三月八日。
朝の八時に海に面したコンビニ脇でゴミの分別をしていると、着飾った保護者の運転する軽トラックが国道から駐車場に入ってきた。
助手席から緊張した面持ちの高校生が駆け出してきたかと思うと、朝食用なのか、おにぎりとドリンクを買ってあっという間に去っていった。
「今日は高校の卒業式だね」と、客のいない店内からオーナーのおばさんが顔を出す。「遙香ちゃんももう三年になるのね」
ええ、そうですねとうなずき返すと、おばさんは私がまとめたペットボトルの袋を裏のゴミ置き場に持って行ってくれた。
実際、私が地元の高校を卒業してこのコンビニで働くようになったのは三年前だ。
『八は末広がり』と縁起を担ぐために毎年同じ日に卒業式が行われるから、日付を見れば思い出す。
ここは何もないことで有名な北海道の海沿いにある町。
目の前には昆布揺らめく海が広がり、振り向けば背骨のように山がそびえ、その山脈は町外れで断崖となって荒波打ち寄せる海に向かって落ち込んでいる。
自転車が押し返されるほどの勢いで吹き寄せる風は夏でも冷たく、もちろん冬は町中が雪と氷で覆われ、息を吸うだけで肺まで凍りつきそうになる。
空を見上げても一年のほとんどが鉛色で、お日様を見ることはあまりない。
まさに地の果てのような土地だ。
地元には小さな郵便局と週に三日しかやらないガソリンスタンド、夕方には閉まるこのコンビニ以外に店はなく、車で海沿いを一時間走ればスーパーやホームセンターのあるちょっとした街に出られるけど、今のように運転できる年齢になるまではそれすらもめったに行けない憧れの大都会に思えたものだった。
◇
私は卒業式で泣いたことがない。
少子化の進んだ町では小中学校が統合されていて、しかも各学年一クラスずつしかなく、小一から中三までいつも同じ顔ぶれだったから、卒業と言ったところで何も変わらなかったし、高校も地域に一つしかないから結局持ち上がりで、別れを経験することがなかった。
先輩後輩も自分たちの兄弟姉妹がほとんどだし、先生に対しては、『何もない町まで教えに来てくださってありがとうございました』と、離任式の方がむしろ町ぐるみの重大イベントだった。
『北海道はでっかいどう』と言うけれど、あまりにも大きすぎて、山と海に囲まれ乱暴な風にさらされた私たちは何もない町で狭い人間関係の中に閉じこもっているしかなかったのだ。
狭い町ではお互いの頭の中まで透けてしまう。
幼い頃から引っ込み思案だった私は、自分から何か言おうとする前に相手に言葉を奪われてしまい、ますます感情表現が苦手になっていったのだった。
◇
昼前になって店の自動ドアが開いた。
「よう」と、大柄な和哉が封筒の束を掲げて入ってくる。
私と同じ学年だった和哉は高校を卒業して地元の郵便局に就職した。
毎日顔を合わせるし、配達ついでにお弁当を買っていくけど、特に会話はない。
なのに今日に限って会計が終わってもレジ前で鼻の頭をかいている。
「今日さ、茉梨乃が帰ってくるって知ってるか?」
へえ、そうなんだと、私は目で返した。
茉梨乃は高校を出て、札幌にある三年制の看護専門学校に進んだ。
学生寮があって奨学金ももらえる道立病院付属の学校をわざわざ選んだのは、この何もない町から出たかったからなんだろう。
夏は実習で多忙、お正月は国家試験対策などと理由をつけて、もう一年以上里帰りしていない。
「バスで来るらしいから、着くのは夕方だな」
かつてこの町にも来ていた鉄道は、十年前に直撃した台風の影響で高波が押し寄せ、海沿いの線路を洗い流してしまい、復旧しないまま廃線になってしまった。
それ以来、代替バスが走っているけれど、年々本数は減っている。
一番近い都会からは一回乗り継ぎがあって、最低でも六時間かかる。
想像しただけで車に酔ってしまう私には一生縁のない話だ。
自分で運転するのは問題ないんだけどね。
「なあ、三人で飯でも食うか」と、横を向いて店内を見回しながら和哉がつぶやいた。
私は軽くうなずいた。
「裕紀もいればいいんだけどな」
それには私は返事をしなかった。
裕紀は私たちの学年で一人だけ東京の国立大学に進んだ秀才で、卒業以来一度も顔を見ていない。
私は卒業後、自分でスマホの契約を変えてから和哉以外に連絡先を教えていない。
「じゃあ、仕事終わったらまたここに来るよ。定時で終わるからさ」
店を出て行く和哉の背中は羽でも生えてふわふわと浮いているように見えた。
◇
三年前の三月八日。
高校の卒業式を終えた私たちは校門を出たところで四人集まり、背中を丸めながら相談をしていた。
「これからどうする?」と、裕紀が真っ赤な手に息を吹きかけた。
何もない町だから、打ち上げとか謝恩会といった行事はない。
だけど、茉梨乃と裕紀が町を出ることになっているから、いつもの四人でなんとなく送別会のようなものをする雰囲気ができていたのだ。
「腹減ったな」
和哉がおなかをなでるけど、この町にはラーメン屋すらない。
岬まで行けば観光客向けの食堂もあるけど高いし、この頃はまだ誰も車の免許を持っていなくて、交通手段のない私たちの選択肢にはならなかった。
「そういえば俺んちに肉あったぞ」と、裕紀が小気味よい音をさせながら手をたたいた。
「マジかよ。焼き肉パーティーだな」
「でも、そんなに量はなかったか」
「なんだよ、だめじゃん」
あからさまにガッカリする和哉に苦笑しながら茉梨乃が提案した。
「焼きそば買っていって、そのお肉で作れば?」
「それもいいな」と、和哉が早速コンビニに向かって歩き出す。
と、期待して来たものの、焼きそばは三パック入りのが一袋しか置いてなかった。
もやしでかさを増やしたところで四人分には足りない。
「裕紀の家にご飯ある?」と、口まで覆ったマフラーを外しながら茉梨乃がつぶやいた。
「冷凍庫にラップしたやつがあるぞ」
「じゃあ、焼きそばとご飯でそばめし作るよ」
「お、いいね」と、和哉が横から顔を突っ込んだ。
「あんたはおなかがふくれればなんでもいいんでしょ」と、和哉の肩をつつくと茉梨乃は焼きそばともやしの袋をカゴに入れた。
ドリンクやポテトチップスなんかを追加して店を出ると、裕紀の家まで海沿いを歩く。
鉛色の空がいつになく低く、雪が降り出してもおかしくない天気だったけど、めずらしく風の弱い日だった。
歩道の端にはおととい降った雪が積み上げられていた。
先頭を歩く裕紀が、ぶら下げた二リットルのペットボトルを振り子のように揺らして雪を後ろにまき散らす。
「なんだよ、冷てえな」
和哉がそのかたまりを蹴ってやり返すのを、茉梨乃はマフラーを巻き直しながら眺めている。
その横顔に浮かぶ笑みを私は見つめていた。
私たち四人は生まれた時からこんな感じだった。
この町で生まれ、この町で育ち、この町で遊んだ。
既視感が濃すぎて、何度目なのかも分からない。
「遙香はまた泣かなかったね」
茉梨乃のつぶやきを拾った裕紀が振り向く。
「中学の時も言われてたっけか」
「みんな泣いてるのに遙香だけは冷ややかな顔で眺めてたのよ」
「なんでよ。悲しくないのか?」と、和哉が私をのぞき込む。
私は海に視線を流した。
べつに悲しくないわけじゃない。
実際、茉梨乃や裕紀は町を出るし、他にも進学組や就職組で都会へ行く人たちは多い。
小中までの卒業式とは意味が違う。
これまでと同じじゃないってことくらい分かってる。
だけど、泣きたくなるかと言われれば、涙が出なかっただけだ。
そもそも裕紀だって和哉だって泣いていなかった。
男子だから?
肩をたたき合いながら泣いてるやつらもいたよね。
それに、私は知っていた。
茉梨乃だって、みんなに合わせて泣いているふりをしていただけだ。
涙なんか一粒も光っていなかったくせに。
◇
海沿いの国道から緩やかな斜面を上がったところに裕紀の家がある。
高台だから空と海がより一層広く見える。
見渡す限り本当に何もない町だなと思う。
「おう、入ってくれよ。ちょっと着替えてくるから炬燵つけておいてくれ」
二階へ行った裕紀を見送って私たちは茶の間にお邪魔する。
暖房はついたままだから部屋は暖かいけど、私は指示通り炬燵のスイッチを入れた。
マフラーをほどき、上着を脱いで長い髪を後ろでまとめると、茉梨乃がさっそく戸棚からホットプレートを取り出し、台所で冷蔵庫を勝手に開けて裕紀の言っていた肉を探した。
「何これ、百グラムしかないじゃん。よくこれでみんなの食事が作れると思ったよね」
文句を言いつつも、買ってきたもやしの他に、野菜室に入っていたニンジンとキャベツをまな板の上に並べていく。
こうしたことは私たちの間ではべつに珍しいことではない。
どこの家でも、どこに何があるか把握しているし、おたがいにこんな感じで自由にやってきた。
小学生のころは電気ポットのお湯を注いだカップ麺だったけど、中学からはご飯を炊いたりカレーを作って食べたりしていたくらいだ。
裕紀のお父さんは単身赴任で不在だし、薬剤師のお母さんは卒業式の後、一時間かかる街のドラッグストアまでそのまま仕事に行ってしまった。
ここらへんの大人からしてみれば、子供たちだけで全部自立して済ませてくれる方が楽なのだ。
私は野菜を洗ったり、食器を出したり、茉梨乃の手伝いをした。
その間、和哉は無駄に冷蔵庫をのぞき込んだり、買ってきたペットボトルの麦茶を自分の分だけ注いで飲んだりしていた。
「こうやって四人で飯食うのも最後かね」
退屈なのか、和哉が自分に言い聞かせるようにそんなことをつぶやいた。
「何、さびしい?」と、茉梨乃は手を休めずに野菜を切っていく。
「いや、まあ、そうでもないか」と、和哉は鼻の頭をかいている。「正直、実感がわかないんだよな」
「私もだよ」と、茉梨乃が焼きそばの麺を粗く刻む。「一人暮らしなんてしたことないし、不安だらけだけどね」
「やっぱ、そうなのか」
「そりゃそうでしょ」
「じゃあ、地域医療センターの専門学校でも良かったんじゃねえの?」
車で一時間の街に和哉の言う総合病院があって、付属の看護学校がある。
資格を取ってそこで働けば奨学金の返済は免除されるし、車の免許を取れば家から通うこともできる。
実際、うちの高校の先輩で看護師を目指した人はたいていそこに行っていた。
「そうだ、和哉、ご飯解凍しておいてよ」と、茉梨乃が冷凍庫を指した。
「お、そうだ。忘れてた」
ホットプレートと炬燵と電子レンジを同時に使うとブレーカーが落ちるのだ。
小学生の頃だったか、炬燵を囲んで電気ポットのスイッチを入れた瞬間真っ暗になった時は、四人同時に悲鳴を上げたっけ。
「よう、準備できたか」と、学校ジャージに着替えた裕紀が下りてきて話は途中で終わってしまった。
「おまえ、そのジャージ、東京でも着るのか?」と、和哉が茶化す。
「だめかな」と、裕紀がおなかのあたりをつまんで広げた。「なじみすぎて一生着られそうだけどな」
たしかに、このあたりのおばさんたちは中学や高校のジャージを着ている人が多い。
息子や娘の流用でなく、何十年も前の自分のを着てコンビニに来る人も見かけるくらいだ。
そんな話をしている間も、茉梨乃はホットプレートの電源を入れて、解凍したご飯に卵を落とし、醤油を垂らしてかき混ぜていた。
「ほら、少しは手伝いなよ」
茉梨乃に言われて、和哉がホットプレートに肉を広げて並べ、その上に野菜を散らしていく。
裕紀は炬燵に手を入れて背中を丸めていた。
「あんたは何してんのよ」
「手が冷たくてさ」
「手袋しないからでしょ」
「なんかやなんだよな」
裕紀は小さい頃からそうだった。
チクチクする感触が嫌だと外してしまって、しょっちゅう片方なくしていたから親もそのうちあきらめたらしい。
ただ、その感覚は分からないでもない。
私はタイツが苦手だ。
寒い外でははいてないと耐えられないけど、炬燵に入るとムズムズして脱ぎたくなる。
炬燵の中で足の位置を変えていたら、和哉があごを廊下に向けた。
「なんだよ、トイレなら先に行ってこいよ」
気の利かない勘違い男をにらんで黙らせる。
まったくデリカシーがないんだから。
茉梨乃が焼きそばと卵ご飯を同時に焼き始める。
手が温まったのか、裕紀は和哉から菜箸をもらって、火の通った肉を焦げないように焼きそばの上に積み上げていく。
茉梨乃が肘で和哉の肩を押した。
「ちょっと、飲み物くらいあんたがやりなさいよ」
だるまのように動かない和哉を横目に私が立ち上がった。
「いいよ」と、茉梨乃が引き留める。「少しはやらせないと」
待つだけ無駄だと思ったから、冷蔵庫にさっき和哉が開けた麦茶のペットボトルを取りに行った。
暖房と炬燵、それとホットプレートの熱でいつの間にか汗をかいていたらしく、台所の空気が心地良かった。
蒸れて張りつくタイツを引き剥がすような歩き方で戻ったら、また和哉がよけいなことを言った。
「なんだよ、変な歩き方して。足でもひねったのか」
私はわざと乱暴にペットボトルを置いた。
皿が跳ねて音を立てる。
「違うってよ」と、裕紀が皿からこぼれた箸を置き直すと、和哉は首を縮めて背中を丸めながら苦笑いを浮かべていた。
四つ並べたコップに麦茶を注いでいる間に、茉梨乃がホットプレートの食材を一気に混ぜ合わせた。
横から裕紀が粉末ソースを振りかけ、反対側からは和哉が醤油を回しかけた。
「ちょっと濃くない? ご飯は下味ついてるよ」
茉梨乃の言葉で二人の手が止まるけど、淡い煙とともに立ち上る匂いはちょうど良さそうだった。
「焼きそばソースって祭りの匂いだよな」と、和哉が鼻を突き出す。
「文化祭を思い出すな」
裕紀の一言で部屋の時間が半年前に戻る。
高校の文化祭は今やこの地域一番のイベントだ。
年寄りだけでなんとか維持している神社の夏祭りよりも活気がある。
「一日中焼きそば作りまくってたよな」
和哉はその後一週間くらい筋肉痛で腕が上がらないと笑っていた。
「ほら、手を休めてないでかき混ぜて」
しんみりした雰囲気を煙と共に払いのけて茉梨乃が時を戻す。
「少しくらい焦げた方がうまいんだよ」
「それはちゃんと味がついてからでしょ。色がまだらでしょうよ」
茉梨乃に口でかなうわけがないのはみなが分かっている。
和哉にしてみたら、これが最後の抵抗のつもりなんだろう。
手際よくかき混ぜて色が均一になったところで、茉梨乃がへらでみんなのお皿に最初の分を取り分けていく。
「はあい、じゃあ、あとは好きなだけ自分で取って食べてね」
「いっただっきまあーす」と、和哉が早速がっついた。「うおっ、うめえよ」
手で口を隠しているとはいえ、ちゃんと飲み込んでから言えばいいのに。
裕紀は落ち着いてうなずきながら、「うん、うまいな」とつぶやいた。
湯気の立つそばめしを箸先でいじりながら私は冷めるのを待っていた。
私が猫舌なのはみんな知っている。
なのに和哉がまた横から口を挟んだ。
「そんなに熱くねえぞ」と、もう空になった自分の皿に山盛りによそう。
「いいじゃないべつに」と、茉梨乃が私の代わりに言い返した。「人それぞれなんだから」
「まったく昔から変わらないよな」
おかわりを皿によそいながら笑う裕紀に和哉も乗っかる。
「同じ歳とは思えないぜ」
「そういえば遙香はまだ十七なんだよな」
ああ、まただ。
この時期になると交わされるお約束の会話。
三月だけ私は子供扱いされる。
私の誕生日は三月二十二日で、たしかに一番遅いけど、和哉だって二月生まれで一か月しか変わらない。
四月生まれでお姉さん気質の茉梨乃や、八月生まれの裕紀はともかく、和哉には言われたくない。
私はようやくそばめしを口に入れた。
「おいしい?」
私がうなずくと茉梨乃は満足そうに微笑んだ。
◇
食後の片付けは裕紀と和哉が担当した。
きれい好きというわけでもないのに和哉は皿洗いだけは好きなのだ。
「子供は水遊び好きだもんね」
茉梨乃はなんでも決めつける。
それが正しいかは関係ない。
これはこうだと理由をつけて物事を整理しないと気が済まない性格なのだ。
二人を待っている間、茉梨乃がハサミと新聞紙を持ち出してきた。
「ねえ、遙香、最後に髪切ってよ」
この町にあった美容室も床屋もだいぶ前に高齢化でやめてしまったから、私たちは小さい頃からおたがいの髪を切り合ってきた。
裕紀の家には散髪用のよく切れるハサミがあるので、私たちは遊びに来たときにいつも利用させてもらっていた。
茉梨乃が広げた新聞紙を顔の下に持って目をつぶる。
安心しきったような仏様みたいな表情だ。
邪魔な前髪をそろえる程度だから、私も緊張なんかしない。
もう何回もやっていることだ。
いつもどおりハサミを縦にして前髪の先をつまむように切っていく。
大切なのは思い切りとリズム感だけだ。
「遙香は美容師さんを目指せば良かったんじゃないの?」
目をつむったままの茉梨乃に向かって私は首を振った。
誰の髪でも切れるわけじゃない。
茉梨乃だから。
なんでそれには気づいてくれないんだろう。
「じゃあ、次は遙香ね」
私は首を振った。
カーテンのように重たい前髪で私は人の視線を避けてきた。
「いいじゃん、最後だし」
茉梨乃は私に新聞紙を持たせて軽くそろえる程度にハサミを入れた。
切り終えたところで、皿を洗った二人が戻ってきて炬燵に入る。
「こんな様子も見納めか」と、和哉が茉梨乃を見つめる。
「どう?」
「まあ、いいんじゃないの」
「じゃあ、ほめてよ」
「だから、いい感じなんじゃん」
耳を赤くした和哉が炬燵の上にポテトチップスの袋を開いて広げると、茉梨乃は二枚取り上げてアヒルのくちばしにしながら口に入れた。
「その顔いいね」と、裕紀が笑う。
「美人は何しても似合うでしょ」
そんなやりとりから顔を背けるように和哉が肘をついて私に体を向ける。
べつに話すことなんか何もない。
和哉は炬燵に足を入れたまま腹ばいになって手を伸ばし、床に落ちていた雑誌を拾い上げた。
「おまえ、相変わらずこれ読んでるんだな」
裕紀が小さい頃から読んでいた世界の謎や不思議を扱う雑誌だ。
たぶん、文字が読めない頃から見ていたと思う。
この町のコンビニにずっと一冊だけ入荷していたのは、裕紀のためだったんだろう。
起き上がって炬燵の上に雑誌を広げた和哉が裕紀の顔をのぞき込んだ。
「こういうオカルトって、嘘くさくないか?」
それは決して揶揄する調子ではなかった。
「嘘か本当かはその人の感性次第だろ」
「科学的とは思ってないわけか」
「いや、科学的に解明されていない部分もあるから謎なんだろ」
「都市伝説ってさ、怖い話になりがちじゃない?」と、茉梨乃が口を挟んだ。「結局、死後の世界とか霊魂とか」
「人類にとって究極の謎は死だからな」
裕紀のつぶやきに和哉がかぶせた。
「でもよ、小学生くらいまでは死ぬのが怖かったけどさ、今は死ぬのより、生きていく方が怖いよ」
暖房の効いた部屋が凍りつく。
何もない町にはお金を稼げる仕事がない。
だから、裕紀も茉梨乃も出て行くんだ。
残る私と和哉に、これから先の夢や希望はない。
行き止まりだ。
ふと、町外れの岬を思い浮かべていたら、和哉がつぶやいた。
「この世の終わりってどんなのだろうな」
おそらく同じ風景が思い浮かんだんだろう。
笑みを浮かべたのは私だけだった。
重苦しい空気を払うように裕紀がパラパラとページをめくって宇宙の話を始めた。
「ビッグバンで始まった宇宙が終わるときは急激に収縮するんだ」
自分の考えていたことと違う話になったと思ったのか、和哉が興味なさそうに話を合わせた。
「収縮ってどういうことよ?」
「ギュッと縮むんだよ。一瞬で」
「なんで一瞬なの?」と、横から茉梨乃がたずねる。「宇宙って今まで百億年くらいたってるんじゃなかったっけ。それなのに終わる時は一瞬なの?」
「エネルギーが大きすぎて光の速度を超えるんだ。そしてその物質の崩壊するエネルギーがさらに引力を生んで収縮を加速させる」
二人とも理解できずに埴輪のような顔になっている。
おそらく私もだ。
「それがいつ起こるのかは分からないし、あまりにも瞬間的すぎるから人間は誰も気がつかない。もしかしたら今この次の瞬間かもしれないし、実はもうそれが一度起きていて、俺たちは二度目の宇宙を見ているのかもしれない」
みんなが息をのむ。
台所で冷蔵庫が震えた。
「何も起きねえじゃん」と、一番最初にため息をついたのは和哉だった。
裕紀が口元に笑みを浮かべた。
「つまり、今じゃなかったってことだけは確かだ」
「でも、なんか怖いね」と、茉梨乃が自分を抱きしめるように腕を組んだ。「終わったことにすら気づかないって」
和哉がポテトチップスを口に放り込む。
「それはその雑誌に書いてあったのか?」
「これから研究するんだよ」と、裕紀がニヤける。「俺の考えた理論だ」
「なんだよ。まじめに聞いて損したぜ」
和哉に続けて茉梨乃も笑みを浮かべる。
「言うだけなら、なんでも言えるもんね」
そのわりに、力が抜けたのか、二人とも床に手をついて同時に天井を見上げていた。
雑誌に載ってた話だったら信じてたんだろうか。
私がコンビニで働くようになってまもなく、誰にも買われなくなったオカルト雑誌は入荷しなくなった。