「吉野さん、今日って空いてる?」
 次の日、相変わらず凛華はまともな昼食も摂らず、パソコンに向かっていた。そして昨日と同じように声をかけてきたのは里中先輩だった。

「今日ですか?定時には帰る予定ですけど、何かありましたか?」
「いや、ちょっと食事でもどうかなって。美味しい物でも食べない?気遣わなくていいからさ」
 (凛華、スルーしろ!)
 確実に狙われている、そう確信した俺は凛華が断ることを願ってしまった。
「すみません、ありがたいお誘いですけど……」
「あと仕事の相談もあるんだけど……ごめん今は迷惑、だよね」
「……いえ、仕事のことなら」
 里中先輩はきっと、わざと言っている。仕事の話と言えば凛華が断れないことを分かって、ついでの雰囲気を出して食事に誘っている。あわよくば、いつかは手を出すつもりだ。

 仕事熱心な凛華が断れるはずがない。そして仕事ができる里中先輩の話に凛華が興味を持つことはよく知っていた。

 里中先輩はちょうど一年前、鳥羽(とば)商事という、界隈で大きな会社との仕事を取り付け、かなりの成績を上げた。近くでサポートについていた凛華は感化され、俺にもよく嬉しそうに話てくれた。

 (……あの頃の嫉妬がまた……くっそ、死んだ俺にはどうしようもないってのに!)
「じゃあお店予約しとくね。メールで送るから現地集合でもいい?嫌いな物あったらメールして!」
「あっ、はい、ありがとうございます」
 休憩時間終了のチャイムが鳴ると、里中先輩は会話を切り上げデスクへ戻っていった。
 (現地集合か……意外だな。……ん?うわっ!)
 
「調子、どうだ?」
 急に視界が真っ白になったと思えばそこにいたのは、大柄な態度で椅子に座る虎部さんだった。
「びっくりした……。まぁ、俺の出番なしって感じですかね」
「だろうな。現状調査だ。じゃ、戻れ」
「えっ、わっ」
 ぶっきらぼうに追い出された俺はまた、浮遊感を感じながら生者の世界に戻された。
 そしてすでに二人が食事を始めていた。
(やっぱり……)
 俺は少しずつわかってきた。狭間の世界に戻されると、生者の世界ではかなりの時間が過ぎる。ものの1分だったはずが、戻ってきたら約6時間経過していた。
 
 
「両親も姉もトキ君と仲良くしてくれて、快く迎え入れてくれてたんです。亡くなった時も寄り添ってくれました」
「良い関係だったんだね」
 会話の内容が読めず、必死に耳を立てた。姿は見えていないとわかっているのに、コソコソとしてしまう。
「はい。……でも結局は私の家族です。私の幸せを考えてくれて、何が1番良いのか考えてくれて……悲しくてもいつかは、他の人を愛することがって……でも……他の人を愛するなんて、私……できないから」
(凛華……)
 詰まりながらも気持ちを吐露する凛華の姿を見ていると、心に鉛を入れられたような重さを感じる。

「ご家族は君を想って、戸間君のことを……その、忘れた方が良い、と?」
「……はい。何日も食事を摂らなかった時、怒られました。もう子供じゃないのに。それから家族からトキ君の話題が出てくることはなくなったんです。私を気遣ってなのか、本当に忘れていこうとしているのか、わかりませんけど」
 (まあ……実際そうだよな。忘れられたくない、なんて都合の良い幽霊側の望みであって、生きている人は忘れた方が生きやすい。当然のことだよな)
「私、忘れるなんてできないから」
「忘れなくていいよ」
「え?」
「実は、ちょうど一年前に僕の母が亡くなったんだ」
「……一年前……それって」
「うん。鳥羽商事との取引がやっと取れた頃。病気で母が苦しんでいた時、僕は鳥羽商事に熱心に通っていた。僕は母さんのそばにいてやれなかったんだ。……父さんには『薄情者』って言われる始末でね」
「……そんな」

「父さんは昔からそういう人だったんだ。でも母さんはずっと、僕の仕事を応援してくれてたんだ。いつも電話越しに仕事の話を聞いてくれた。それに、この仕事が取れたら旅行に行こうって約束もしてた。……結局、叶わなかった。この世界で1番寄り添ってくれた最愛の母さんが死んだとき、枯れ果てるまで涙を流したよ。でも今だって忘れるはずがないし、夢に出てきては涙で起きる。僕は絶対に、愛する人を忘れたりしない」
「愛する人を、忘れる必要なんて」
「ないよ」
 里中先輩は凛華の言葉に深く頷き優しく微笑んだ。
 
 
 ——外はすっかり暗くなり一層冷え込んでいた。
「ご馳走様でした。本当にいいんですか?」
「いいのいいの!僕も話せて楽しかった。それより本当に駅まで送って行かなくて平気?」
「はい。すぐなので」
「そっか。じゃあまた明日会社で。気をつけてね」
「はい、また」
 俺の嫌な予感は全く当たらず、里中先輩はこの日、仕事の話も凛華を無理矢理口説こうともしなかった。

 駅まで送って行くと言ったが、凛華が断るとあっさり身を引いた。ただただ、凛華の心に寄り添い、食事をご馳走しただけだった。

 ——俺の里中先輩への印象が変わったのはこの頃だった。