妖精姫は見つけたい

 シャルロッテよりも頭一つ分は小さいメイは、無邪気さが見え隠れする表情や、ふとした時に見せる子供っぽい仕草も相まって、一見すると王立学校に通いたての少女のようにも見える。しかし、品よく整った顔立ちや、楚々とした所作からは育ちの良さがうかがえるだけに、どことなくアンバランスで危うい印象を見る者に与えた。

 メイは、豪商の娘だった。彼女の家は爵位こそないものの、代々城下で手広く商売をしていたため裕福だった。しかし、決して幸せな家庭ではなかった。
 メイの母親は彼女を出産する際に死亡しており、父親は娘が成長するにつれてどう接して良いのか分からなくなった。家を空ける日が多くなり、結果としてメイの体調不良に気付くのが遅れてしまった。

 五歳のとき、メイは高熱により生死をさまよい、何とか一命をとりとめたものの声を失ってしまった。失声直後に迎え入れられた後妻との相性も悪く、栄養失調で落命寸前のところをコンラートとリーンハルトに助け出され、コルネリウス家に引き取られた。
 コルネリウス家で、メイは読み書きやメイドの仕事を教え込まれたのだが、どれもものにすることができなかった。幼い時の高熱による後遺症と酷い栄養失調によって脳にダメージを受けてしまったためだと、コルネリウス家の主治医は告げた。

 意思の疎通が難しいメイだったが、彼女には特別な才能があった。
 メイは、人の感情や体調にとても敏感だった。
 たとえ相手が必死に押し隠し、何でもないように振舞っていたとしても、メイの目は誤魔化せなかった。

 シャルロッテは、自身の不調や感情を隠すのが得意な子供だった。どれほど具合が悪くても、悲しくても辛くても、顔に出たことはなかった。
 口調や仕草にも出ないように細心の注意を払っていたのだが、ほんのわずかな違いに気づいてしまう人が二人だけいた。
 一人は、兄のリーンハルトだ。
 コンラートよりも細やかな気配りができ、少しばかり妹に向ける愛情が強い彼は、シャルロッテの視線一つで体調不良や感情の落ち込みに気づくことができた。
 もう一人は、クリストフェルの付き人、パーシヴァルだ。
 彼がなぜ、両親ですらも気づかないシャルロッテの些細な変化を敏感に察知できるのかは分からない。もしかしたら、王子の付き人として気を張る生活を続けた結果得た特殊能力なのかもしれない。
 しかし二人とも、ずっとシャルロッテのそばにいるわけではない。リーンハルトはその時は王立学校に通っていて家にはおらず、パーシヴァルは言わずもがなだ。
 そんな中で突如として現れたメイは、顔を合わせて早々にシャルロッテの体調不良を見抜くと、彼女の手を引っ張ってベッドに寝かせた。
 最初はメイの奇行に戸惑った周囲だったが、たまたまコルネリウス家に居合わせていたパーシヴァルがシャルロッテの発熱に気づいた。

 それ以降、どんなにメイの目を欺こうと装っても、彼女は絶対にシャルロッテの不調を見逃さなかった。体調不良のみならず、シャルロッテの悲しみや痛みも敏感に感じ取り、そっと寄り添ってくれた。
 メイは、シャルロッテが自分を偽ることなく接することができる、特別な人のうちの一人となったのだった。
 シャルロッテの前で立ち止まったメイが、左手首の水龍鳴涙鈴を一定のリズムをつけて振る。
 短く、短く、長く。
 それは、彼女が相手に対して大丈夫かと尋ねるときに使う音だった。

「大丈夫よ」

 意味がないと頭の片隅でわかっていながら、流れるように嘘が口から出て行く。途端に、咎めるようにメイの眉間にしわが寄った。
 シャルロッテを見上げる瞳は、本来は藍色のはずなのだが、光源の少ない今は紺に見える。メイの瞳の中で、困ったように眉尻を下げる自分と目が合う。彼女も、自身の嘘がすぐに見抜かれることを気づいている様子だった。

「……ごめんなさい」

 メイの圧力に耐え切れず、嘘をついた謝罪をする。少々考えこむように目を伏せたメイは、気を取り直したように小さく微笑むと、シャルロッテの手を取って歩き始めた。
 昔からメイは、シャルロッテの不調を見抜くとこうやって有無を言わせず手を引っ張って歩いた。最初のうちは抵抗していたシャルロッテだったが、頑として手を離さないメイの意志の強さに折れた。今では、彼女がこうなったら素直について行くしかないと分かっていた。
 華奢なメイの背で、腰元まで伸びた赤毛が揺れる。きっちりと編み込まれた髪は、質素な黒い紐で一つに結ばれていた。等間隔に並んだ廊下の明かりに照らされて、燃えるように赤々と光る髪を見つめながら、シャルロッテは重い口を開いた。

「あのね、メイ。私……クリストフェル様との婚約がダメになってしまったの」

 歩を緩めないまま、メイが横目でシャルロッテを見上げる。微かに顎を引き、繋いだ手に力がこめられる。
 兄夫婦に婚約破棄の報告をした際、茶室にメイの姿はなかったはずだが、誰かから聞いたのだろう。メイドたちはシャルロッテのことに関しては、メイに全幅の信頼を置いていた。
 あと一歩のところで消えてしまうはずだった命を救ってくれた、恩人であるコンラートとリーンハルト。彼らが最も大切にしているシャルロッテを守ることが、自身の使命だと思っているのかもしれない。時にメイは、恩人達すらも後回しにしてシャルロッテを優先する。そして兄たちも、それで良いのだと言うようにメイに信頼を寄せていた。

 長い廊下を歩き、突き当りの部屋の前でメイが足を止める。腰に下がった鍵束の中から指先だけで一つを選ぶと、鍵穴に差し込んだ。
 軽い音とともに解錠された扉が、ゆっくりと開く。一足先に入ったメイが、勝手知ったる様子で明かりをともしていく。
 橙色の光に照らされた部屋は見慣れたもので、朝に一吹きまとった香水の残り香が漂っていた。
 クリストフェルと会う時だけにつける特別な香りに、鼻の奥がツンと痛み、目が潤む。
 メイは真っ直ぐに部屋の奥まで歩いていくと、綺麗に整えられたベッドの縁にちょこんと腰を下ろした。隣をポンポンと叩き、シャルロッテにも座るように促す。
 ベッドサイドの明かりが、メイの瞳に元の色を取り戻させる。何かを言いたげに真っすぐにシャルロッテを見つめる藍色の瞳は、数刻前に両親の部屋で見たものと同じだった。
 シャルロッテから簡単に婚約破棄の報を受けたアルベルトとアンネリーは、会食中に知らせを受けたとだけ言うと、口を閉ざした。重苦しい沈黙が降り、三者の視線が合わないまま足元に落ちる。

「ランヴァルドも、罪な男だ。賢王と呼ばれるカラクリを、実の息子に話しておけば良かったものを……」

 長いため息の後で、アルベルトが呟く。吐き切った息の残りに乗せた言葉は、弱弱しかった。

「実の息子だからこそ、言いづらかったのでしょう」

 同情が混じった声音で、アンネリーが優しく囁く。耳に心地よい柔らかな声が、冷え切った空気をわずかに温める。

「もとより、ランヴァルドから是非にと請われて決めた婚約だ。クリストフェルが突き返すと言うのなら、それで良い。……あれほど幼い頃から一緒にいて、シャルロッテの才能に気づかぬのは、あやつの落ち度だ。シャルロッテが抜けたからと、すぐに傾くような国ではあるまい。臣下には、優秀な人材もいる」

 例えば付き人のパーシヴァルがその筆頭だろう。長いこと外遊に出ている彼の兄メルヴィンも弟に負けず劣らず優秀だ。もちろん、コンラートとリーンハルトも忘れてはならない。今は騎士団団長という立場だが、その気になれば中枢の政にも才能を発揮することができる。

「国のためにと、シャルロッテが望まぬ選択をする必要はない。……お前ももう、王立学校を卒業した身だ。自身のことは、自身で決めれば良い」

 父親の顔でアルベルトが微笑む。しかしその笑みはすぐに消え去り、射貫くような目でシャルロッテを見据えると言葉を続けた。

「しかし、驕ることなく己の能力不足を理解し、優秀な妻を娶りたいと言うクリストフェルは、王としての資格はある。未熟ながらも、賢い男だ。その点については、シャルロッテも異論はないだろう」
「えぇ、もちろんです」
「……浅慮で下した婚約破棄を、真に受けたわけではないのだろう?」

 シャルロッテは微かに頷くと、毅然とした態度でクリストフェルには思い人がいるようだと告げた。

「なんてことを……」

 アンネリーが今にも倒れそうなほど蒼白な顔で言葉を絞り出し、口元を手で押さえる。愛する娘に無体な仕打ちをしたクリストフェルに、呪いの言葉を呟いているようだが、指の隙間から言葉は漏れ聞こえてこない。
 その隣では、アルベルトが微塵も顔色を変えないまま、シャルロッテに瞳だけで問いかけていた。


 アルベルトの青い瞳と、メイの藍の瞳が重なる。
 彼女の目もまた、シャルロッテに問いかけていた。

 一時の熱に浮かされたからと諦めてしまえるほど、クリストフェルに思いがなかったわけではないだろう?

 父の前では隠し通し、言葉にすることのなかった理由が、自然と口を伝う。

「議場の間に入るとき、いつものようにクリストフェル様は手を引いてくれたの。でも、その手には手袋がなかったのよ。……これがどういう意味なのか、メイも知っているでしょう?」

 メイの細い喉から、ひゅっと息を飲み込む音が聞こえた。
 かつてリーデルシュタイン王国は一夫多妻制の国だった。五代目の王メンフィスには正妻のほかに四人の側妻がおり、十三人の子供がいた。そのうち正妻エルヤの子供は三人で、長女のマティルダの後は長いこと子宝に恵まれず、長男のレオニダと双子の弟リベリオが生まれたのは、六人の王子が誕生した後だった。
 この時のリーデルシュタイン王国は男児にしか王位継承権が認められていなかった。継承順位も王の一存によると記されており、いつでも変更することができた。
 メンフィスはレオニダとリベリオの誕生に喜び、即座に側妻の息子に与えていた継承順位を降格させ、双子を一位と二位に据えた。これにより、王位継承権一位だったルカは三位に転落することになった。

 未来の王になるため、厳しい帝王教育を受けてきたルカは当然面白くない。
 元々女好きで好色家だった彼は日増しに素行が悪くなり、ついには伯爵令嬢との婚約まで破棄してしまった。
 ただの婚約破棄ならば、そこまで話は拗れなかったのかもしれない。しかし、あろうことかルカは恋人の男爵令嬢と結託し、偽りの罪をでっちあげると公衆の面前で伯爵令嬢を糾弾したのだ。

 未来の王妃として蝶よ花よと育てられた令嬢はあまりのショックに体調を崩し、ふさぎ込み、ついには思い余って自ら命を絶ってしまった。
 美しく優しい令嬢の非業の死に王国民は嘆き悲しみ、怒りをあらわにした。とりわけ大切な娘を亡くした伯爵の怒りはすさまじく、ルカの王位継承権はく奪だけでは収まらなかった。
 王国に不満を持っていた貴族や、王政に疑問を持っていた権力者、ここを好機と見た他国の勢力が介入し、たちまち反乱軍となってリーデルシュタイン王国に襲い掛かった。

 国境沿いの砦が次々と陥落し、王国騎士団は敗走を繰り返した。突然の奇襲に指揮系統が混乱し、敗走せざるを得なくなった部隊もあったが、大半の敗因は味方の裏切りだった。
 伯爵側に正義ありと考えた騎士たちが多かったのだ。
 反乱軍は令嬢が最も愛したとされる純白の花を胸元に差し、彼女の名前を合言葉に剣を取った。
 反乱軍は革命軍と名前を変え、この戦いをエリザ聖戦と名付けると快進撃を続けた。

 戦の火の手は次第に王都に近づき、ついには城内で暗殺未遂事件まで発生した。
 王位継承権第四位の王子を狙った刃は、彼の付き人が受け止めたことで未遂に終わったが、大怪我を負った付き人はほどなくして命を落とした。
 生まれたときからの親友であり、半身ともいうべき付き人を喪った王子は周囲の反対を押しのけて戦線へと身を投じ、無謀な単騎突撃を繰り返したのちに戦死した。
 第四王子戦死の報の直後には第五王子を狙ったと思われる毒物混入事件が起き、長年王家に仕えていた料理長が捕らえられた。
 城内に疑心暗鬼が広がり、使用人たちに厳しい身辺調査が行われる中、マティルダが忽然と姿を消し、その翌日にはリベリオの行方も分からなくなってしまった。
 メンフィスは病に伏せ、優秀なはずの臣下たちも正しい判断ができなくなり、城内に重苦しい空気が漂い始めた。それは王都にも広がり、リーデルシュタイン王国の崩壊がささやかれ始めた。
 民の心が王家から離れて行こうとしていた時、突如としてマティルダとリベリオが一人の少女を連れて戻ってきた。

 少女は、魔女だった。
 激しい迫害にあい、へき地へと追いやられた魔女たちは人間を憎んでいた。
 そんな魔女を、マティルダとリベリオがどうやって連れてきたのかは分からない。しかし彼女は圧倒的な火力で反乱軍を蹴散らすと、王都へと迫っていた戦火を後方へ押しやった。
 勢いづいた王国騎士団は戦線を押し上げ、次々と砦を取り戻した。敗走する反乱軍は次第に散り散りになり、いくつかの小部隊が抵抗を続けたのちに消滅した。

 リーデルシュタイン王国を救った魔女は、戦いの終結まで見届けることなく王国を去った。姫と王子の熱意に根負けしただけだと言う彼女は、一切の褒賞を拒否すると煙のように姿を消した。

 王としての資質を問われたメンフィスは、まだ幼いレオニダに王位を譲ると、王城の隅に質素な小屋を建て、エルヤとともに隠居生活に入った。
 レオニダは女児にも王位継承権が与えられるよう制度を変えたのち、マティルダを継承順位一位とすると、すぐに王位を譲った。
 リーデルシュタイン王国初の女王は、一夫多妻制を廃止するとともに、婚約者についても厳しい規定を制定した。
 王位継承者がある程度の年齢になるまでは複数の婚約者がいても良いとされる慣習を見直し、婚約者は一人と定めた。婚約の破棄も、婚約者が拒否した場合はすることができない。
 とりわけ最も特徴的なのは、エリザへの誓いと呼ばれる規定だろう。

 王位継承者は婚約者を、触れることすらできない王家の至宝として扱わなければならない。
 婚約者と接するときは白の手袋を着用し、直接触れてはならない。

 手袋を外し触れることができるのは、結婚後、王家の一員としての冠を頭にのせ指輪をはめるときだ。
 唯一無二の王家の宝であるうちは、決して触れることはないのだ。


 シャルロッテはすでに、クリストフェルにとっての宝ではなくなっていたのだ。
 一つ息を吸い込んだきり、身動きせずに固まるメイを視界の端に留め、シャルロッテは俯いていた。下手に動けば感情が溢れてしまいそうで、シミ一つないシーツの縫い目を見続けていた。
 どれくらい時間が経ったのだろうか。規則正しく進む時計の針の音が耳障りに感じ始めたとき、ポタリと何かがシーツの上に落ちた。ジワリと滲んだ液体に、反射的に顔を上げる。
 メイの目から、透明な涙が零れ落ちていた。
 潤んだ藍色の瞳が、涙に色移りしていないのが不思議なほど薄い色に見えた。

「どうしてメイが泣くの……?」

 その問いかけに、メイがエプロンのポケットから数枚のカードを取り出し、ベッドの上に広げた。
 可愛らしいキャラクターが様々な表情を浮かべているそれは、感情を言葉にできないメイのためにクラリッサが作ってくれたものだった。
 魔女は魔法陣を描くから絵が得意なのだと、嘘なのか本当なのか分からないことを言っていたことを思い出す。少なくともシャルロッテは、魔法陣を描く魔女を見たことがなかった。
 メイの細い指が、一枚のカードを指し示す。簡素な線で描かれたキャラクターが、ハンカチをかみしめて地団太を踏んでいる。
 そのカードが意味する感情は、悔しさだ。

「どうして?」

 再度の問いに、メイがシャルロッテを指さし、自身を指し、胸元でギュっと両手を合わせると蝶のようにパっと開いた。
 喋れず、文字を書くこともできないメイだったが、いくつかの簡単な単語は身振り手振りで伝えることができた。メイの言葉を読み解くことができるのは、コルネリウス家の人間だけだ。当然、シャルロッテには理解ができた。

『あなたは、私の、宝物、自慢』

 メイが再び先ほどのカードを指し示し、何度も指先で叩く。次第に力がこめられ、爪の先が赤く色づく。カードが音を立てて折れるころには、メイの指先からは血の気が失せていた。
 グシャリと潰されたカードを握りしめるメイの手は、震えていた。

 誰だって、自分の大切なものを粗末に扱われては感情が高ぶるだろう。悲しみと怒りが合わさり、行き場のない悔しさとなって心を支配する。
 シャルロッテは、感情を爆発させるメイをぼんやりと見つめながら、今度クラリッサに会ったら新しいカードを作ってもらうように頼まなくてはと冷静に考えていた。
 クラリッサなら、何も聞かずにサラサラと描いてくれるだろう。以前、メイがお皿を洗っているときにカードを落としてダメにしてしまった際も、嫌な顔一つせずにすぐに描いてくれた。
 その前は、庭に迷い込んだ野良猫と追いかけっこをしているうちに失くしてしまったと聞いた。あの時逃げ回っていた子猫は最終的に捕まって、誰かが引き取ったと言っていた。

(誰だったかしら? ……あぁ、そう言えば、クラリッサとは今度お茶会で会うのよね。カードはその時にお願いしないと。この間見つけた茶葉が美味しかったからぜひ振舞いたいのだけれど、ヴァネッサさんとヒルデちゃんのところに半分あげたから、残りは……)

 現実逃避をするように、思考が明後日のほうへとそれていく。しかし、思い付きで繋いでいく考えは胡乱でまとまらない。次第に迷走し、霧散していき、何も考えることができなくなる。停止した思考は、感情を抑えることすら放棄した。

 シャルロッテの目から、涙が一粒零れ落ちた。
 クリストフェルがシャルロッテを愛していないのは分かっていた。いずれこの婚約が破棄されることも、予想していた。けれど心の底では、全てはシャルロッテの杞憂であることを期待していた。
 素っ気なく見える態度は、あまり器用でないクリストフェルの精一杯の照れ隠しで、毎年プレゼントされるあの石にも何か深い理由があってシャルロッテのために選ばれたもので。そんな甘い夢を見ていた。
 受け入れがたくも突き付けられた現実に、涙があふれる。

 シャルロッテの耳に、水龍鳴涙鈴の澄んだ音色が聞こえてきた。
 短く、短く、長く。
 いつもの癖で大丈夫だと答えそうになるが、口を開いてしまうと声が漏れてしまいそうで、シャルロッテは唇を噛むと小さく横に首を振った。
 ベッドの上に広がったカードを眺め、指先で一枚を手繰り寄せるとトントンと叩いた。
 可愛らしい女の子が、大粒の涙をこぼしているイラストが描かれていた。地べたに座り込み、空を見上げて大きな口を開けて泣いている。耳の奥で、聞こえるはずのない少女の慟哭が聞こえた気がした。

 悲しい。
 そう訴えたシャルロッテを、メイが強く抱きしめた。
 ふわりと、石けんの柔らかな香りがシャルロッテを包み込む。どうやら今日のメイの仕事は、洗濯だったようだ。幼い頃から変わらない洗濯石鹸の匂いに、波のように押し寄せてきていた悲しみが引いていく。
 感情が落ち着くと、今までは気にならなかった音が耳に入るようになった。
 夜行性の動物の遠吠え、夜鳥の囁き、夜風が通り過ぎる音。誰かの靴底が廊下を叩く音、床の軋み、時計の針。何より、メイの鼓動が大きく聞こえていた。
 一定のリズムで収縮を繰り返すその音に耳を傾けるうち、ふと、欠けていた記憶がよみがえった。

 夜の城下町を見に行ったあの日、興味深げに窓の外を眺めるシャルロッテに、クリストフェルは言った。

「知りたいと願うものは、知ろうとしなければ知ることはできない。人の気持ちは特にね。だから定期的にこうやって、こっそり町を見るんだ」

 王族の前では美しく着飾られていた顔が、無防備に歪む。自由気ままに振舞う彼らの表情を見て、国政が上手くいっているか否かを見極めるのだ。
 本音を言わない相手の心の声を聞く最良の手段なのだと、悪戯っぽく微笑むクリストフェルの横顔に、彼はいずれ良き王になるだろうと感じた。
 その思いは、今も変わっていない。クリストフェルは、民思いの優しい王になるだろう。
 けれど王の隣にいるのは、シャルロッテではないのだ。


 婚約破棄を言い渡されてから数日後、王国から正式にクリストフェルとシャルロッテの結婚“延期”の知らせが届いた。
 先王の崩御による結婚式延期の報に、最も怒りをあらわにしたのはブリュンヒルデだった。
 王国騎士団団長として、他の貴族よりも早く知らせを受けたリーンハルトは、その日の仕事をすべて投げ出すと帰宅し、ブリュンヒルデに伝えたのだ。

「はあぁ? 延期ですってぇ? どこのバカ王がそんなふざけたことを言いやがってるんですかねえ? 婚約は破棄です! 破棄っ! このブリュンヒルデちゃんの目が黒いうちは、うちの可愛い可愛いシャルロッテちゃんとあのバカ王の結婚は認めませんっ! お義姉さんは絶対に、ぜぇええったいに認めませんからねっ!」

 怒り狂うブリュンヒルデとは対照的に、リーンハルトは落ち着きを取り戻していた。先ほどまでは頭に血が上っていたのだが、自分でも驚くほど思考がクリアになっていた。
 冷静になるあまり、ブリュンヒルデの瞳は紫だろうと言いそうになったが、指摘をしても火に油を注ぐだけだと気づいたため、寸でのところで口をつぐんだ。

 ブリュンヒルデの瞳孔はとても珍しく、紫色をしていた。青みがかった濃い紫は虹彩との境目でジワリと滲み、グリーンへとグラデーションしていく。宝石のように美しいと思う反面、どこか恐ろしく感じるのは、幼い頃の記憶が影響しているのかもしれない。
 リーンハルトはかつて、彼女と同じ特殊な瞳をした男性と言葉を交わしたことがあった。まだシャルロッテが生まれる前、リーンハルトとコンラートが五歳の頃の話だ。

 コルネリウス家は芸術家に資金援助を惜しまない家柄で、その老齢な幻想画家にも長年支援を続けていた。若い頃は何かにとりつかれたように一日中書き続け、何枚も完成させていたと聞くが、高齢になった今では数か月に一枚完成させるのがやっとだった。
 彼は、架空の街を描くのが得意だった。緻密に描かれた都市の絵は、見る者を虜にした。
 彼はとりわけ、大きな時計塔を好んで描いた。小さな三角の屋根と細かな装飾が特徴的なそれは、頻繁に彼の絵に登場した。

 久しぶりに絵が完成したので見に来てほしいと請われ、リーンハルトはコンラートと共に父アルベルトに連れられて、森の奥深くにひっそりと建つ彼の自宅を訪れた。絵を描くこと以外を極力排除したような内装は簡素で、小さな台所と簡易なベッド以外は生活感のあるものは置かれていなかった。
 アルベルトとコンラートが熱心に絵画を褒めちぎる中で、リーンハルトは少し離れた位置から男性を見つめていた。
 真っ白な髪に、深いしわが刻まれた顔。手はゴツゴツと骨ばっていて、皮膚も水分が抜けてしまったかのように張りがない。腰は曲がり、真っすぐに立つことができずに木の杖をついている。しかし瞳だけは若々しく、ブルーの虹彩は透き通っており、妖艶な紫の瞳孔にも濁りはなかった。
 彼の目が絵に向き、愛し気に細められる。その眼差しには、自身の生み出したものに対する愛情以上の何かが宿っているように思えた。
 追憶、郷愁、思慕。
 自身が生まれ育った街を見つめているような横顔に、強烈な違和感を覚える。
 この人は、何かが違う。何かがおかしい。
 言葉にできない違和感はやがて恐怖へと変わり、リーンハルトの心を支配した。
 男性の視線が、絵画からリーンハルトへと移る。蠱惑的な紫の瞳孔にとらえられたリーンハルトはその場に固まり――。
「……ルトさま、リーンハルトさま! 聞いてます?」

 ブリュンヒルデの声に、過去へと飛んでいた思考が現在に引き戻される。

「あぁ、悪い……聞いてなかった」
「酷いです! 上の空だったので聞いてないだろうなとは思ってましたが、酷いですっ!」

 頭に浮かんだ言葉を素直に口にした結果、ブリュンヒルデの頬が不服そうに膨らんだ。子供っぽく不満げに尖った彼女の口元に微笑みつつ、そっと目をそらす。
 不意にそらされた顔を訝しみ、ブリュンヒルデがリーンハルトの顔を覗き込む。透き通った緑色の瞳が、瞳孔に近づくにつれて濃く色を変える。ブリュンヒルデの紫と、遠い昔に見た画家の紫が重なる。

 ブリュンヒルデも時折、彼と似た顔をすることがあった。
 ここではないどこか遠くに思いを馳せているかのような表情をしているとき、ブリュンヒルデは酷く大人びて見えた。悲しみにも諦めにも似た瞳に、何を考えているのかを尋ねても、リーンハルトの望む答えは返ってこなかった。
 彼女はただ、小さく微笑んで「何も考えていないですよ」と嘘をつくのだ。その顔は、シャルロッテが「大丈夫」と嘘をつく時と似ていた。
 シャルロッテの場合は、王子の婚約者として自分を厳しく律し、弱さを偽ることに慣れてしまったせいだ。しかしそれも、メイという魔法がかかれば簡単に解けてしまう。シャルロッテは、メイの前では嘘をつき続けることができない。
 一方のブリュンヒルデは、何故頑なに嘘をつき続けているのかもわからなければ、メイのような万能な魔法もない。彼女は確かに何かを隠しているのに、誰にも打ち明けていないのだ。彼女の父ローズフィールド男爵にも、他の兄妹たちにも、愛してやまないシャルロッテにも、そしてもちろん夫であるリーンハルトにも。

 無邪気に慕ってくるブリュンヒルデが可愛くて、誰にも渡したくないと言う独占欲から結婚を決めた。将来を約束すれば、彼女が抱える秘密を話してくれると思った。
 未だに結婚式で交わした口づけ以上のことをしないでいるのは、リーンハルトなりの抗議だった。

「それにしても、シャルロッテちゃん大丈夫ですかね? こんなふざけた話を聞いて、ショック受けたりしてませんかね?」
「ロッティーなら、こういう可能性も考えてはいただろうし、ヒルデが思うほどのショックは受けてないと思う。……まあ、ショックは受けただろうが」
「受けてるんじゃないですか!」

 居ても立ってもいられない様子でソワソワと歩き回るブリュンヒルデだったが、今自分にできることは何もないと悟ると、そっと椅子に座った。

「大丈夫だ。あの家には、ロッティー以上に怒ってくれる人がいるから」
「分かってます。私では、今のシャルロッテちゃんには何もしてあげられないって、分かってるんですけど……」
「……そう言えば今度、ロッティーが友達を呼んでお茶会をするとか言ってたな。ヒルデの作るお菓子は好評らしいから、近いうちに何か作って持って行ったらどうだ?」

 ブリュンヒルデの顔がパっと明るくなり、さっそくどんなお菓子を作ろうかと思案し始めた。一人百面相をしながらレシピを考えるブリュンヒルデの頭を撫でれば、飛び切りの笑顔を返してくる。
 抱きしめたい衝動に駆られるが、リーンハルトはギュっと強く拳を握り、一瞬の情動をかき消すと立ち上がった。

「張り切りすぎて、あんまり作りすぎないようにな」
「はーい」

 いたって軽い返事に、きっと作りすぎるだろうと確信した。