未来の声を昨晩陽菜が聞いたらしい。これで聞いていないのはクラスで私だけになってしまった。別にどうでもいいんだけど、仲間はずれはちょっとまずい。
 高3の冬がどんな時期か、人は大人になると忘れてしまう。だから私の母などは平気で甘い言葉を投げてくる。「風邪引かないようにね」、「あったかくしてね」、正直、重い。
 人間は、いつ嘘をつくことを覚えるのだろうか。高3ともなればいとも簡単に嘘をつけるようになるし、割合でいえば日常の半分くらいは自分を偽って生活しているような気分になる。
 推薦組を除く、年明けの受験を控えた私たちが共有する空気は、いつの頃からか、ぎこちない。どうしてそうなってしまったのかを説明できる人にはノーベル平和賞を授けてほしい。
「で、どんな内容だった? 声」
「えー、なんか、大したこと言ってくれんかった。健康に気をつけろー、みたいな?」
「陽菜、健康オタクになってんじゃん。ウケる」
 陽菜の話を茶化す美咲の相づちはどこか無遠慮でハラハラする。ただ、そんな二人の会話に聞き耳を立てている私のほうが無遠慮だと言われれば返す言葉がない。
 きっと、「近い将来に大病をするから覚悟しておけ、予防できるから対策しておけ」とでも未来の声に言われたのだろう。陽菜は多分それを曖昧に表現したのだ。
 デリケートな事柄に直面したとき、それを無防備にペラペラと他人にしゃべる人はいない。自分の胸に秘めるし、他人に相談するとしても、信頼できる相手か見極めてしゃべる。
 もっとも、陽菜とも美咲ともさほど親しくない私が二人の信頼関係や会話の機微を詮索するのは無遠慮を通り越して不作法というものだ。聞こえなかったフリでやりすごす。
 高3の冬休み前のこの時期、規定の授業は終わっている。ひたすら入試対策の問題をこなす教室には、緊張感と退屈が同居して混ざり合わず蔓延していた。
 教室内での雑談がやけにはっきり耳に入る。表面上は穏やかな雑談が大半だが、たまにピリついたストレスをうまく押し隠せない場面も見かける。
 国公立はどこにする、私立はどこにする、併願の組み方はこうする、過去問をどこまでやったか、今さら参考書の話をしたり、いつまでも過去の模試結果を引きずったり。
 ――そういう直接的な話題をあからさまに語る光景は、心なしか鳴りを潜めてきた。
 だからか最近は無難な話題、昨日見たテレビの話とか、引退した部活の後輩の話とか。
 未来の声の話、とか。
「はいじゃあ席についてー」
 いつものように担任が教室に入ってきて、いつものように朝のショートホームルームを始める。
「ニュースでの報道とかでみんなも知ってると思うが、『未来の声』を聞いた人の発生数がここ数日でまた増加傾向にある。例によって若者、特に高3生に集中しているとのことだ」
 担任は、教卓に置いた手元の書類を参照しながら、淡々と説明する。ニュース番組で原稿を読み上げるアナウンサーというより、国会中継で原稿を読み上げる政治家の姿に近い。
「このクラスは大半の者がすでに聞き終えているから問題ないと思うが、引き続きくれぐれも落ち着いて対応するように。……あとまだ『未来の声』を聞いてない者は、確か――」
「先生ー、陽菜が昨日の夜、聞いたって」
 美咲がどこかちょっとうれしそうに言うが、当の陽菜は曖昧な笑い顔を浮かべ、黙ったまま頷いた。
「保坂か。事情聴取はもう済んだか?」
「はい。あの、昨日の夜のうちに、市役所の夜間窓口で対応してもらいました」
「わかった。じゃああとで書類を渡すから、親御さんに署名とハンコもらってきなさい」
 淡々としたやりとりが交わされる。
 担任は胸元のポケットに差さっていたボールペンを抜き、手元の紙に何事かを書きつけ、再び顔を上げて教室を見回した。
「これであと残っているのは……」
「私だけ、だと思います」
 嫌々ながらも私は挙手した。
「おお、沢井か。そうか」
 機械的に私のほうを見遣って、すぐに視線を落とす。
「まあ、そのときになったら、まずは落ち着いて、パニックにならないよう心がけてな」
 最後まで事務的な口調を崩さず、担任はそう言って、淡々と出欠確認をし、淡々と入試が迫っていることを強調し、淡々と檄を飛ばして教室を出ていった。
「友紀ちゃん」
 後ろから肩を叩かれる。
 振り向くと、明日香が不安げな様子で私のことを見つめていた。
「きっと大丈夫だからね。ほら、1組の森岡さんとか、3組の浜野さんも、まだ声聞いてないって噂だし」
「噂、ね」
 私は思わず苦笑いをしてしまう。
 まるでローティーンの女の子が生理がもう来たとかまだ来てないとか言い合っているように感じられ、なんだかちょっと微笑ましい。
「明日香、ありがとね。心配してくれて」
 友達の少ない私にとって、明日香は同じ陸上部員であり、学校での数少ない会話相手だ。ご好意には素直に謝意を示しておくことにする。
「私が『未来の声』を聞いたときのこと、友紀ちゃんには前も言ったと思うけど、ほんと、大抵はささいなことだし、わけわかんない内容なことも多いってみんな言ってるし」
「うん、ありがとう」
「困ったらなんでも言ってね」
「受験当日まで聞こえなかったら、それはそれでいろいろと困るけど、そのときは明日香に頼るどころじゃなくなっちゃうね」
「それは、そうかもだけど……」
 クラスで最後になってしまった仲間はずれと、それを慰める優しい友人、というふうに見えそうな構図は、未来の声うんぬんをさて置いても、どうにも惨めったらしく恥ずかしい。
 自分でも自意識過剰になっているな、と思う。
 目立たないようにこそこそと明日香との雑談をしていると、ほどなくして1限目の先生がドアをがらりと開けて教室に入ってきた。私は、受験生の私へと本格的に切り替わる。
「それじゃあ今日はこのプリントをやってもらう。冬休み前の最後に、自分の弱点や課題をあらためて洗い出すつもりで臨むように」
 未来のことはわからない。
 受験が終わったら、私はどうなっているのだろうか。
 卒業したら、私は次にどんなことをしているのだろうか。
 未来の声は、どうやら断片的なことしか教えてくれないらしい。
 肝心なことを一方的に言ってくる未来の声とやらに対して、理由づけをしたり、あれこれと解釈を試みたり、何か意味を見いだそうとしたり。人間は習性ゆえか、必然的にそれをしてしまう。
 そしてそういうことは、現在の人間が過去に向かって行うものだとばかり思っていたら、最近はそうも言っていられなくなったようだ。
 未来の声が、現在の人間に向かって、理由づけや解釈や意味の探究を求めてくるのだから。
 受験生として、ただ目の前の問題に向き合うことに集中させてくれないのも、母親の甘い言葉と同じくらい、重い。
 正直、受け止めきれない。
 将来を先延ばしにしてモラトリアムを満喫できるのが、現代日本のワカモノの数少ない特権のひとつだったはずなのに。

   ◆

 基本的には厚生労働省が主導して、未来の声への対策は講じられている。未来の声を聞いた、という青少年に一定の割合で心身の不調をきたす者が出ているから、というのがその理由だ。
 突然、「あなたは何年後にこれこれこういう出来事に見舞われるので、そのためにも今のうちにこのようなことをしておくといいですよ」みたいなことを言われたら、まあ、困る。
 お前は5年後に交通事故で死ぬからせいぜい気をつけなさい、と言われてどう思うか。
 3年後に出会う人と結婚するからその人を大切にしなさい、と言われてどう思うか。
 私は、空耳かな、と思うだろう。
 けれど、世の中には私のように考える人種は案外少数派らしくて、みんな自分の「未来の声」に一喜一憂し、振り回されている。けっこう深刻に未来の声を受け止める人が多いのだ。
 気持ちはわかる。
 未来を予測しようと、いろいろな人がいろいろな努力をしている。天気予報も占いも、言い方は悪いが未来予測の努力という意味では一緒だ。
 未来がわかったほうが、自分の人生がよりよくなりそうだし、生きやすくなりそうだし。
 必ず当たる宝くじの情報がタダで目の前にあったら、真偽はともかくとりあえず知りたい。
 けれど、必ず当たる宝くじの情報を、どう受け止めて、どう解釈して、どう活用して行動するかは、きっと人間の数だけバリエーションがあって、人間の数だけ結果がある。
 喜び勇んで宝くじ売り場に買いに行く途中で階段を踏み外して死ぬかもしれない。
 親友に相談して「あんたそれ詐欺だよ」と言われて思い直してきっぱり忘れるかもしれない。
 いずれにせよ、なんらかの混乱を引き起こす火種になる。火種は、しかるべき手段で管理する必要がある。
 未来の声を初めて聞いたのが誰なのか、偉い人たちが研究や原因究明を必死でやっているそうだけど、今のところまだ正確には突き止められていない。
 未来の声を聞いた、という当事者が、もっぱら10代後半から20代前半の若者に集中している、という状況なのも全貌解明が進まないことに一役買っているそうだ。
 若者の事情聴取内容は要領を得ない事例が多い、というのが理由のひとつだが、仮に成熟した大人も聞けたとして、理路整然と事が運ぶかは、ちょっとあやしいと思う。
 そしてしかも、その未来の声というのもたいていは1分程度ベラベラと聞こえてくるケースが多く、長くてもせいぜい3分程度で終わってしまうらしい。
 内容は、未来の自分が現在の自分に向かって忠告を述べるパターンが大半であり、未来の自分がなぜそんなことができるのか、未来で何が起こっているのか、などは教えてくれない。
 いや、教えてくれるような時間的余裕がないのかもしれない。「限定的な時間内で、過去の自分へ声を届けることができる」的な技術なのでは、との仮説が今は一番有力な考え方だ。
 しかしそれにしたって、若者ばかりがその技術の行使の対象になっているのも不可解な話である。
 未来でいったい何が起こっているのか。
 数年前から発生し始めたこの出来事について、未来の声を実際に聞いたという若者への聞き取り調査を、国は粘り強く押し進めているが、対策は後手後手に回っているのが現状だ。
「なんか、過去の若者に向けて優先的にやり始めたらしいっす」
「声を届けるには特殊な適性が必要とかって」
「第三次世界大戦が始まったって言ってましたよ」
 膨大な聞き取り調査から得られた数少ない「未来」や「未来の声の技術」に関する情報は、微妙に食い違っていて、国はそれをどうコントロールすればいいのか未だ考えあぐねている。

   ◆

 毎週月水金の放課後と土日の昼間2時間は自宅に家庭教師が来る。正直、多い。でも、受験の直前期だから、と母に言いくるめられてしまった。私もその判断は正しいと思う。
「友紀はさあ、最近なんかハマってることとかあるの?」
「言い方、親戚のおじさんみたいですよ」
「いやあ女子高生の気持ちを思い出したくて」
 大学4年生で、就活もつつがなく終えて、来年の春からはどこぞの出版社で働くことになっている香織さんは、「ただの暇つぶし」と公言して私の家庭教師をやってくれている。
「私と香織さんって、年4つしか違わないですよね?」
「『4つしか』って軽く言うけど全然違うよ、自分が女子高生だったとかもう信じらんない」
 母方のいとこだし、昔から見知っているし、電車で数駅の距離に住んでるし、という縁で、最近受験勉強を見てくれることになった香織さんは、昔からほとんど変わらない存在感だ。
「大学に行ってみて、そんなにいろいろなことがあったんですか?」
 志望大の過去問とにらめっこしながら聞いてみる。さっきからシャーペンは止まっている。
「過去形にしないでよ〜。私まだ花の女子大生だよ〜」
 あ、でもそろそろ卒業式で着る袴とか考えなきゃな、などとぶつくさ言っている。
 私のベッドにごろんと横になりながら、私の本棚から失敬した小説を読んでいる姿は、家庭教師っぽくないといえばそうだろうけど、受験勉強の監視役としては適度な距離感といえる。
「まあ、友紀がちょっと特殊な女子高生だってのは知ってるけどさ、それにしても……」
「私、特殊ですか?」
「少なくとも、女子高生の一般像からは少し遠いでしょー」
 私の本棚にチラッと目をやって、
「今どき漫画の一冊も持ってないのは、ちょっと退屈かなー。おかげで、こうして入社前に古典をさらっておけるのはありがたいんだけど」
「普通の一般的な女子高生像って、どういうものなんでしょう」
「んー」
 と香織さんはしばし考えて、
「今ハマってることを即答できる、とか」
「それってそんなに大事なことですか?」
「『大事か?』ってそう大上段に問われるとちょっと返答に窮するけど、そうだなあ」
 体勢を変えたのか、ベッドがギシっと鳴る音が聞こえて、
「ファッションとかメイクとか色恋沙汰とか、あるいは推しのアイドルがどうとか、なんでもいいけど、それらに血道を上げる行為って、未来への期待がある状態なんだと思うんだよね」
「というと」
「いま熱中できるものがあるなら、明日もまたそれに熱中したいと必然的に思ってしまうのが人間ってヤツじゃないかと私は思うわけ」
「そういうものですか」
「オシャレな服とかメイクを目指すのは、次の瞬間に存在するであろう未来の自分への期待があるはずなんだよ」
 聞きながら、なんとなく手元でペン回しをする。
「まあ、推しはときどき未来で不祥事を起こしたりするから、過度な期待は人間の毒にもなり得るわけだけれどね」
「わかったような、わからないような」
「あはは。つまりは、未来に対する絶対的なわからなさ、理解不能性こそが、我ら人類を突き動かす原初にして唯一の原動力ってことだよ」
 香織さんはときどきこういう持って回ったような言い方で、ほのかな古風さを交えて語ることがある。この人のほうこそまったく現代の女子大生らしくないのでは、と思う。
「そして特にそうやって、未来に熱中し、未来に期待を寄せることができるのが、今を生きる若者の特権のひとつ、なのかもね。――っと、それはそれとして」
 そう言ってベッドから勢いよく立ち上がり、無意識にペン回しに興じていた私のほうへ近寄ってきた。
「制限時間的にはまだあとちょっとあるけど、もう手が止まってるね。はい終了。先生が丸つけしてあげるから貸してみ」
「先に話しかけてきたのは香織さんじゃん」
「いかんなあ沢井友紀くん、社会においては常に自分がベストの状態で行動できるわけではないのだよ、邪魔や妨害込みで考えて、限られた時間内に最適解を探し出すのが社会人の心得だ」
「香織さんはまだ社会人になってないでしょ」
「時と場合を弁えてくるくる立場を変えるのも大事なの。就活で履歴書に『卒業見込み』と書いた時点で私はもう大学を卒業したも同然」
「なんか、就活が終わってからいっそう胡散臭さに拍車がかかりましたよね、香織さん。昔から調子のいい人だな、とは思ってましたが」
「えっ、私のことそんなふうに思ってたの」
 他愛のない会話をしながらも、私の手元から引ったくった解答ノートに淀みなくマルバツをつけていく。シャッ、シャッという規則的なリズムで赤ペンの音がする。
「そういえば」
「んー?」
 気になっていたことを、唐突に聞きたくなった。
「香織さんは『未来の声』ってもう聞きました?」
「まだ聞いてないねー。っていうか多分だけど、私の性格的に、未来の私は過去の私に何かを伝えようとはしないんじゃないかな」
 それもそうか、と思う。
 好奇心が主食みたいな香織さんにとって、将来自分がどうなるか、なんて情報は、今の自分にとって退屈の種でしかないのかもしれない。
 そして、未来の香織さんが今の香織さんと同じような気質の持ち主ならば、きっと、過去の自分にアドバイスをするような野暮な真似はしないのだろう。
「それに、あれって過去の『自分』にしか言いに来ないんでしょ。もし過去の『他人』にも言えるんだったら、おもしろそうなんだけどなー。ていうか、どういう理屈なのかは興味あるな」
「ニュース見てても仕組みの話は全然話題にならないですよね。あっても、陰謀論というか、眉唾物の切り口ばっかりで、ワイドショー的っていうか」
「声を聞いた当事者がハタチ前後のワカモノばっかりだから、オトナの人たちが自分事としてなんとかしてやろう、って思えないっつー側面はあるかもしれないね」
 赤ペンの軽快なリズムは続く。
「大学入試とか、就活とか、ハタチ前後って人生のターニングポイント、重要イベント目白押しじゃん? だから、未来の自分が過去の自分にあれこれ言いたくなる気持ちは、まあわかる」
「じゃあ、未来の香織さんは今の香織さんにアドバイスしに来る気配はなさそうってことですけど、率直に言って、今の香織さんは聞きたいですか? 『未来の声』」
「そう、そこよ!」
 と突然大声を出したかと思うと、その勢いそのままに私の解答ノートの、最後の問題に対する解答にデカデカと大きなバツをつけた。
「『未来の声』なんて今の私は聞きたくない。だって、こっそりカンニングペーパーを見ながら受けたテストでいくら満点取ったってうれしくもおもしろくもないじゃん?」
「私はうれしいかも」
「おとなしい顔して友紀は昔から根性ひん曲がってるよね、意外と」
 さりげなくひどいことを言う。
「ただ、いま現在の私が持ち合わせている気質とかポリシーを捻じ曲げてでも、『未来の声』を伝えようと決意するに至った未来の私がもしいるのだとしたら、その未来の私の思考過程や事情、生活背景には非常に強い興味を覚える」
「はあ」
「要するに私は、『未来の声』の内容そのものには興味はないけれど、『未来の声』というツール? 技術? を行使しようとまで思い詰める境遇に陥ったであろう未来の私自身に対して興味がある、ってこと」
「香織さんって」
「ん?」
「やっぱり変な人ですね」
「友紀ィ。今のを『変』のひとことで雑に総括するのはさすがに人間としてどうかと思うわ。人間に対する興味がなさすぎる。先生は将来が心配だよ」
「香織さんが人間に興味を持ちすぎなんですよ」
 ははは、そうなのかな、と香織さんは笑って、それを話の区切りにしたかったのか、おもむろに私の解答ノートに目を落として家庭教師としての顔になる。
「で、今日の友紀の解き方を見ていて気になったところがいくつかあって、とりあえず大問3のかっこいち。この関数をまずは微分しなさい、っていう設問だけど、ルートになっている部分は指数で表しておくと計算が理解しやすくなると思う。なんでかって言うと……」
 さっきまでの、ちょっとおどけたような、芝居がかったような口調ではなく、淡々と、しかし私が理解しやすいことを最優先にした調子で、問題を解説してくれる。
 こういう人になれたら、と思う。
 勉強ができて、少し変わってるけど、ユーモアがあって、発想がユニークで、生きてて楽しそうで、自分の心にまっすぐで。
 未来の声を聞いたか、なんてくだらないことでいちいち周囲の顔色をうかがわないような。
「と、いう感じの解法だと、だいぶ時間短縮になるかも。……あ、もうこんな時間か」
 滑らかな解説はあっという間に終わった。
 今日はこれでおしまいかな、と思っていると、
「そういう友紀はどうなのさ。『未来の声』。まだ聞いてない?」
 最後の最後にそう問われ、そのさりげなさに、なんだか自分の悩みがちっぽけに思えた。
 時に、すべてを見透かしたような振る舞いをする香織さんに質問されると、自分の心の奥底まで覗き込まれ、鋭利なナイフを突きつけられているような心地がした。胸がひやりとする。
 香織さんの質問にどう答えようか一瞬だけ悩んで、それでもやはり、迷いはほとんどなく、
「まだです」
 こないだ教室で嫌々挙手したときとは違って、返答が滑らかに口をついて出た。
「多分、私も聞かないまま、って気がします」
「そっか」
「ただ、香織さんのような積極的な理由じゃなくて、私の場合は消極的な理由で、そういう選択をするんじゃないか、って思うんです」
「ほう」
「今の私は、未来の私に何も期待してないし、だから、未来の私も、何かを期待して過去の私に声をかけるようなことはしないだろう、って」
「友紀の人間嫌いは、自分をも含んだ興味のなさってことかな」
「いや、私は人間嫌いじゃないですよ。今のところ、強い興味は持てないってだけです」
 ふむ、と香織さんは思案して、
「興味の対象とか、自分の未来とかって、ウナギみたいなものじゃないかと思うんだよね」
「また唐突に変なことを」
 こういうことを言い出すのだから、香織さんは私なんかよりよっぽど曲がっていると思う。
「いやけっこうマジな話。――なんていうか、力づくでそれを手に入れようと力めば力むほど、ぬるぬるして掴み損なって、結局自分の手の内には残らなくなっちゃう、っていうかさあ」
「香織さんの形容の仕方って、やっぱり変わってますね。あ、だから出版社志望だったんですか。言葉に興味があったから、とか」
「その短絡的な思考はいただけないなあ。私はただマスコミってかっこよさそう、って思ったから何社か受けて、たまたま受かっただけだよ」
「……そのミーハー精神のほうがずっと短絡的なのでは?」
「違う違う。私たちが思っているよりもずっとずっと世界は複雑で、そして単純だってこと」
「詩人だ詩人がいる」
「――今のは自分でも言った後ちょっと恥ずかしかった。恥ずい。うわっ、急に恥ずくなってきた」
「え? かっこよかったですよ、今の言葉。私一生覚えておきます」
「や〜め〜て〜、だいたい今のは友紀が言わせたようなものじゃん! 会話の流れで! ポエミーなセリフを誘発させてたじゃん!」
 あー、自分でもあんなセリフが口から出てくるとは思わなかったわー、と手をパタパタさせて顔をあおぐ香織さんの横顔は、きれいだった。
 もし未来の声が、今、香織さんが言ったような性質を含む言葉だったら、私だって少しは興味を持てたのかもしれないのに、と思った。
 自分でもあんなセリフが口から出てくるとは思わなかった――。
 そういう、新鮮な驚きに出合える態度でいることこそ、未来を待ち受ける身の、現在を生きる人間の姿なのではないか、とか。
 なんだか大仰な発想が自分の頭に浮かんできて、香織さんの言い回しが伝染したのだろうか、と思った。もちろんそんなことを考えていたなどと態度には表さず、恥ずかしがる香織さんを見て、仕返しとばかりに、私はただ、笑っていた。
「そういえばポエムで思い出したけど」
 私の笑いがまだ治らず、同様に耳たぶの赤さがまだ戻っていない香織さんが、ぽつりと、
「大輝はどう? 友紀に迷惑かけてない?」
「迷惑だなんてそんな。最近は学校で顔を合わせる機会もそんなになくて、細かい様子はわからないですけど、元気にしてると思いますよ」
「そっか。それなら、いいんだけどね」
 彼は彼で、香織さんとはまた別ベクトルの変な人なのだ。

   ◆

 大輝というのは香織さんの6つ年下の弟で、私にとっては香織さんと同じくいとこにあたる。香織さんは大学4年で、私は高校3年で、大輝くんは高校1年という歳の差、なのだが、
「友紀ちゃん、俺と付き合ってくれんか?」
 私のほうが2歳年上ではあるが、小さい頃からの親戚付き合いで馴染みがあるせいで、大輝くんは私をちゃん付けで呼ぶし、タメ口で話す。
「付き合ってくれたら、俺は今よりももっといろいろな言い方で『好き』って感情を表現できるようになるはずなんだ。それを確かめさせてほしい」
 付き合うってどっか買い物に行くのを? とか、私たちっていとこで親戚じゃん、とか、私のそういうトボけた返答を許さない言われ方をされてしまった。
 だから私も無駄のない一言目で応じることにした。
「そんな自分本位の『付き合って』っていうお願いは、ちょっと聞けないかなあ」
「や、今のは確かに俺の言い方が悪かった。友紀ちゃんのメリットになることもある。デートなら俺が全部お金出すし、嫌がることはしないし、純粋に楽しませる準備もするし……」
「『付き合う』をそういうふうに因数分解してる時点で全然見当外れ、って感じするけど」
「ぐっ……なるほど……そうか……」
 そこで大輝くんは黙り込んでしまった。
 家から近い、という共通した理由で、香織さんも私も大輝くんも同じ高校に入学した。香織さんと私は在学期間が重複しなかったけれど、私と大輝くんは1年間だけ重複する計算だ。
 そんな彼が、春に入学してきてほとんど真っ先にしたのは、こうして私に告白の真似事のような言葉をぶつけてくることだった。この奇妙な所作は、高校デビューとも少し違う気がする。
 まだ春で、校門を出て二人並んでとぼとぼ歩く下校中のことだった。男女で一緒に帰るこの光景だけを切り取るならば、付き合ってるっぽいといえば付き合ってるっぽい。
「なんで私にそんなこと言おうと思ったの?」
 大輝くんの申し出は脈絡もなく突然出てきた言葉だったので、私はそこでようやく理由を尋ねることができた。
「俺、中学の卒業式んときに」
「? うん」
「同級生の女の子から告白されたんよ。違う高校行っちゃった子だけど」
「モテモテだ。香織さんに似て大輝くんも顔悪くないもんね」
「それ。それがよくわかんないのよ。モテるとか顔の良し悪しって何? 評価軸が謎すぎる」
「えっ、中学くらいから色恋沙汰の話って話題になるもんじゃない? クラスの誰それがかわいいとかかっこいいとか」
「いやあ俺そういうの全然興味なくて」
 私も正直興味ないけど、自分のことを棚に上げて驚いてしまう。そういえば、直接尋ねたことはないけど、香織さんは大学で彼氏の一人や二人つくったのかな、と唐突に思う。
「でさ。中学の卒業式の前日に、例の『未来の声』を聞いたんだけど」
「それって、内容は」
「そう。『告ってきた子と付き合え』って」
 数年前から現在進行形で発生しているこの現象は、まだまだわからないことが多いとはいえ、大規模な追跡調査が進められている。具体的には、声を聞いてその後どうなったか、だ。
 それによると、未来の声を聞いて従った者と従わない者のうち、従った者の9割以上が「大変満足した」「おおむね満足した」という回答をしている。
 とはいえ、追跡する期間がまだ3年とか長くても5年とか、その程度しか確保されておらず、未来の声に従った者が、数十年後も同じように「満足」と答えるかどうかは、わからない。
 人生の岐路における選択とは、短期的な目線だけでは結論づけられないからだ。「結婚しろ」という声に従った者が、5年後は満足していても、50年後に後悔している可能性だってある。
「で、付き合ったの? 告白してきた子と」
「結論だけいうと、フラれた」
「ウケる。普通告白された側は、オッケーしたかフったかの二択では? フラれたって何」
「卒業式のあと、部室長屋の裏の、あんま人が来ないあたりに呼び出されてさ、友紀ちゃんもわかるでしょ、あのへん」
「わかるけど」
 私たちは高校だけでなく中学も同じなので、「あのへん」とだけ言われてもどこを指しているのかはだいたい認識できる。「あのへん」は、告白みたいなイベントに適した場所ではある。
「そこで初めてその子の顔をまじまじと見たんだけど、ぶっちゃけ全然知らない子で」
「友達が少ない私が言えた義理はないけど、同級生なんでしょ。顔くらい覚えてるものでは」
「や、クラスが違うとけっこうわからんって。それに、違う小学校から来た奴だと思うんだけど、そのせいもある。多分、東小の子」
「それはどうでもいいけど、で、その子はなんて?」
「『昔から好きだったけど言えなくて、でももう卒業しちゃうから勇気出しました』みたいなことを言われた気がする」
「けなげでいい子だなあ」
「でもそれ聞いてどう答えればいいかわからなくて。だってほぼ初対面だし。俺からすれば」
「いや、前日に『未来の声』で聞いたんでしょ? 告られるって。なら考える時間はあったのでは」
「もちろん考えたよ。とはいえさ、考え始めてすぐに『これ考えてもどうしようもないな』って思っちゃって」
「なんで?」
「だって、『告ってきた子と付き合え』って未来の声は言ったけど、その時点での俺はどんな子が告白してくるかすらわからないんだもん」
「あ、そういうのは言ってくれないんだ」
「ていうか、言いようがなかったんじゃないかな、推測だけど。未来の俺は多分、告白してきた子と付き合わなかったのを後悔してるから、過去の俺に『付き合え』って託したんだろうけど」
「うん」
「その子とは中学時代はほぼ話さなかったし、違う高校に行っちゃったしで、今の俺と同じように、その子についてなんにも知らなかった。だから、過去の俺にも言いようがなかった、んだと思われる」
「じゃあ、なんで『告ってきた子と付き合え』なんて、未来の大輝くんは過去の大輝くんに伝えようと思ったんだろうね」
「うーん……」
 そこで大輝くんは少し考えて、
「俺が女性とお付き合いにまで発展するチャンスが、中学卒業式の告白イベントくらいしかない、と未来の俺は悟ったから、とか?」
「ごめん。そんな悲しい推測を客観的な視点から言わせてしまって、ごめん」
「いや、悲しくはないけどな。今は興味ないし。あ、でも未来の俺はそれを悲しいと感じるのかも」
 大輝くんはときどき2つ年下とは思えないような達観したことを言う。
 未来の自分がどんなことを考えているだろうか、なんて想像もつかない。
 ただ、大輝くんの言うことは、若気の至り的なポエムっぽい青臭さが滲む言葉なこともあれば、なんだかちょっと考え込んでしまうような切実さが漂うこともある。まあ、達観度合いだけを言うなら私も大概で、将来への興味が、おそらく普通の人よりかなり少ない。
「大輝くんは、最近なんかハマってることとかあるの?」
「その言い方、親戚のオッサンみたいだけど大丈夫?」
 笑いながら言われてぐっと言葉に詰まる。
 悔しいのでいつか誰かに同じことを言われたら自分も同様に「親戚のおじさんみたい」と返そう、と密かに心に誓う。それはそれとして、
「私もけっこう世の中に興味ないなーと思って生きてるほうだけど、大輝くんは私とは違う方向性で、世の中に興味なさそうじゃん? でも昔からたまに急に変なことに熱中しだすし」
「世の中に興味ないなーと思ったことなんて俺一度もないぞ、失礼な。友紀ちゃんの無神経な感性では気づかないことに俺は日々気づいているし、世界の美しさに感動し続けている」
 今の言葉はちょっと青臭いポエムっぽい、というのは口には出さず、
「そうなの? じゃあ今はどんなことに興味を持ってるわけ」
「あー、だからつまり……」
 またしても大輝くんは少し考え込んで、今度は傍目にもわかるようなそぶりで意を決して、
「友紀ちゃん、俺と付き合ってくれんか?」
「あ、そこに戻ってくるんだ」
「そう、つまり俺は、中学の卒業式の前日に、人を好きになるってどういうことなんだろうって、生まれて初めて真剣に考えた」
「で、そのときはわからなかった。けど?」
「今ならわかるかもしれん。あのとき、見知らぬ女子から告白されて、『すまん、恋愛とかようわからん』って言って唖然とされて、告白されたのにフラれる、とかいう事態には、もうならないはずなんだ。なぜならそのあと真剣に考えたから。人を好きになるということを。そして、それがそろそろわかりそうなんだよ!」
「一人で盛り上がってるとこ申し訳ないけど、なんか、人工知能に初めて感情が芽生えた、みたいな言い方になっててウケる。もしくは暗殺者として育てられたクールキャラの改心」
「茶化すなって」
「だって、そうは言ってもさあ」
 どうにか笑いをこらえながら、私はさっきも言ったことを繰り返す。
「自分本位の『付き合って』っていうのは、やっぱりちょっと違うよ」
「違う、って……。いったい何がどう違うのかが俺にはわからん。どういうこと」
「世の中におおむね興味がない私が言うことだし、手垢にまみれた言い方になるけど、つまりはさ、色恋沙汰って一人じゃ完結しないじゃん。相手があって成り立つわけで」
「いやいや。相手うんぬん以前にまずは自分の興味を尊重しないと始まらんだろ。自分が興味があって好きだなと思って、その延長線上に初めて『相手』が登場するもんでは?」
「そうだね、それは大切。だけど、そこで登場した相手とうまくいくか失敗するかはまた別問題だよ。というか、一回目でいきなりうまくいくことなんてそうそうないよ」
「ソシャゲーのリセマラで一回目にSSR引くなんてのはそうそうない、という理解でOK?」
「いやそれは、私ソシャゲーとかやらないから知らんけど。合ってるんじゃない、多分」
 高校の帰り道。私にとっては丸2年ほど通った道だけど、大輝くんにとってはほぼ初めて歩く道であることにふと気づき、自分がつれない態度だったのではないかと急に気になった。
 卒業とか入学とか、そんなものは高校生くらいになるともう特別な感じ、という気はあんまりしなくなるけれど、高1の春を迎えた人に向けた言葉が、他にもっとあるように思えた。
 なんでそんなことが気になるのだろう。私は、大輝くんにどう接したいのだろう。としばらく考えて、私は彼を、慰めようとしているのかも、と思った。でも、どう言っていいかは、結局わからなかった。
「ま、つまりはさ」
 何かを言おうとして、でも何を言うか決めずに口が勝手にしゃべりだして、
「大輝くんは偉いよ」
「は?」
 そりゃあいきなりそんなこと言われたら「は?」としか言いようがないよな。
 でも、
「未来の声とかいう得体の知れないやつを聞いても、告白とかいう今まで興味のなかった色恋沙汰に巻き込まれても、自分で悩んで、自分で決めて、行動してるじゃん。偉いよ」
「それって、偉いのかなあ」
「偉い偉い。だって、人に聞いた話だけどさ、未来の声を聞いて、それが悩みの原因になって体調崩したり、自殺しちゃったりする人もいるらしいし」
 今の日本の若者、具体的には10歳から39歳までの死因の第1位は自殺だ。これは、未来の声という不可解な現象が数年前に発生するよりももっと前から事実だったことだ。
 私のような人間は、「人それぞれいろんな悩みはあるんだろうけど、何も死ぬことはないじゃん」とまたオッサンみたいなことを考えてしまうが、私以外の若者はそうは考えないようだ。
 未来の声、というある意味で若者を惑わす要素がまた一つ加わったことで、自らの命を絶った人がどのくらいいるのか、明らかになってないけれど、拍車をかけていそうな気は少しする。
「でもそれで言ったら、俺だって友紀ちゃんが想像してるよりはきっとずっと思い悩んだ部類だと思うぜ。未来の声を聞いたとき」
「ま、そりゃそうだよね。軽く言ってごめん」
「何しろ、『卒業式で告ってきた子と付き合え』だもん。一応、未来の声を聞いたら市役所に報告に行って事情聴取されて、正直に答えなきゃいけない決まりになってるじゃん」
「そうらしいねえ」
「友紀ちゃんはまだだから想像つかないかもだけど実際行ってみればわかる。プライベートな声の内容をあそこで正直に話すのはキツい」
 あ、確かに、と思った。
 全然想像できてなかった。
「当たり障りのない『声』なら素朴に言えるんだろうけど、俺のとかモロに個人的事情じゃん」
「いやあ、そもそも『当たり障りのない未来の声』なんてほとんどないんじゃないかな」
「俺もそう思う。なんせ未来の自分から過去の自分に伝える『声』だもん。プライベートで個人的で、他人に聞かせたくないような内容に偏るのは、ちょっと考えれば想像つくよな」
「でも、それを行政とか国とかは収集してるわけだよね」
「現代では解明できない現象だからな。それを詳しく調べようとする、その気持ちはわかる」
 ただ、そうは言ってもさあ、と大輝くんが嘆く言葉を続ける様子がすぐさま目に浮かんだ。
 が、実際にはその逆接の言葉は口には出されずに、
「テレビとかネットとかで、定期的に『未来の声』のニュースやってるじゃん。調査報告とか」
「やってるね」
「あれ、眉に唾して聞いておいたほうがいいぞ」
 大輝くんはどこでそういう古風な言い方を仕入れてくるのだろうと不思議に思うけれども、いちいちツッコミを入れていると話が進まないのでとりあえず、
「陰謀論的な意味で用心しろってこと?」
「違う。役所の窓口の人とか、国の対策考えてる人とかはよくやってると思うよ。けど正確な調査ってこれに関しては無理だろって思う」
「なんで?」
「俺みたいなプライベートな『声』が多すぎる。だから、窓口で事情聴取してても、本当に正確にありのままの『声』の内容をしゃべってる奴はかなり少ないんじゃないかと俺は思ってる」
「あー……それは……確かに」
「俺、『声』を聞いたとき、親には正直に言ったよ。卒業式に告られるらしいって。でもいざそれを市役所に報告しに連れていかれる前に、親から言われたもん。『当たり障りのない言い方はないもんかねえ』って」
「もしかして、こういうのでも近所の井戸端会議の話題になってたりするのかな」
「なるなる。俺の母親とか、晩御飯食いながら言うもん。『誰々さんちの何々ちゃんがこないだ例の未来の声を聞いたらしいんだけどさ』みたいな感じで」
 そしてそれらの噂話に尾ひれはひれがくっついて事実から捻じ曲がった怪しい顛末になってしまうところまですぐに容易に想像がついてしまった。
「結局、市役所の事情聴取では正直に話したよ。『卒業式で告ってきた子と付き合え』と言われました、って」
「窓口の人はなんて言ってたの」
「青春ですね、とかなんとか」
「確かに青春かもしんないけど。言い方が雑」
 申し訳ない、笑ってしまう。
 けど、それはそれでほほえましい。
「たださあ、話戻るけど、みんながみんな正直に言ってはいないだろうな、って俺そのときに確信したんだよね。何せ俺の母親からしてそういう発想で息子の口を曲げようとしたわけだし」
「つまり、初めから悪意のない嘘が一定数まぎれ込んでいる調査の、その結果にどこまでの信頼性が置けるのか、ということになるのかな」
「そう。で、そう考えると、まあ、不毛だよ」
「大変な仕事だねえ」
「大変な世の中になっちまったよ、ほんと」
 大輝くんはそう言って、なんの気なしに空を見上げた。春の放課後で、もう夕暮れ時だった。
「未来の声は真実なのに、それを受け取る人間が、嘘と悩みの種に貶めちまってる」
 くだらない会話をして下校するなかで、その言葉だけがぽっかりと浮遊している気がした。
 ポエムだポエムだ、と茶化す気も起きず、私もつられてぽつりと、
「未来の声そのものにも、嘘が一定数まぎれ込んでいる、のかもしれない」
 自分で言ってから腑に落ちた。
 未来の自分にだって、やむにやまれぬ事情の一つや二つあるだろうし、それによって生じる誤認や誤伝達は、悪意のない嘘といえるだろう。
「あ、それはそうかもな。――確かに。なんで今まで盲目的に真実だと思い込んでたんだろ」
「うーん、それは……。もしかすると、『未来の声』っていう名前のせい、なのかもね」
「ああ、わかる。そうだな。そもそもそんなもっともらしい名前なのが悪い気がしてきた」
「確かにネーミングは失敗かもね。でも、それはそれでまた短絡的な発想だと思うけど」
「名前の効用ってのはバカにならんて。いかにも『すがりたくなる名前』は別の意味でタチが悪い。悪意のないミスや失敗を改めるのは難しい」
「まあでも、いいんじゃない? そうやってミスとか失敗とかを自覚することで物事は少しずつでも前進していくものだよ、きっと」
「そういうもんかな」
「そういうもの。――たとえば、私に『付き合ってくれ』っていうのも、体のいい予行演習だったわけでしょ」
 話題を急旋回させて、いきなりその話に戻すと、大輝くんは不意をつかれたらしく、
「い、いやそれは、そういうつもりでは……少なくとも、俺はこれからきちんと友紀ちゃんを好きになろうと思ってたぞ」
「いやあ、さすがに努力の方向性がちょっと違ってるって。年上のいとこじゃなくて、同級生と仲良くなって、中学の失敗を教訓にして、せいぜい青春を謳歌しておきなよ」
 そう言って無理やりに会話を終わらせたのは、私の家と、大輝くんの家とで、向かう方向が分岐する場所に差し掛かったからだった。
 大輝くんはまだ何か言いたそうだった。
 それを私はわかった上で無視して、
「それじゃ」
 とだけ言って自分の帰路についた。下校中のおしゃべりなんて突然終わるものだ。
 それでいいのだと思った。
 大輝くんは今はまだちょっと頓珍漢なところもあるけれど、私なんかとつるんで頓珍漢に磨きをかけるよりも、もっと別の人と交流したほうがいい、と思った。
 そして、未来の声なんかに惑わされることなく、自分の心の赴くままに行動すればいいのに、とお節介ながら思った。
 思いながら、まるで自分に言い聞かせる言葉みたいだ、と感じたけれど、どう行動すればいいのかはわからないままだった。
 ――その後、私と大輝くんは、多少顔見知りの高3と高1らしく、付かず離れずくらいの距離感で高校生活を過ごすことになる。
 なお余談として、同学年ではない私は校内の噂話で聞くくらいしか術がなかったが、それからというもの、どうやら大輝くんは高1の間に5股をかけ、8人の女子からビンタを喰らい、11回自宅に女子を連れ込み、11回分きっちり香織さんにお説教されたらしい。
 11回というのは香織さんから直接聞いたのでほぼ真実の数字なのだろうけど、それだって香織さんが認識している回数でしかないのだろうし、ましてやそのほかの数字がどこまで真実なのかは私にはわからない。
 とりあえず未来の大輝くんが危惧したかもしれない「女性との交際機会ゼロ」という人生は免れたようだった。
 それが彼にとって幸か不幸かは、それこそ本人にしか判断しようがないのだろう。

   ◆

 人間は嘘をつく。
 世の中には、いい嘘と悪い嘘があるという。
 ただ、いい嘘と悪い嘘とを線引きする線そのものが、どうにも嘘っぽい印象がある。
「友紀ちゃん、けっこう足速いねー。中学でも陸上やってたの?」
「ううん、ソフト部。うちの父親が野球好きでさ、その流れで、やらされてたって感じ」
 高校は帰宅部で、と思っていたが、まったく体を動かさないのも気持ちが悪いなと思って、一人でもできる陸上部に入った。私は、集団スポーツはもうこりごりだったのだ。
「なんでソフトやめちゃったの?」
 明日香は無垢に無邪気に質問してくる。高校入学を機に知り合った友達への問いかけとしては無難な部類ではあるのだろう。
「簡単に言うと、飽きたから、かな」
 自分でも簡単に言い過ぎだなと思ったが、詳しく説明する気が起きなかった。嘘は言ってない。飽きたのも事実だった。
「なんかもったいない気もするけど……。でも、ソフトやってたから普通に足も早いんだね」
「いやいや、ずっと陸上続けてた明日香にそう言われると、ちょっと気恥ずかしいというか」
「そんなことないよ。だってほら、よくあるじゃん、運動会とか体育祭とかで、なまじ陸上部なんかよりもほかの部の子のほうが速いやつ」
「あー特に男子は。野球部とかサッカー部とか」
 グラウンドのすみっこにある運動部御用達の水飲み場の隣に二人でいつまでもたむろしていた。高1で、知り合って間もない私と明日香は、そこで少しずつ距離を縮めたのだ。
 女子陸上部の部室もあるにはあったが、長年部員ゼロだったところに急に2名の部員を迎えた部室がきれいなはずもなく、ほぼ物置と化していた埃っぽい場所に居着く気になれなかった。
 そのうち部室を大掃除しよう、と高1春の時点で話題に出たはずだったが、その約束が果たされることはなく、部室は結局3年間、物置と着替え場所以外の役割を担うことはなかった。
「明日香はなんで陸上?」
 太陽が沈みつつある放課後の部活練習後に問う言葉として、これはかなり青春っぽいかもしれない。
「別に、中学のとき、仲良かった子が陸上部に入るっていうからつられて入っただけで、深い意味なんてなかったよ。その子とは高校別れちゃったし、高校では別のにしようかと思った」
「でも、今こうして高校でも陸上やってるわけだ。なんかきっかけとかあったの?」
「……それが、なんて言ったらいいんだろ」
 そこで明日香は少しだけためらいつつも、
「友紀ちゃんは、もう『未来の声』って聞いた?」
 高1で、春で、まだ私と知り合って間もない時期に、その話題を持ち出した明日香は、どんな心境だったのだろう、と後になって思った。
 しかし、そのときの私はそこまで頭が回っておらず、無垢に無邪気に明日香へ問いかけてその話題を引き出してしまったわけで、思えば私のほうがやや無神経だったのかもしれない。
「私は、まだ聞いてない、未来の声」
「そっか、そうなんだ」
 安堵したのか、残念がったのか、わからない。明日香のそれは、私には中立的な相づちに聞こえた。
「入学式の前の日に、未来の声が言ってたの。『高校でも陸上を続けなさい。すごくいい大会成績を残せるはずだから』って。私そんな才能も未練もないのにさ」
 未来の声の、世間での語られようにも一応ゆるやかな変化があって、私が高1の頃にはまだ少しどこか大っぴらには口にできない、何か秘匿されるべきもの、という風潮があった。
 だからなのか、おとなしそうで奥ゆかしい性格の明日香が、静かな口調で自分の「未来の声」の内容について話す様子は、やはりどこか秘密めいた雰囲気が漂っていたように思う。
「明日香のは、部活、っていうか陸上についてだったんだね。なんか、ちょっと意外かも」
「うん。私も意外だなって思った。別に陸上に深い思い入れなんてなかったし」
 明日香と私がだんだんと距離を縮めていく過程で陸上の話をいろいろと聞いたし、一緒に部活をする過程でわかったことだが、明日香の陸上成績は特段優れているわけではなかった。
 中学のときの友達につられて、という言葉にふさわしく、抜きん出て速いわけではなく、他の運動部から移ってきた私よりもやや速い、というくらいだった。
 もちろん、明日香がおらず部員1人の状態で私がイチから陸上競技を始めたらトレーニングはおろかウォーミングアップも我流でやるしかなかったわけで、部活上は経験者としてありがたい存在だったのだが。
「今の私の実力で、これから高校3年間で鍛えて、たとえばインターハイとかに出られるかっていうと、自分でも『それは厳しい目標じゃない?』って思っちゃうんだけど……」
「でも、未来の声は『いい大会成績を残せる』って言ったんだ」
「そうなの。ただ私、正直そんなの全然信じられなくて」
「とはいえ、未来の声がそこまで言うなら、とりあえず続けるだけ続けてみよう、と」
「そう。そんな感じ。まあ、まさか部員が1年生2人しかいない状況とは思わなかったけど」
 苦笑いをしている明日香をよそに、そこまで聞いて私は「ふむ」と考え込んでしまった。
 高校でも陸上を続けなさい。すごくいい大会成績を残せるはずだから――。
 何歳かは知らないけれどとにかく未来の明日香が、高校入学式前日の自分に対して、こういうことを言う事情、背景、思惑とは、いったいなんなのだろう。
 未来の明日香の身の上を想像するのが、考える手がかりになるかもしれない。ポイントは、未来の明日香が、実際に陸上を続けたのか、それとも続けなかったのか。
 仮に、陸上を続けた未来の明日香からの「未来の声」なのだとしたら、「すごくいい大会成績を残せるし、陸上がもっと好きになる」という忠告は、それが真実だから、なのだろう。
 高1現在の明日香は、本人も薄々自覚しているように、今の陸上成績が天井付近で、ここからさらに飛躍的に伸びるわけではない、と考えているはずだ。
 だから、未来の明日香は、高1の明日香に向かって、「そこで諦めてはいけない、未来の自分もそのとき諦めかけたからわかる、今はめげずに続けよう」と言いたいのかもしれない。
 一方、陸上を続けなかった未来の明日香からの「未来の声」なのだとしたら、「すごくいい大会成績を残せるし、陸上がもっと好きになる」という忠告は、嘘を言っていることになる。
 だって、陸上をやめたらそもそも大会に出るも成績を残すもないのだから。だとしたら、陸上を続けなかった未来の明日香は、確証なく「いい成績を残せる」と言っていることになる。
 となると、陸上を続けなかった未来の明日香が、陸上継続を勧める理由は、たとえば、陸上を続けなかった場合に、不幸や不遇な出来事がこれからの高校生活で起こることを身をもって体験したから、とか?
 たとえば、陸上をやめて暇になった放課後、やることもないからとブラブラ遊んでいたら、あまり素行のよくない人種と知り合い、次第に悪い遊びを覚えるようになってしまう、とか。
 たとえば、違法な薬物に手を出してしまうとか、自分の性をお金で売って小銭を稼ぐようになってしまうとか、挙句に高校を中退して両親に絶縁を突きつけられる状況に陥る、とか。
 たとえば、そういう道を歩いてきてしまった未来の明日香が、後悔の果てに一縷の望みを託して過去の自分に「高1のあのとき、踏み違えなかったら」と忠告を伝えてきたのだとしたら。
 たとえば、たとえば……と可能性に可能性を積み重ねる無意味な妄想をするのも飽きて、明日香みたいなおとなしい子がそこまで飛躍的に変わり果てるだろうか、と我に返る。
 まあ、人間そういうこともあるかもしれない。
 私たち若者の可能性は無限に広がっていて、真っ白いキャンバスで、だからこそそういう未来だって、なくはない。完全にゼロ、ではない。
「どうしたの友紀ちゃん。黙り込んで」
「や、なんでもない。どうでもいいこと考えてた。未来の声ってなんなんだろうなー、とか、そういうことを」
「ま、そうだよね。わけわかんないもんね」
「……仮にだけど、明日香が聞いた『未来の声』を、素直に聞き入れるか、それとも無視するかって、未来の明日香ではなく、今の高1の明日香に選択権があるわけじゃない?」
「そうだね」
「じゃあ、もし未来の明日香につながらない選択を、今の明日香が選択したら、未来の明日香はどうなっちゃんうんだろう」
 いたいけな明日香が陸上をやめて非行に走った場合の想像をしながらも、同時に思い浮かんだ疑問点を試しに口にしてみる。
 いわゆるタイムパラドックスというやつだ。
「あ、それについては私も考えたんだけど」
 と明日香が勢い込んで言う。さすが経験者だ。
「最初は、並行世界かなって思った」
「無数の未来の世界に分岐する、的な?」
「そうそう。未来の私が過去の私に声を伝えて、未来の私につながらない選択を過去の私がしたら、未来の私には影響がなく、過去の私から派生して別の未来の私が出現する、のかなって」
「でもそれって、そもそも『未来の声』を過去に伝えようと思ったおおもとの未来の自分にメリットがないような……結局は別の未来の自分に派生して分岐しちゃうわけでしょ?」
「うん。――それは、それでいいんだと思う」
「それでいい?」
 だとしたら直接的なメリットを享受できないことになってしまうが、と私が思っていると、
「一人の人間としての私の心には、同時には存在しないかもだけど、『派生した私、元気かな』って想いを馳せることができる私は、派生した私を内包した私だと思える、っていうかさ」
「急に哲学的になるじゃん」
「でもさ、そういうこと考えたことない?」
 普段はおとなしい明日香が珍しくいつも以上に饒舌で、私も思わず聞き入ってしまう。
「あのときもっと勉強しておけばとか、受験であの高校も受けておけばとか、好きな男子に告白しておけばとか、今から思えば後悔に当たる感情って誰しも一つはあると思うんだけど」
「うん」
「それってつまり、迷ったからこそ二つ以上の選択肢が思い浮かんだわけでしょ。迷わなかったら、自分の可能性を見つめ直す機会もない」
「なるほど」
「だから、迷ったら迷った分だけ、自分の中に別の自分が、派生した自分が創造されるんじゃないか、って思ったりして」
「それは、多重人格的な?」
「そんな大層なものじゃなくてさ。誰でも持っているような、学校での自分、家での自分、塾での自分、みたいな些細な派生と分岐だよ」
「確かにその場でのキャラの使い分けって誰でも多少はするものかも。ただ、それは派生とか分岐っていう言い方でいいのかな」
「いいんじゃないかな」
 明日香はなんでもないことのように肯定した。
「学校の私も、家の私も、塾の私も、陸上を続けた私も、やめた私も、未来の声を信用した私も、信用しなかった私も、全部私の中に存在してる。可能性を思い浮かべることができたから」
 話を聞きながら、明日香には悪いなあと思いつつも、ぽろりと、
「私は、あんまり可能性ばかりあっても困るかも。可能性は善や得ばかりとは限らないし」
 それに、迷ったら迷った分だけ疲弊しそうだし、明日香のように迷いをたくさん抱え込める気がしなかった。明日香はおとなしい顔して、案外したたかで根気強い人なのかも、と思った。
「友紀ちゃんは、メリットとデメリットみたいに、損得勘定で考えすぎな気がする」
「そうかな?」
 と言いつつ、そうかも、と思う。
「卒業する頃には、少しは迷わない自分になってるのかなあ」
「それは……難しいかもねえ。中学生から高校生になっても、実感としては大して違いないし」
「でもさ、自分ではわからなくても、周囲から客観的に見れば確実に変化してる、っていう部分はもしかしたらあるはずじゃん、多分」
「それが簡単にはわからないから、とりあえず3年間よくがんばりました、ってことで目に見えてわかりやすい卒業式とか卒業証書とかってモノがあるのかもね」
「いやー、もっと内面で評価してほしいわ、内面で」
「……就活中か婚活中の人のセリフ?」
「うっさい」
 私たちの会話は、次第にどちらが何を言っているのかも判然としないくらい渾然一体となり、放課後のグラウンドの片隅で、ただ無為に空中に向かって吐き出されるのみだった。
 私たちの会話は、「もし」とか「なのかも」という仮定ばかりが目立っていて、その意味でいえば、少しは未来への期待や熱量を持ち合わせていたのだろう。
 嘘と真実の狭間をたゆたうような明日香とのおしゃべりを、私は案外心地よく感じながら、高校3年間の部活を陸上部に捧げることになったのだった。
 結局、明日香が聞いたという「未来の声」の話を私が面と向かってきちんと聞いた機会はこの一度きりで、卒業まで直接この話をすることは以後なかった。
 明日香と一緒に大会に出たときも、未来の声についてあらためて話すことはなかったし、検証する気も起きなかった。
 私たちは、答え合わせをするために未来に向かって生きているわけではないのだから。

   ◆

 金曜日の放課後は家庭教師が来る。
 その日も、香織さんは私の家にやってきて、ベッドに寝転がって私の本棚から拝借した小説を読みつつ、ときどき勉強を教えてくれた。
 高校が冬休みに入り、塾の冬期講習まみれの日々で半ば朦朧としながら年越しそばとおせちを食べ、それ以外は受験勉強の記憶しかない1月も、気づけば中旬を迎えていた。
 明日は大学入試センター試験の初日の土曜日であり、つまり今日は金曜日であり、毎週月水金の放課後と土日の昼間2時間は家庭教師であるところの香織さんが来る日だった。
「そういえば」
 相変わらず香織さんは寝転がりながら、
「センターって名前変わるらしいね。何年後か知らんけど。大学入学共通テストとかなんとか」
「そのときは私もう受験生じゃないんでどうでもいいです」
「友紀ちゃん、ちょっとはニュースとか見たほうがいいよー」
「昔、父に天声人語を毎日読んで要約する訓練をしろって言われて嫌々やってたとき以来、ニュースは嫌いなんです」
「そんな局所的な憎しみの育て方あるんだ」
 香織さんはケラケラと笑った。
「国語的な読み書きの能力とか、世の中に関心を向けるきっかけを得る意味でも、割とスタンダードないい方法だと思うけどな」
「私には向いてなかったんでしょうね。――まあ、そもそもを言えば、自分に向いてるものなんてあるのかな、って昔から今もずっと思い続けている、という感じではありますけど」
 ノートにシャーペンを走らせながら、適当な相づちを打った。
 慣れると、香織さんとおしゃべりしながら手を動かすことも難しくはなくなっていた。
 今日はコレとコレと……と香織さんは、過去に私が間違えた問題をチョイスし、それを解き直したら今日はおしまい、とだけ指示して、いつも以上にダラっと寝転がっている気がする。
 しかし、チョイスされた問題がこれまた絶妙に私の記憶から消えかかっていて一見すると間違えそうだが、よくよく考えれば正答にたどり着ける問題ばかりなのが憎たらしい。
「ニュースといえば、受験と『未来の声』関連の報道もあったなあ。うわっめんどくさっ、と思ったわアレ」
「どんなやつですか?」
「ええと、『試験中に、解法や正答を示唆する未来の声を聞いた受験生は、すみやかに申し出なさい。再試験とする』って。昼間のワイドショー番組でそれを話の種に喧喧囂囂やってた」
「香織さんってワイドショーとか見るんですね。あんなの時間の無駄、とか言いそうなのに」
「何を言う。私は確かに無駄は嫌いだけど、無駄とわかってあえて享受する無駄は好きだよ」
「またとんちみたいなことを言い出して」
「いやとんちでなく。無駄を過度に嫌っていると、人生自体が無駄に思えてしまうし、定期的に意識的に無駄を摂取する必要があると思う」
「……なんの話でしたっけ?」
「えーと、人生は無駄の集積体だという話。じゃなかった、ワイドショーの話、でもなくて、ああそうそう、受験と未来の声の話だった」
「それ、学校で普通に言われてますよ。注意事項のひとつとして。『試験中に未来の声を聞いたらこうしなさい』みたいな手順もけっこう念入りに周知してましたし、先生たち」
「あ、そうなの?」
 と香織さんは一瞬驚いて、
「でも考えてみればそっか、現場レベルでは具体的な対応策が講じられてて当然だよね」
「とはいえ、そんなのだいぶ低確率っていうか、無視してもいいくらいの稀な事故だと思いますよ。だってもうほとんどの受験生はすでに『未来の声』を聞き終えているわけですから」
「あれって、一度聞いたら二度目はないんだっけ」
「今のところの調査結果ではそうみたいですよ」
 日々、役所にて未来の声の事情聴取がなされた結果は統計データにまとめられ、「本日の事情聴取者数」や「累計事情聴取者数」として厚生労働省のホームページに掲載されている。
 総務省の年齢別人口推計によると、高校3年生である私の世代の人口は、100万人よりもちょっと多いくらい、日本に存在するらしい。
 そのうち、センター試験を受ける人数、つまり受験者数は毎年だいたい50万人よりもちょっと多いくらい。つまり全高3生の約半分だ。
 そして、こないだの未来の声の調査結果によると、高3の約100万人のうち、およそ95%がすでに事情聴取者としてカウントされているとのことだった。
 つまり単純計算で、100万×95%=5万人が、まだ未来の声を聞いていない高3生の人数となり、5万÷2=2万5000人が、まだ未来の声を聞いていない受験生、といえる。
 割合にして全センター試験受験者のおよそ2.5%。これを多いと見るか少ないと見るか。
「いやあ、高確率だろう」
 香織さんは即答した。
「アメリカ国家安全保障会議のデータによれば、飛行機で死亡する確率は0.00048%ってことらしいよ。てことは、飛行機事故よりも、未来の声でカンニングする奴のほうが全然あり得る話でしょ」
「香織さんそんなこといちいち暗記してるんですか」
 と驚きながらベッドを見やると、寝転んだ香織さんがスマホ画面をこちらに向けていた。
「今ネットで検索して一番上に出てきた記事の受け売りだけど」
 私は脱力して机上の解答ノートに視線を戻すが、香織さんは淡々と、
「つまりさ、いつだったかも言ったけど――大学入試っていう人生のターニングポイント、重要イベントに、後悔する未来の誰かが過去の自分へ介入しようとするのは自然な発想だろう」
「それは、そうでしょうね。恋愛とか部活とか進路とかに未来の声を行使するより現実的かも。宝くじの当選番号とか競馬の1着馬を過去の自分に教える的な、現実的な利益って感じがします」
 私は再び問題の解き直しに戻りつつ、ふと気になって、
「香織さんの時代はそういう対策なかったんですか?」
「時代、って言われるとすげー昔みたいで失礼なんだが? 4つしか年違わないんだが?」
「前は、『4つは全然違う』って言ってませんでしたっけ」
「揚げ足を取るんじゃない。……まあ、私が受験した頃はまだ『未来の声』はごく一部の若者にしか発生してなかったし、対応策の整備もそこまで気が回ってなかったんじゃないかな」
「ニュースとかで本格的に騒がれ出したのって、最近といえば最近のことですもんね」
「そうそう。私らの頃はまだユルかったよ。入試中の注意なんてされなかったし」
 再び小説を読むのに戻ったのか、私の背中越しにぺらりと本のページをめくる音がした。
「でもさあ」
 おそらく香織さんは慎重に、その言葉を切り出すタイミングを見計らっていたと思われる。
「友紀ちゃんもその注意事項と対応策を適用され得る一人なんだろう? 大変だ」
「…………。えー、っと……」
 私は香織さん相手に嘘をつきたくなかった。
 香織さんは今、私を心配している。未来の声をまだ聞いていない私が、受験中にもし未来の声を聞いてしまったら正直に申告しなければならないし再試験になるし、大変だ、と。
 同時に、試験中に未来の声を聞くということは、未来の自分は、未来の声という手段を用いてカンニングという不正を唆すような人間であると証明してしまう意味を持つ。
 別に、自分が品行方正であると気取るつもりはない。私だって人間なので、人並みに怠けるし、ちょっとしたズルもするし、嫉妬もするし、保身のために小さな嘘をつくことだってある。
 そんな私ではあるが、このあと、何年か何十年か生きた先の、未来の自分が、カンニングを唆すような精神を醸成してしまった、という事実を、今の自分に突きつけてくるとしたら。
 そのような精神を醸成するような、事情、生活背景、境遇に陥ってしまった自分が未来に存在していて、浅はかともいえる未来の自分の思考過程を、今の自分に突きつけてくるとしたら。
 私は、未来の私に失望するだろう。
 存在するかもしれない、未来の自分の可能性を、そんなふうに想像するのは、想像とはいえ、ひどく恐ろしく、悲しいことのように思えた。
 大輝くんと未来の自分の可能性について下校中におしゃべりをしたことや、明日香とグラウンドの片隅でおしゃべりしながら彼女の暗い未来の可能性を想像したことが、なぜか今、私の脳裏をちらりとよぎった。
 そして、いつものおどけた様子で「未来の声なんて聞きたくない」と言い放った香織さんとのあの日のおしゃべりが、私の頭の中に浮かんで、消えていった。
「ごめんね、なんか変なこと聞いちゃって」
 私が急に黙り込んでしまったからか、香織さんはいつものようにおどけてそんなことを言った。
 違うんです、全然、変なことじゃないんです、それは、とても大切なことなんです、私も香織さんみたいに胸を張って堂々と「未来の声なんて聞きたくない」って言いたいんです。本当は。
 そう思ったが、思うだけで、口にはしなかった。
 私は、香織さん相手に嘘をつきたくなかった。けれど。
「私、実は聞いたんです、未来の声」
「へっ?」
「今朝、起きたときに聞きました。センター試験の前日っていうタイミングだからですかね」
 香織さんに相づちも打たせず、
「『マークシート塗るのが一個ずつズレてて受験失敗するから気をつけろ』って感じの内容でした」
 私は努めて平静に、笑いながら、
「だから、今朝は学校行く前に母と一緒に市役所へ行って事情聴取してもらって、少し遅刻しました。遅刻したの実は生まれて初めてかも」
 でもよかったです、と付け加え、
「うちの学校の高3で、未来の声を聞いてないのはもう私だけだったんですよ。これでようやく仲間はずれは卒業です。いろいろ解放されました、精神的に」
 これに関しては本当にそう思った。
 他の人やクラスがどうかは知らないが、高3冬の教室は、私にとっては人生で一番居心地が悪かった。
 未来の声問題がなくても、高3という多感なお年頃であり受験という人生を左右するイベントが控えた人間たちが、ひとつの場所にぶち込まれていれば、ぎくしゃくのひとつもするというものだ。
 そんな集団のなかで、いまだに未来の声を聞いていない人間が一人いたら、「あいつの未来の声はカンニング用にとってあるんじゃねえか」などと心無い噂が立ったりもする。
 今朝、遅刻して登校して、担任に「未来の声を聞いた」と報告すると、なんとなく肩の荷が降りた心地がしたし、私の妄想かもしれないがクラスメイトの視線もゆるやかになったような気がした。
「前に香織さんと話したことありますよね。今の私が未来の私に期待してないように、未来の私も過去の私に期待しないからこそ、未来の声を届けるような真似はしないんじゃないか、って」
「うん」
「でも、そんなことなかったみたいです。未来の私は普通に期待とか欲望とかを持っていて、ちゃんと俗な人間になったんだな、と――」
「友紀、嘘をついているね」
 それまでペラペラとしゃべっていた私は、香織さんのその言葉によって、それ以上しゃべり続けることができなくなってしまった。香織さんの声に、冗談の色は混じっていなかった。
 解き直し問題の手を止めて、ベッドのほうへ振り返る。
 真剣なときの香織さんは、こんな表情をするんだ、と思った。
 だが、私は無謀にも勇気を振り絞って言葉を続け、
「嘘じゃないですよ。だって今朝、市役所で事情聴取してもらいましたから。なんだったら今、家にいる母に確かめてもらってもいいですよ。一緒に行ったので証明……」
「そうじゃない」
 今度こそ私は何も言えなくなった。
「今朝、市役所へ事情聴取に行ったのは事実なんだろうさ。けど、友紀はもっと根本的なところで嘘をついているね?」
 問いかけるような口調だったが、私に返答を求めない口調でもあった。
「友紀が今ついている嘘が、どんな性質の、どんな規模のものなのかまでは、私にはわからない。しかし今、友紀が明らかになんらかの一線を超えた物言いをしたことだけはわかる」
 ま、長年の親戚付き合いから察した勘に過ぎないといえばそれまでなんだけど、と言って少しだけ表情を和らげたが、それはいつものおどけた様子とは全然違う表情だった。
「もう受験生でも10代でもない私にはリアルな想像は少ししづらいけれど、クラスで自分一人だけが未来の声を聞いていない状況だとしたら、きっと居心地はよくないかもしれないね」
 だから、と香織さんは続け、
「試験で不正をするような浅ましい奴だと思われたくないために、まだ未来の声を聞いていないのに聞いたことにして、嘘の事情聴取を申告するのも別に不思議なことじゃない」
 ただし、
「そのときは、仮に試験本番中に本当の未来の声が聞こえてきたときに、正直に申告することもできなくなる。未来の声に二度目はない、って言われてるからね。嘘に嘘を塗り重ねることになる」
 そこで香織さんは一瞬だけ息をつき、
「――という程度の想像はできる。そして友紀は、根性はひん曲がっているけれど、心根はまっすぐで素直な子だと私は知っている」
「根性ひん曲がってるは余計です」
 苦し紛れに私がそう言うと、ははは、と香織さんは笑って、
「私の貧困な想像力ではこのくらいしか思い至らないけど、友紀はおそらく、もっと何か、違う意味での、深刻な嘘を秘めているね?」
 今度は、私の返答をやんわりと促す口調だった。
 それでも私はまだ、核心に触る覚悟を持てず、ゆえに何も言えず、黙ったまま俯いていた。
 その空白を埋めるように、
「人間なら、誰だって嘘をつくことはある。私だって時には嘘をつく。正直に生きるとしんどい場面というのは少なからずあるし」
 そして、
「でも、『今この場面で嘘をついたらダメだ』と本能的に察知したときには、絶対に嘘をついてはいけない。なぜなら、自分でついた嘘に、自分自身が耐えきれなくなってしまうからだ」
 何一つ、具体的なことは言われていない。
 それなのに、なぜこの人の言葉は私の心を解きほぐし、優しく導いてくれるような気配がするのだろうか。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんでもどうぞ」
「どうして私が嘘をついてる、って確信したんですか」
 香織さんは、んー、と一瞬天井を見上げて、
「未来の友紀が、『マークシート塗るのが一個ずつズレてて受験失敗するから気をつけろ』なんて凡庸な忠告をするはずないと思ったから」
「未来の私にどんな期待をしてるんですか」
「だってさあ、これだけ根性のひん曲がった奴が、受験なんていうささやかな人生の些事を、ずっと未来まで根に持ってるはずないじゃん」
「言ってる理屈がさっぱりわかりません。――じゃあ、未来の私はどんな声だったら過去に届けるっていうんですか?」
「そうだな……たとえば……」
 と、しばし考え込んでから、
「『未来の声を発明したのは私だ』、とか?」
 なーんちゃって、いくらなんでもそれは考えが突飛すぎるか、と香織さんはおどけているが、
「正解です」
「は?」
 私自身、びっくりしている。
「今朝なんかじゃなくて、私、ずっとずっと昔に、未来の声を聞いたんです。『あなたは、遠い将来に、未来の声を、人々に提供することになる』って」
 いきなり言い当てられて、私自身もびっくりしているが、今はただ正直に話そうと思った。
 そういう心境になることができた自分が、少し不思議だった。
「それが、私がついている嘘の、真実です」

   ◆

 数年前にぽつりぽつりと「未来の声を聞いた」という若者の訴えが出てくるよりも、ずっと前に、私は未来の声を聞いた。小学校に入学して間もない頃だった。
 特別な記念日や行事のある日でもなんでもない、普通の日だったと思う。朝、起きて、母に急かされながら納豆ご飯か何かをのんびりモソモソと食べていたら、急に聞こえたのだ。
「あなたは、遠い将来に、未来の声を、人々に提供することになる」
 女性の声だったので、同じテーブルで朝食を摂っていた父母の、母が言ったのかと思った。
 しかし、父と母は全然違う別の会話をしていて、結局ただの空耳のようなものかと思って、誰にも言わなかった。そして、そんなことはすぐに忘れてしまうと思っていた。
 なのに、なぜかその空耳の声は、私の記憶にしっかりと刻み込まれて忘れることはなかった。物心がつくかつかないか、という頃の私が覚えている数少ない幼少期の記憶でもあった。
 小学校に入学して間もない頃のはずで、おそらく当時の私は6歳だったのだろう。
 逆算すると、今からおよそ12年ほど前、ということになる。
 その後、私が中学校に入学したあたりで、「未来の声を聞いた」という若者が少しずつ出てくる。報道や、対応策がさかんに論じられるようになるのはそれからだ。
 ニュースで最初に「未来の声」という単語を耳にしても、私はしばらくの間、自分が小学生の頃に聞いた声と、ニュースで言われている声が、同じものだと認識できなかった。
 そのうち、中学校での身近なクラスメイトからも「未来の声を聞いた」という者が現れて、その噂を聞くうちに、もしかするとアレがそうだったのではないかと思うようになった。
 世間でさまざまな議論が交わされ、対応策のひとつとして、未来の声を聞いた者は役所に事情聴取に出向くことが法整備され、多少反発がありつつ、事情聴取は速やかに世間に浸透した。
 とはいえ、今さら「実は小1のときに聞いたんですけど」と申告するのは、私にとって難しいことだった。はっきりと耳に残っているとはいえ、空耳かもしれない気持ちが拭えなかった。
 ほかの若者たちが聞いた「未来の声」と、私が聞いた「未来の声」が、同一の種類のものであるという確証もなかった。
「あなたは、遠い将来に、未来の声を、人々に提供することになる」
 という内容が、実はかなり重要な意味を持つんじゃないかと深く考えるようになったのは、高校に入学して、それこそ明日香との距離をだんだんと縮めていた頃だったような気がする。
 気づいたものの、それを公表したり市役所に申し出たりすることで、どんな扱いを受けるのか、想像すらできなかった。私には荷が重すぎる。受け止めきれない。
 この私の「未来の声」は、嘘を言っているんじゃないか、と思ったこともある。未来の私は単なる冗談として、過去の私に対して未来の声を行使したんじゃないか、とか。
 どうしていいかわからなくなった私は、とにかく、未来の声はまだ聞いていない、という体裁で、周囲に押し通すことにした。
 私はそうやって、嘘をつくことになった。

   ◆

「へーえ」
 長いようで短い私の告白を聞いた香織さんは、そんな緊張感のないひとことで応答した。あまつさえネイルの小さな欠けが気になるのか指先をいじっていた。
「ちょっと。聞いてましたか私の話」
「んー聞いてた聞いてた」
「聞いてない人の反応じゃないですか」
「だぁってさあ」
 と、もはや退屈を隠さず、
「肝心の、『未来の声』がどういう理屈で成立して発生しているのか、という点に関してはまるでわからずじまいなんだもん」
「そんなの私に言われても。未来の私に直接聞いてくださいよ」
「未来の友紀は今以上に根性ひん曲がってるはずだから、私に教えてくれない気がする……」
「――あ、今ので気づいちゃったんですけど、香織さんが未来の声を聞いてないのって」
「うわっ、もしそうだとしたら未来の私どんだけ友紀に嫌われてんだ」
「いや、嫌いとかではないと思いますよ。香織さんには必要なさそうだな、みたいな判断かと」
「それはそれですごく未来の友紀っぽい判断でリアルだな……」
「まあ、未来の私がどんな性格と考え方かなんて、今の私にはやっぱり想像つかないですけどね」
「未来なんてそんなもんだよ。どんどん変わってく」
「そんなもんですか」
「だって考えてもみなよ。大勢の若者が未来の声を聞いて、当然従わない選択をする奴も出てくるはずで、そもそも未来の声で嘘ついて過去の自分に吹聴する奴もいるかもしれなくて、そんな不確定要素にまみれて変質した現在が辿った先の未来は、未来の声が発生した当初の未来の姿からすれば、必然的に乖離していくに決まってる」
「一周まわって元の未来の姿に戻る、という可能性もあるんじゃないですか」
「それはそれでおもしろいからOK」
「香織さんのOKかNGかが関与する話ではない気もしますが……」
 昔、明日香とも似たような話をしたな、と思った。タイムパラドックスとか、並行世界とか、無数の未来の世界に分岐する話、とか。
「だからさ」
 と、そこで香織さんは先ほどの真剣な表情を取り戻して、
「『未来の声』とかいう得体の知れないシステムを未来の友紀が構築してしまって、今の社会に影響や混乱を与えてしまう――そんな不安や心配を、今の友紀が背負う必要は一切ない」
 静かにそう言って、
「『未来の声』を構築した未来の自分が嫌なら、今の自分がそうならない未来を選びとればいい。ただそれだけの話だよ」
 そして、静かに笑った。
 私も静かに、その声を、聞いた。
「いやあー、まじめにしゃべるのは恥ずかしいね! 家庭教師の時間はこれにておしまい!」
 一転してわざとらしい明るい声で香織さんはそう宣言し、ベッドから勢いよく立ち上がって私のほうへ近寄ってきた。ノートを覗き込む。問題の解き直しはまだ途中だったが、一瞥して、
「まあ、OKでしょう、おおむね」
「全然OKじゃないです。まだ途中です」
「いいからいいから。受験前日に今さらジタバタしても仕方ないって」
「だったらなんで解かせたんですか」
「一応、家庭教師としての面子ってものがあるからさ――あ、そうだ、卒業式やろう卒業式。川嶋香織個人塾の塾生の門出を祝う卒業式」
「嫌です」
「まあまあそう言わず。――沢井友紀殿。嘘をつかず、未来の声に惑わされず、ただ虚心坦懐に未来へ歩む資格を得たことをここに証する。……うん、卒業証書が必要だな。赤ペン貸して。あとノートも」
「あ、ちょっと」
 言うが早いか、私の解答ノートをひったくる。
 そして、ページを一枚ビリビリと破り取り、香織さんはそこに赤ペンで何かを書き始めた。