週明けの月曜日、朝の九時を回ったあたりから、母の自転車のブレーキ音が聞こえ始めた。やがて訪れる作業員の掛け声が耳に入らぬよう、美加はヘッドホンを被った。できるだけ賑やかな曲を選び、大音量で聴き続けた。三十分ほどでさすがに疲れヘッドホンを外すと、収集車のかすかな走行音が耳に入ってきた。時刻は九時四十分。美加は慌ててヘッドホンを手に取ったが、遅かった。
「オライ、オライ、オライ、ハーイ、オッケーデス」
 よくよく聞いてみれば、「デス」有の掛け声だって『死神の囁き』などとは程遠いように思えた。「デス」無同様、どことなく好感が持てるのだ。ただ、どうして二通りの言い回しがあるのかがわからない。それがはっきりしないかぎり、「デス」有への疑念が晴れることはなかった。
 午後一時を過ぎた頃、ラップしてあった昼食のおにぎりをレンジで温めていると、頭上で何台かのヘリコプターが通り過ぎる音が聞こえた。数キロ先に自衛隊の基地などもあり珍しいことではなかったが、この日はいつもと様子が違った。バラバラというプロペラの風切音が一向に離れる気配がなく、次第にボリュームを増しているのだ。
 窓やベランダからはその姿を確認出来ず、美加はアパートの外へ出て上空を見た。するといくつものヘリコプターがこの辺りを旋回しているのがわかった。いち、にい、さん……。数えてみると、少なくとも五機はあった。向かいの老夫婦もベランダから身を乗りだして、不安そうに様子を窺っている。
 どこかで何か事故が起きているのかもしれないと美加は思った。けれども消防車や救急車のサイレンなどは聞こえない。ヘリコプターだけが、けたたましい音をたてながら居座っていた。
 美加は家に戻りテレビを点けた。あちこちチャンネルを変えてみたが、それらしきニュースは流れていない。二時になり五分間のNHKニュースが始まったが、中東のテロや国会関連のニュースが取り上げられるだけだった。ヘリコプターはまだ旋回を続けている。
 その後民放のワイドショーにチャンネルを変えしばらく見ていると、速報のテロップとともに、住宅街の空撮映像が流れた。女性アナウンサーが、東京都M市のマンションの一室で、住民の二十代の女性が血を流して死亡しているのが発見されたことを告げた。その途中、画面は慌ただしく切り替わり、程なくして、現場近くに張られた規制線の前に立つリポーターの姿を映し出した。
「現場はあちらの奥に見えます白いタイル張りのマンションの二階になります。死亡していたのは、この部屋に住む村野佳織さん、二十一歳大学生です。昨夜、アルバイト先に、シフトで入る予定だったはずの村野さんが現れず、今朝になっても連絡が取れなかったため、お店の従業員が不審に思ってマンションを訪ねたところ、村野さんが腹部から血を流し倒れているのが見つかったとのことです」
 美加は画面に映る住宅街の映像に釘づけになった。見覚えのある場所だった。このアパートから駅寄りに歩いてほんの一、二分のところにあるマンションだ。
死因は腹部の出血多量だが、事件か事故かなどについてはまだ特定されておらず、警察は現在両面で調べている、とリポーターは伝えた。それでもワイドショーの司会者やコメンテーターたちは、
「おそらく殺人事件でしょう」、「殺人となると犯人が逃走中ということですから、住民の方々も不安ですね」、「何か近隣トラブルや、不審者の目撃情報などは入ってないのかな」、「若い女性が被害者ということで、変質者やストーカーの線も考えられますよ」などと、芝居がかった険しい顔で発言していった。
 ヘリコプターはそれから一時間、頭上に留まり続け、夕方になってようやく引き上げていった。
 夜のニュースで事件の続報が伝えられた。被害者は自宅のユニットバス近くで横向きに倒れており、腹部を鋭利な刃物のようなもので刺されていた。死亡推定時刻は日曜日の午後三時から六時くらい。特に争った形跡は見られないが、玄関に鍵がかかっておらず凶器が発見されていないため、警察は他殺とみて捜査を進めているとのことだった。今のところ容疑者に結びつく有力な情報は得られていないようだ。被害者の村野さんは、三年前に上京し都内の大学に入学。以来、事件現場となったワンルームマンションで一人暮らしをしていた。大学の同級生らによると、村野さんは税理士を目指して勉強に励みながら、夜は自宅近くの居酒屋でアルバイトをする実直な女性で、何かのトラブルに巻き込まれている様子はなかったらしい。現場でインタビューを受けていたマンションの住民も、顔を合わせればきちんと挨拶をする明るい学生さんだったと答えていた。
 美加は人並みに被害者を憐れみ、事件の背景にも関心を持ったが、それ以上に彼女の心を乱したのは、殺人事件が自宅の目と鼻の先で起きたという事実だった。ヘリコプターのあの空撮映像のほんの少し外側に、自分が閉じこもっているアパートがあるのだ。
 動揺する彼女に、あらかじめ準備していたかのように、例の妄想が忍び寄った。美加は、月曜日に発覚したこの死亡事件と「デス」有の掛け声との間に、偶然以上の結びつきを考えないわけにはいかなかった。

 七月が四週目を終えた頃、いつ開けたのかはっきりしないまま梅雨が去り、気象予報士たちは歯切れ悪く夏の到来を告げた。ここ何年かの猛暑は影を潜め、今年は気味悪いくらいに弱々しい陽射しの日が続いた。
 美加は相変わらず不登校の状態だった。唯一変わったことと言えば、遅れを取り戻すべく真剣に勉強を始めたことだ。とはいえ、何か前向きな目的を見つけたからではない。そうするぐらいしか、妄想から逃れ、平穏な精神を取り戻す手段が見つからないのだ。
 事件から一カ月以上が過ぎたが、女子大生を殺害した犯人は未だに捕まらないままだ。警察は交友関係や不審者情報などを必死に洗っているのだろうけれど、新たに報道されるような事実は何も出てきていない。
 一方、作業員の掛け声は、規則正しく月曜日の「デス」有と木曜日の「デス」無を繰り返していた。そして七月もやはり月曜日の方が死亡事件のニュースが多かった。
 妄想は気づかぬうちに、作業員の役割を、不慮の死を告げる死神役から殺害の実行犯役へシフトさせようとしていた。
 日曜日の午後なら、収集作業の時間外だから犯行は十分可能だ。では、動機は何か。そもそも女子大生とあの作業員に接点などあるのだろうか。たとえば、ごみ袋を持って追いかけてくる女子大生に気づいた作業員が、車を止め親切に回収してあげたとか。それとも彼女がアルバイトをする居酒屋に、作業員が客として出入りしていたとか。あるいはそこまで直接的でなくとも、毎週のようにこの地域を回っていれば、作業員が彼女の姿を何度か見かけ、何らかの感情を芽生えさせても不思議ではない。なるほど、接点なんていくらでもあるのだ。だとすれば、犯行にまで至った動機は?殺さなければならないほどの動機。動機、動機、動機……。待てよ。どうして動機がそんなに重要なんだ?動機があれば犯罪が許されるってわけでもないのに……。ああそうか。捜査する側としても犯人像が浮かべやすいってことか、動機が読めれば。でも……。本当の動機なんて本人ですらよくわかっていないことの方が多いんじゃないかな。だって人を殺している時点でその人は、既に「人」としてのコントロールができないくらい不確かな状態にあるのだから。とりあえず犯人自身も含めて、みんなが納得するために、みんなが理解できる理由を作り上げているだけで……。そうだ。だから、動機なんてどうでもいい。問題なのは、具体的に作業員がどう事件に関わっていたかだ──。
 美加の推理ごっこは、大荒れの海原に投げ出された救命ボートのように、あてどなく漂流していた。ボートから滑り落ち溺れそうになる自分を踏みとどまらせるために、美加はかろうじて視界に入った教科書を次々と開き、狂ったみたいに源氏物語を朗読し、片っぱしから英単語や歴史の年号を暗記していった。そうすることで一切の雑念を遮断しようと試みた。そしてもしそれでもだめだったら、この世のものとは思えない数式たちと格闘するしかないと覚悟した。