「大丈夫」

 私はユキポンに小さく呟いて、そっと撫でた。
 フー、フーとピアニストの彼に興奮してたユキポンを、そっと撫でた。
 ピアノの前の彼は、呼吸を整えた後、優しくピアノを弾き始めた。歩く速度よりはやや速く、夢見るように。同じ繰り返しの伴奏に、キラキラとしたメロディーの旋律が揺らめいている。

 ドビュッシー 「Rêverieレヴリ【夢】」

 私の好きなドビュッシーの曲で、最後に二人だけの時に弾いてもらった曲。
 波のはざまに漂うように、儚く揺れる。
 煌くような美しい波間も、また、儚く現れては消える。
 包み込まれる。

 ……ピアノって本当ずるいよ。一瞬で全ての心を持ち去ってしまう。

 ああ、私は消えるかもしれない。
 不安定な美しさに身を委ねながらそう思った。

 だけどユキポンの温もりが膝の上にあった。
 確かなものが、優しい気持ちが、ここにあった。
 私は、その温もりを感じながら、ピアノを聞いた。
 ドビュッシー「夢」も優しい旋律を奏で、家に帰ってきたような安心感を受ける。

 この曲は生きているのかも、彼の弾いてくれたこの曲は、例え夢の夢だとしても、この曲は、ここに生きている。
 そしてまた、ユキポンも心の中に生きている。私も、生きている。ユキポンの心の中で、愛されて、守られて。消えることなく。ここに確かに。

 音の粒が光の粒となり、
 キラキラと揺れながら、ゆっくりゆっくり、消えていく……
 最後の音が儚く消え、
 余韻の静寂がいつまでも続いた。

 私は消えなかった。
 ユキポンと一緒に、私は消えなかった。

 彼はゆっくりと立ち上がると、静かに一礼して闇に溶けていく。
 儚い夢のように。

 それは夢だとしても、幻ではなく、私の体に沈み溶け込んでいた。彼が弾いてくれたピアノは、重なった色の一つとして、今はもう見分けがつかないけど、確かにここにある。

「僕にもわかったにゃ」

 ユキポンが顔をあげて呟いた。
 涙がこぼれ落ちて、ユキポンの背中を濡らしてしまった。

「ごめん。ユキポン」
「いいにゃ」
「ありがとう」
「いいにゃ……もし、消えるなら、僕も一緒にきえるにゃ」
「……」

 私は涙を拭うと、残ったピアノに手をかざして消し去った。
 そして、ゆっくりとユキポンの背中を撫でた。

「あったかくなってるにゃ」
「なに?」
「ほら、未奈ちゃんの手、あったかくなってるにゃ」

 そういってユキポンが頭を擦り付けてきた。
 私は、何度も何度も優しくユキポンの背中を撫でた。

「僕は役に立ったかにゃ」

 ユキポンの呟きに、「うん」と頷いて、何度も何度も優しく背中を撫でた。
 そして

「一緒に、ご飯食べようか」
「うん。それがいいにゃ」

 ユキポンが、顔を向ける。
 闇が晴れると、雨も上がり雲に切れ間が見えた。
 紫色の空にピンク色の雲、不思議な焼けた様な空が広がっていた。

「必要ににゃったら、必ずまたくるにゃ」
「拙者もいるでござる」
「……うん」

 私は空を見上げた。
 頼りない光でも、嬉しかった。

「帰ろう!」
「にゃ〜」
「な〜に今頃。猫みたいに」

 ユキポンが、またゆっくりを頭を擦り付けてきた。
 フフフッと笑みが溢れる。

「帰ろう」
「にゃ〜」



 この日のことは幻だろうか? 夢だろうか?

 でも、
 たとえ夢の夢だとしても。
 私の中では生きている。
 確かに煌めき生きている。
 たとえ夢の夢だとしても。