先王の崩御による結婚式延期の報に、最も怒りをあらわにしたのはブリュンヒルデだった。
 王国騎士団団長として、他の貴族よりも早く知らせを受けたリーンハルトは、その日の仕事をすべて投げ出すと帰宅し、ブリュンヒルデに伝えたのだ。

「はあぁ? 延期ですってぇ? どこのバカ王がそんなふざけたことを言いやがってるんですかねえ? 婚約は破棄です! 破棄っ! このブリュンヒルデちゃんの目が黒いうちは、うちの可愛い可愛いシャルロッテちゃんとあのバカ王の結婚は認めませんっ! お義姉さんは絶対に、ぜぇええったいに認めませんからねっ!」

 怒り狂うブリュンヒルデとは対照的に、リーンハルトは落ち着きを取り戻していた。先ほどまでは頭に血が上っていたのだが、自分でも驚くほど思考がクリアになっていた。
 冷静になるあまり、ブリュンヒルデの瞳は紫だろうと言いそうになったが、指摘をしても火に油を注ぐだけだと気づいたため、寸でのところで口をつぐんだ。

 ブリュンヒルデの瞳孔はとても珍しく、紫色をしていた。青みがかった濃い紫は虹彩との境目でジワリと滲み、グリーンへとグラデーションしていく。宝石のように美しいと思う反面、どこか恐ろしく感じるのは、幼い頃の記憶が影響しているのかもしれない。
 リーンハルトはかつて、彼女と同じ特殊な瞳をした男性と言葉を交わしたことがあった。まだシャルロッテが生まれる前、リーンハルトとコンラートが五歳の頃の話だ。

 コルネリウス家は芸術家に資金援助を惜しまない家柄で、その老齢な幻想画家にも長年支援を続けていた。若い頃は何かにとりつかれたように一日中書き続け、何枚も完成させていたと聞くが、高齢になった今では数か月に一枚完成させるのがやっとだった。
 彼は、架空の街を描くのが得意だった。緻密に描かれた都市の絵は、見る者を虜にした。
 彼はとりわけ、大きな時計塔を好んで描いた。小さな三角の屋根と細かな装飾が特徴的なそれは、頻繁に彼の絵に登場した。

 久しぶりに絵が完成したので見に来てほしいと請われ、リーンハルトはコンラートと共に父アルベルトに連れられて、森の奥深くにひっそりと建つ彼の自宅を訪れた。絵を描くこと以外を極力排除したような内装は簡素で、小さな台所と簡易なベッド以外は生活感のあるものは置かれていなかった。
 アルベルトとコンラートが熱心に絵画を褒めちぎる中で、リーンハルトは少し離れた位置から男性を見つめていた。
 真っ白な髪に、深いしわが刻まれた顔。手はゴツゴツと骨ばっていて、皮膚も水分が抜けてしまったかのように張りがない。腰は曲がり、真っすぐに立つことができずに木の杖をついている。しかし瞳だけは若々しく、ブルーの虹彩は透き通っており、妖艶な紫の瞳孔にも濁りはなかった。
 彼の目が絵に向き、愛し気に細められる。その眼差しには、自身の生み出したものに対する愛情以上の何かが宿っているように思えた。
 追憶、郷愁、思慕。
 自身が生まれ育った街を見つめているような横顔に、強烈な違和感を覚える。
 この人は、何かが違う。何かがおかしい。
 言葉にできない違和感はやがて恐怖へと変わり、リーンハルトの心を支配した。
 男性の視線が、絵画からリーンハルトへと移る。蠱惑的な紫の瞳孔にとらえられたリーンハルトはその場に固まり――。