ありったけの想いをこの声にのせて。



あのとき、こうしていればよかったとかそんなことを思うのはもう嫌だから。


「意味わかんねぇし……」

「意味わかんないのはカイくんでしょ。全然学校来ないし、電話してもでないし、メッセージ送っても無視するし」

「……お前に俺の気持ちなんてわかんねぇよ」


そう、きっぱりと言い放ったカイくんの瞳にはやるせなさが滲んでいた。


「そばにいたい、それだけ」


ただ、それだけじゃ……ダメかな?

気持ちを理解してあげようとかそんな難しいことを思っているわけじゃない。

そりゃあ、救ってあげたいとは思うけれど、カイくんが抱えている気持ちまでは分からない。

人それぞれ感じ方も考え方も違う。双子でもそれは違うものなのだから。きっと、私にはわかってあげられない。


「っ、」

「人は一人じゃ生きていけないんでしょ?だったら、そばにいる私を頼ってよ」


君が教えてくれたんだ。

人は一人では生きていけないからこそ、周りの人の優しさに感謝して、お互いに支え合って生きているのだと。

それなのに、君はどうしてすべてを一人で抱え込んでしまうの。


「……俺についてきて」


ぽつり、と観念したようにそう言った。



彼は私が頷いたのを確認してからエレベーターに乗り込み、ある病室に向かった。

着いた病室の入口には“滝沢悠未(たきざわゆうみ)”とプレートに名前が書いてあった。

緊張しながら部屋に入ると、そこには一人の女性がベッドに横たわって窓から見える青く澄んだ空をぼんやりとした様子で見つめていた。

まるで、生きる気力をなくしてしまったかのように見えた。生きているのに死んでいるような顔で空を見つめており、何故かわからないけれど、心のすべてを持っていかれた。

……カイくんのお母さんかな?
どことなく、似ている気がする。


「俺の母さん」


彼女には聞こえないような小さな声でぽつりと彼が言葉をこぼした。

やっぱりこの人がカイくんのお母さんなんだ。

だけど、カイくんの口から出た次の言葉に私は返す言葉を失った。


「記憶が、ないんだ」

「……え?」


記憶が、ない……?

それって……カイくんとかの記憶も消えているということなのだろうか。


「何を覚えているのか、俺もわからないけどほぼ全部のことを忘れちまってる」

「そんな……」



お母さんのことを寂し気に見つめてから、無理やり口角を上げ、笑顔のようなものを作り、「悠未さん、調子どう?」と声をかけた。

ああ、自分が息子だということも彼は黙っているのだ、と私はそこで察した。

複雑な気持ちを抱えたまま、彼の後ろをそろそろとついていく。


「あら、カイトくん。今日も来てくれたの?学校は大丈夫?」


カイくんの声に反応し、弾けたように顔を上げると、死んだような瞳に光を宿した。


「大丈夫だよ。今日は休み。この子は俺のクラスメイトの楠川陽音さん」


カイくんに紹介されたので慌てて彼の後ろから、彼の隣まで移動して、「楠川陽音です!」と勢いよく頭を下げた。

二人の会話を聞いて本当に自分の息子のことまで忘れてしまっているのだ、と胸がえぐられるように痛んだ。

カイくんはいつもこうして嘘をついていたのかな?

嘘に嘘を重ねて辛くなかったのだろうか。

いや、辛くないわけがない。
だけど、たとえどれだけ辛かったとしても少しでもお母さんのそばにいたかったんだ。


「可愛い子ね。陽音ちゃんかぁ」


ふんわりと笑った顔がカイくんと瓜二つでとても似ている。

カイくんはお母さん似なのかな。



先程の雰囲気とはまるで違う穏やかで優しそうな雰囲気に今度は心がじんわりとあたたかくなっていく。

とても、優しいお母さんなんだろうな。

なんだかカイくんが底なしに優しいのもわかる気がする。

カイくんはそばにあったパイプ椅子に腰を下ろして、お母さんの折れそうなほど細くて白い手をぎゅっと握った。

私だけ立っているのはおかしいからカイくんの横にあったパイプ椅子へ静かに腰を下ろした。


「悠未さん、今日は何話す……」

「カイトくん、私ね、もうすぐ施設に移るの」


カイくんの言葉を遮って、お母さんが窓の外よりもっと遠い場所を見つめてぽつりと言った。

施設……。

このことをカイくんはもちろん知っていただろう。
二人は家族なのだから。

お母さんの手を握っているカイくんの手に先程よりも力が入ったのが分かった。

辛いに決まっている。施設に入ってしまったらこんなふうにしょっちゅう会うことは出来なくなってしまう。

大切な人に会えなくなってしまう。

カイくんはたとえお母さんが自分のことを忘れていてもそばにいることを選んだ。辛くてもそばから離れなかった。



それくらい、カイくんにとってお母さんは大切で仕方がない存在だったのだ。

まだ高校生で自立できない彼に記憶のない母親の世話をすることは不可能だったのだろう。

だから、今回のことだって仕方なく施設に入れるという選択をしたのかもしれない。

きっと、たくさん悩んで苦しんだ上で、下した決断だったんだろう。

あの太陽のように眩しい笑顔の裏に隠されていた彼の辛さや苦しみ、様々な葛藤を私は何も知らなかった。


「……」

「いつまでもここにいられないから……って。私、嬉しかったの。カイトくんとたくさん話せて。今まで本当にありがとうね」


その声はとても穏やかで彼女は全てのことを受け入れているかのように思えた。


「まだ、いるんだろ?それまで毎日来るから……」

「もういいのよ、カイトくん。学校に行きなさい……私のことは大丈夫だから」

「っ……」


お母さんは本当は気づいていたのかもしれない。

カイくんが学校に行かず、嘘をついて会いに来ていたことに。だから、少し複雑そうに笑っているんだ。


「か……悠未さん…」


“母さん”

そう、出かかった言葉は飲み込まれ、代わりに名前を発したカイくん。



きっと、“母さん”と呼びたいはずだ。
でも言ってしまえば彼女は、思い出さなきゃいけないと感じ、その度に思い出せない自分に絶望し、苦しむだろう。

それが分かっているから……カイくんは一人ですべての苦しみを抱えて生きているのだ。


「またね、カイトくん」


そう言って、彼そっくりな笑顔を浮かべて、カイくんのお母さんは私たちに優しく手を振る。


「……じゃあな」


カイくんは切迫した口調でそれだけ言うと、颯爽と出ていってしまった。

きっと、別れが受け入れられないのだと思う。
その気持ちは私にも痛いほどわかる。
突然の別れなんて、信じられないし、信じたくないものだ。


「失礼します……!」


私もカイくんのあとを追うように病室から出た。

そして、ゆっくりとおぼつかない足取りで歩くカイくんの後ろ姿を見つけて、走ってはいけないとわかっていたけれど、居ても立っても居られなくなって走り出す。


「カイくん……!」

「……ハル」


私を見つめるその瞳は深い悲しみで染まっており、今にも透明な雫がこぼれ落ちそうだ。

悲しいよね……辛いよね……。



全部、一人で抱え込んで辛くても笑っていないといけなかったなんて……一体、君は笑顔の裏でどれだけの涙を流したのだろうか。

私はカイくんの手を引いて、病院の屋上までやってきた。
そして、彼をぎゅっと抱きしめた。


「ハル?」

「今なら、どうしてカイくんが私の気持ちを理解してくれたのかわかる気がする」


『忘れたくないなら忘れるな。それはお前にとっても大切な出来事なんだから』

君一人だけが渉くんを忘れることのできなかった私の気持ちを否定しなかった。
それは彼が“忘れられた人”だったから。大切な人から忘れられた悲しみを誰よりも知っている人だったからだ。


「……」

「私がカイくんの泣き場所になるよ」


君がいつか私に言ってくれたように。今度は私が君の泣き場所になるから。

だから、もう一人で悲しまないで。
無理して笑わないで。
嘘の笑顔なんて、見たくない。


「っ……」


静かな嗚咽が耳に届き、肩を濡らす。それは私の腕の中にいる彼が泣いているという証拠だ。


「母さん……母さん……っ」


普段は呼べないその言葉を彼は噛み締めるように何度も何度も呟いた。

親子なのに、呼んではいけない。



それがどんなに辛かったことか私には想像もできない。

昨日まで自分のことを知っていた人に『あなたは誰?』そう言われることにどれだけ胸を痛めたのだろう。
自分だけが覚えている思い出の数々を思い出すたび、見るたびに切なくなったはずだ。

だけど、彼は弱音を吐かずにいつものように笑ってそばにいることを選んだ。
とても強い。誰よりも強く優しい人だ。


「俺の母さんさ……疲労でマンションの階段から落ちて……その衝撃で記憶を失くしたんだ……」

「……」


泣き止んできて、落ち着いてきたのか今にも消え入りそうな声でぽつりぽつりと話し出した。


「俺が中3の時に……。それからずっと俺と母さんは他人として過ごしてる。おまけに階段から落ちたときに頭も打って左半身に麻痺が残って日常生活をするのがやっとって感じなんだ」


三年近く……カイくんはお母さんと他人として過ごしているということになる。

彼の気持ちを考えるだけで、心臓が鷲掴みされたように痛む。

何も言えず、相槌を打つので精一杯の私。
そんな私に対してカイくんが話を続ける。



「父さんは俺が小さい頃に亡くなっててさ、俺には母さんしかいなかった。母さんは俺のために毎日働いてくれて……なのに俺は……っ。母さんを見捨てることしか、出来ない」

「そんな……っ」


見捨てるなんて、そんなことないよ。と、言いたかったのに彼の浮かべている表情があまりにも深い悲しみに満ちており、その言葉は音にはならなかった。


「本当は施設になんて入ってほしくない……でも俺にはどうすることもできない。親戚も誰も助けてなんてくれなくて……俺がどんなにすがってもみんな施設に入れることに賛成してて……どうして母さんだけがあんな目に……っ」


やるせなさが滲んだ震えた声は私の心に深く刺さった。
彼の澄んだ瞳からは大量の涙が溢れて、それが頬を伝って流れ落ちていく。

ずっと、今まで底が見えない悲しみを隠すかのように、たくさん無理して笑ってきたのだろう。


「俺は……何も返せてない……っ」

「カイくん……」

「母さんに迷惑しか掛けてこなかったからバチが当たったんだ……だから、俺は母さんに忘れられて当然なんだ」

「忘れられて当然なんて……そんな悲しいこと言わないで」

「……俺だけが全部の思い出を大切にするよ」