のモース硬度は4であり、これは鉄と同等である。
骨に脆いイメージがあるのは、内部が空洞だからだ。
"内部までみっしりと詰まった骨"であるなら、これはもう鉄人形の様なもので、並大抵の膂力では骨人を破壊する事は出来ない。
墓石の怪異は墓石の群体とも言うべきモンスターだ。
数個から数十個の大量の墓石が宙に浮き、探索者達を押しつぶそうと乱舞する。司令塔となる墓石が一体だけ存在し、これを破壊しない事には永久に襲われ続ける。墓石にしてもただの石ではない事は言うには及ばないだろう。
そんな怪物共を苦戦しながらも20もそこそこの若さで蹴散らしてきたのは、まさしく彼等の才が綺羅星の如く煌めいているからだ。
しかし、どんな場合であってもイレギュラーというものは存在する。何処のどの様なダンジョンでも起こり得る事だが、他と比して遥かに異常な危険性を持つモンスターが出現する事がある。
この雑司ヶ谷ダンジョンにおいてのイレギュラーとは、毛玉であった。
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雑司ヶ谷ダンジョン某所。
墓石の影に三人の人影があった。
彼らが件の三人の探索者なのだが、どうも様子がおかしい。
「しょ、翔子ぉ…しっかりしてよぅ…」
四宮真衣は今にも泣きそうな声をあげた。
いや、もう泣いているのかもしれない。
ぽたりと零れた水滴が汗なのか涙なのか、真衣は自分でもよくわからなかった。
──私のせいだ、姉さんが止めてくれたっていうのに…
彼女の膝の上には一人の少女が横たわっている。
鶴見翔子。
真衣の親友であった。
目を瞑り、息を荒げ、口の端からは血を流している。
如何にも苦しそうだが、当たり前であった。
鶴見翔子の腹部は大きく朱に染まっていたからだ。
読書家の彼女は所謂眼鏡女子なのだが、その大切にしているプラダのラウンドフレーム眼鏡もグラスに罅が入っている。
ついでに言えば、彼女自身の命にも罅が入っていた。
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「真衣!声を出しちゃだめだっ…!」
声を殺し、脂汗を滲ませながら注意を発したのは飯島比呂だ。
"ヒーロー"などというこっ恥ずかしい渾名の彼ではあるが、30分ほどあれば軽自動車を素手で全損させる事が出来る程度に人間を辞めている。
「アイツに気付かれたら今度こそ終わりだ…」
§
飯島比呂が言う "アイツ" とは。
墓石の陰から何かが地面を擦る音がする。
衣擦れとも違うその細かい音は、例えるならば極めて細い糸だか紐だかを束ねた箒の様なもので地面を掃き清めている様な。
比呂たちは "それ" と正面から対峙した。
というより、相手の方から襲い掛かってきたのだ。
"それ" の無音の奇襲を鶴見翔子が察知した。
"それ" は一言で言うならば毛髪の怪物だった。
何万何十万、いや、何百万という毛髪が球形に寄り集まった怪物だ。球形の中心部の巨大な目玉が三人を凝視しており、飯島比呂はその視線から一つの強く濃密な意思を感得する。
すなわち、"お前たちを殺す" という意思を。
そして交戦。
だが"それ" はこれまで交戦してきたモンスターとは一線も二線も画していた。
飯島比呂はダンジョン素材でつくられた槍を得物としており、四宮真衣は同じくダンジョン素材でつくられた日本刀を得物としている。鶴見翔子は後述するが、やや "特殊なモノ" を扱う。
銃器の類は所持していなかった。
というのも、ダンジョンのモンスターにはいまいち効果が薄いのだ。純粋に威力が足りない。では銃器もダンジョン素材を使ってつくればいいではないかと思われるかもしれないが、確かにそういった得物は販売されている。威力もそれなりにある。
しかし、二つ問題がある。
一つは銃本体も弾も、余りに高額だという点だ。
彼等三人は皆良い所のボンボンなのだが、探索者協会は他人の金で武器だの防具だのを購入することを許可していない。
あくまで身の丈にあったモノを扱えという事であり、これは探索者達の練磨を目的としている。
良いモノを使いたければダンジョンに沢山潜って沢山稼げということだ。
いま一つは、音の問題だ。
轟音が鳴り響き、周辺のモンスターにわらわらと集まられてはかなわない。
ともあれ、槍と刀、そしてちょっと特殊なモノで "それ" に挑んだ三人だが、粘戦虚しく敗走するに至った。
厚さ5cmの鉄板を容易くぶち抜く飯島比呂の刺突は毛髪に絡めとられてダメージを与えるに至らず、同じ様に鉄板をまるで紙の様にばらばらに斬り裂く四宮真衣の斬撃はいとも容易く弾き返された。鶴見翔子の念動が不可視の衝撃となって毛玉を打ち据えるが全く堪えた様子もない。
そればかりではない、長大な毛髪が縒り合わされて、まるでドリルのような形状と化した凶器が鶴見翔子の腹を貫いたのだ。
ただの毛髪の塊ではない事は明々にして白々であり、飯島比呂、四宮真衣らは重傷の鶴見翔子を連れて逃げを打つ事を決めた。
戦闘に限らず、人生には無理をしなければいけない場面、しなくてもいい場面というものがある。無理をしなければいけない場面で無理ができない者の末路は破滅だし、無理をしなくていい場面で無理をする者の末路もまた破滅だ。
相性が悪いと見るや逃げを打つ事を決めた三人の判断の早さは称賛されて然るべきだが、不運が一点。
後にダンジョン探索者協会によって『毛羽毛現(けうけごん)』と名づけられるこのモンスターは、彼らが戦って勝つには10年早いし、一人の死者も出さずに逃げ切るには5年早い相手であったという事だ。
最初の交戦時、逃げを打つ際に鶴見翔子は腹を穿たれながらも強力な念動を行使した。周辺の墓石という墓石、樹木という樹木を操作し、質量攻撃を仕掛けた。
しかし鶴見翔子もこんなもので斃せるとは欠片も思ってはいない。
「私を置いて逃げて!」
鶴見翔子は親友二人を逃がすため、この場で囮となって死ぬつもりであった。しかし、彼等はそれこそ寝小便を垂れ流していた頃からの親友同士なのだ。そんな自殺志願を聞き入れられるわけがない。
「そんなことを言うな!」
「そんな事を言わないで!」
飯島比呂と四宮真衣はほぼ同時に叫んだ。
見捨てろなど、死ねと言われるより辛い事だったからだ。
まあ随分な話ではある。なぜなら、彼等は三人が三人とも、仲間が自ら死を選ぶ事は、殴ったり蹴ったりする物理的な暴力以上に残酷な行為だと思っているにも関わらず、まず自分が囮となって残る二人を逃がそうと思っているのだから。
三人が三人とも、囮となって死ぬのは自分はOKで親友たちはNGだと本気で思っていた。
結句、飯島比呂と四宮真衣は重傷を負った鶴見翔子を背負い、彼女と共に逃走しようと図る。
そして、髪の怪物はほどなくして鶴見翔子による質量攻撃から復帰した。その時には既に三人は逃げおおせていた…わけはなく、無数の墓石の裏に隠れて息を潜める事になった。今の場所から出口まで数キロはあり、その距離を追いつかれずにやり過ごす事は出来そうにもない。
ダンジョン内でこういう状況に陥った場合、まあ大抵は死ぬのだ。
奇跡でも起きれば話は別だが。
§
歳三は微弱な大気の振動を感得した。
丁度、要救助者の信号が消失した方角だ。
歳三はおもむろに屈みこみ、クラウチングスタートの体勢を取る。
正直こんな体勢など取らないでも速く走る事は出来るのだが、これは全く気分の問題である。
佐古 歳三の最高時速はマッハ4。ドゥ、と爆音に近い音がしたかとおもえば、既に歳三の姿は消えていた。