大粒の雨が顔に「ボタリ」と落ちてきた。
 空まで届きそうな大杉の木々、その合間からドス黒い雲のうねりが見える。大杉の間の林道を歩いていた私は、一度足を止めて空を見上げた。

 真っ直ぐにそびえる大杉の幹。その一つ一つが力強く凛とそびえ立ち、まるで天まで届いているよう。土の匂いがする。風の質が変り、冷たい風がふいた。木々がサワサワと騒ぎ出す。

 自分が小さく小さくなる。まるで蟻。ちっぽけな蟻。そんな感覚になる。ううん、いっそのこと蟻の方がよっぽどいいのかも。力強い。それに比べて、今の私には何もない。何も。

 また「ボタリ」と落ちてきた雨粒は、「ボタリボタリ」と間隔をつめ、あっという間にザザーッと激しい雨へと変わった。
 雨脚が世界を仄白く染める。
 私は力なく歩いた。

 一つに結んだ髪は濡れ、もうすでにその毛先から水滴がポタポタを落ちていた。チュニック丈のパープルブラウスは雨に濡れてその色の濃さを増し、紺のロングスカートは足に張り付いた。

 消えてしまいたいだけなのに。この雨に溶けてしまいたいだけなのに。
 雨粒が痛い、寒い、張り付く服が気持ち悪い。
 感覚は正直に私に訴えかけてくる。



 1年半付き合っていた彼と分かれた。

 何がいけなかったのか? 
 どこで気持ちがすれ違ったのか? 
 元々、あの人に気持ちなんてあったのだろうか?

 ピアニストを目指してた彼には、新しい彼女ができた。彼女もまたピアニストを目指していた。二人で連弾している姿を見て、私の居場所がないことを知った。 私はピアノが弾けない。手も足も出なかった。

 私はただ好きな人を支えたかっただけなのに、そういうのは時代遅れらしい。誰かに喜んでもらいたい、そう思って通っていた調理師学校もただ空いだけ。

 ……違う、誰かにじゃない。やっぱり彼に喜んでもらいたかったんだ。
 その想いだけが、虚しく心の奥底に消えずに残っている。

 遠くで稲妻が走り、遅れて雷鳴が轟いた。やがて、少し開けた場所に出た。片側には菖蒲の花に囲まれた寂しげな東屋。私はその東屋に入り濡れたまま長椅子に腰掛けた。滴が体からポタポタと落ちて足元に水たまりを作る。雨は強さを増し、東屋の中にまで吹き込んでくる。
 寒さに体が震えた。

「……バカみたい」

 これほど今の私にしっくりくる言葉ってない。

「……バカみたい」

 言葉は消えていくのに、バカな私だけが残る。
 子供じゃあるまいし、いい大人が気持ち悪い。
 でも……

「……バカみたい」

 それが、今の私の全てだった。

「風邪ひくにゃ」
「エッ?」
 
 やけに甲高くか細い声が雨の音に混じって聞こえた気がした。
 周りを見回したけど誰もいない。
 気のせいかなと思った時、雨の中から白い塊が東屋にやった来た。

「……猫? 化け猫?」

 水に濡れた毛が体に張り付き、まるで生まれたての子猫の様にも見える。細い足に華奢な体。今にも倒れそうなその体で、ヨロヨロとやってきた。口にはビニール製の水泳バックを持っている。
 ……白猫だ。

 その白猫は水泳バックを置くと。体を振って、体の水滴を飛ばした。毛がいくらかフワッとし、猫の姿を少し取り戻す。そして、水泳バックの中からベージュのタオルを咥えて取り出すと、トコトコと私の前までやって来て、そっとタオルを置いた。

「……何?」

 ……あ、その首輪。
 濃い青に黄色い印の手作りの首輪。
 白猫が見上げて来た。

「ユキポン?」

 私はびっくりして声が裏返った。水に濡れた姿だから分からなかったけど、その首輪、そしてその白い毛はやっぱりユキポンだ。そっと手を伸ばす。

「シロユキだにゃー」
「エッ??」
「シロユキだにゃーって言ってるにゃー」
「しゃべった?! ね、猫がしゃべった!」

 私はびびびびびっくりして声が2オクターブ裏返った。
 混乱して、そっと手を引っ込める。

 ……しゃべったよね?! いま。