九月に入ると、これまでの冷夏が打って変わり、三十五度を超える猛暑日が到来した。どこかに閉じ込められ忘れ去られつつあった怒りのマグマが、突如、壁を破って溢れ出しているようにも思えた。
食卓には辛うじて小さなエアコンがあったが、不登校の身分で昼間から付けっ放しでいるわけにもいかず、美加は極力扇風機でしのいだ。油断しきっていた体が予期せぬ熱波にさらされ、思考能力は著しく低下した。女子大生の事件のことや作業員のことや、その後も絶えることのない事故や事件のニュースがすべて綯い交ぜになり、正体不明の宇宙の暗黒物質の渦みたいになって、美加の意識を取り巻いた。
午後のワイドショーが、久しぶりに女子大生殺害事件の続報を伝えた。被害者宅にあったバッグに物色した形跡があり、事件の二日後、都内ATMで被害者名義のキャッシュカードから現金数万円が引き出されていた事実を捜査当局が公表したのだ。ATMの監視カメラ映像も公開された。映っているのは黒いつば付きのキャップにグレーのジャケットを着たマスク姿の男性で、ほとんど顔はわからない。美加は映像を見て、ともかくこれで自分への疑いは晴れるだろうと思った。けれども何度か映像が繰り返されるうちに、華奢な体つきにも見えるその人物が、女性による変装であってもおかしくなく、つまりは映像の人物が自分でないとは言い切れないのだと思い至り落胆した。
「何らかの捜査の都合上、今まで公表しなかったのでしょう」。「こうなると、怨恨などの動機による顔見知りの犯行ではなく、面識のない人物の犯行の線が濃厚になってきますね」。「物獲りなどと室内で鉢合わせになり、偶発的に刺されてしまった可能性もあるんじゃないでしょうか」。
スタジオでは、例によってコメンテーターの当たり障りのない発言が続いた。司会者は、目の前のカンペにちらりと目をやりながら、「いずれにしても捜査は難航しているようです。容疑者逮捕にはまだまだ時間がかかりそうです」とまとめると、一呼吸おいて口調をがらりと変えた。
「ハイ!続きましては、『お茶の間エコノミスト丸さんの、まるっとまる得ライフ』のコーナーです!」
容疑者が捕まったのは、それからわずか二日後のことだった。昼のNHKニュースで速報が流れたのを皮切りに、数日間にわたって、各局の報道番組やワイドショーが次々と明らかになる事件の詳細を伝えていった。美加はチャンネルを忙しく変えながら、すべての情報を漏らさずチェックした。
捜査員に連行され警察車両に乗り込んだ細面の男は、二十二歳の大学生だった。男の祖母が、公開された防犯カメラの映像を見て孫だと気づき、警察に相談したのが逮捕のきっかけとなった。男の自宅マンションを捜索したところ、被害者名義のキャッシュカード数枚が見つかったのだ。軽度の認知症を患う祖母は、一カ月ほど前にオレオレ詐欺の被害にあったばかりだった。そんな状況のさなか、映像の人物を孫と直感した祖母は、殺人の容疑者としてではなく、彼が何かの詐欺に巻き込まれているのではないかと混乱して、警察に駆けつけたのだ。
男は大手アパレル企業の創業者の次男で、被害者の村野さんとは同じテニスサークルに所属していた。密かに交際関係があったとみられ、男の自宅マンションの防犯カメラには、村野さんと見られる女性が出入りする姿が何度も確認されている。別れ話のもつれから村野さん宅を訪れ衝動的に刺した、と男は大筋で犯行を認める供述をしている。キャッシュカードを奪っていったのは、強盗目的の犯行に見せかけるための偽装工作だったようだ。
美加は不思議に思った。交際関係があったなら、携帯電話にやり取りが残っていたはずだ。警察は当初からこの男の存在に気づいていたに違いない。それなのにどうしてここまで捜査に時間がかかったのだろう。ワイドショーのコメンテーターの一人が同じことを指摘したので、美加は少し見直してあげた。
ゲストで来ていた元刑事が答える。
「おっしゃる通り警察は、メールや通話履歴などは把握していて、早い段階からマークしていたのは間違いないでしょう。しかし、決め手となるようなやり取りや状況証拠がつかめなかったのだと思います。それに被害者のスマートフォンが現場にそのまま残されていたことが、逆にこの男の犯行でない可能性を考慮させたのかもしれません。顔見知りの犯罪者は、真っ先に自分の情報が残る携帯端末の証拠隠滅を図りますから。もちろん通信記録は事業者の協力を得られれば、端末がなくても後で調べがつくものです。ですからそこまで頭を回して、あえて端末を放置しておいたとしたら、相当冷静な判断が出来ているとも言えます。実際、キャッシュカードを奪って物獲りの犯行に見せかける工作を行っているわけですから……」
着地がはっきりしないコメントをまとめながら、司会者が早口で訊いた。
「すると警察はこの数カ月、男をマークしつつも他の容疑者の可能性をしらみつぶしにあたっていたというわけですか?」
「ええ、そうです。おそらく監視カメラの映像は、男の線での捜査が行き詰ったところで公開されたんじゃないでしょうか。それまでは変に刺激しないように控えたのだと思います。まあ、映像自体が男と特定できる代物なら何の苦労はなかったわけですが、あのように完全防備の状態でしたからね。ですから祖母の申し出は、まさしく渡りに船だったと思いますよ」
おばあちゃんは、自分の行動が孫の逮捕につながるなんてこれっぽっちも考えていなかったんだろうな。
美加は祖母の胸中を想い、切なくなった。そして何よりも被害者や遺族のことを想い、「こんな奴、絶対地獄行きだ!」と憤った。まるで閻魔様にでもなったつもりだった。だがやがて、そんな憤りでさえ無意味なため息に変えてしまう底知れぬ絶望が、美加に襲いかかった。後日の報道で、被害者が妊娠していた事実が伝えられたのだ。
食卓には辛うじて小さなエアコンがあったが、不登校の身分で昼間から付けっ放しでいるわけにもいかず、美加は極力扇風機でしのいだ。油断しきっていた体が予期せぬ熱波にさらされ、思考能力は著しく低下した。女子大生の事件のことや作業員のことや、その後も絶えることのない事故や事件のニュースがすべて綯い交ぜになり、正体不明の宇宙の暗黒物質の渦みたいになって、美加の意識を取り巻いた。
午後のワイドショーが、久しぶりに女子大生殺害事件の続報を伝えた。被害者宅にあったバッグに物色した形跡があり、事件の二日後、都内ATMで被害者名義のキャッシュカードから現金数万円が引き出されていた事実を捜査当局が公表したのだ。ATMの監視カメラ映像も公開された。映っているのは黒いつば付きのキャップにグレーのジャケットを着たマスク姿の男性で、ほとんど顔はわからない。美加は映像を見て、ともかくこれで自分への疑いは晴れるだろうと思った。けれども何度か映像が繰り返されるうちに、華奢な体つきにも見えるその人物が、女性による変装であってもおかしくなく、つまりは映像の人物が自分でないとは言い切れないのだと思い至り落胆した。
「何らかの捜査の都合上、今まで公表しなかったのでしょう」。「こうなると、怨恨などの動機による顔見知りの犯行ではなく、面識のない人物の犯行の線が濃厚になってきますね」。「物獲りなどと室内で鉢合わせになり、偶発的に刺されてしまった可能性もあるんじゃないでしょうか」。
スタジオでは、例によってコメンテーターの当たり障りのない発言が続いた。司会者は、目の前のカンペにちらりと目をやりながら、「いずれにしても捜査は難航しているようです。容疑者逮捕にはまだまだ時間がかかりそうです」とまとめると、一呼吸おいて口調をがらりと変えた。
「ハイ!続きましては、『お茶の間エコノミスト丸さんの、まるっとまる得ライフ』のコーナーです!」
容疑者が捕まったのは、それからわずか二日後のことだった。昼のNHKニュースで速報が流れたのを皮切りに、数日間にわたって、各局の報道番組やワイドショーが次々と明らかになる事件の詳細を伝えていった。美加はチャンネルを忙しく変えながら、すべての情報を漏らさずチェックした。
捜査員に連行され警察車両に乗り込んだ細面の男は、二十二歳の大学生だった。男の祖母が、公開された防犯カメラの映像を見て孫だと気づき、警察に相談したのが逮捕のきっかけとなった。男の自宅マンションを捜索したところ、被害者名義のキャッシュカード数枚が見つかったのだ。軽度の認知症を患う祖母は、一カ月ほど前にオレオレ詐欺の被害にあったばかりだった。そんな状況のさなか、映像の人物を孫と直感した祖母は、殺人の容疑者としてではなく、彼が何かの詐欺に巻き込まれているのではないかと混乱して、警察に駆けつけたのだ。
男は大手アパレル企業の創業者の次男で、被害者の村野さんとは同じテニスサークルに所属していた。密かに交際関係があったとみられ、男の自宅マンションの防犯カメラには、村野さんと見られる女性が出入りする姿が何度も確認されている。別れ話のもつれから村野さん宅を訪れ衝動的に刺した、と男は大筋で犯行を認める供述をしている。キャッシュカードを奪っていったのは、強盗目的の犯行に見せかけるための偽装工作だったようだ。
美加は不思議に思った。交際関係があったなら、携帯電話にやり取りが残っていたはずだ。警察は当初からこの男の存在に気づいていたに違いない。それなのにどうしてここまで捜査に時間がかかったのだろう。ワイドショーのコメンテーターの一人が同じことを指摘したので、美加は少し見直してあげた。
ゲストで来ていた元刑事が答える。
「おっしゃる通り警察は、メールや通話履歴などは把握していて、早い段階からマークしていたのは間違いないでしょう。しかし、決め手となるようなやり取りや状況証拠がつかめなかったのだと思います。それに被害者のスマートフォンが現場にそのまま残されていたことが、逆にこの男の犯行でない可能性を考慮させたのかもしれません。顔見知りの犯罪者は、真っ先に自分の情報が残る携帯端末の証拠隠滅を図りますから。もちろん通信記録は事業者の協力を得られれば、端末がなくても後で調べがつくものです。ですからそこまで頭を回して、あえて端末を放置しておいたとしたら、相当冷静な判断が出来ているとも言えます。実際、キャッシュカードを奪って物獲りの犯行に見せかける工作を行っているわけですから……」
着地がはっきりしないコメントをまとめながら、司会者が早口で訊いた。
「すると警察はこの数カ月、男をマークしつつも他の容疑者の可能性をしらみつぶしにあたっていたというわけですか?」
「ええ、そうです。おそらく監視カメラの映像は、男の線での捜査が行き詰ったところで公開されたんじゃないでしょうか。それまでは変に刺激しないように控えたのだと思います。まあ、映像自体が男と特定できる代物なら何の苦労はなかったわけですが、あのように完全防備の状態でしたからね。ですから祖母の申し出は、まさしく渡りに船だったと思いますよ」
おばあちゃんは、自分の行動が孫の逮捕につながるなんてこれっぽっちも考えていなかったんだろうな。
美加は祖母の胸中を想い、切なくなった。そして何よりも被害者や遺族のことを想い、「こんな奴、絶対地獄行きだ!」と憤った。まるで閻魔様にでもなったつもりだった。だがやがて、そんな憤りでさえ無意味なため息に変えてしまう底知れぬ絶望が、美加に襲いかかった。後日の報道で、被害者が妊娠していた事実が伝えられたのだ。