***
次の日。
いつものように支度を整えてもらった深月は、朋代から「本日からお食事は、暁さまとご一緒されると聞いていますわ」と言われ、別邸の食堂の間に案内された。
食堂の間にはすでに暁の姿があった。
「おはようございます」
「おはよう」
彼からあたり前のように挨拶が返ってきて、深月は安堵する。
「ここに」
「……失礼します」
深月は暁に示された椅子に座り整えられた朝食を見る。
西洋建築に西洋の調度品で囲まれた場所ではあるが、出される朝食はどちらかというと和食寄り。部屋で食事をしていたときもそうだったが、深月には贅沢に感じるほど品数が多い。
米は麦飯ではなく粒がつやつや光った白米、汁物に焼き魚、和え物、香の物、まだまだ庶民には気軽に買えない卵で調理された一品や、肉料理まである。
「俺との食事は不本意だろうが、慣れてくれ」
暁が箸を取って告げた。
「い、いえ。不本意だなんて……ただ」
「……?」
深月のはっきりしない口ぶりに、箸を持つ暁の手がゆっくりと下がった。
花嫁候補を装うために、一緒の食事も必要な見世物なのは理解している。暁に対する不安感も最初よりはなくなった。だから、本意でないとも思っていない。それよりも深月が気にしていたのは。
「毎回このような食事、いいのでしょうか……」
「君の口に合っていなかったか?」
「いえ、そんなことはっ」
深月は慌てて否定する。
「どれもあたたかくて、おいしいです。でも、わたしにはあまりにも勿体なくて。昨日もカステラをいただいてしまいましたし」
衣食住を保証すると約束されたものの、ここまでの待遇を受け入れていいのだろうか。
すると、深月がなにを言いたいのか理解したように、暁から小さなため息が聞こえた。
「では、どんな食事なら君は素直に受け入れられる」
「え?」
「参考までに聞いておこう。これまではどんな食事を摂っていた」
まさかそのような返しがくるとは予想外だった。
戸惑う深月に、暁は試しに教えてくれと耳を傾けている。
黙っているわけにもいかず、深月が「お漬物と麦のご飯です」と簡潔に答えれば、暁の表情が固まったのがわかった。直後に険しい声音が響く。
「なんの冗談だ」
「え?」
「庵楽堂は奉公人の食事を最低限にしなければならないほど困窮していたのか」
「それは、ないかと……」
ほかの女中はそれなりの品数はいただいていたし、形が崩れたりして商品にならない廃棄品が配られることも多々あったはずだ。
「では、君だけがそのような冷遇を?」
失敗した。人との会話にあまり慣れていないせいか、余計なことを口走っていたようだ。
深月の感覚が麻痺していただけで、暁の反応から察するに庵楽堂での食事内容は普通ではなかった。そうやすやすと他人に教えてはならないほどに。だからといって、ここでの食事はあきらかに贅沢すぎるのだが。
「わたしには借金がありましたので、ほかの女中と多少扱いが違っていたのは仕方のないことだと……」
これ以上、庵楽堂での日々を詳しく話せばどんな反応をされるだろう。
まるで告げ口をしているような気になってしまい、深月は黙り込んだ。
「……重症だな」
さらに嘆息が聞こえて、暁の目がこちらを向いた。
「食事に関してはあとで朋代さんに伝えておく。いままでの内容を考えると、ここでの食事は胃に負担をかけていただろうからな。少しずつ調節しよう」
「あの、わたしは――」
いま以上に手間を取らせるわけにはいかないと、口を挟みそうになる。
それを暁は視線一つでたしなめた。
「いいか。契約上のものだとしても、君は俺の花嫁候補としてここにいる」
「……はい」
「なら、まずは与えられた特権を享受することに慣れてくれ。遠慮深さはときに美徳だが、君の場合は卑屈に映る。朋代さんは例外でも、ほかの隊員や使用人からしてみると朱凰の分家筋からやってきた人間としてはひどく浮くはずだ」
昨日、朋代に言われて立場を再認識したはずだというのに。いちいち指摘されなければ改善できない自分を、深月はふがいなく思った。
「そう、ですよね。申し訳ありません――」
反射的に謝ってしまうが、それをすかさず暁が止める。
「少しだけだがわかった。君のその卑屈さは、君だけのせいじゃない。だから、無闇に謝ってうつむかなくていい」
力強く諭され、深月は前を向くほかなかった。
謝るな、うつむくな、遠慮をするな。
暁は、これまで深月が強要されていた生活の真逆を言ってくる。深月には不慣れなことばかりだが、それがまったくつらいとは感じない。
(朱凰さまは、花嫁らしく見せるために必要助言をしてくれているのだわ)
しかし彼の言葉の節々からは、なぜか気遣いのようなものが感じられる。
利害の一致にすぎない関係だというのに、かける言葉は驚くほどに実直で。話す機会が増えていくたび、暁に対する心象がさらによくわからなくなってしまった。
「遅くなってしまったが、冷める前に食事をいただこう」
「……はい、いただきます」
誰かと一緒にする食事は何年ぶりだろうか。紅茶とカステラを前にしたときも緊張はあったが、人の気配を近くに感じながら口にする食事は深月にとって不慣れだらけである。
そんな深月の胸中を箸の動きで察した暁からは、「なにも気にせず好きなように食べたらいい」と察したような発言がされた。
食べきれない分は素早く下げさせ、深月が食べ終わるまで急かさず待ち、彼は朝食のあいだ驚くほど紳士的だった。
これまでも美味しいとは感じていたが、今日の食事はこれまでよりもしっかり味わえた気がした。
「昨日、朋代さんに言われたことを覚えているか?」
ほどなくして深月が箸を置くと、出し抜けに暁が訊いてきた。
「……名前の呼び方、でしょうか」
「そうだ。隊員たちに紹介する前に、互いの呼び方を統一させたほうがいい」
「朱凰さまを、お名前で、ですよね……」
「ああ。ほかになにがある?」
至極当然にうなずく暁に、深月は視線をさまよわせた。
彼はじっとこちらを見据えている。もしや、いままさに呼び合う練習をする流れになっているのだろうか。
帝都でも男女が互いを名前で呼び合う行為というのは、昔なじみや血縁を除いて、なにかしら特別な関係を示唆する証として捉えられる場合が多い。もちろん例外はたくさんあるが、名前を呼び合う仲というのは、それだけで関係に真実味をもたせてくれるだろう。名前呼びは、現状絶対に必要だ。
(名前を呼ぶだけ、呼ぶだけよ)
なにも難しいことじゃない。でも、深月はこれまで男性を名前で呼んだ経験がない。元旦那といっていいか微妙なところだが、誠太郎にだって『旦那さま』としか呼んでいなかった。
「朱凰さま……いえ、あ……あか、つき、さま」
なんてことだろう。あまりのひどさに深月は頭を抱えたくなった。
「俺の名はそこまで呼びにくいか」
わずかに下がった形の良い眉。困惑を含ませながらも、柔和な面立ちでこちらを見つめている。
「あの、慣れていないもので……」
「俺も特段慣れているわけではないが」
「す、すみません。すぐ慣れるようにしますので、すぐに……」
気恥ずかしさと畏れ多さが入り交じる。ひとまず口に出していれば少しはマシになるだろうか。
「暁、さま……暁さま、暁さま」
「…………」
同時に、戸惑う空気感が暁のほうからする。
異様な様子にも思われそうだが、それだけ深月は必死だった。だが、繰り返しつぶやいていると突っかえる頻度が徐々に減ってくる。
(これならなんとか……)
「深月」
「はいっ」
ふいに呼ばれて、深月は弾かれたように顔をあげた。
「俺は一度で十分だな」
そう言って、暁はどこか遠くを見るように深月から視線をはずした。美しい横顔がほんのり狼狽えているような気がする。
「し、失礼しました、何度も……」
慣れるためとはいえ本人を前に何度も名前を呼んでしまっていた。そんな深月の顔には羞恥の感情がにじみ出ていた。
深月が花嫁候補として立ち居振る舞いを試されたのは、朝食が終わってすぐのことだった。
場所は本邸に併設された特命部隊訓練場。花嫁候補として隊員たちにひと言挨拶をするため、深月は暁とともに訓練場を訪れたのである。
「彼女は朱凰の分家筋の者だ。禾月、悪鬼についても認知している。私の花嫁候補として、隊の視察も滞在目的に含まれている。皆そのつもりでいてくれ」
「深月と申します」
暁の紹介のあとに軽い挨拶をすれば、眼前で整列した隊員たちから静かなどよめきが聞こえてきた。
「隊長が花嫁って言った……」
「あの隊長が」
「いや、候補って話しだが……」
「こんなのはじめてだ」
隊員らに反発などはなく、ただ暁の口から『花嫁』と出たことに驚いているようだった。
「暁さまから紹介いただきましたが、視察といっても隊務の邪魔にならないよう気をつけますので、皆さまどうぞよろしくお願いいたします」
深月は言葉を添えて会釈する。
必死になって頬をつり上げ、余裕のありそうな笑みを作った。
見た目は疑う要素のない良家のお嬢さまである深月を、この場で不審に思う隊員はいなかった。
紹介後、深月は訓練の見学をするため場内の隅に移動した。
(なんとか挨拶は終わったけれど、ちゃんとできていたかしら……)
隣に立つ暁の様子を横目に窺う。
「緊張したか?」
見られていることに気づいた暁は、隊員たちの打ち合いを眺めながら尋ねた。深月はつられて首をぱっと動かし、端正な横顔をじっと見上げる。
「緊張、しました」
「だろうな。声が随分と固かった」
「す、すみま……」
言いかけて、朝食の席でした会話が頭によぎる。
ここは謝っても問題ないところか悩む深月の横で、ふと空気が抜けるような音が聞こえた。
「緊張して当然だ。よく噛まなかったな」
細めた両の眼がこちらを向く。
「……!」
朝食の際に名前呼びに苦戦していたとはいえ、こんなところで褒められるとは思っていなかった。
(いま、少しだけ笑って……た!?)
唐突な労いの言葉に、深月はまじまじと見返してしまう。彼の表情の変化に目の錯覚かと戸惑っていれば……。
「隊長、よろしいでしょうか。どうも刀が扱いづらくて」
「ああ。深月、ここで待っていてくれ」
「は、はい」
訓練中の隊員に呼ばれた暁は、そう言い残して場内の中心へ歩いていった。
ひとり残された深月は、背筋のいい後ろ姿をぼうっと見送る。
そのとき、横から声をかけられた。
「よう、お嬢さん。アキとうまくやれてるか」
「……不知火さま」
深月は近距離からひらひらと手を振る不知火にそっとお辞儀した。
もう片方の彼の手には、木製の収納箱が握られている。
「オレに『さま』はいらないって、むず痒くて仕方ねえ。不知火さん、または蘭士さんとでも呼んでくれ」
「で、では、不知火さんと呼ばせていただきます」
「おう、よろしくな」
不知火は好意的に笑いながら深月の隣に立つ。それから視線は深月の腕に移った。
「右腕の傷は塞がったか?」
「はい。その節は手当をしてくださって、ありがとうございます」
「礼はいいよ。オレもあんたの手ぬぐいを拝借したままだしな」
不知火は帝国軍お抱えの医者。検査結果で深月を稀血だと断定したのも彼である。要請を受ければどこにでも赴いて治療をするそうだが、彼の拠点は特命部隊であり、本邸には医務室、別邸には個人室が用意されている。
最近は頻繁に本部に出入りしていたらしく、深月と顔を合わせるのは初対面時に会ったきりだった。
(朱……暁さまからは、不知火さんが定期的に検査をおこなうらしいけれど)
検査といっても大掛かりなものではなく、内容としては血液採取と問診、触診だけだと聞いている。
(だけといっても、やっぱり緊張する……)
不知火は稀血である深月に興味津々だった。
出会い頭にも詳細を色々と聞きたそうにしていた様子を思い出し、無意識のうちに身構えてしまう。
どうやらそれは、不知火にも伝わっていたようだ。
「はは、そう警戒しなさんなって。少しはわきまえろってアキにもこっぴどく注意されたしな」
「……暁さまが?」
それを聞いて深月の瞳は自然と暁を映した。
(え……?)
いつの間にか彼は、隊員と打ち合い稽古を始めようとしているところだった。
刹那、場内の空気が変わったことに気づく。そして両者の握る刃が面妖な鋭さを放ったとき、深月は見開いた。
(あれは、真剣?)
竹刀でも木刀でもない。一歩間違えれば軽い怪我では済まないだろう。もしもの場合を想像して顔を青くさせていると、不知火が何気なしに言う。
「前に、あやかしを宿らせたものを〝妖刀〟だっていう話はしたな」
「あやかし降ろしですか……?」
「そうそう。で、いまあのふたりが構えてんのは、どっちもその妖刀だ」
妖刀。童天丸のほうは一度だけ抜き身の状態を見ている。
そのときは首筋に突きつけられてそれどころではなかった。けれど、いまこうして傍から観察していると、その異様さがひしひしと伝わってくる。
「刀の主は精神力を試される。舐められたら逆に取り憑こうと襲ってくるのがあやかしだからな。それを制御したり従わせる訓練をするには、妖刀同士の打ち合いが効率的なんだよ」
「だけど、あれでは……」
「怪我もするだろうし、下手したら重傷を負うだろうな」
不知火は平然と言ってのける。
彼にも特命部隊にとっても、それがあたり前のことらしい。
「まあ、アキはそのへんの加減を心得ている。宿した鬼をあれだけ意のままに従えられんのも、あいつの実力あってこそだしな。それに……」
不知火はさらに言葉を繋いだ。
「訓練稽古でへばっているようじゃ、悪鬼も禾月も退けられない。勝てないだけならいいさ。が、最悪の場合は死ぬ」
不知火は断言する。
悪鬼に取り憑かれた人の変貌は、深月もしかと体感した。理性がなく発狂するさまは思い出しただけで体の芯が冷えていく。
では、禾月はどうなのだろう。
まだ自分は、禾月をこの目で見ていない。たとえ街中ですれ違っていたとしても、認識できないだろう。
人間の形をして、知能があり、世にうまく溶け込んでいて、血を飲む。
「不知火さんも禾月を見て……いえ、会ったことが?」
「ああ、あるよ」
「どのような人たちなのですか?」
聞かなければよかったと、すぐに後悔した。
自分も半分が〝そう〟だと知ったばかりだというのに。いや、そうだと知ったから聞いてしまったのかもしれない。
「禾月は……あー、そうだなぁ。悪鬼よりもよっぽど化け物じみたやつら、だな」
不知火にまったく悪気はなかった。答える上で深月を意識した素振りもなく、彼が見てきた禾月をただ追考させて口にしたにすぎない。だからこそ一つの事実なんだと思い知らされる。
(……化け物。悪鬼よりも)
深月は少しずつ知っていく。
人ならざるものと、それらに命をかけて立ち向かう人々がいる。
そして自分の存在が、どれだけ異質なのかということも。
***
夜。廊下のガラス窓から空を見ると、分厚い雲の隙間から、三日月が顔を出していた。
(月明かりが弱いとはいえ、油断はするなと伝えておこう)
暁は夜間巡回の隊員たちへの指示を考える。
禾月の活動力は月の輝き度合いで左右される傾向にあった。
とくに満月の強い光による精神の高揚はどの禾月にも当てはまる特性だが、だからといって警戒を緩めると命とりになる。そんなふうに少しの過信や隙で痛い目に遭ってきた隊員を、暁は多く見てきたのである。
肌寒さを頬に感じながら、暁は深月の部屋の前で立ち止まった。それから一拍ほど置き、ゆっくりと扉の取っ手に触れる。
なかに入り、すぐに部屋奥の寝台を確かめた。
暗闇が広がる室内。格子窓から差す月の湾曲した光だけを頼りに、その存在を確認する。暁は足音を消しながら寝台横へと近づいていった。
足を止めると、すう、とか細い寝息が聞こえてくる。
(……これは一体)
寝台を見下ろして、暁は思わずまばたきを落とす。
人がふたりは寝そべられる広さがあるというのに、深月が眠っているのは床に落ちるのではと思うほどに端の位置だった。それも厚手の毛布を被りもせず、薄っぺらい掛け布で暖を取っている。
(毎晩このような寝方をしていたのか?)
起きているときよりも幾分あどけない顔は、寒さに耐えているせいかまったく休まっているように感じない。
(……風邪を引きたいわけではあるまいし。さすがに落ちるだろう、これは)
暁は静かにため息をこぼす。
所在なさげに身を縮めて眠る様子があまりにも侘びしく、ためらいながらも自ずから手を伸ばしていた。
あいかわらず綿のように軽い。大げさかもしれないが、暁にしてみればそれほどに華奢だった。良く言い換えて繊麗、けれどやはり体調面を考えてしまう。
本人ははぐらかしていたが、聞いたかぎり庵楽堂での食事内容は粗末なものだった。
それも日頃から我慢していたというよりは、あたり前だと受け入れていた姿勢に、言いようのない憤りが頭の片隅に居座っていた。
その説明のつかない思いに釈然としないまま、深月を軽々と抱えた暁は掛布団をめくり、寝台の真ん中に横たえさせた。
手足が飛び出してこないよう厳重に布団を掛け直したとき。
「……!」
暁は、ぬくもりに包まれた深月の表情がほっと和らいでいくのを至近距離で目のあたりにしてしまった。
さらりと流れた前髪の下で、閉じ合わせた長いまつ毛が頬に影を落とした。
なぜだか、見てはいけないような心地になる。
(女性の寝顔を、長く見るものじゃない)
掛布団から手を離し、さりげなく目線を横にそらす。
そのとき、暁はなにかの気配を察知した。すぐさま探るようにまぶたを伏せ、そして、見つける。
(敷地外、南西か)
ここまでわかりやすい気配は十中八九、悪鬼だ。
複数が同じ場所を行ったりきたりしているようだが、いつまでたってもなかに侵入しようとする動きはない。暁がほどこした結界の力によって足止めを食らっているのだろう。
だが、既存の結界で稀血の匂いをすべて消すのは難しかったようだ。
「童天丸」
暁はつぶやきとともに窓外へ鋭い視線を投げた。親指を刀の鍔にかけ、鯉口を切る。
「彼女の気配を薄めろ」
それに応えるように、外気に晒された刃の部分が赤く発光した。
童天丸に命令し、結界の効果を強めたのである。そうすることで外敵が稀血の気配に勘づきにくくなる。
やがて鞘から手を離した暁は、ふっと息を吐いてふたたび深月を見下ろした。
(まったく起きる気配がないな)
その様子に肩の力が抜ける。
無理もない。今日は朝から食事を一緒に摂ったり、隊員に挨拶をしたりと、気を張ってばかりだったろうから。
しばらくはそんな日々が続いていく。
しかし不思議と、初対面の頃にあった気鬱さはない。深月があまりにも、自分が抱いていた稀血の想像と異なっていたからだ。
だから余計に調子が狂ってしまう。
使命に一切の揺るぎはなくても、なにも非情に徹しようとしているわけではない。
――暁さま。
明日、彼女の口からはなにが語られるだろう。
うつむきがちの顔が、どのような感情を見せるだろう。
義務感からではなく、これは暁のなかに表れた純粋な興味だった。
***
数日後、その日も深月は執務室にきていた。
暁には裁かなければいけない書類が多くあるようだが、深月にはとくにやることがない。暁のそばにいる必要があるとしても、この手持ち無沙汰は深刻な問題である。
(……でも、お仕事の邪魔をするわけにはいかないし)
せめて無駄に動かず彼の気が散らないようにしていなければ。
そう考えておとなしくしていた深月だが、しびれを切らしたように暁が机上から顔をあげた。
「君はじっとしているのが好きなのか?」
「……いえ」
好みを問うならむしろ苦手である。
貧乏暇なしとはよくいったもので、これまで深月は雑務に追われてばかりいたのだ。なにもせずにいると、自分がひどく怠惰な人間に思えてしまう。
本邸にいる女中たちの手伝いをすれば時間もあっという間に過ぎるのだろうが、ここでは分家のお嬢さまで通している深月に仕事を任せてくれる人はいないだろう。
第一に稀血として暁の監視下に置かれなければいけない立場でもあるのに、自由に出歩けるはずがなかった。
「君は養父から字を教わっていたと言ったな。書物にもなじみがあったと」
「は、はい。随分と前のことですが」
「文字を読むのは、苦ではなかったんだな?」
「好きなほうだったと思います」
曖昧な言い方をしたが、実のところかなり好きだった。
あまり外に出歩いていなかったので、あの頃は屋内で時間を費やせる書物がかなりの娯楽だったのだ。
「では、その棚にある書物に目を通してみるのはどうだ」
暁が示した壁一面に並んだ本棚には、ぎっしりと書物が置かれている。
有名な文豪の大衆文学作品から、諸外国から取り寄せたであろう翻訳小説まで、幅広く集められていた。
「……いいのですか?」
「部屋の外に出る以外は好きにしていいと伝えていたはずだ」
それはそうだけれど、図々しく室内のものを物色するなんて自分にはできない。
どこまでも受動的になってしまっている深月に、暁は「どれでも好きに読んだらいい」と付け足した。
本が読めるのなら少しは時間を潰すことができる。
「ありがとうございます。では、いくつか拝借します」
「ああ」
断りを入れて深月はそそくさと本棚に向かう。背中あたりに、暁が見守っているような気配を感じた。
(懐かしい……)
自分の背よりうんと高い本棚を眺めながら、ふと思い出に浸る。
養父とともに借家で暮らしていたとき、養父は帰ってくるたびに新しい読み物を届けてくれた。暁に伝えたように外来語の知識も豊かであり、十四までは深月も教わっていた。
しかし女中奉公となってからは、娯楽目的で文字に触れる機会はなかった。あったとすれば、麗子が女学校時代に持ち帰ってきた外来語の課題を代わりにやったぐらいである。
(どうしてわたしが外来語を理解できるのかと変に敵視されてしまったのも、その頃だった)
苦い記憶も蘇ってきてなんとも言えない心地になる。
気を取り直して棚に目をやると、右隅の棚に覚えのある小冊子が挟まっているのを発見した。
「この冊子……!」
深月から歓喜の声が漏れる。
それは五年前、深月がいちばん続きを読みたいと望んでいた物語の続編だった。
「それがどうかしたのか」
知らずのうちに隣に立ってこちらの様子を見ていた暁が尋ねてくる。
「あの、この冊子、養父さまが貸してくれた物語の続編で、ずっと続きが気になっていたもので」
「そうだったか。俺も最新の第八章まで読んだが、どの話も面白かった」
「そ、そんなに続きがあるのですか……!?」
自分が読んだときは第一章が出回り出したぐらいだったのに。
「ああ、ここには五冊まで。残りは書庫室に揃っている。めぼしいものを見つけられてよかったな」
「はい……っ」
心に残っていた物語、同じ読者が身近にいることへの驚き。深月は感激のあまり夢中になってうなずき、暁のほうへためらいなく顔をあげる。
暁は、かすかに息を呑んだ。
「……君は。もっと表情に乏しい人だと思っていたが、菓子のときといい、思い違いをしていた」
「え?」
なんだか視界がいつもより晴れている。見上げた拍子に、日ごろ微妙に目を覆っている前髪が左右に流れたようだ。
なにより、暁とばっちり目が合っていた。窺い見たり、盗み見たりしてばかりだった綺麗な面差しが、この上なく鮮明に見える。
(あ、れ……)
じっと見下ろされ、深月ははじめて自分から明るい表情を相手に向けていることに気づく。その瞬間、頭のなかには何重にも反響する声があった。
『あんたのその顔、周りを苛つかせているのに気づかないの?』
『この愚図、厚かましいのよ!』
『借金を肩代わりしてもらっておいて、よく楽しそうに笑っていられるわね』
『そんな余裕が、あんたにあるわけ?』
……心ない辛辣な言葉にまみれてきた結果、深月にはいくつかの癖が残っている。
相手の目を直接見られなくなっていること。
自分の顔をなるべく見せないようにうつむくこと。
決して人前で楽しそうに笑ったりしないこと。
どれも言いつけられて染み込んでいった癖である。それをいま三つとも無意識でしてしまっていた。
我に返った深月に大きな焦りが生まれる。
「あっ、し、失礼しました、申し訳ありませんでした……‼」
「……?」
庵楽堂でも人の目を気にして感情のままに笑うのは控えていたため、遅れて自分の状態を察した深月は大罪を犯したような気迫で謝った。
しかし、暁は心底不思議そうに深月を見返していた。
「いまのどこに、謝る要素があった?」
「じ、自分から長いあいだ目を合わせてしまっていました。だらしない顔も晒しました。それに自分から笑いかけてしまいました。ずっと気をつけていたはずなのに、わたし……」
頭に深く響いた麗子の声は、思いのほか深月の意識を庵楽堂へ引きずり込んでいた。ここはもう庵楽堂ではないと理解していても、体に残った癖はなかなか消えてはくれない。少しでも顔をあげて目が合ってしまえば、相手の不快になる感情を出してしまえば、頬を叩かれていたあの頃に戻ってしまう。
(……声が、おさまらない)
「落ち着け、深月」
そのときだった。大きな掌が、半ば混乱した深月の肩に添えられた。
「ここはもう、君のいた場所ではない。言え、ここはどこだ」
「え、と……特命部隊本拠地です」
「君の目の前には誰がいる」
「朱、……暁さまです」
まだ、視線は合わさったまま。透きとおる淡黄の瞳が力強く諭していた。
「君が言ったことを、俺は一度でも強要したか」
「……していません」
「目を合わせるなと馬鹿げた決まりを押しつけたか」
「いいえ……」
深月はぎこちなく首を横に振った。
積み重なっていく問答によって段々と冷静になっていく。
それから暁は、小冊子を持つ深月の手を一瞥した。
「俺は君の行動を制限しているが、感情の制限までするつもりはない。思うこと、感じることは、君の自由であり誰であろうと脅かすことのできない権利だ」
うまく言い表せないが、その言葉は深月の心に強く響いた。なんだか無性に目頭が熱くなり、視界がぼやけて涙が溢れ出ようとしている。深月は戸惑いながら横を向いて目もとを拭った。
「君の立場からすると、契約を提案した俺の言葉は説得力に欠けるだろうが」
深月の様子に察したふうに目をそらした暁は、ひとりごとのようにつぶやいた。
「いえ、そんな……」
「その冊子、読みたかったものなんだろう。いつまでも立っていないで座って読んだらいい」
「……はい、ありがとうございます」
さっきまで、どうしようもなく焦ってしまっていたのに、これでもう何回目だろう。彼の言葉にたやすく溜飲が下がり、救われたような気持ちになるのは。
養父の話になったとき、朝食の席、そして今回の件で確信した。
(……この人の言葉は、どんなときでも真っすぐだわ)
特命部隊の義務として、稀血の深月をそばに置くのが暁の責務なのは確かだ。
身の危険から守り、保護してもらっているといえば聞こえはいいが、そこにはあきらかな監視が含まれている。帝国軍にも未知数な稀血の自分は、そう簡単に野放しにはできないのだろう。
しかし、その義務感を差し引いても、言葉を重ねれば重ねるだけ彼の真摯さに触れ、驚かされている。
(よくわからない人だとはずっと思っていたけれど、彼は一体、どんな人なんだろう)
いまさらながら、深月は思った。
利害関係の上で成り立つ軍人としての彼ではなく、暁というひとりの人として。
深月が誰かを知りたいと感じたのは、はじめてのことだった。
その夜、深月は寝支度を整えにやってきた朋代にある頼みを口にした。
「前髪を少し、切っていただけないでしょうか?」
庵楽堂にいたときはむしろ都合がよかった。
前髪を長めにしていれば、自然と誰とも目は合わなくなり、顔全体を晒さなくて済んだ。女中たちから野暮ったいと陰で笑われようと、麗子の機嫌を損なわないようにできればそれでよかった。
でもここは、庵楽堂じゃない。
誰とだって目を合わせていいし、なにを感じてもいい、顔を合わせて笑ってもいい。
凝り固まっていた意識の外から、暁はそう思わせてくれる言葉をくれた。
なにより暁の花嫁候補としても、かたくなにうつむいてばかりでは迷惑をかけてしまう。お世話になっている以上、自分で改善できるところは直していきたいと、深月は考えた。
「ええ、ええ! もちろんですわ、深月さま」
深月の頼みごとを朋代はこころよく引き受けてくれた。
切り揃えられた前髪。
ほんのわずかな変化だけれど、深月の背中を押すには十分すぎるものだった。