・・・
 私が百鬼軍の逗留地に着いた瞬間、妖怪達の間で動揺が走った。
 声を潜めて、近くの者達で言葉を交している様だけれど。そうしている数が多すぎて、潜められた声が一つの束になり、ガヤガヤと大きな騒ぎとなっていた。
「天影様、その女は・・」
 と、恐る恐る声をかけて、仲間の間に走る動揺を収めようとした妖怪もいたけれど。
「この女性は私の物だよ。だから、手出しは無用。それを反した者は私が殺すから、よく覚えておく様に」
 天影様の艶然とした忠告が、余計に騒ぎを大きくさせた。
 けれど、それはもう私への驚きではない。彼の忠告の恐怖や、頭目はどう思うのだろうと不穏に怯える声になっていた。
 いとも容易く騒ぎを別のものに塗り替えた姿を見てしまうと、やはり柔らかな雰囲気を纏っている天影様も頭目の鬼と並んで恐ろしい鬼なのだと痛感してしまう。
 先を歩く彼の背にじわりと冷たい恐怖を覚えた、その時だった。
「天影!」
 大地がゴゴゴッと揺れる程の怒声が飛び、辺りの妖怪達がその場でひいっと身を竦ませる。
 人間に恐怖を抱かれる存在達が、須く怯えだす。
 こんな事が起きる原因は一つしかない・・。
 私がゴクリと固唾を飲み込んだ刹那、私達の前の群れが綺麗に二つに割れた。
 そしてぱっかりと空き、邪魔が何一つない一本道を通ってきたのは・・頭目の鬼だった。彼が歩む度に大地が揺れ、彼の纏う激怒が辺りの空気を震え上がらせている。
「俺の前にその女を連れてくるとは、どういうつもりだ!」
 天影様に凄まじい激怒をぶつけると、「紫苑、貴様も面を見せるなと言ったはずだ!」と私にも容赦なく牙を向けた。
 あまりの激怒に臆しそうになるけれど。私は負けじと己を奮い立たせて「あの」と言葉を発した。
 けれど、私の勇気は紡がれる事はなかった。
「いばな。話も聞かず、頭ごなしに怒鳴るのは良くないよ」
 天影様がサッと私と頭目の鬼の間に立ち、窘める様に告げる。
 すると「ふざけるなよ、天影!」と、目の前の怒りが更に燃え上がった。
「何を企んでいるかは知らねぇが、俺に殺される覚悟あっての事だろうなぁ?!」
 怒髪天を衝いた彼が天影様の胸ぐらを強く掴み上げ、喚き散らすが。天影様は「企むだなんて言わないでくれるかい」と、相も変わらず飄々と言葉を発した。
「私は何も企んでいないよ。散歩していたら、偶然、愛らしい迷い子を見つけてね。迷い子の行き先を尋ねたら偶然ここだったから、案内しただけの事だよ。だから君にそう怒鳴られる筋合いはないはずだけれどね」
 彼は目の前の怒りを歯牙にもかけず朗らかに告げると、チラと私を肩越しに一瞥する。
「いばな、彼女は君に話があるらしいのだよ。わざわざ危険な山道を歩いて、私達の元まで来たのだから、聞いてやっても良いんじゃないかい?」
 頭目の鬼は天影様の言葉に「話だと?」と眉根を顰めてから、私をギロリと射抜き「あぁ、俺に殺されに来たって話か?」と、意地悪く口角を上げた。
「面を見せるなと言われておきながら、のこのこ俺の目の前に現れたんだ。そう言う事だろ?」
 フッと禍々しい冷笑を零される。
 その瞬間、私の中でボンッと生まれる音がした。
 こちらの言い分も聞かずに、勝手な事ばかり言って、勝手な事ばかりを結びつけて、勝手に話を完結させる鬼に対しての「怒り」が。
「のこのこ死にに来れば、俺の恨み辛みが消えるとでも思ったか?それとも五百年越しの贖罪のつもりか?紫苑、お前の頭がそんなにもめでたいとは思わなかったぞ」
「違う!」
 私は天影様の背からずいと飛び出し、頭目の鬼をギロリと射抜いた。
「言わせておけば、勝手な事ばかりを滔々と並べて!話も聞かずに決めつけて、怒鳴るなんて傲慢が過ぎるわ!」
 怒声を張り上げ返すと、それぞれ違った反応が耳に入る。
 頭目の鬼は「は?」と呆気に取られ、天影様はクスッと小さく笑みを零し、辺りの妖怪達は「頭になんて事を・・」と戦いた。
 けれど、私は、どの反応にも言葉を返さずに続ける。
「頭目ならば、客人や使者がくれば丁重に対応すべきでしょう!?それにも関わらず、話も聞かず一方的に怒鳴りつけ、挙げ句殺そうとするなんて、頭目の器が知れるわね!」
 語気を荒げて告げると、頭目の鬼はパッと天影様の胸ぐらから手を離して、肩を怒らせながら私の前に立った。
「じゃあ何しに来たってんだよ!」
 ずいと憤怒の顔を近づけられながら怒鳴られるが。こちらも負けじと「昨日遮られた礼を述べに来たつもりだったのよ!」と、怒りを剥き出しにして答えた。
「私の命を救って下さりありがとうございましたと言うつもりでしたが!傲岸不遜で、狭量で、未だに私を別の女性と間違えて聞かない貴方なんぞに、わざわざ礼なんかを述べに来た私が阿呆でした!」
「ぶち殺されてぇのか!」
 目の前の怒りが格段に引き上げられ、バチバチッと怒りの火花が迸る。大地がその怒りに共鳴する様に、ゴゴゴッと唸った。
 ふん。そんな風に怒鳴った所で、やはり愚かなほど狭量だって言うのが、よぅく分かるだけじゃない。
 眼前で凄まじい怒りをぶつけられているにも関わらず、私は平然としていた。いや、頭に血が昇りすぎているからバチバチと張り合っていた、と言う方が正しいかもしれない。
 険悪な雰囲気が深まり続ける一方だったが。「そこまでにしようか」と、艶やかな声が間に割って入った。
「喧嘩をさせる為に君達を会わせたつもりはないよ。それに私はね、喧嘩を見るのが堪らなく嫌なんだ。だからもうそこまでにしてくれるね?」
 天影様がニコリと私達二人を優しく諫める。
 その柔らかな声に、私はハッと我に帰り、沸騰していた血がしゅーっと鎮まっていった。
「も、申し訳ありませぬ」
 我を失い、声を荒げていた醜さに恥じ入りながら答える。
 頭目の鬼はと言うと、チッと大きく舌を打ってから苦々しげに天影様を見据えた。
「これだからお前は嫌いなんだ」
 唾棄する様に告げられた言葉に、天影様は「褒め言葉として受け取っておこうかな」と柔らかく相好を崩す。
 その笑みに、頭目の鬼はチッと大きく舌を打ってから、私をギロリと睨めつけた。
「さっさと去れ、お前の面は二度と見たくない。二度と、だ!」
 ふんっと鼻息を荒く零してから、くるりと背を向ける。
 私はその背に向かって「貴方が見たくないのは紫苑と言う女性でしょう」と、淡々と言った。
 私が紫苑とその名を口にした瞬間、彼の足が止まる。
 そしてバチッバチッと小さな火花を迸らせながら、彼はゆっくりと振り返った。
 私はその眼差しを受け止め、そしてまっすぐ射抜き返す。
「私、ではありませんでしょう。なのに、何故貴方は私を嫌煙なさるのですか」
「お前が紫苑だからだ」
 頭目の鬼はピシャリと唾棄した。その声に、激しい怒りと憎悪を宿らせながら。
「その面と言い、その声と言い、紫苑ではないと言う方が愚かだ」
 ・・愚か。愚か、ね。
 天影様によって鎮められた心中に、ボッとひとりでに火があがる。
 私はフッと冷笑を浮かべて、激情に燃える彼とまっすぐ対峙した。
「己が紫苑ではないとよく分かっている私からしてみれば、貴方の方が愚かだと思いますけれども」
「なんだと?」
 彼の目が吊り上がり、燃える様な赤毛と同じ色の炎が背後にゴウッと現れる。
 より一層険悪になる空気、迸り始める憎々しい殺気。
 けれども、私の態度は何一つとして変わらなかった。
「違うと主張する方が愚かなのではありませぬ。己の過ちを認めず、他に咎をなすりつけようとする方が愚かだと言うのは、昔から決まっているではありませんか」
 冷笑混じりの言葉に、目の前の怒りが格段に引き上げられるが。「いばな」と、鎮める声が爆発寸前の怒りを制止した。
 そうして「少し煽りすぎですよ」と私を優しく窘めてから、天影様は険悪がぶつかる狭間に立つ。
「売り言葉に買い言葉では、一向に話が正しい方向へ向きませんよ。ですから、もう少し互いに冷静になって」
「阿呆ぬかせ!心底憎い相手を前に冷静になれるか!」
 天影様の柔らかい諫言にがぶりと容赦なく噛みつき、猛々しく怒る頭目の鬼。
 その激怒に、私の炎もボッと燃え上がり「だからその牙を向ける相手が違います!」と、怒髪天を衝いて返す。
「向けるべきは、私ではありませんでしょう!」
「いいや、お前だ!」
「だから・・!幾度違うと申しあげれば、貴方の気が済むのですか!」
「俺が納得する違いの一つでも見せてから、そうほざきやがれ!」
 白熱した競り合いが展開されるが。この売り言葉を契機に、話の流れが別の方へ飛んでいった。
「それで気が済むのであれば、違いなぞ幾らでも見せてさしあげますが!」
「では、見せてみろ!俺が納得する違いをな!」
「えぇ、えぇ!よろしいですとも!ですが、一体何をすれば納得する違いとやらになるのです?!」
 怒り心頭のまま尋ねると、目の前の怒りがシュウウと小さくなっていく。そして別の恐ろしい感情に、デンと取って代わられた。
 彼の口角がニヤリと上がり、目も禍々しくニタリと細められる。
 その悍ましい表情で、私の怒りもシュウウと小さくなり、ヒヤリと冷たい「後悔」に変わり始めた。
 否が応でも考えついてしまう。最悪な条件を出されるのだろう、と。
 考えたくもない最悪の条件が浮かんだ頭の中で刹那、目の前から条件が告げられる。
「そこから身を投げてみせろ。さすれば認めよう、お前が別の女であると」
 彼の指がビシッと後ろの崖を指した。
 ・・あんな崖から身投げをすれば、間違い無く私は絶命してしまう。
 断崖絶壁で、ゴツゴツとした岩肌が剥き出しになっているし、下で待ち構えているのは轟々と唸る激流の川。その中には、崖から崩れ落ちた岩石や大きな流木が含まれている。
 そう。だから崖から身を投げた時も、飛び込んだ後にも死がピタリと付き纏っているのだ。運が良ければ助かるけれど、その可能性は万に一つと言った所・・。
 私は売り言葉を買ってしまった後悔を奥歯で噛み潰し、じわじわと蠢く死をギュッと堅く作る拳の中で握り潰す。
 こう言ってしまった以上、もう後戻りは出来ない。やるしかないのよ。
 私は提示された死の条件にゴクリと唾を飲み込む。
「いばな、そんな事をさせる必要はないだろう」
 天影様が声を強めて、彼を厳しく窘めたが。「黙れ」とにべもない言葉が、その先を潰す。
「コイツが納得する条件を出せと言ってきたのだぞ。俺はその求めに応じ、条件を出しただけの事だ」
 頭目の鬼は冷淡に告げると、ニタリと意地悪い笑みをこちらに向けた。
「何は駄目だとも言われなかったからな。どちらにとっても一番手っ取り早い方法を提示したのだぞ」
 明らかな挑発、私は鬼を睨めつけながらぎりりと強く歯がみする。
 その姿に、頭目の鬼は更にニヤリとし「どうした?」とわざとらしく言った。
「今更、出来ぬと申すか?紫苑」
 心底意地の悪い企みに、蒼然と小さく収まっていた自分がバキバキと破られる。
 私はふうと小さく息を吐き出してから、意地悪い挑発をまっすぐ受け止めた。
「いいえ、分かりました。そこから身投げすればよろしいのですね」
 毅然と告げると、その言葉に目の前の鬼は少し呆気に取られるが。軽く頭を振り、ふんと荒い鼻息を吐き出してから「そうだが」と威勢を取り戻した。
「虚勢を張った所でどうせ出来ぬだろう」
「さぁ、どうでしょう」
 ふふんと挑発的な笑みに冷笑を返してから、私はくるりと振り返り、ダッと崖の方に駆け出す。
 後ろから「お辞めなさい!」と叫び、止めにかかる天影様も、恐怖も、涙も、何もかも、走る勢いに乗せて振り払った。
 そうして力強くダンッと大地を踏むと、あっという間に身体は虚空に飛び出していた。
 まるで空を羽ばたく鳥になったと錯覚してしまうけれど。そんな思いは、一瞬の出来事。
 すぐにガクンッと身体が下に引っ張られ、ひゅううっと耳元で風を切る音がする。
 そうかと思えば、ゴウッと強く突き上げる風によって、身体がくるりと反転した。足先から落ちていたはずなのに、くるりくるりと玩具の様に弄ばれながら落下していく。
 あぁ、川の音が近づいてくるわ。
 飛び込んだ先、私は生きていられるかしら。波に飲まれる事もなく、どうにか命を繋ぎ止められるかしら。私の運は万に一つを引き当てられるのかしら。
 心に言葉が滔々と並ぶけれど。不思議と、どれもこれもまるで他人事の様だった。とても自分の命の危機に瀕しているとは思えない。
 嗚呼、そうか。と、嘆きとも呆れとも呼べる呟きが吐き出された。
 きっともう命が命を諦めているから、よね。
 フフとやりきれない微笑が零れた、その時だった。
 突然、力強い何かに横からドンッとぶつかられ、下がる一方だったはずの身体がガクンガクンッと乱暴に上がっていく感覚がする。
 それに、何の縛りもなかった身体が突然キュッと力強く縮こめられているし、虚空にぶらぶらと留まっている様な感じもする。
 一体、何が起こっているの・・?!
 突飛な出来事に困惑してしまうけれど。右の耳から聞こえるドクンッドクンッと言う力強い心臓の鼓動で、私はハッとした。
 も、もしかして、天影様が助けて下さったのでは・・?!
 恐怖で堅く瞑っていた目が、カッと開く。
 そしてこの双眸が映したものに、私は愕然と・・いや、愕然を通り越して唖然としてしまった。
 真っ白になる頭が「これは夢?」と呟くが、大きく開かれる双眸がそれを否定する。
 目の前の全ては夢でも、幻でもなく、歴とした現である、と。
 風で乱れる、赤い髪。リンリンと荒ぶる、右耳に吊された小さな鈴。
 焦燥と安堵の様な心が入り乱れ、ぐにゃりと歪められる端正な顔。
 私を助けてくれたのは、身投げしろと命じた張本人、頭目の鬼いばなだ。
「う、嘘・・ど、どうして・・」
 夢ではないと分かると、思わず本音が零れてしまう。
 すると突然、目の前の感情がガラリと変わった。
「この馬鹿女が!」と、何故だか牙を剥き出しにして怒鳴られる。
 私はその怒りにムッとし、「身投げしろと言ったのは貴方じゃないですか!」と怒鳴り返した。
「私は身を投げろと言った貴方の命を聞いたまで!命じた張本人に馬鹿女と罵られる筋合いはありませぬ!」
「本当に崖から飛び込む阿呆が居るものか!」
「身投げを命じただけにあらず、早くやれと冷酷に挑発をしたのは、どこの誰だと思っているのですか!」
 ピシャリと食い下がると。彼は分かり安く目を泳がせ「そ、それは・・」と、言葉を詰まらせた。
 私はその隙を容赦なく突いて、口早に言葉を続ける。
「貴方ですよ!貴方が命じたから、私は身を投げたのです!貴方が言わなければ、私はあんな所から身投げなぞ致しませぬ!」
 憤然と噛みつくと、目の前から「ええい、黙れ!黙れ、黙れ、黙れ!」と怒声をあげられ、強引に先を塞がれた。
「俺はお前を助けてやったのだぞ!にも関わらず、礼を述べずに恩人を責め立てるとはどういう了見だ!」
「それは確かに感謝せねばなりません、が!貴方がこんな残酷な事を命じなければ、始めからこんな事にはなっておりませんでした!」
 強引に奪われた話の流れと優位を取り返し、私は彼を厳しい眼差しで射抜く。
「昨日と言い、今と言い、私は貴方が分かりません!完璧に殺そうとしていた女を死の寸前で助けると言う、ひどく不毛な事をしているのですから!」
 彼の前でまっすぐ言葉をぶつけると、彼の瞳がぐらぐらと揺れ出した。
 そしてその動揺は、彼をじわじわと覆い尽くす。
 ・・動揺?いいえ、これはそんな端的な一言で収まるものではない気がする。
 私はじわじわと変わっていく彼の顔をまっすぐ見つめながら、彼の内を探った。
 けれど、私には分からなかった。
 彼の内を渦巻く感情が、傍目では読み取れる事が出来ない程複雑なものだったから。
 外から読み取る事が出来るのは、たったそれだけだ。
 だからこそ気になって、だからこそもっと彼の内に踏みこんで、彼を知りたくなった。
 ・・けれど、それが良くなかった。
 彼はジッと動かぬ視線に気がつくや否や、ハッと我に帰った様な顔をしてから、ダンッと力強く大地を蹴り上げて、天高く飛び上がる。
 全てをうやむやに消し飛ばす行動のせいで、私の口からは甲高い悲鳴が発せられた。
 そしてダァンッと雷が落ちた様な轟音が響いたかと思えば、パラパラと砂煙に襲われる。
 ゲホゲホッとむせ込んでいると、突然私は投げ捨てられる様に彼の腕の中から解放された。
 折角断崖絶壁から怪我一つなく助かったのに、前のめりに傾き、地面に顔を打ちつけそうになったが。サッと手が伸び、倒れかけた身体をピタリと止めてくれた。
「大事ありませんか?」
 天影様はニコリと優しく微笑みながら、私の身体を滑らかに戻す。
 私は「か、かたじけのうございます」と、間近で見る彼の微笑に、胸をドキリとさせながら礼を述べた。
 すると「良いか!」と怒声が張り上げられ、私達の間に築かれた温かな空気がバキリと壊される。
「今回は俺の気まぐれだ!次はないと思え!分かったな!」
 一方的に激怒をぶつけると、いばなは「どけっ!」と声を荒げて、妖怪達の群れをかき分けて行ってしまった。
 私は去りゆく背中に「私は何度も参りますから!」と叫ぶ。
「千代として何度も貴方の前に現れます!分からない貴方を分かる様になるまで、何度も貴方の元に参りますから!」
 彼に届く様に大きく声を張り上げたけれど・・。
 私の声に彼は答えなかった。
 虚しい山びこの様な言葉に答えてくれたのは、天影様だった。
「我が頭目が、色々と失礼を働いて申し訳ありませんね」
 チラと彼の荒々しい背を一瞥してから、私に向き直る。
「ですが、いばなも好きでこんな事をしている訳ではないのですよ。そう。ただ、上手く心と折り合いがつかないのです。故に、こんなにも辛辣に当たってしまうだけなのです」
 いばなはひどく不器用な奴でしてね。と、彼は艶やかな笑みを称えたまま小さく肩を竦めた。
「今は無理かもしれませんが。いずれは必ず反駁する心と折り合いがつき、貴女と向き合える様になります。いばなもそう分かっているはずですから、どうか辛抱して付き合ってやってください」
 フフと蠱惑的に微笑まれ、私はハッとした。
 わ、私の勘違いかもしれないけれど。もしや天影様は、全て分かっていらっしゃるのでは・・?
 私が武田の間者であると言う事も、私の心も、彼の心も何もかも。天影様は、きっと全て分かっていらっしゃるのでは・・?
 まさかと言う思いに囚われ、返す言葉を失ってしまっていると。彼はフフと柔らかく微笑み、手の平でポッと青色の鬼火を灯らせた。
 そしてその炎をギュッと握りしめる様に拳を作ってから、手をゆっくりと広げる。
 すると驚くべき事に、彼の手中にあったはずの鬼火が消え、紺碧色の宝玉がコロンと転がった。
「私からの餞別兼頭目が働いた無礼のお詫びです」
 目の前でサラリと披露された妖術に驚き固まる私を前に、彼は艶然と告げてから、私の手を取る。
「この中の鬼火が私達の居場所に導いてくれますし、これを持っていれば他の妖怪共から手を出されません。ですから、明日からはこれを辿ってこちらにいらして下さいね」
 宝玉をコロリと私の手の平に移し、私にキュッと握らせた。
 そして私の拳を柔らかく包み込んでから、「では」と耳元で囁く。
「また、明日に」
 手からするりと温もりが消えると、天影様は美しい髪を風にたなびかせて、彼の後を追う様に去って行った。
 すると妖怪達もゾロゾロと奥に消えていき、昨日と同じ様に呆然とした私だけが一人残される。
 耳の奥に蠱惑的な笑みが残っている事だけが、昨日とは違っていた。