(あと一週間で卒業か……)
ぼんやりと階段を登りながら、私は今日も見慣れたグレーのブレザーの制服を身に纏い、騒がしい三年二組の扉を開ける。
「里田美波ーっ」
「美波、おっはよー」
私を見てすぐに二人の女子が駆けてくる。二人のうちショートカットの女子が私の首元に絡みついた。
「わっ、千幸ちゃん。おはよ」
「う〜ん。美波、今日もいい匂いーっ」
丸川千幸は人懐っこい笑顔を私に向け、もう一度ぎゅっと抱きしめてから私からぱっと離れた。毎朝恒例の千幸の朝の挨拶だ。
私は窓際から二列目の一番後ろの先に座ると教科書を机に仕舞った。私の左隣の席は二週間前突然転校してきた『無愛想な彼』こと橋本涼我だが、彼はまだ来ていない。
「ねぇねぇ、二人とも!昨日配信開始されたアタシの推しの新曲一緒に聴こー」
オシャレ大好きで推し活真っ最中の有馬一花が栗色の髪を揺らしながら、スマホを取り出すと、なんでもJポップ界の新星と呼ばれているアーティストの新曲をTikTokで流し始める。
私はさり気なく左手で肘を突くと、音が拾いやすいように右耳をスマホの方へ近づけた。教室が騒がしくてところどころ音がくぐもったように聴こえたが、全体の曲の雰囲気は大体わかる。
「どう?」
目をキラキラさせながら推しの新曲の感想を訊ねる一花に、先に千幸が口を開いた。
「いいね! 出だしの掛け声から始まって、途中はすこし緩めのバラードからのラストにむかってアップテンポ!」
「うんうん、美波は?」
「うん……、全体通して優しい音色で、ところどころの鈴の音色がアクセントになってるね」
「そうなんだよ~これ今度新しく発売されるチョコレートのCMソングに選ばれたらしくて。ってゆうか美波、さすが! 春の関東ピアノ大会の入賞者だけあるね! 鈴の音に気付くなんて」
(良かった……)
私は一花のその言葉に心から安堵する。
「もうっ、一花~、私の感想も褒めてよ~」
「はいはい、千幸最高!」
「あ、今の適当じゃん」
二人の笑い声に私もつられて口角を上げる。そして一花がふと眉を下げた。
「あーあ、こんなに楽しい高校があと一週間で終わっちゃうなんて」
「寂しすぎる〜、卒業式の全体で歌う卒業ソング! あれ歌ったら絶対号泣ー」
千幸の泣き真似を見ながら、一花が私の肩をたたいた。
「でもほんと卒業は寂しいけど、アタシ、美波の卒業式のピアノ伴奏楽しみにしてるんだよね」
「あ! 私もー!すっごく楽しみっ」
「あ、うん……」
「音大行ってもしコンサートとかするときは絶対行くからね」
「うんうん、アタシも聴きに行くっ」
「……ありがとう」
担任の藤元先生しか知らないが、私は四月からの進学先を音大から一般の私立大にギリギリで変更したのだ。私は精一杯の笑みを二人に向けながら、心の中でため息を吐き出した。
予鈴が鳴ると同時に二人が席に戻っていく。そして今日も遅刻ギリギリでやってきた橋本くんが私の隣に座ると共に授業が始まる。
私はそっと自分の左耳に手を当てた。
(……もう一生聞こえないんだな)
半年前から──私には音が半分しかなくなった。
風邪を拗らせたことから扁桃腺が腫れてしまい、後遺症で両耳の聴力が著しく低下した。右耳の聴力は数日で半分ほどまでには回復したが左耳に至ってはもう音が完全に聞こえなくなって半年たつ。
医師の話だと大体三ヶ月、遅くとも半年以内に聴力は自然と戻ることが多いと言われていたが、私の聴力は戻ることがなかった。
「……であり……となる……」
(先生の声も聴くよりは、見るようになっちゃったな……)
私は藤元先生の口元をじっと見つめる。私は運動はからきしダメだが、勉強は得意な方なので授業が聞こえなくても問題ない。ただ授業中、質問に当てられる場合もあるため放課後、密かに図書室で口話についての本を読んで学んでいる。
「……か……て」
(あれ?)
微かに小さく聞こえてきた、藤元先生ではない声に私は机からはっと顔を上げた。左隣から無愛想な顔をした橋本くんが何かこちらに向かって小さく口を開いている。
私は音を拾おうと橋本くんに顔を寄せた。
「……なに?」
先生に気づかれないように私は橋本くんに聞き返した。
「……消しゴム貸して」
橋本くんがにこりともせずにそう言うと、大きな手のひらを差し出す。
(ほんと……無愛想)
私が顔をじっと見たからだろうか。僅かに橋本くんが私を見て微妙に眉を顰めた気がした。
(え? 何?)
「……はい」
私は平然を装いながら、筆箱から消しゴムを取り出すと怪訝な顔をした橋本くんの手のひらにそっと乗せる。何だか心臓が嫌な音を立てて、とくとくと少し駆け足になる。
(……耳が聞こえないことバレてないよね)
よく考えれば、橋本くんが私に向かって消しゴムを借りようと何回呼びかけていたのかわからない。
橋本くんは私から消しゴムを受け取ると、間違えたとみられるノートの文字をさっと消す。
「どうも」
そして、ぶっきらぼうな言葉と共に私に消しゴムを返した。
(やっぱり……苦手だな。ありがとう位、言えばいいのに)
私は綺麗な顔をしているが愛想のない橋本くんが苦手だ。
(男子とは笑顔でよく話すくせに……最後の席替えが隣とかハズレだな)
橋本くんはこの時期にはとても珍しく、ちょうど二週間前の二月下旬に転校してきた。
『訳あって隣の県から越してきました。橋本涼我です。卒業まであと数週間だけですが、宜しくお願いします』
サラサラの黒髪に綺麗な二重瞼。前の学校ではサッカーをしていたとかで背が高く、左の耳にはピアスが揺れていた。女子数人の目がハートになっていたことを思い出す。
(何不自由なく、色んなモノが恵まれてて……いいな)
私はありきたりでよくある挨拶に拍手で迎えられていた橋本くんを見ながら、どこか卑屈な気持ちが湧き上がるのを感じた。
音のある世界が当たり前で聞こえることが普通で、それがある日なくなってしまった私は以前よりも心が醜くなってしまったように思う。
みんなと同じ普通が一番。
大好きなピアノを続けられたらそれだけで良かったのに。音が半分しかなくなった私にとって普通と呼ばれるモノこそが何よりも大切で、そこからはみ出してしまった自分自身は何だか異質な存在になってしまった気がして苦しくてしょうがなかった。
そして普通と呼ばれる状態でなくなった事実を、誰かに伝えようだなんて考えただけても心が鉛のように重たくなって、いつしか自分を隠し偽ることで自分もみんなと同じ普通なんだと思い込むことに必死だった。
──キーンコーンカーンコーン
授業終了のチャイムが鳴って、私はため息混じりに国語の教科書を閉じた。
(えっと次の授業は……)
そして、私が黒板横に記載されている時間割を確認しようとしたときだった。
「……本ー、着替え……ようぜ」
低い声が聞こえてきて左隣に顔を向ければ、同じクラスの宇野くんがジャージ片手に橋本くんの肩に腕を伸ばした。
「今日持久走とか、ダルっ」
「だよな、俺もキライ」
「てか、橋本見学じゃん」
「あ、そうだったわ」
「おいっ」
宇野くんに痛くない程度に頭をポスンと叩かれながら橋本くんが白い歯を見せてニッと笑った。
(男子の前だと……あんな風に笑うんだ)
私はそんな二人の姿を見ながら机の横に掛けてあるジャージの入った鞄を手に持った。
「橋本、放課後、公園でのサッカーどうする?」
「あー、今日もパス」
「そっか、了解っ」
宇野くんはそう言うと橋本くんの首に腕を回したまま二人揃って教室から出ていく。
(……まだ足治らないんだ)
橋本くんは足を痛めてるのか、左足だけ微妙に引きずったような歩き方をしているのだ。
(でもいいじゃない。そのうち治るんなら……)
私は二人が出て行ったあとすぐに、何だかモヤモヤした気持ちが心の端っこを齧るように蝕んでいく。
「おーい、美波早くっ」
「おいてくよ」
私は教室の右側の扉から聞こえてきた千幸と一花の大きな声に視線を移すと、「今いくー」となるべく元気よく返事をしてすぐに駆け出した。
ぼんやりと階段を登りながら、私は今日も見慣れたグレーのブレザーの制服を身に纏い、騒がしい三年二組の扉を開ける。
「里田美波ーっ」
「美波、おっはよー」
私を見てすぐに二人の女子が駆けてくる。二人のうちショートカットの女子が私の首元に絡みついた。
「わっ、千幸ちゃん。おはよ」
「う〜ん。美波、今日もいい匂いーっ」
丸川千幸は人懐っこい笑顔を私に向け、もう一度ぎゅっと抱きしめてから私からぱっと離れた。毎朝恒例の千幸の朝の挨拶だ。
私は窓際から二列目の一番後ろの先に座ると教科書を机に仕舞った。私の左隣の席は二週間前突然転校してきた『無愛想な彼』こと橋本涼我だが、彼はまだ来ていない。
「ねぇねぇ、二人とも!昨日配信開始されたアタシの推しの新曲一緒に聴こー」
オシャレ大好きで推し活真っ最中の有馬一花が栗色の髪を揺らしながら、スマホを取り出すと、なんでもJポップ界の新星と呼ばれているアーティストの新曲をTikTokで流し始める。
私はさり気なく左手で肘を突くと、音が拾いやすいように右耳をスマホの方へ近づけた。教室が騒がしくてところどころ音がくぐもったように聴こえたが、全体の曲の雰囲気は大体わかる。
「どう?」
目をキラキラさせながら推しの新曲の感想を訊ねる一花に、先に千幸が口を開いた。
「いいね! 出だしの掛け声から始まって、途中はすこし緩めのバラードからのラストにむかってアップテンポ!」
「うんうん、美波は?」
「うん……、全体通して優しい音色で、ところどころの鈴の音色がアクセントになってるね」
「そうなんだよ~これ今度新しく発売されるチョコレートのCMソングに選ばれたらしくて。ってゆうか美波、さすが! 春の関東ピアノ大会の入賞者だけあるね! 鈴の音に気付くなんて」
(良かった……)
私は一花のその言葉に心から安堵する。
「もうっ、一花~、私の感想も褒めてよ~」
「はいはい、千幸最高!」
「あ、今の適当じゃん」
二人の笑い声に私もつられて口角を上げる。そして一花がふと眉を下げた。
「あーあ、こんなに楽しい高校があと一週間で終わっちゃうなんて」
「寂しすぎる〜、卒業式の全体で歌う卒業ソング! あれ歌ったら絶対号泣ー」
千幸の泣き真似を見ながら、一花が私の肩をたたいた。
「でもほんと卒業は寂しいけど、アタシ、美波の卒業式のピアノ伴奏楽しみにしてるんだよね」
「あ! 私もー!すっごく楽しみっ」
「あ、うん……」
「音大行ってもしコンサートとかするときは絶対行くからね」
「うんうん、アタシも聴きに行くっ」
「……ありがとう」
担任の藤元先生しか知らないが、私は四月からの進学先を音大から一般の私立大にギリギリで変更したのだ。私は精一杯の笑みを二人に向けながら、心の中でため息を吐き出した。
予鈴が鳴ると同時に二人が席に戻っていく。そして今日も遅刻ギリギリでやってきた橋本くんが私の隣に座ると共に授業が始まる。
私はそっと自分の左耳に手を当てた。
(……もう一生聞こえないんだな)
半年前から──私には音が半分しかなくなった。
風邪を拗らせたことから扁桃腺が腫れてしまい、後遺症で両耳の聴力が著しく低下した。右耳の聴力は数日で半分ほどまでには回復したが左耳に至ってはもう音が完全に聞こえなくなって半年たつ。
医師の話だと大体三ヶ月、遅くとも半年以内に聴力は自然と戻ることが多いと言われていたが、私の聴力は戻ることがなかった。
「……であり……となる……」
(先生の声も聴くよりは、見るようになっちゃったな……)
私は藤元先生の口元をじっと見つめる。私は運動はからきしダメだが、勉強は得意な方なので授業が聞こえなくても問題ない。ただ授業中、質問に当てられる場合もあるため放課後、密かに図書室で口話についての本を読んで学んでいる。
「……か……て」
(あれ?)
微かに小さく聞こえてきた、藤元先生ではない声に私は机からはっと顔を上げた。左隣から無愛想な顔をした橋本くんが何かこちらに向かって小さく口を開いている。
私は音を拾おうと橋本くんに顔を寄せた。
「……なに?」
先生に気づかれないように私は橋本くんに聞き返した。
「……消しゴム貸して」
橋本くんがにこりともせずにそう言うと、大きな手のひらを差し出す。
(ほんと……無愛想)
私が顔をじっと見たからだろうか。僅かに橋本くんが私を見て微妙に眉を顰めた気がした。
(え? 何?)
「……はい」
私は平然を装いながら、筆箱から消しゴムを取り出すと怪訝な顔をした橋本くんの手のひらにそっと乗せる。何だか心臓が嫌な音を立てて、とくとくと少し駆け足になる。
(……耳が聞こえないことバレてないよね)
よく考えれば、橋本くんが私に向かって消しゴムを借りようと何回呼びかけていたのかわからない。
橋本くんは私から消しゴムを受け取ると、間違えたとみられるノートの文字をさっと消す。
「どうも」
そして、ぶっきらぼうな言葉と共に私に消しゴムを返した。
(やっぱり……苦手だな。ありがとう位、言えばいいのに)
私は綺麗な顔をしているが愛想のない橋本くんが苦手だ。
(男子とは笑顔でよく話すくせに……最後の席替えが隣とかハズレだな)
橋本くんはこの時期にはとても珍しく、ちょうど二週間前の二月下旬に転校してきた。
『訳あって隣の県から越してきました。橋本涼我です。卒業まであと数週間だけですが、宜しくお願いします』
サラサラの黒髪に綺麗な二重瞼。前の学校ではサッカーをしていたとかで背が高く、左の耳にはピアスが揺れていた。女子数人の目がハートになっていたことを思い出す。
(何不自由なく、色んなモノが恵まれてて……いいな)
私はありきたりでよくある挨拶に拍手で迎えられていた橋本くんを見ながら、どこか卑屈な気持ちが湧き上がるのを感じた。
音のある世界が当たり前で聞こえることが普通で、それがある日なくなってしまった私は以前よりも心が醜くなってしまったように思う。
みんなと同じ普通が一番。
大好きなピアノを続けられたらそれだけで良かったのに。音が半分しかなくなった私にとって普通と呼ばれるモノこそが何よりも大切で、そこからはみ出してしまった自分自身は何だか異質な存在になってしまった気がして苦しくてしょうがなかった。
そして普通と呼ばれる状態でなくなった事実を、誰かに伝えようだなんて考えただけても心が鉛のように重たくなって、いつしか自分を隠し偽ることで自分もみんなと同じ普通なんだと思い込むことに必死だった。
──キーンコーンカーンコーン
授業終了のチャイムが鳴って、私はため息混じりに国語の教科書を閉じた。
(えっと次の授業は……)
そして、私が黒板横に記載されている時間割を確認しようとしたときだった。
「……本ー、着替え……ようぜ」
低い声が聞こえてきて左隣に顔を向ければ、同じクラスの宇野くんがジャージ片手に橋本くんの肩に腕を伸ばした。
「今日持久走とか、ダルっ」
「だよな、俺もキライ」
「てか、橋本見学じゃん」
「あ、そうだったわ」
「おいっ」
宇野くんに痛くない程度に頭をポスンと叩かれながら橋本くんが白い歯を見せてニッと笑った。
(男子の前だと……あんな風に笑うんだ)
私はそんな二人の姿を見ながら机の横に掛けてあるジャージの入った鞄を手に持った。
「橋本、放課後、公園でのサッカーどうする?」
「あー、今日もパス」
「そっか、了解っ」
宇野くんはそう言うと橋本くんの首に腕を回したまま二人揃って教室から出ていく。
(……まだ足治らないんだ)
橋本くんは足を痛めてるのか、左足だけ微妙に引きずったような歩き方をしているのだ。
(でもいいじゃない。そのうち治るんなら……)
私は二人が出て行ったあとすぐに、何だかモヤモヤした気持ちが心の端っこを齧るように蝕んでいく。
「おーい、美波早くっ」
「おいてくよ」
私は教室の右側の扉から聞こえてきた千幸と一花の大きな声に視線を移すと、「今いくー」となるべく元気よく返事をしてすぐに駆け出した。