「一ノ宮の小僧め。下手に出ているからといって、あれほど図に乗るとは何事だ!」
 湯呑が居間の畳に投げつけられ、中身がすべて引っくり返る。
 それでも気が収まらず、庵楽堂の大旦那は湯呑を蹴飛ばす。庭先でガシャンと割れる音が響いた。
「ちょっとあんた、落ち着いてくださいよ」
「これが落ち着いていられるか!!」
 なだめる女将の肩を押しのけ、大旦那はずんずんと大股で歩いていく。
 掃除中の女中の手を踏みつけ、洗濯物を抱えた女中とぶつかろうがかまいもせず、大旦那は屋敷を出ていった。
(ちくしょう、こんなはずではなかったのに!!)
 一ノ宮誠太郎と深月の縁談が白紙となってからというもの、大旦那の苛立ちは収まるところを知らなかった。
 ひと月半以上も前。誠太郎が麗子に惚れ込んで縁談の申し入れをしてきたとき、大旦那は『天はまたこちらに微笑んだ』と感激した。
 一ノ宮家から出るであろう支度金で、借金をすべて返せると踏んだからである。
 庵楽堂は何代も前の当主が宮廷に菓子を献上し、栄誉称号を賜った由緒ある商家。大旦那は生まれた頃から甘やかされて育ち、若い頃はまだ余裕があった私財を投じて賭博や豪遊ばかりしていた。
 しかし残念ながら大旦那には、商才や職人としての腕が皆無だった。
 庵楽堂という先人たちが残してきた過去の栄光に胡座をかき、結婚して麗子が生まれてからも同じ生活を送っていたため、ついに庵楽堂も傾き始めたのである。
 帝都民をいくらごまかせても、権利を振りかざして豪奢を極め、質も味も落ちた庵楽堂は徐々に宮廷からも忘れられていった。
 それでも味をしめてしまった贅沢な暮らし、賭博や豪遊をやめられるはずもなく、大旦那はあっという間に借金まみれになってしまったのである。
 数年前にも破産の危機はあった。しかしあのときは運を味方につけてなんとか免れることができた。
 ……だが、今回は本当にまずい。
 そう思っていたときに舞い込んできた縁談だった。
 大旦那は一ノ宮家と縁を結ぶことで、金子と体面の両方を手に入れる算段だったのだ。
(麗子ではなく深月はどうかと交渉して、あの男も納得していたというのに!!)
 娘ほどではないが、深月はほかの女中に比べて見目がいいのは知っていた。
 容姿に関して自信があり、そのうえ他人の風貌に敏感だった麗子は、女の勘でなにか察したのか最初から深月を嫌っていた。
 借金の肩代わりをしたと説明して深月を奉公女中にしたため、妻には不貞を疑われてしまったことがある。誤解はといたが、それからというもの麗子と女将はさらに深月に厳しく当たるようになった。
 麗子の言いつけで常に目線を低くし歩き、顔が不快だからという理由で髪や格好にも制限をつけていたようだが、大旦那はいっさいの口を挟まなかった。
 そういった環境下にいたため、深月は本来の姿を誰にも見せず、雑務を押しつけられる毎日を送っていたのだった。
『うちの麗子は父親の私も手を焼くわがまま娘です。それに引き換え、深月という女中はおとなしく命令を聞き、そして隠された華があります。あなたさまの手でよりいっそう美しく咲かせてみてはいかがですか』
『ほう、それもまた一興だな』
 変態め。麗子が嫁がなくて本当によかった。
 祝言が終われば約束の支度金も誠太郎によって色がつけられた状態で庵楽堂に届き、借金も無事に返せる。
 大旦那の目論見は完璧だった……はずなのに。
『今後、我が一ノ宮が庵楽堂と縁深い関係になることはありません』
 縁談はすべてなかったものとして処理され、一ノ宮現当主からは遠回しに金輪際関わるなと告げられた。
 小耳に挟んだ話では、なぜか誠太郎は初夜のあと帝国軍に引き渡されており、深月がどうなったのかは大旦那もわからないままだった。
『まさか深月がなにかしくじったのか? あの娘、置いてやっただけでも大恩だというのに、仇で返すとは……!』
 こうして今日も大旦那の心中は穏やかではなく、庵楽堂には不穏が立ち込めるのだった。
 
 ***
 
「本当に、嫌になるわ」
 居間のほうで湯呑が割れる音と、父の怒号が聞こえた。
 麗子は私室の鏡台に座って髪を梳き、ため息をつく。
 ここ半月以上、父は機嫌が悪い。家中の空気も最悪で、庵楽堂の従業員にまで当たり散らしている始末だ。
「れ、麗子さま、失礼いたします」
「入ってちょうだい」
 髪を梳き終わると、麗子付きの女中が襖の外から声をかけてきた。
 許可を出せば、おさげの女中が頭を下げながら部屋に入ってくる。
 父親の醜態を耳にして少し苛々した様子の麗子を前に、おさげの女中は震える手であるものを差し出した。
 とたんに麗子の瞳がかっと開かれる。
「ちょっと、なにこれ!!」
 麗子が女中の手から奪い取ったのは、つたない花柄の刺繍が施された手巾だった。
 西洋の文化が次々と帝都に流れ込んでくる昨今、華族や豪商の令嬢たちのあいだでは、意中の男性に刺繍入りの手巾を贈るのが流行っている。
 そして和柄から洋柄まで幅広い柄を取り入れて縫われた完成品を、友人同士で披露するのも楽しみのひとつとして広まっていた。
 麗子も例に漏れず、女学校時代の友人たちとカフェで待ち合わせて刺繍を見せ合うという交流を月に一度くらいの頻度でおこなっていた。
 今日は久しぶりの集まり。毎回素晴らしい出来栄えの刺繍を披露する麗子なので、友人たちも期待しているはずだ。……それなのに。
「こんな不格好なもの、見せられるわけないじゃない!」
 おさげの女中から渡された手巾を、麗子は怒り狂って畳に投げつけた。
「も、申し訳ございません麗子さま!」
「謝って済む問題じゃないわ。ねえ、あたしに恥をかかせたいわけ? 時間はたっぷりあげたはずなのに、どうしてこんなみみずがのたうち回っているような縫いしかできていないのよ!?」
 麗子は落ちた手巾を踏みつけ、おさげ女中にまくし立てた。
「こ、これが精一杯で……っ」
「はあ? なに言ってるの、あんたこれまで刺繍だけは得意だったじゃない」
「深月にやらせていました……!!」
 畳に額をこすりつけ放たれたおさげ女中の発言に、ぴたりと麗子の動きが止まる。
「ずっと深月にやらせていたんです。あの子、生意気にも洋ものの柄をよく知っていて……だから深月に作らせていましたっ」
「深月ですって?」
 麗子は思った。またあの子なの、と。
 あの女の名前を女中たちの懺悔から聞かされるのは、もうこれで何度目だろう。
 女中たちの仕事の質が落ちているのには勘づいていた。
 掃除、洗濯、食事の用意。いつからか麗子が気に入っていたお茶の味を出せる女中がいなくなり、お気に入りの着物の管理がいい加減になった。すべての仕事がずさんになっていたのだ。
 少し前までは、深月の存在に苛立たしく思う以外は平和だった。
 なのに深月が一ノ宮家に嫁いでいなくなったとたん、積み木の城が崩れ落ちるように、女中たちの仕事ぶりが激変したのである。
 理由は明白だった。女中たちは深月に自分たちの仕事を押しつけ、その手柄だけを横取りしていたのだ。
『深月に頼まれた雑用をやらせていた』
『深月にお茶を淹れさせていた』
『深月に掃除をさせていた』
『深月に管理をやらせていた』
 断りきれなかった深月は、自分の睡眠時間を削ってなんとか押しつけられた雑務を終わらせていたのだ。このほかにも麗子や女将から言いつけられていた仕事があったにもかかわらず。
(深月……っ)
 麗子はぎりと奥歯を噛んだ。
 出会ったときから気に入らなかった。父がどこからか連れてきて、なぜか借金の肩代わりをしたというあの女が。
 なによりも麗子が疎んだのは、本人すら無自覚だったあの不思議なまでに視線を惹きつける容姿である。
 気にする必要はないと高をくくっていた。けれど、店の男性従業員の目が深月を追うようになり、麗子の嫌な予感は的中した。
 この庵楽堂で自分以外が特別だということが許せなかった。
 おまけに戸籍もない下賤の身だというのに、女学校に通う麗子よりも外来語を理解している堪能さがひどく嫌味に映った。
 これまでの人生、自分はなんでも与えられてきた。
 それは事実であり、矜持であり、当然の結果だった。
 だから、深月に劣るかもしれないという現実を麗子は許容できなかったのである。
 罵声を浴びせ痛みを与えていくうちに、深月は面白いくらい従順になった。
 いつしか麗子が感じていた深月の不思議な魅力は見る影もなくなり、その冬枯れのような姿をあざ笑う毎日だった。
 そして、ついに深月は一ノ宮誠太郎と縁談を結び、この庵楽堂からいなくなった。借金が帳消しになったのは癪だったけれど、自分の代わりとして醜男の妾になった深月のことが心の底から愉快だった。
 ……全部、全部、うまくいっていたはずなのに。
(ああ、腹が立つ。一ノ宮家との関係もなくなって父さまはずっとあの調子だし。きっと深月が下手を打ったに違いないわ、見つけたらただじゃ置かない!!)
 すべての怒りの矛先を深月に向けた麗子は、いまだ女々しく畳にうずくまっているおさげ女中の体を蹴飛ばした。
「いい加減邪魔よ。刺繍もろくに完成できないんだから、買い出しくらいはしっかりやって」
「は、はい」
「お友達にお渡しする手土産を買ってきて。中央区画のキャラメルとチョコレートよ」
「かしこまりました!」
 逃げるように出ていったおさげ女中を、麗子は忌々しげに見送るのだった。