夜と言う闇が太陽と言う光を追いやり、自らの世界を徐々に強めていく。
 そんな宵が深まる頃合いになっても、いばなは来なかった。
 もう来ていてもおかしくないはずなのに・・。
 私はキュッと胸元の勾玉を握りしめてから、囲炉裏に薪をぽいっと入れ、火吹き竹でフーッと息を吹きかけた。
 すぐにパチパチッと大きく上がる火、ポロポロと炭と化して崩れる木。
 ・・なんだか嫌な予感がする。
 まさか、いばなの身に何かあったのでは?
 パチパチと虚しく響く音が、胸中の漠然とした不安をかき立てた。
 丁度その時、ドンドンッと激しく戸が叩かれる。
 私はその音にハッとし、ざわりと騒ぐ胸を押さえながら「ただいま」と戸の方に駆け寄った。
 ガラリと戸を開け「はい」と答える前に、「大変な事になったぞ!」と徳にぃ様が前のめりに飛び込んでくる。
 こんな時間に来訪する事はない人物に、私は「徳にぃ様?!」と目を丸くしてしまう。
 だが、彼の異常な荒ぶり様を見ると、その驚きは直ぐさま落ち着いた。
 冷静沈着な徳にぃ様が、こんなにも取り乱しているなんてただ事ではないわ。と、私は息を飲んでから「どうなさったのです?」と問いかける。
 すると徳にぃ様は、歯がみしながら「やはり奴等を信用すべきではなかったのだ」と、唾棄した。
 その憎々しい一言で、私の胸中の不安がざわざわと大きく唸る。
「・・どういう事です?」
「我らの親方様を奴が殺したのだ!千代、お主が招き入れたあの鬼だ!百鬼軍の頭目が、親方様を殺したのだ!」
 何を言われたのか、私は全く分からなかった。と言うよりも、まるで耳に入ってこなかった。
 全ての言葉が信じられなかった。
 徳にぃ様、いばなが親方様を殺したと仰った?
 ぼんやりとした頭の中で疑問を並べると、数刻前の「あの時」が自分の色を取り戻す様に思い起こされる。
 あぁ、そうよね。そんな悍ましい事、いばながするはずがないわ。
 何かの間違いだと分かると、ガチガチに強張っていた状態もゆるゆると崩されていく。
 そして私はふうと息を吐き出してから、荒ぶる徳にぃ様と対峙した。
「何かの間違いですよ、きっと親方様も」
「間違いな訳があるか!私はこの目で見たのだぞ!」
 私だけではない!と、徳にぃ様は私の言葉を遮って、自分の怒りを吐き散らす。
「若様や父上、土屋殿と栗原殿も見た!奴が青鬼と共に、親方様の枕元から飛び去っていく様をな!」
 若様を始めとした、親方様を支える二十四将の数名の方々も見たとなると、嘘だと思っていた話が急に真実味を帯び始めた。
 つい先程、我に帰ったばかりだと言うのに。再び私は茫然とした自分の世界に佇んでしまった。
 違う、違う、違う。そんな事ないわ。嘘よ、嘘。何かの間違いよ。
 いばなが親方様を殺すはずないもの、ましてや青鬼・・天影様と共に殺すなんて、絶対にあり得ないわ。
 私は真実味を帯びて迫ってくる話を強く否定し、この世界を出ようと強くもがく。
 けれど、そんな私の努力を無下にする様に、徳にぃ様が追い打ちをかけてきた。
「我らが親方様の元に駆けつけた時には、親方様はすでに冷たくなっておられた!奴等が寝首をかき、殺したのだ!そう言う他あるまい!」
「・・う、嘘です」
 彼がそんな事、する訳がありません。と、か細く答えると、目の前から「千代!」と力強く怒鳴られる。
 それは、今まで一度も聞いた事がないと言う程の怒声だった。
「お主は親方様を殺した者共の肩を持つのか?!いい加減にせよ!このままでは、従犯として主を捕らえ、奴等と共に処刑する事になってしまうぞ!」
 徳にぃ様は物々しく叫ぶと、「我々は、奴等の討伐に向かっている」と低い声音で呟く様に告げる。
「同時に、親方様を殺した奴等を招き入れたお主にも嫌疑がかかっておる。中には、親方様を殺した者を招き入れた咎を死して贖うべきだと言う声もあるのだ」
 だから私は早馬を飛ばして、ここに来た。と、力強く私を射抜いた。
 その真剣な眼差しで、死の手が自らの肩にかかっている事を理解する。
 いばなの身を案じる場合ではなかったのだ。
 このままだと私も徳にぃ様等忠臣に捕らえられ罰せられてしまう。今までの功績があろうと、情をかける程に長きに渡る親交があろうと、これは救いようが無い。
 私達の絶対的支柱を失した代償は、なにものにも変えられないのだから。
 私はギュッと袖の中で拳を作り、自らにヒタと寄り添う死の恐怖を誤魔化した。
 すると徳にぃ様が「千代」と慰める様に、私の名を呼んだ。
「奴等は死あるのみで救いようが無いが。まだお主は救える。千代、主の手で奴等を殺すのだ」
 あまりにも非情で残忍な言葉に、私は大きく目を見開いて息を飲む。
「・・私が、彼等を?」
「招き入れたお主自身が奴等を殺すか、捕らえるのだ。さすれば、お主が悪い訳ではなかったと重鎮等にも思われ、お主の死は免れると言う事になる」
 これしか手立てはあるまい!と、徳にぃ様は名案だとばかりに目を爛々とさせて答えた。
 あまりにも残酷な条件に、私は呆然と立ち尽くしてしまう。
 そんな残酷な事、私には出来ない。いばなや天影様を殺すだなんて、絶対に出来ないわ。
 だって、いばなは私の愛する人で、結婚の約束を交した人。天影様は、優しい恩人の様な人。
 どちらも私にとっては愛おしくて、かけがえのない存在。失いたくない、大切な存在よ。
 だからそんな二人を殺すなんて、絶対に嫌。私には絶対に出来ない。
 けれど・・残念な事ながら、もう嫌だなんだと喚く立場にないのだ。分かっている、そんな事。無論、そうしなければ自らの命が消えてしまう事も分かっている。
 私の内で、想いと理性がガツガツと激しくぶつかり合う。
「絶対に嫌だ」「殺すしかない」「絶対出来ない」「そうする他に手立てはない」
 膨大な言葉が己の中に羅列し、私をひどく苦しませた。
 そして苦悶する私を歯牙にもかけず、徳にぃ様は怜悧的に告げる。
「何を悩む事があるのだ、千代。親方様を殺されたのだぞ。我らの主君を奴等は手にかけた、卑怯にも寝首をかいたのだ。そんな奴等に情をかける余地などなかろう」
 徳にぃ様の言葉が、胸に深々と突き刺さった。
 そうだ、徳にぃ様の仰る通り。
 親方様が殺された。私にとって、一番心を傾けねばならぬ所はそこじゃないのか。
 ググッと丸めた指が更に丸まり、爪が手の平の肉を深々と抉る。
 父親の様に慕っていた大切な主君を殺されたのは、他でもない私のせいなのだ。
 罪悪感と忸怩、後悔がじわじわと全身に広がっていく。それに怒りが重なり、まるで灼熱の溶岩が溶けた様にどろどろと内側を這いずった。
 そして、それは「分かりました」と言う言葉を口の方に押し上げていく・・が。
「いつも勝手な解釈をして先走る!とんだ阿呆だ、お前は!」
 突然いばなの怒声が脳内にビリビリと轟いた。
 その言葉で、私はハッとする。
 勝手な解釈?いばなは、これが勝手な解釈だと言うの?また私が何も見えていないと言うの?
 私はガンガンと響く怒声にキュッと眉根を寄せた。
 いばなが殺したと思っている事が間違いだと言うの?
 でも、徳にぃ様だけではなく、他の忠臣の方々も目にしているのよ。貴方が殺した、と言う所を。
 いばなの怒声に怪訝をぶつけると、胸元がボッと熱くなった。その熱さに目をパッと落とすと、勾玉の千草色が明滅していた。
 まるで「お前の目では見ていないだろう」と、強く憤る様に。
 私はキュッと勾玉を握りしめ、唇を真一文字に結んだ。
 そうね。確かに、その通りだわ。私は何も見ていない。親方様が逝去なさった姿も見ていなければ、逃げ出すいばなと天影様の姿も見ていない。
 ただ話を聞いただけだ。
 その事に気づくや否や、私の内で「あぁ、もう!」と落胆と怒りが混ざった声があがる。
 全く!なんて私らしくもない事をしようとしていたのか!
 私は痛い程知っているじゃない!この世の全ては玉石混淆。玉を掴むには、自ら動かなければならないと言う事を!
 それに何より、私は間者よ。きちんと正しい情報を掴むまで動くのが、私の役目と言う物でしょう・・!
 私は手の平に鬼火の熱を刻みつけてからソッと離し、目の前の徳にぃ様を見据えた。
「徳にぃ様。恐れながら申し上げます、私を検分に出させて下さいませ」
 目の前の徳にぃ様は、淡々と告げられた言葉に愕然とする。
「まだ奴等の肩を持つのか?!」
 いい加減、目を覚ませ!と怒鳴られるが。私は「いえ」と泰然と首を振った。
「肩を持っている訳ではありませぬ。真実を知る為に申し上げているだけにございます」
「親方様は奴等に殺されたと言うのが真実(すべて)だ!」
「己が目で見て、己が手で調べ上げなければ、それが真実だとは言えませぬ」
 毅然と言葉を紡ぎ、怒りと驚きに震える徳にぃ様を冷静に射抜く。
「己が手で掴んだ真実は何であれ受け入れる所存。彼が殺したと言う真実であれば、彼は私の手で殺します。それがけじめと言うものでしょう」
 ですが、と物々しく強調する様に言葉を一度区切った。
「彼が殺していないと言う真実であれば。私は絶対に彼を殺しもせぬし、殺させもしませぬ!」
 憤然と宣誓すると、徳にぃ様も「他に下手人がいるとでも思っているのか!」と怒声を張り上げ返す。
「それとも何か!お主は我らの誰かを疑うつもりか!幼少から共に育った私や、お主を娘の様に可愛がる方々は悍ましい妖怪共よりも信じられぬと申すのか!」
「これは、信じる・信じないの話ではありませぬ!何が真か、嘘か、見極める必要があると言う話にございます!」
「だから何度言えば分かる!奴が殺した、いばな童子が親方様を殺したのだ!」
 そうだと言って聞かない徳にぃ様に「だからそうではなく!」と強く窘めようとしたが。
 私はそう声を張り上げる前に「待って下さい」と、怪訝に眉を顰めた。
「徳にぃ様。どうして彼の名を・・いばなの名を知っているのです?私は、徳にぃ様の前で彼の名を呼んだ覚えも、教えた覚えもありませんのに・・」
 私の疑問に、徳にぃ様は一瞬ハッとした顔になったが。すぐに「当然、知っておるとも」と憮然として答えた。
「奴の名は、日の本全土に轟いておるではないか」
「・・いいえ。百鬼軍頭目や、平安の赤鬼と言った二つ名ばかりで、彼のいばなと言う「名」は全く聞こえませぬよ」
 徳にぃ様は私の言葉に、うっとした顔で言葉に詰まる。
 私はそんな彼を前に、淡々と言葉を紡ぎ続けた。
「私は百鬼軍を探る為に、近辺の人間達から話を聞いて回ったものですが。皆、名を知らずに頭目の赤鬼と呼んでおりました。百鬼軍の面々もお頭と呼び、彼の名を呼ぶ者は一人も居りませぬ。他の妖怪は、平安の赤鬼や蔑称で呼ぶ事が多いといばなは話していました。故に、いばなの名が広まる訳がないのです」
 それにも関わらず。と、私は独りごちる様に言う。
「徳にぃ様は彼の名を呼んだ、それもいばな童子と正確に」
 目の前の徳にぃ様はたじろぎ「それは」と口をまごつかせた。
 そして必死に弁解を考えるが、良いものが出なかったのだろう。チッと大きく舌を打ってから、「ええい!」と声を張り上げた。
「名を知っているからなんだと言うのだ、そんなにおかしい事ではなかろう!今おかしいのは私ではない。千代、お主だ!」
 逆上して怒鳴る姿に、私の抱く猜疑が強まっていく。
 徳にぃ様は、逆上なぞ絶対にしないお方。確かに、意固地な面があるものの。冷静に言葉を詰めて言いくるめるのが、彼の戦法だ。言い合う相手が私と来れば、説教じみた言葉ばかりを繰り出し、最終的には弱々しく折れてくれる。
 私はキュッと唇を結び、力強く彼を睨めつけた。
「今、千代の前にいるのは、本当に徳にぃ様ですか?」
 猜疑を露わにぶつけると、目の前の彼は「何を馬鹿な事を!」と憤激する。
「この私の存在までも疑うとは!お前はどこまで奴等に惚けさせられているのだ!」
 目を覚ませ!と、彼は手を私の肩にガッと伸ばした。
 だが、彼の手が私の肩に触れようとした刹那。バチバチッと青い火花が迸り、彼の手が私から、否、いばなの鬼火が宿された勾玉から弾かれた。
 彼は「ウッ!」と慌てて手を引っ込め、軽く火傷を負った右手を庇う様に左手で包む。
 その光景に、私はハッとした。
 いばなは言っていた、妖怪が私に触れようとしたら弾かれる様になっていると。
 私は「やはり」と敵意を確かなものにして、目の前の存在と対峙した。
「貴方、誰」
 居丈高に言葉をぶつけ、「人間でもないわよね」と正体を明かす様に威圧を込める。
 すると、徳にぃ様の姿をした誰かは口角をニヤリと意地悪く上げた。その不気味な笑みに、嫌でも全身の毛がゾクッと総毛立つ。
「そうか、そうか。今の其方は、随分理智的なのだなぁ」
 声が徳にぃ様ではなくなり、誰か別の声に変わった。蠱惑的ながらも、恐ろしい程冷たい声をしている。
 私がその声に戦慄していると、その誰かはニタリと目を細めてカラカラと笑い出した。声に含まれる狂気が、空気を震撼させていく。火ですらも怯え、しゅうと小さくなっていく。
「このまま同じ道を辿らないならば、此度こそ私の望む道に進んでくれるな?紫苑よ」
 ・・私の事を紫苑と呼んだ。つまり、徳にぃ様に変わっている誰かは平安を生きた妖怪と言う事よね。
 なんて冷静に考える自分も居たけれど。そんな自分はあまりにもちっぽけ、ほとんどの私は恐怖に怯えて顫動していた。
 身体の震えが全く止まらない。十八と生きてきて、これ程までに恐怖を覚えた事はないわ・・。
 私はギュッと奥歯を噛みしめ、震える指で熱く燃える勾玉を握りしめた。
「貴方、誰」
 震える声で、もう一度同じことを問う。
 すると目の前の誰かは「この私を忘れたのか?」と、わざと大仰に笑った。
「忘れる訳があるまいよ!紫苑、其方は覚えているとも。私は他の誰よりも其方を深く愛し、其方だけを見ていた男なのだから。忘れやしないだろう?」
 そうだろう?と、蠱惑的な笑みを向けられるが。気管が一気に締められ、ヒュッとか細い呼吸が零れた。ゾクゾクッと身体の芯から震え上がり、ぶわりと肌が粟立つ。
 駄目、ここで怯んではいけないわ!と、己を力強く鼓舞し、襲いかかる恐怖を飲み込もうとするけれど。恐怖が軽々と堤を凌駕してくる。
 これは、それ程までの圧倒的恐怖だ。
「さぁ、申してみよ。その愛らしい口で、愛しい私の名を囀ってみよ」
 目の前の誰かが手を広げながら、じりじりと詰め寄る。
 逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。
 頭の中で警鐘がカンカンと幾度も打たれ、「急いで!」と切羽詰まる。
 けれど、それは全て頭の中だけの話。今の私は蛇に睨まれた蛙の様に、ただその場で顫動するしか出来なかった。
 悍ましい恐怖が一歩、一歩と近づいてくる。
 あと数歩で、私にその手が触れると言う距離にまで迫った刹那。
 ドガァァァァンッと凄まじい爆発音と共に、天井がガラガラと崩れ落ちる。
 その瓦礫の山は囲炉裏の上に降り積もり、囲炉裏を完全に破壊した。ばふんっと灰を撒き散らかし、もくもくと灰色が上から降ってきた何かを包み込む。
 けれど、その「何か」が見えない訳ではなかった。ぽっかりと大きく空いた穴が外の月の光を煌々と射し込み、煙の中に影を現せる。
 影だけでも分かる、その姿。
 じわじわと嬉しさが込み上げ、私の中の恐怖がゆるゆると瓦解していくのが分かる。
「いばな」
 私がその名を呟くと、それに応える様に影がゆらりと動き、りぃんりぃんと小さな鈴の音が鳴り響いた。