春の温かい風が階段教室に流れ込み、室内が騒がしくなってきた。
大学で二年生に向けた心理学の講義がもうすぐ始まる。黒板に近い席には僕と同じ学部に在籍する超イケメンの木下君が座った。きりりとしまったクールな口元、涼しげな目元、そしてすっと通る鼻筋の持ち主だ。テニスの腕前はプロ並みで、父親は大企業を一代で築いた実業家らしい。木下君は父親の会社を引き継ぐべく日々勉強に取り組んでいると言っていた。僕はいつものように教室の右側の一番上の席に座った。ドアに近く、居眠りしやすいから僕にとっての特等席だ。僕は木下君とは正反対のごく普通の顔をした大学生だ。スポーツが得意でもなく、父は普通のサラリーマン。将来の目標も考えず日々の生活を送っていた。心理学にそれ程興味はないが単位が取りやすいので選択した。心理学は人気の講義でとりわけ女子学生の受講者が多い。しかも心理学の大杉教授は老齢だが学内随一のジェントルマンと称されるため女子学生の人気も高かった。週に一回のこの講義は五十名くらいの学生がいた。その内、女子は八割くらいだ。今日もいつものように大勢の女子学生が教室に流れ込んで来た。そして、いつものように木下君を取り囲むように席が埋まっていく。木下君は右側の席に座っているため、教室の女子学生の座る位置が右側に偏っている。そして、左側は男子学生がまばらに座る配置となった。木下君の周りは女子学生たちに囲まれて人口密度が高い。その群れから追い出されたかわいそうなその他の男子学生は人口密度の薄い側に放りだされてしまう。きっと木下君は酸欠で息苦しいに違いない。あんなに涼しげで爽やかにふるまっているが、迷惑しているはずだ。僕はできるものなら代わってあげたいと木下君に心から同情した。講義が始まった。大杉教授が流麗な字を黒板に書いていた。大杉教授が今日の課題の説明を始めた。一枚の絵を僕たちに見せた。それは二人の男が会話している絵だ。一人はりっぱな口ひげをはやしスーツを着た大物政治家のような人物、そしてもう一人は、やせた狡猾そうな男だ。口ひげの男は大きな口を開けて高笑いをしていた。やせた男は、口ひげの男の耳元で、こそこそ耳打ちをしていた。そして細い目はこちらに向き、不敵な笑みを浮かべていた。
「想像力を働かせて、ストーリーを考えてみましょう」
大杉教授がにこやかに言った。
学生がノートにストーリーを書き始めた。僕の右斜め前の席に座る女の子もせっせと手を動かしていた。僕はまだ全然ストーリーが浮かばないのにあの子は何を書いているんだろう。想像力がすごいのだろう。僕は少し中腰になって椅子から腰を浮かせてその女の子のノートを覗き見た。彼女は鉛筆で絵を描いていた。手を動かしながら、たびたび黒板の方に首を向けていた。僕は彼女の首の向きに視線を流した。木下君の横顔が女子学生たちの隙間からちらりと見えた。僕はもう一度彼女のノートを見た。いや、それはノートではなく、スケッチブックだった。彼女が見ているのは黒板ではなくて、木下君の横顔だ。おそらく、彼女の座る場所から、木下君の横顔がはっきり、女子学生の群れの隙間をかき分けるように見えているのだ。彼女の描く木下君の横顔がスケッチブックに浮かび上がっていた。
「すごい!」
僕は小さく口に出してしまった。しまったと思ったが遅かった。彼女が僕の気配と声に反応して振り返った。僕は彼女と目があった。
「わ、可愛いい!」
僕は大声を出してしまった。
「君」、と呼ぶ声が聞こえた。
大杉教授の柔和なまなざしがこちらを見ていた。
「田中君、ストーリーは書けたのですか?」
大杉教授は学生の顔と名前も把握していた。僕は中腰のまま固まっていると、彼女は大杉教授からは気づかれないように、そっと自分のノートを僕の机の上に置いてくれた。そこにはストーリーが書いてあった。いつの間にと思いつつ、僕は彼女のノートに書いてある内容をそのまま声に出して読んだ。
口ひげの男、『おい、音声データはどうなった」
やせた男、『先方の言い値で買い取りました』
口ひげの男、『世間に漏れたらおれは終わりだ。証拠は残っていないだろうな』
やせた男、『安心してください。先方はもうこの世にはいません』
口ひげの男、『おぬしも悪じゃのう』
読み終わると大杉教授が一瞬、その表情が厳しくなったが、刹那、もとの柔和な顔に戻った。
「面白いですね。ありがとう。座りなさい。みなさん、あとでレポート提出してください」
僕は椅子に座り息を吐いた。助かった。両手の手のひらに汗をかいていた。大杉教授の言葉は優しいが、僕を見つめる目にはすごみがあった。僕はあらためて、ゆっくりと彼女のノートを見返した。そこにはきれいな字がノートに並んでいた。一字一字がとても丁寧に、そしてバランスよく書かれていた。この子、きっと頭いいだろうな。僕は彼女にとても興味がわいた。それに、あのスケッチブックの絵も気になる。僕は彼女のノートに視線を落としたまま彼女のことを考えていた。すると、静かに彼女の声がした。首をあげると彼女が振り向いて僕の顔を覗き込んでいた。
「ごめん、急いで書いたから」
呟くように優しく、語尾に気持ちの良い余韻が響くような声だ。もっともっと彼女の声を聴きたいと思うような声だった。僕は心の声が彼女に聞かれたようで恥ずかしくなりあせって言葉が出なかった。謝らないといけないのは僕の方だ。勝手に彼女のスケッチブックを見て、大きな声を出して、挙句、彼女にノートを見せてもらった。ストーリーがいいとか、悪いとかの話じゃなくて、初対面の僕にノートを見せてくれたことに対してきちんとお礼を言わないといけない。もし、僕のあとに、大杉教授が彼女を当てたら彼女は答えられなかったはずだ。彼女はそんなリスクを承知で僕にノートを見せてくれたのだ。だめだ、彼女が黙ってしまった。心配そうな顔で僕を見ている。何か言わないといけないがうまい言葉が見つからない。僕は黙ったまま、ノートを彼女に返した。彼女は不思議そうな顔をして、そのまま前を向いてしまった。もう振り向いてくれることはないだろう。彼女はきっとぼくのことを変なやつと思ったに違いない。僕はもう一度彼女に声を掛けようと思った。だが、できなかった。僕は、彼女の背中を静かに見つめ続けた。セミロングのきれいな黒髪が、撫でるように肩に掛かっていた。時折、髪の間から、すっきりした顎の線と口角が少し上がって、微笑んだような口元が覗けて見えた。彼女のすっと伸びた背中が芯の強さを漂わせていた。僕は授業が終わるまで彼女の背中を見つめ続けた。何度も、もう一度振り向いてほしいと思いながら見つめた。だがそれは叶わなかった。授業が終わると彼女は、僕の方に振り向くことなく教室を出て行った。僕は彼女が教室のドアを出るまで目で追った。
翌週、僕は講義の始まる二十分前に階段教室の右側最後列のいつもの席に座った。広い室内には僕だけだった。こんなに早く席に着いたのは入学以来初めてだった。僕は外の喧騒から隔離されたかのような静寂の空間に身を置いた。今まで感じたことのない感覚だった。そして僕は席に座ると一瞬だがこの空間を支配している傲慢な感覚を覚えた。続けて無謀な欲望が湧いてきた僕は、彼女とこの静寂の宇宙のような空間を二人だけで共有する妄想に囚われた。僕だけのこの宇宙に迷い込んだ天使のような彼女は僕の後ろの席に腰かけた。そして、彼女の細いしなやかな親指と人差し指、そしてその先に延びるピンク色のつややかな爪に軽く優しくつまむように拾い上げられた細い鉛筆が真っ白な雪のようなスケッチブックの上に、彼女に意思に従って鉛筆の黒鉛の微粒子を規則正しく削り出しながら重ねていった。その無機質な黒鉛の微粒子は彼女の意のままに、幾重もの線となり一つの形を形成していった。誰かの横顔の輪郭を形作った。そして、眉毛、目、鼻、口が描かれていった。そして最後に、目に光を入れた。その横顔は僕だった。だが、僕の甘美な妄想の世界は一瞬で破壊された。学生たちが外の喧騒を教室の中に連れて来た。僕は教室のドアに学生が現れるたびに視線を向けた。彼女によく似た髪型、背格好の女の子が教室に入って来た。じっと視線をその女の子に向けたが彼女ではなかった。何度も同じことを繰り返したあと、いつものように女子学生で埋められた教室に大杉教授が現れ、厳かに講義が始まった。僕は腰を少し浮かせた状態で、大杉教授の立つ位置から、首を左右にジグザグに最後尾までゆっくりと動かして彼女の姿を探したが見つからなかった。そして、次の週も、彼女の姿は現れなかった。僕の彼女への思いが抑えがたくなってきていた。その真夜中、僕はアパートで寝ていると、夢に彼女が現れた。彼女の顔が僕の頭の中にはっきりと浮かんだ。僕は目が覚めた。どうしたらいいのだ。僕が夢で見た彼女の顔を今すぐ形にしなければいけない。僕は強烈な意思に従った。僕は机に置いてあったノートと鉛筆を手にとった。彼女の顔を形に表し始めた。人の顔を描く行為など、小学校のときに父親の顔をクレヨンで描いたのを最後にやったことがない。僕は何度も何度もひたすら描いた。頭の中では彼女の顔がはっきりと浮かんでいるが、それをうまくノートの上に表現できない。何枚も何枚も描き続けた。顔の輪郭、頬の形、目や眉毛、鼻、口の位置、形、大きさ、それぞれがほんの一ミリ、いやそれより小さくわずかにずれれば、顔の印象ががらりと変わることがよくわかった。気が付いたら朝になっていた。そしてとうとう、一枚のノートの上に、稚拙ながらも、微笑む彼女の顔がそこに描き出された。繰り返し描いていく中で、僕の持つ彼女の顔の印象と一致する絵が突然現れたのだ。僕は奇跡と思った。
その日、僕はその奇跡の絵を数人の友達に見せた。しばらくすると思いがけない知らせが入った。大学の近くのパン屋で働く女の子が、その絵によく似ていると友達が教えてくれたのだ。僕はさっそくそのパン屋に出かけた。おしゃれなパン屋だった。店内には数人の若い女の子がトングを持ってお気に入りのパンをトレーに乗せていた。彼女を探す。すぐにわかった。白のエプロンと帽子がよく似合っていた。笑顔でお客さんの対応をしていた。僕は基本的にこういう若い女の子のお客さんが多い店に入るのが苦手だ。友達からは自意識過剰だとからかわれるが苦手なものはしょうがない。だから、大学の直ぐ近くにあるにも関わらず、一度も訪れたことがなかった。今日は勇気を振り絞って店内に入った。僕は前を歩く女の子の真似をしてトレーとトングを取って、パンを探すふりをした。僕は最初に目に入った小さなパンを一つだけトングでつまみトレーに乗せて彼女のいるお会計に向かった。トレーを持つ手が震えるのがわかった。覚えていてくれているだろうか。いや、変なやつとか、ストーカーとか思われないだろうか、僕は今にもパンを元の場所に戻して店を出て行こうかと考えた。僕の前の人の会計がもうすぐ終わりそうだ。僕は覚悟を決めた。僕の会計の順番がきた。彼女が笑顔を僕に向けた。僕は思い切って彼女の顔をしっかりと見た。
「あの、こんにちは」
「あ! あのときの」
彼女は僕を覚えていてくれた。
「ノートありがとう」
「どういたしまして」
彼女がにこにこしながら返事した。
「あとでまたここにきてもいい?」
僕は小さな声で彼女に尋ねた。
「バイトもうすぐ終わるから、ちょっと待っていてくれる?」
「うん」
僕はそっけなく返事をした。そして、直ぐに店を出た。いや、正確に言うと、僕は彼女にパンの代金を払い、トレーに乗せたパンをトングでビニール袋に入れて、トングとトレーを決められた場所に戻して、それからお店を出たはずだが、その間の記憶が完全に吹き飛んでいた。僕は店から出て、パンを持っていないことに気づいた。慌てて店に戻ると、彼女がにこにこしながらどこかを指さしていた。僕は彼女が指さす方向を見ると、トレー返却口の上に、ビニール袋に入ったパンが乗っていた。僕はそれをなにごともなかったように取り、再び店を出た。僕は顔が熱くなっていた。彼女はすぐにやって来た。
「お待たせ。そこの公園でパン食べない?」
僕と彼女は店の前の公園のベンチに並んで座った。
「わたし、薬学部二年の鳴海紀香です。バイト帰りにここでいつも休憩しているんです。付き合わせちゃったけど、よかった?」
「僕こそ、バイト先に急に来たりして。ごめん」
「今日は何?」
「あのときのノートのお礼をいいたくて」
「なんだ。いいよ、そんなわざわざ。あなた田中君でしょ。工学部だっけ?」
彼女は僕の名前を憶えていてくれた。
「工学部二年の田中悟です。愛媛県から出てきて、大学の近くのアパートで下宿してます」
「愛媛県か。高校の修学旅行でいったことあるよ。いいところね。わたしはここが地元。大杉教授が田中君の名前を言ったからドキドキしていたの。あの講義は工学部と教育学部の学生が対象でしょ。大杉教授は学生の名前知っていたから。当てられたらどうしようかと」
「どうして大杉教授の講義受けていたの?」
「あのイケメンの男の子を見に行っていたの。木下君だっけ。友達が木下君のファンなの。無理やり誘われて、ついでにスケッチしてくれって、頼まれたから」
鳴海さんはパンを手提げかばんから取り出した。
「お店の失敗作。店長が分けてくれたの」
鳴海さんは形の崩れたメロンパンを食べ始めた。
「桜の花満開だね」
鳴海さんは公園の真ん中にある大きな桜の木を見ながら、手提げかばんからスケッチブックを取り出した。
「絵が好きなんですか?」
「うん。絵を描く時って、よく観察しなくちゃ描けないでしょ。桜の花をじっくり見たことある? 一枚の花びらってピンク一色じゃなくて、花びらの先の方に行くほどピンク色が淡くなって、先端は透明な白に変化している。よーく観察して、理解して、絵を描くの。そしたら描いた時の記憶が残るでしょ。田中君は?」
「僕は、この前久しぶりに描きました」
「何描いたの?」
僕はショルダーバッグからノートを取り出した。
「ごめん、へたで。記憶を頼りに描いたんだ。友達に見せたら、パン屋さんで働いていることが分かったから」
「へー。だからわたしがここでバイトしてるのわかったんだ」
「ごめん、ストーカーみたいだ」
「いいよ。ありがとう。丁寧に描いてくれて。自分の顔を見るのってなんか恥ずかしいね。田中君記憶力すごいし、すごく上手。才能あるかも」
「才能なんてないです。僕、何枚も何枚も描いてやっと、この一枚が描けたんです」
「田中君わたしと一緒に桜の木描かない?」
思いもよらない言葉だった。僕はすぐに大きく頷いた。
「じゃ、今日はわたしが描くのを見てて。鉛筆で下書きはしたから、色を塗るの」
鳴海さんは水彩画の道具を手提げカバンから出して準備を始めた。小さなバケツを持って公園の水飲み場に水を汲みに行った。僕は鳴海さんの背中を目で追った。小さなバケツを右手に持って、小走りで水飲み場に向かう姿は、まるで小さな子供が無邪気に遊んでいるように見えた。水道の蛇口をひねってバケツに水を入れ始めた。すると足もとにサッカーボールが転がって来た。すぐにボールを追いかけて小さな男の子が鳴海さんに走り寄ってきた。鳴海さんは男の子の方を振り向くと、ぎごちない恰好でボールをその子に蹴り返した。男の子がお辞儀して戻っていった。鳴海さんは男の子に向かって手を振ってバイバイしていた。水を入れたバケツを持って再び小走りでにこにこしながら僕の方に戻ってきた。すると、急に立ち止まって右に体を向けた。その向いた先には紺のブレザーを着た数人の男の子たちがいた。その内の一人が鳴海さんに近づいて何やら話をしていた。すると、鳴海さんは横一列に並んだ男の子たちの真ん中に立った。男の子の一人が桜の木をバックに写真を撮った。それが終わると鳴海さんは再び僕の方に戻ってきた。
「どうしたの? あの男の子たち」
「高校生。大学の見学に来たんだって。一緒に写真に入ってほしいって頼まれたの」
「ふーん」
「わたし、子供っぽいから。よく高校生に間違われて」
なんかわかる気がした。でもモヤモヤする。鳴海さんと一緒に写真を撮るとは、高校生の分際で許せない。そんな子供じみたことをしばらくぼーっと考えていた。すると、水の入ったバケツと、白いパレットが僕たちの間に置かれた。パレットはその端に並ぶ小さな仕切りの中に、それぞれ、あらかじめ数色の絵の具が青、緑、黄、赤の順でわかりやすくチューブから絞り出されていた。開かれたスケッチブックのページには鉛筆で桜の木がスケッチされていた。桜の花びらが春風に舞う中、僕は公園のベンチに鳴海さんと並んで座っていた。これは夢か? 僕は、鳴海さんのすべるような顎の形の横顔を見た。そして、視線をしなやかな指先に移した。鳴海さんの指にやさしく包まれた筆は、その毛先で小さなバケツからたっぷりと水を吸い上げると、それをスケッチブックになめらかにすばやく広げた。そして今度はパレットに溶いた青い絵の具を吸い、スケッチブックの上に置くとなめらかに広げ始めた。青はスケッチブックにあらかじめ広げられた水と混じりあいながらきれいなグラデーションを描いて春の空をスケッチブックの上に写しだした。すると今度は、筆はバケツの水で毛先をきれいにすると、すかさずパレットから紫の絵の具を吸い、ぴょんぴょんウサギが跳ねるように淡い紫をスケッチブックの上に置いて、広げていった。スケッチブックの上には鮮やかな桜の木が表現された。僕はまるで手品を見ているのかと思った。
「桜の花一枚は、ピンクのグラデーションでしょ。でも桜の木はピンクで描くとね、うまくいかないの。友達に見せたら、『紅葉?』なんて言われてね」
「不思議だね」
僕たちは、スケッチブックの桜の木と、実物の桜の木を交互に見ながらベンチで座っていた。
「じゃ、次は田中君が描いてみてよ」
「え、いきなり?」
「明日のお昼、時間とれる?」
「えーと。僕は大丈夫」
「じゃ、あした、ここで、十一時集合でいい?」
「うん」
「水彩画の道具はわたしの使っていいから、手ぶらで来てね」
次の日、僕と鳴海さんは、公園のベンチに並んで座った。僕は鳴海さんに教わりながら、鉛筆で下書きをして、色を着けた。
「どうかなあ?」
「田中君、才能あるよ」
「でも、鳴海さんが教えてくれたから」
「大丈夫。田中君。自信持って! じゃ、お弁当たべよう」
鳴海さんは手提げかばんから、二つランチボックスを取り出した。ランチボックスにはかわいいねずみのキャラクターがプリントされてあった。ランチボックスを開けると、おにぎり二個とウインナー、きざみ紅しょうが入り卵焼き、ゴボウと人参のきんぴら、エビのベーコン巻き、ミニトマトとレタスが入っていた。僕と鳴海さんの間にランチボックスを置いて、桜の木を見ながらおにぎりを食べた。おにぎりの中身はおかかと鮭だった。鳴海さんが水筒から温かいお茶をコップに入れてくれた。桜の木の下で親子連れがシートを広げてお弁当を食べていた。
「わたしの両親も、わたしが小学生のときに、よく桜を見に連れて行ってくれたの」
鳴海さんが親子連れを見ながら話した。
「懐かしい思い出でですね」
「父も絵を描くのが好きだった。桜を見に行った時には、必ず絵を描いてた」
「それで、鳴海さんも絵が好きなんだ」
「でも、わたし、子供の時はいやだった。他の親はみんな写真を撮ってたのに、わたしの父は絵を描いて。その間、ずっと見て、待ってなくちゃいけないでしょ」
「うん、そうだね」
「父に聞いたの。なんでうちの家は絵を描くのって。そしたら、絵の方が記憶に残るからって言っていたの」
「お父さんは今も絵を描いているの?」
「亡くなったの。わたしが中学生になったときに。ガンで。中学一年生に家族で桜を見にいったのが最後になったの。母が働いてわたしの学費出してくれて」
「ごめん、思い出させてしまった」
「でもね、その時も父は絵を描いていた。わたしと母と桜の木。父の絵をみるとあのときの父の顔、母の顔、桜の木の色や形、風の匂いや、空の色も思い出すの」
「お父さんはとってもいい思い出を家族に残してくれたんだ。いいお父さんだ」
「うん」
「あの、今日はありがとう。おにぎりおいしかった。おかずも。卵焼きおいしかった。エビのベーコン巻きも、久しぶりにちゃんとしたもの食べた」
「ただのおにぎりやん」
鳴海さんが照れた。
「桜の花も今日で終わりかな。明日は雨風が強いって、天気予報言ってた」
鳴海さんが空を見上げた。その横顔を見て僕は言った。
「あの鳴海さん」
「なに?」
鳴海さんが僕の顔を見た。
「僕と付き合ってもらえる?」
僕は唐突に鳴海さんに告白してしまった。鳴海さんはじっと僕の顔を見ていた。
「うん」
鳴海さんが小さく頷いた。
僕は大学生二年生の春に生まれて初めて彼女ができた。
僕たちは一緒に絵を描いた、桜の木は花びらが消えて、緑の葉だけとなり、やがて力強い幹と荒ら荒らしく四方八方に延びるこげ茶色の枝が残った。太い幹は次の春に満開の花を咲き誇るためのエネルギーを着々と確実に大地から貪欲に吸い取り、その太い幹の中に蓄えているように見えた。太い幹を冷たい雪が覆う頃、僕たちは公園の近くのカフェに入り、鉛筆でスケッチし、僕のアパートに帰って、色を添えた。僕たちは楽しかった。
そして、僕と鳴海さんが付き合い始めて、桜の木が、大地から蓄えたエネルギーを青空に向けて一気に解放する二回目の季節が近づいていた。
僕は卒業を間近に控えていたが、まだ就職先を決めていなかった。鳴海さんと離れたくないという理由で、この場所での就職にこだわっていた。鳴海さんはあと二年間勉強し、国家資格を取って、卒業後はこの地で薬剤師の職に着くのを目指していた。母を残してここを離れたくなかったのだ。だから、僕はここでの就職にこだわった。
「わたしたち、別れましょう」
鳴海さんの口から突然の言葉が飛び出た。カフェの窓から早咲きの桜が見えた。
「どうして?」
「わたしのために就職先が決まらないのでしょ」
「そんなことない」
僕は否定したが、鳴海さんの目を見ることができない。鳴海さんがスケッチブックを手提げかばんから取り出した。
「わたし、この中に、田中君との楽しい思い出を記憶させた。だから、もう十分」
鳴海さんがスケッチブックのページを開いた。僕たちが初めて一緒に描いた桜の木だ。僕はそのときの、鳴海さんの筆をすべらせる細いしなやかな手の動きや、バケツに水を汲みに行ったときの光景を思い出した。頬に春の温かい風を感じた。
「わたし、田中君との思い出を大切にしたい。ちょっとぼーっとしているけどすごく優しい田中君が大好き。このままじゃ、田中君がダメになる。だから、わたしと別れて」
スケッチブックの桜の木が滲んで見えなくなってきた。僕の目からこぼれた涙がスケッチブックの桜の木に落ちた。
「わたし、帰る。さようなら」
僕はしばらくの間、カフェの窓から桜の木を眺めていた。それから僕は、就活に全力投球した。そして、大手医療機器メーカーへの就職が決まった。
卒業式の日、鳴海さんは僕の前に現れなかった。僕は、思い出の場所を去った。
春の陽気で空気がふわふわしていた。僕は母校の大学の医学部に納める医療機器の技術説明のため、エンジニアとして出張していた。就職して五年の間、僕はがむしゃらに努力して、若手の中では最優秀と噂されるまでになった。僕は仕事がひと段落したところで、医学部の隣の薬学部に通じる渡り廊下を歩いていた。前方から白衣を着たこちらに向かって歩いてくる女性がいた。廊下の中央を颯爽と歩いていた。僕はだれだかすぐにわかった。その女性も僕に気が付いたようだ。僕と女性は一度立ち止まった。そして、再び歩き出し、お互いに近づいていった。渡り廊下の真ん中で僕とその女性はもう一度立ち止まった。目の前で鳴海さんが笑顔で僕を見ていた。鳴海さんの目に光るものが見えた。
「田中君、ぼーっとしていたのに、シャンとしたね。そのスーツもめちゃかっこいいじゃん」
「そう? 鳴海さんも白衣がよく似合っているよ。ずいぶん大人の女性に変わったね。薬剤師になったんだね。おめでとう」
「うん。大学の中の薬局で働いているの。今日は、午後からお休み」
「僕は、医療機器の開発エンジニアだ。今日は医学部に医療機器の説明のために出張で来た。これからはメンテナンスで定期的にここに来ることになるよ」
「すごい。じゃ、これから何度も会えるの?」
「もちろん」
僕は大きく頷いた。その瞬間、鳴海さんが僕に飛びついてきた。
「やったー」
「今日の仕事は終わったんだ。これから、桜の木を見に行かない?」
「うんうん」
僕たちはあの思い出の公園に走って行った。
あの頃、二人で座ったベンチがまだそこにあった。僕と鳴海さんは並んで座った。目の前には満開の桜の木がどっしりと立っていた。子供がサッカーボールで遊んでいた。家族連れがシートを広げてお弁当を食べていた。バドミントンをする若い男女がいた。
「変わっていないね」
「うん。あのときのまんま」
「お母さんは元気?」
「元気だよ。友達とお芝居観に行ったり、旅行したり、めちゃくちゃ動き回ってる」
老夫婦が手を繋いでゆっくりと目の間を歩いていた。僕は、彼女の横顔を見た。
僕の視線を感じたのか、鳴海さんが僕の方に向いた。
「鳴海さん、もう一度付き合ってくれないか」
鳴海さんの目に光るものが見えた。
「あのとき、ごめんね。本気じゃなかった」
「わかっているよ。でも、鳴海さんが僕の目を覚ましてれくれた。だから僕は本気になれた」
「卒業式に行かなくてごめんね」
「いいよ。僕も、鳴海さんの卒業式に行かなかった」
「ねえ、このあと二人だけで卒業式しない?」
「うん。でも、その前に、返事を聞きたい」
「もう、離れないたくない」
「それが返事だね。わかった、もう離れない。ずっと一緒にいよう」
僕は、鳴海さんのやわらかな体をやさしく抱きしめた。
「じゃ、卒業式しようよ」
「どうやって?」
鳴海さんが桜の木を指さした。
「桜の木の前に行きましょう」
鳴海さんが僕の手を取り、桜の木の前まで歩いた。
「じゃ、わたしの方を向いて」
「はい」
僕は、鳴海さんの顔を見た。
「田中悟君、君は、よく頑張りました。わたしから卒業証書を授与します」
「じゃ、僕からも。鳴海紀香さん。あなたは、よく頑張りました」
二人は見つめあい、桜の木の前で口づけをした。
〈了〉
大学で二年生に向けた心理学の講義がもうすぐ始まる。黒板に近い席には僕と同じ学部に在籍する超イケメンの木下君が座った。きりりとしまったクールな口元、涼しげな目元、そしてすっと通る鼻筋の持ち主だ。テニスの腕前はプロ並みで、父親は大企業を一代で築いた実業家らしい。木下君は父親の会社を引き継ぐべく日々勉強に取り組んでいると言っていた。僕はいつものように教室の右側の一番上の席に座った。ドアに近く、居眠りしやすいから僕にとっての特等席だ。僕は木下君とは正反対のごく普通の顔をした大学生だ。スポーツが得意でもなく、父は普通のサラリーマン。将来の目標も考えず日々の生活を送っていた。心理学にそれ程興味はないが単位が取りやすいので選択した。心理学は人気の講義でとりわけ女子学生の受講者が多い。しかも心理学の大杉教授は老齢だが学内随一のジェントルマンと称されるため女子学生の人気も高かった。週に一回のこの講義は五十名くらいの学生がいた。その内、女子は八割くらいだ。今日もいつものように大勢の女子学生が教室に流れ込んで来た。そして、いつものように木下君を取り囲むように席が埋まっていく。木下君は右側の席に座っているため、教室の女子学生の座る位置が右側に偏っている。そして、左側は男子学生がまばらに座る配置となった。木下君の周りは女子学生たちに囲まれて人口密度が高い。その群れから追い出されたかわいそうなその他の男子学生は人口密度の薄い側に放りだされてしまう。きっと木下君は酸欠で息苦しいに違いない。あんなに涼しげで爽やかにふるまっているが、迷惑しているはずだ。僕はできるものなら代わってあげたいと木下君に心から同情した。講義が始まった。大杉教授が流麗な字を黒板に書いていた。大杉教授が今日の課題の説明を始めた。一枚の絵を僕たちに見せた。それは二人の男が会話している絵だ。一人はりっぱな口ひげをはやしスーツを着た大物政治家のような人物、そしてもう一人は、やせた狡猾そうな男だ。口ひげの男は大きな口を開けて高笑いをしていた。やせた男は、口ひげの男の耳元で、こそこそ耳打ちをしていた。そして細い目はこちらに向き、不敵な笑みを浮かべていた。
「想像力を働かせて、ストーリーを考えてみましょう」
大杉教授がにこやかに言った。
学生がノートにストーリーを書き始めた。僕の右斜め前の席に座る女の子もせっせと手を動かしていた。僕はまだ全然ストーリーが浮かばないのにあの子は何を書いているんだろう。想像力がすごいのだろう。僕は少し中腰になって椅子から腰を浮かせてその女の子のノートを覗き見た。彼女は鉛筆で絵を描いていた。手を動かしながら、たびたび黒板の方に首を向けていた。僕は彼女の首の向きに視線を流した。木下君の横顔が女子学生たちの隙間からちらりと見えた。僕はもう一度彼女のノートを見た。いや、それはノートではなく、スケッチブックだった。彼女が見ているのは黒板ではなくて、木下君の横顔だ。おそらく、彼女の座る場所から、木下君の横顔がはっきり、女子学生の群れの隙間をかき分けるように見えているのだ。彼女の描く木下君の横顔がスケッチブックに浮かび上がっていた。
「すごい!」
僕は小さく口に出してしまった。しまったと思ったが遅かった。彼女が僕の気配と声に反応して振り返った。僕は彼女と目があった。
「わ、可愛いい!」
僕は大声を出してしまった。
「君」、と呼ぶ声が聞こえた。
大杉教授の柔和なまなざしがこちらを見ていた。
「田中君、ストーリーは書けたのですか?」
大杉教授は学生の顔と名前も把握していた。僕は中腰のまま固まっていると、彼女は大杉教授からは気づかれないように、そっと自分のノートを僕の机の上に置いてくれた。そこにはストーリーが書いてあった。いつの間にと思いつつ、僕は彼女のノートに書いてある内容をそのまま声に出して読んだ。
口ひげの男、『おい、音声データはどうなった」
やせた男、『先方の言い値で買い取りました』
口ひげの男、『世間に漏れたらおれは終わりだ。証拠は残っていないだろうな』
やせた男、『安心してください。先方はもうこの世にはいません』
口ひげの男、『おぬしも悪じゃのう』
読み終わると大杉教授が一瞬、その表情が厳しくなったが、刹那、もとの柔和な顔に戻った。
「面白いですね。ありがとう。座りなさい。みなさん、あとでレポート提出してください」
僕は椅子に座り息を吐いた。助かった。両手の手のひらに汗をかいていた。大杉教授の言葉は優しいが、僕を見つめる目にはすごみがあった。僕はあらためて、ゆっくりと彼女のノートを見返した。そこにはきれいな字がノートに並んでいた。一字一字がとても丁寧に、そしてバランスよく書かれていた。この子、きっと頭いいだろうな。僕は彼女にとても興味がわいた。それに、あのスケッチブックの絵も気になる。僕は彼女のノートに視線を落としたまま彼女のことを考えていた。すると、静かに彼女の声がした。首をあげると彼女が振り向いて僕の顔を覗き込んでいた。
「ごめん、急いで書いたから」
呟くように優しく、語尾に気持ちの良い余韻が響くような声だ。もっともっと彼女の声を聴きたいと思うような声だった。僕は心の声が彼女に聞かれたようで恥ずかしくなりあせって言葉が出なかった。謝らないといけないのは僕の方だ。勝手に彼女のスケッチブックを見て、大きな声を出して、挙句、彼女にノートを見せてもらった。ストーリーがいいとか、悪いとかの話じゃなくて、初対面の僕にノートを見せてくれたことに対してきちんとお礼を言わないといけない。もし、僕のあとに、大杉教授が彼女を当てたら彼女は答えられなかったはずだ。彼女はそんなリスクを承知で僕にノートを見せてくれたのだ。だめだ、彼女が黙ってしまった。心配そうな顔で僕を見ている。何か言わないといけないがうまい言葉が見つからない。僕は黙ったまま、ノートを彼女に返した。彼女は不思議そうな顔をして、そのまま前を向いてしまった。もう振り向いてくれることはないだろう。彼女はきっとぼくのことを変なやつと思ったに違いない。僕はもう一度彼女に声を掛けようと思った。だが、できなかった。僕は、彼女の背中を静かに見つめ続けた。セミロングのきれいな黒髪が、撫でるように肩に掛かっていた。時折、髪の間から、すっきりした顎の線と口角が少し上がって、微笑んだような口元が覗けて見えた。彼女のすっと伸びた背中が芯の強さを漂わせていた。僕は授業が終わるまで彼女の背中を見つめ続けた。何度も、もう一度振り向いてほしいと思いながら見つめた。だがそれは叶わなかった。授業が終わると彼女は、僕の方に振り向くことなく教室を出て行った。僕は彼女が教室のドアを出るまで目で追った。
翌週、僕は講義の始まる二十分前に階段教室の右側最後列のいつもの席に座った。広い室内には僕だけだった。こんなに早く席に着いたのは入学以来初めてだった。僕は外の喧騒から隔離されたかのような静寂の空間に身を置いた。今まで感じたことのない感覚だった。そして僕は席に座ると一瞬だがこの空間を支配している傲慢な感覚を覚えた。続けて無謀な欲望が湧いてきた僕は、彼女とこの静寂の宇宙のような空間を二人だけで共有する妄想に囚われた。僕だけのこの宇宙に迷い込んだ天使のような彼女は僕の後ろの席に腰かけた。そして、彼女の細いしなやかな親指と人差し指、そしてその先に延びるピンク色のつややかな爪に軽く優しくつまむように拾い上げられた細い鉛筆が真っ白な雪のようなスケッチブックの上に、彼女に意思に従って鉛筆の黒鉛の微粒子を規則正しく削り出しながら重ねていった。その無機質な黒鉛の微粒子は彼女の意のままに、幾重もの線となり一つの形を形成していった。誰かの横顔の輪郭を形作った。そして、眉毛、目、鼻、口が描かれていった。そして最後に、目に光を入れた。その横顔は僕だった。だが、僕の甘美な妄想の世界は一瞬で破壊された。学生たちが外の喧騒を教室の中に連れて来た。僕は教室のドアに学生が現れるたびに視線を向けた。彼女によく似た髪型、背格好の女の子が教室に入って来た。じっと視線をその女の子に向けたが彼女ではなかった。何度も同じことを繰り返したあと、いつものように女子学生で埋められた教室に大杉教授が現れ、厳かに講義が始まった。僕は腰を少し浮かせた状態で、大杉教授の立つ位置から、首を左右にジグザグに最後尾までゆっくりと動かして彼女の姿を探したが見つからなかった。そして、次の週も、彼女の姿は現れなかった。僕の彼女への思いが抑えがたくなってきていた。その真夜中、僕はアパートで寝ていると、夢に彼女が現れた。彼女の顔が僕の頭の中にはっきりと浮かんだ。僕は目が覚めた。どうしたらいいのだ。僕が夢で見た彼女の顔を今すぐ形にしなければいけない。僕は強烈な意思に従った。僕は机に置いてあったノートと鉛筆を手にとった。彼女の顔を形に表し始めた。人の顔を描く行為など、小学校のときに父親の顔をクレヨンで描いたのを最後にやったことがない。僕は何度も何度もひたすら描いた。頭の中では彼女の顔がはっきりと浮かんでいるが、それをうまくノートの上に表現できない。何枚も何枚も描き続けた。顔の輪郭、頬の形、目や眉毛、鼻、口の位置、形、大きさ、それぞれがほんの一ミリ、いやそれより小さくわずかにずれれば、顔の印象ががらりと変わることがよくわかった。気が付いたら朝になっていた。そしてとうとう、一枚のノートの上に、稚拙ながらも、微笑む彼女の顔がそこに描き出された。繰り返し描いていく中で、僕の持つ彼女の顔の印象と一致する絵が突然現れたのだ。僕は奇跡と思った。
その日、僕はその奇跡の絵を数人の友達に見せた。しばらくすると思いがけない知らせが入った。大学の近くのパン屋で働く女の子が、その絵によく似ていると友達が教えてくれたのだ。僕はさっそくそのパン屋に出かけた。おしゃれなパン屋だった。店内には数人の若い女の子がトングを持ってお気に入りのパンをトレーに乗せていた。彼女を探す。すぐにわかった。白のエプロンと帽子がよく似合っていた。笑顔でお客さんの対応をしていた。僕は基本的にこういう若い女の子のお客さんが多い店に入るのが苦手だ。友達からは自意識過剰だとからかわれるが苦手なものはしょうがない。だから、大学の直ぐ近くにあるにも関わらず、一度も訪れたことがなかった。今日は勇気を振り絞って店内に入った。僕は前を歩く女の子の真似をしてトレーとトングを取って、パンを探すふりをした。僕は最初に目に入った小さなパンを一つだけトングでつまみトレーに乗せて彼女のいるお会計に向かった。トレーを持つ手が震えるのがわかった。覚えていてくれているだろうか。いや、変なやつとか、ストーカーとか思われないだろうか、僕は今にもパンを元の場所に戻して店を出て行こうかと考えた。僕の前の人の会計がもうすぐ終わりそうだ。僕は覚悟を決めた。僕の会計の順番がきた。彼女が笑顔を僕に向けた。僕は思い切って彼女の顔をしっかりと見た。
「あの、こんにちは」
「あ! あのときの」
彼女は僕を覚えていてくれた。
「ノートありがとう」
「どういたしまして」
彼女がにこにこしながら返事した。
「あとでまたここにきてもいい?」
僕は小さな声で彼女に尋ねた。
「バイトもうすぐ終わるから、ちょっと待っていてくれる?」
「うん」
僕はそっけなく返事をした。そして、直ぐに店を出た。いや、正確に言うと、僕は彼女にパンの代金を払い、トレーに乗せたパンをトングでビニール袋に入れて、トングとトレーを決められた場所に戻して、それからお店を出たはずだが、その間の記憶が完全に吹き飛んでいた。僕は店から出て、パンを持っていないことに気づいた。慌てて店に戻ると、彼女がにこにこしながらどこかを指さしていた。僕は彼女が指さす方向を見ると、トレー返却口の上に、ビニール袋に入ったパンが乗っていた。僕はそれをなにごともなかったように取り、再び店を出た。僕は顔が熱くなっていた。彼女はすぐにやって来た。
「お待たせ。そこの公園でパン食べない?」
僕と彼女は店の前の公園のベンチに並んで座った。
「わたし、薬学部二年の鳴海紀香です。バイト帰りにここでいつも休憩しているんです。付き合わせちゃったけど、よかった?」
「僕こそ、バイト先に急に来たりして。ごめん」
「今日は何?」
「あのときのノートのお礼をいいたくて」
「なんだ。いいよ、そんなわざわざ。あなた田中君でしょ。工学部だっけ?」
彼女は僕の名前を憶えていてくれた。
「工学部二年の田中悟です。愛媛県から出てきて、大学の近くのアパートで下宿してます」
「愛媛県か。高校の修学旅行でいったことあるよ。いいところね。わたしはここが地元。大杉教授が田中君の名前を言ったからドキドキしていたの。あの講義は工学部と教育学部の学生が対象でしょ。大杉教授は学生の名前知っていたから。当てられたらどうしようかと」
「どうして大杉教授の講義受けていたの?」
「あのイケメンの男の子を見に行っていたの。木下君だっけ。友達が木下君のファンなの。無理やり誘われて、ついでにスケッチしてくれって、頼まれたから」
鳴海さんはパンを手提げかばんから取り出した。
「お店の失敗作。店長が分けてくれたの」
鳴海さんは形の崩れたメロンパンを食べ始めた。
「桜の花満開だね」
鳴海さんは公園の真ん中にある大きな桜の木を見ながら、手提げかばんからスケッチブックを取り出した。
「絵が好きなんですか?」
「うん。絵を描く時って、よく観察しなくちゃ描けないでしょ。桜の花をじっくり見たことある? 一枚の花びらってピンク一色じゃなくて、花びらの先の方に行くほどピンク色が淡くなって、先端は透明な白に変化している。よーく観察して、理解して、絵を描くの。そしたら描いた時の記憶が残るでしょ。田中君は?」
「僕は、この前久しぶりに描きました」
「何描いたの?」
僕はショルダーバッグからノートを取り出した。
「ごめん、へたで。記憶を頼りに描いたんだ。友達に見せたら、パン屋さんで働いていることが分かったから」
「へー。だからわたしがここでバイトしてるのわかったんだ」
「ごめん、ストーカーみたいだ」
「いいよ。ありがとう。丁寧に描いてくれて。自分の顔を見るのってなんか恥ずかしいね。田中君記憶力すごいし、すごく上手。才能あるかも」
「才能なんてないです。僕、何枚も何枚も描いてやっと、この一枚が描けたんです」
「田中君わたしと一緒に桜の木描かない?」
思いもよらない言葉だった。僕はすぐに大きく頷いた。
「じゃ、今日はわたしが描くのを見てて。鉛筆で下書きはしたから、色を塗るの」
鳴海さんは水彩画の道具を手提げカバンから出して準備を始めた。小さなバケツを持って公園の水飲み場に水を汲みに行った。僕は鳴海さんの背中を目で追った。小さなバケツを右手に持って、小走りで水飲み場に向かう姿は、まるで小さな子供が無邪気に遊んでいるように見えた。水道の蛇口をひねってバケツに水を入れ始めた。すると足もとにサッカーボールが転がって来た。すぐにボールを追いかけて小さな男の子が鳴海さんに走り寄ってきた。鳴海さんは男の子の方を振り向くと、ぎごちない恰好でボールをその子に蹴り返した。男の子がお辞儀して戻っていった。鳴海さんは男の子に向かって手を振ってバイバイしていた。水を入れたバケツを持って再び小走りでにこにこしながら僕の方に戻ってきた。すると、急に立ち止まって右に体を向けた。その向いた先には紺のブレザーを着た数人の男の子たちがいた。その内の一人が鳴海さんに近づいて何やら話をしていた。すると、鳴海さんは横一列に並んだ男の子たちの真ん中に立った。男の子の一人が桜の木をバックに写真を撮った。それが終わると鳴海さんは再び僕の方に戻ってきた。
「どうしたの? あの男の子たち」
「高校生。大学の見学に来たんだって。一緒に写真に入ってほしいって頼まれたの」
「ふーん」
「わたし、子供っぽいから。よく高校生に間違われて」
なんかわかる気がした。でもモヤモヤする。鳴海さんと一緒に写真を撮るとは、高校生の分際で許せない。そんな子供じみたことをしばらくぼーっと考えていた。すると、水の入ったバケツと、白いパレットが僕たちの間に置かれた。パレットはその端に並ぶ小さな仕切りの中に、それぞれ、あらかじめ数色の絵の具が青、緑、黄、赤の順でわかりやすくチューブから絞り出されていた。開かれたスケッチブックのページには鉛筆で桜の木がスケッチされていた。桜の花びらが春風に舞う中、僕は公園のベンチに鳴海さんと並んで座っていた。これは夢か? 僕は、鳴海さんのすべるような顎の形の横顔を見た。そして、視線をしなやかな指先に移した。鳴海さんの指にやさしく包まれた筆は、その毛先で小さなバケツからたっぷりと水を吸い上げると、それをスケッチブックになめらかにすばやく広げた。そして今度はパレットに溶いた青い絵の具を吸い、スケッチブックの上に置くとなめらかに広げ始めた。青はスケッチブックにあらかじめ広げられた水と混じりあいながらきれいなグラデーションを描いて春の空をスケッチブックの上に写しだした。すると今度は、筆はバケツの水で毛先をきれいにすると、すかさずパレットから紫の絵の具を吸い、ぴょんぴょんウサギが跳ねるように淡い紫をスケッチブックの上に置いて、広げていった。スケッチブックの上には鮮やかな桜の木が表現された。僕はまるで手品を見ているのかと思った。
「桜の花一枚は、ピンクのグラデーションでしょ。でも桜の木はピンクで描くとね、うまくいかないの。友達に見せたら、『紅葉?』なんて言われてね」
「不思議だね」
僕たちは、スケッチブックの桜の木と、実物の桜の木を交互に見ながらベンチで座っていた。
「じゃ、次は田中君が描いてみてよ」
「え、いきなり?」
「明日のお昼、時間とれる?」
「えーと。僕は大丈夫」
「じゃ、あした、ここで、十一時集合でいい?」
「うん」
「水彩画の道具はわたしの使っていいから、手ぶらで来てね」
次の日、僕と鳴海さんは、公園のベンチに並んで座った。僕は鳴海さんに教わりながら、鉛筆で下書きをして、色を着けた。
「どうかなあ?」
「田中君、才能あるよ」
「でも、鳴海さんが教えてくれたから」
「大丈夫。田中君。自信持って! じゃ、お弁当たべよう」
鳴海さんは手提げかばんから、二つランチボックスを取り出した。ランチボックスにはかわいいねずみのキャラクターがプリントされてあった。ランチボックスを開けると、おにぎり二個とウインナー、きざみ紅しょうが入り卵焼き、ゴボウと人参のきんぴら、エビのベーコン巻き、ミニトマトとレタスが入っていた。僕と鳴海さんの間にランチボックスを置いて、桜の木を見ながらおにぎりを食べた。おにぎりの中身はおかかと鮭だった。鳴海さんが水筒から温かいお茶をコップに入れてくれた。桜の木の下で親子連れがシートを広げてお弁当を食べていた。
「わたしの両親も、わたしが小学生のときに、よく桜を見に連れて行ってくれたの」
鳴海さんが親子連れを見ながら話した。
「懐かしい思い出でですね」
「父も絵を描くのが好きだった。桜を見に行った時には、必ず絵を描いてた」
「それで、鳴海さんも絵が好きなんだ」
「でも、わたし、子供の時はいやだった。他の親はみんな写真を撮ってたのに、わたしの父は絵を描いて。その間、ずっと見て、待ってなくちゃいけないでしょ」
「うん、そうだね」
「父に聞いたの。なんでうちの家は絵を描くのって。そしたら、絵の方が記憶に残るからって言っていたの」
「お父さんは今も絵を描いているの?」
「亡くなったの。わたしが中学生になったときに。ガンで。中学一年生に家族で桜を見にいったのが最後になったの。母が働いてわたしの学費出してくれて」
「ごめん、思い出させてしまった」
「でもね、その時も父は絵を描いていた。わたしと母と桜の木。父の絵をみるとあのときの父の顔、母の顔、桜の木の色や形、風の匂いや、空の色も思い出すの」
「お父さんはとってもいい思い出を家族に残してくれたんだ。いいお父さんだ」
「うん」
「あの、今日はありがとう。おにぎりおいしかった。おかずも。卵焼きおいしかった。エビのベーコン巻きも、久しぶりにちゃんとしたもの食べた」
「ただのおにぎりやん」
鳴海さんが照れた。
「桜の花も今日で終わりかな。明日は雨風が強いって、天気予報言ってた」
鳴海さんが空を見上げた。その横顔を見て僕は言った。
「あの鳴海さん」
「なに?」
鳴海さんが僕の顔を見た。
「僕と付き合ってもらえる?」
僕は唐突に鳴海さんに告白してしまった。鳴海さんはじっと僕の顔を見ていた。
「うん」
鳴海さんが小さく頷いた。
僕は大学生二年生の春に生まれて初めて彼女ができた。
僕たちは一緒に絵を描いた、桜の木は花びらが消えて、緑の葉だけとなり、やがて力強い幹と荒ら荒らしく四方八方に延びるこげ茶色の枝が残った。太い幹は次の春に満開の花を咲き誇るためのエネルギーを着々と確実に大地から貪欲に吸い取り、その太い幹の中に蓄えているように見えた。太い幹を冷たい雪が覆う頃、僕たちは公園の近くのカフェに入り、鉛筆でスケッチし、僕のアパートに帰って、色を添えた。僕たちは楽しかった。
そして、僕と鳴海さんが付き合い始めて、桜の木が、大地から蓄えたエネルギーを青空に向けて一気に解放する二回目の季節が近づいていた。
僕は卒業を間近に控えていたが、まだ就職先を決めていなかった。鳴海さんと離れたくないという理由で、この場所での就職にこだわっていた。鳴海さんはあと二年間勉強し、国家資格を取って、卒業後はこの地で薬剤師の職に着くのを目指していた。母を残してここを離れたくなかったのだ。だから、僕はここでの就職にこだわった。
「わたしたち、別れましょう」
鳴海さんの口から突然の言葉が飛び出た。カフェの窓から早咲きの桜が見えた。
「どうして?」
「わたしのために就職先が決まらないのでしょ」
「そんなことない」
僕は否定したが、鳴海さんの目を見ることができない。鳴海さんがスケッチブックを手提げかばんから取り出した。
「わたし、この中に、田中君との楽しい思い出を記憶させた。だから、もう十分」
鳴海さんがスケッチブックのページを開いた。僕たちが初めて一緒に描いた桜の木だ。僕はそのときの、鳴海さんの筆をすべらせる細いしなやかな手の動きや、バケツに水を汲みに行ったときの光景を思い出した。頬に春の温かい風を感じた。
「わたし、田中君との思い出を大切にしたい。ちょっとぼーっとしているけどすごく優しい田中君が大好き。このままじゃ、田中君がダメになる。だから、わたしと別れて」
スケッチブックの桜の木が滲んで見えなくなってきた。僕の目からこぼれた涙がスケッチブックの桜の木に落ちた。
「わたし、帰る。さようなら」
僕はしばらくの間、カフェの窓から桜の木を眺めていた。それから僕は、就活に全力投球した。そして、大手医療機器メーカーへの就職が決まった。
卒業式の日、鳴海さんは僕の前に現れなかった。僕は、思い出の場所を去った。
春の陽気で空気がふわふわしていた。僕は母校の大学の医学部に納める医療機器の技術説明のため、エンジニアとして出張していた。就職して五年の間、僕はがむしゃらに努力して、若手の中では最優秀と噂されるまでになった。僕は仕事がひと段落したところで、医学部の隣の薬学部に通じる渡り廊下を歩いていた。前方から白衣を着たこちらに向かって歩いてくる女性がいた。廊下の中央を颯爽と歩いていた。僕はだれだかすぐにわかった。その女性も僕に気が付いたようだ。僕と女性は一度立ち止まった。そして、再び歩き出し、お互いに近づいていった。渡り廊下の真ん中で僕とその女性はもう一度立ち止まった。目の前で鳴海さんが笑顔で僕を見ていた。鳴海さんの目に光るものが見えた。
「田中君、ぼーっとしていたのに、シャンとしたね。そのスーツもめちゃかっこいいじゃん」
「そう? 鳴海さんも白衣がよく似合っているよ。ずいぶん大人の女性に変わったね。薬剤師になったんだね。おめでとう」
「うん。大学の中の薬局で働いているの。今日は、午後からお休み」
「僕は、医療機器の開発エンジニアだ。今日は医学部に医療機器の説明のために出張で来た。これからはメンテナンスで定期的にここに来ることになるよ」
「すごい。じゃ、これから何度も会えるの?」
「もちろん」
僕は大きく頷いた。その瞬間、鳴海さんが僕に飛びついてきた。
「やったー」
「今日の仕事は終わったんだ。これから、桜の木を見に行かない?」
「うんうん」
僕たちはあの思い出の公園に走って行った。
あの頃、二人で座ったベンチがまだそこにあった。僕と鳴海さんは並んで座った。目の前には満開の桜の木がどっしりと立っていた。子供がサッカーボールで遊んでいた。家族連れがシートを広げてお弁当を食べていた。バドミントンをする若い男女がいた。
「変わっていないね」
「うん。あのときのまんま」
「お母さんは元気?」
「元気だよ。友達とお芝居観に行ったり、旅行したり、めちゃくちゃ動き回ってる」
老夫婦が手を繋いでゆっくりと目の間を歩いていた。僕は、彼女の横顔を見た。
僕の視線を感じたのか、鳴海さんが僕の方に向いた。
「鳴海さん、もう一度付き合ってくれないか」
鳴海さんの目に光るものが見えた。
「あのとき、ごめんね。本気じゃなかった」
「わかっているよ。でも、鳴海さんが僕の目を覚ましてれくれた。だから僕は本気になれた」
「卒業式に行かなくてごめんね」
「いいよ。僕も、鳴海さんの卒業式に行かなかった」
「ねえ、このあと二人だけで卒業式しない?」
「うん。でも、その前に、返事を聞きたい」
「もう、離れないたくない」
「それが返事だね。わかった、もう離れない。ずっと一緒にいよう」
僕は、鳴海さんのやわらかな体をやさしく抱きしめた。
「じゃ、卒業式しようよ」
「どうやって?」
鳴海さんが桜の木を指さした。
「桜の木の前に行きましょう」
鳴海さんが僕の手を取り、桜の木の前まで歩いた。
「じゃ、わたしの方を向いて」
「はい」
僕は、鳴海さんの顔を見た。
「田中悟君、君は、よく頑張りました。わたしから卒業証書を授与します」
「じゃ、僕からも。鳴海紀香さん。あなたは、よく頑張りました」
二人は見つめあい、桜の木の前で口づけをした。
〈了〉