「第三十五回、元中山高等学校卒業式を開会します」

 三月一日、晴れ。桜にはまだ遠く、でも肌寒さが薄らいだこの日、僕たちの卒業式が始まった。

 卒業証書授与の声を聞きながら、僕の握られた拳は静かにその時を待っていた。

 先生たちの計らいで、夏希の名前も読んでくれるらしい。ちなみに僕が受け取ることになった。壇上で。欠席のため代わりに、と説明があると言っていたが、絶対自分以上に緊張する。

「三年四組一番」

 うわ、うちのクラスになった。

 ちょっと汗掻いてきた。

 助けて夏希。

 いや、僕が頑張らないと。

『大丈夫だよ』

 耳元で、ふとそんな声がした。左を向いてもクラスメートの宮田しかいない。あの声は確かに夏希だった。

 また、生霊になって応援してくれているのかな。これは失敗出来ないぞ。

「野上類」

 僕は拳をぎゅうと握りしめ、自分の名前が呼ばれたところで大きく返事をした。

「はい!」

 足取りは軽い。一人じゃないみたいだ。この証書をもらって、次は夏希の証書ももらったら、まっすぐ病院へ向かおう。

 早く君の元に届けたい。

 あと少しだから、待ってて。



 同級生たちと最後の別れを惜しみつつ、僕は一足早く学校を飛び出した。近くのバス停で足踏みをする。手には二人分の卒業証書。無事もらったよ、夏希。

 前の病院より遠いのがもどかしい。バスで四十分、ようやく目的地に到着した。

 病院の入り口を走り抜けようとして、立ち止まる。危ないことをするところだった。

 深呼吸をして落ち着かせる。大丈夫、ここに夏希はいるんだから。

 両手で差し出して、僕と夏希だけの卒業証書授与式をしてみるのもいいかもしれない。

 受付で夏希の名前を伝えると、係の人の顔色が変わった。

「もしかして、野上類さんでしょうか?」
「そうですけど」
「ああ、よかった。二〇五号室です。こちらを首から下げてください」

 独り言であろうそれに、僕の心が一気にざわついた。

 悪い予感がする。

 僕は受け取った入館証を雑に下げ、受付の人に会釈をしてその場を離れた。

 角にある階段を上がれば、すぐに病室が見えた。

「夏希」

 普段は閉まっている病室のドアを通ると、中には沢山の人がいた。

 夏希の家族だけじゃない。看護師さんに先生。これじゃまるで。

「類君! こっち!」

 五月ちゃんが僕の腕を引っ張った。

 人で見えなかったベッドが目の前にある。沢山の管で繋がれた夏希がいた。

「…………ッ」

 声が出ない。

 分かっていたのに、理解していなかった。

 この病院は終末期を穏やかに過ごすための場所だ。近い未来こうなることは誰にでも明らかだった。

 でも、夏希。
 まだ、十八歳なんだよ。

「夏希、類君だよ」

 五月ちゃんが僕を前に押す。夏希はまだ目を閉じたまま。

「夏希」

 心電図の音がゆっくりだ。

 すぐにでも止まってしまいそうで、反対に僕の心臓は五月蠅くて、半分夏希に分けられたらいいのにと思う。

 夏希の為なら僕は何だってしたい。

「あの、手に触れてもいいですか?」

 夏希の両親に尋ねると、何度も頷かれた。

「もちろん。類君のこといつでも待ってたから喜ぶわ」

 お母さんが涙ぐみながら言う。僕はそっと夏希の左手を握った。

「夏希、僕たちの卒業式、さっき終わったよ」

 すると、夏希の左手が僕の手を握り返してきた。驚いて顔を見遣ると、薄っすら瞳が開いている。僕を、見ている。僕はぐっと顔に力を籠める。

「類、君」
「夏希……!」

 周りの皆も僅かに沸き立つ。

 夏希は生きている。

 しっかりと息をしている。

 僕たちと一緒に。

「卒業おめでとう。これでまた一つ大人になったね」
「……うん」

 夏希の表情が硬い。

 嫌だ。
 でも。

 僕は持っていた筒を一つ開いた。そこには夏希の名前が書かれている。

「夏希……卒業証書だよ」

 開いた瞳は何の感情を乗せているのか、僕にはもう分からない。それでも、不器用に笑って卒業証書を彼女に見せた。

「卒業おめでとう。僕と一緒だよ」

「…………うれしい」

 確かに、そう言った。いつもと変わらない、愛らしい笑顔とともに。

 それが夏希の最後の言葉だった。



 あの日から二週間経った日の午後、夏希はこの世を去った。

 卒業して時間の有り余る僕は一人、件の山に登った。

「夏希、綺麗だったな」

 苦しむわけでもなく、ただ静かに、僅かに微笑んだだけだった。

 夏希は僕と過ごした一週間をどう思っただろうか。

 病院で過ごした最期の日々をどう思っただろうか。

 もう我慢をする必要が無くなって、堪えていた涙が後から後から地面に染みを作っていく。

 僕は分かっていながら理解していなかった。

 愛する人がいなくなるということを。

「もう、いないのか」

 言葉に出してみると、急に実感する。

 明後日は通夜があると夏希のお母さんが言っていた。今度こそ連絡先を交換したから、しっかり最後まで夏希の傍にいられる。

 山の頂に立つ。夏希が僕に声をかけることはない。分かっている。

 ついに一人になった。

 けれども、僕の歩みは決して一人ではなかった。

 時にはばらばらに動いたこともあったけれども、いつも君がいた。

「さよなら。ずっとずっと、大好きだよ」

 君は僕の奇跡だった。

 君を胸に、僕は生きる。

      了