ピーーーーーーッ。
 生徒が一斉にプールへ飛び込む。僕は水泳部で、夏の大会に向けて猛練習中だ。毎年この時期、ホイッスルの音を聞くと「夏が来た」と感じる。しかし、まだ僕には夏が来ていない。
 無意識に隣へ目を向けてしまう自分が嫌になる。隣にいた留生は、まだいない。留生は一つ上の中学三年生で、幼馴染だ。三ヶ月前、交通事故で意識を失ってからずっと、目を覚ましていない。事故からずっと、留生のことばかり考えている。

 お互いが幼稚園に通っていた頃。僕が一人、公園で遊んでいたところに留生が来た。
「一人で遊ぶのが好きなの?」
 母と二人で暮らし、友達がいない僕は、体がひと回り大きい留生に話しかけられてドキッとした。
「…違う、けど」
 そう言うと、留生はにぃっと最大限の笑顔を作って言った。「じゃ、泳ぎに行こうぜ」と。
 それが、僕らの出会い。それから今まで、留生は僕の兄みたいな存在だ。

 「悠真、留生はどうだった?」
 あの日から毎日病院へ通っている僕は、同じ水泳部の真斗に留生のことを尋ねられ、首を横に振った。今の僕にはそうすることしかできなくて、言葉ではどう表せばいいか分からなかった。もうダメかも、とか、目を覚さなかった、なんて言えず、現実から逃げたくて仕方ない。留生と一緒に水泳ができない、と考えただけで体に力が入らないし、もしかしたら目を覚ましてくれるかもしれない、という望みをどうしても捨て切れなかった。真斗は「気にしすぎるなよ」と肩を叩いて、更衣室へ戻っていった。
 更衣室で着替えていると、留生と話していたことを思い出す。僕の隣はずっと留生で、留生の隣もずっと僕。相棒だったし、親友だったし、ライバルでもあった。僕は留生が大好きなんだ、と改めて思う。留生がいない僕は、僕じゃない。
「ゆーま」
「…え?」
 反射的に振り返ると、留生が立っていた。信じられなくて、目を見開いてその姿を見た。見間違えなんてするはずがない。前に立っているのは留生だ。
「留生!」
 嬉しくて、無我夢中で抱きついた。留生とまた泳げる。またその声が聞けたことに安心して、目が潤み、鼓動が早まる。
 しかし、抱きついた僕の腕は留生に触れることなく、空間を通っただけだった。唖然とする僕を見て、留生は頭を掻きむしった。
「ごめん悠真。俺、死んじゃった」
「……は?」
 理解できなくて、頭がシャッフルされたみたいで、気分が悪くなってくる。でも留生の体は透けていて、奥のロッカーが見えていて、それを見たら、事実だと考える他なくて、僕は息をすることすら怪しくなった。
「…なんで」
 震えた声をなんとか絞り出して、留生の目を見た。留生は泣いていた。
「あのまま、助からなかったんだよ。だから、お前にどうしても伝えたいことだけ、伝えるために来た。」
 黙って差し出されたのは一枚の写真。留生と僕、それと僕らの親が写っている。
「俺ら、ほんとは兄弟だったんだよ。」
 そういえば、留生は父親と二人暮らしだった。それならこの写真は、家族写真ということになる。
「今すぐ信じられなくてもいい。俺が眠っている間に、親父とお前の母さんが話してる声が聞こえたんだ。留生と悠真は兄弟だって知ったら喜ぶかな、って。俺はお前と家族だったって分かってすげぇ嬉しい。今なら大会で優勝できそうなくらいにな。でも俺はもうお前と泳げないし、一緒に話すことだってできない。悔しい、悔しいけど、お前を全力で応援してる。あんな弱虫だったのに、ここまで泳げるようになったんだ。ゆーまなら絶対大丈夫だ。俺の分まで頑張るとか考えんな。絶対諦めずに泳げ!見てるからな!」
 バシッ。触れられるはずないのに、留生が肩を叩いた音がした。次の瞬間、留生はいなくて、僕はただひとり、更衣室で立っているだけだった。

 ピーーーーーーッ。
 選手が一斉に水中へ飛び込む。大会だろうが関係ない。ただ、諦めずに泳ぐだけだ。留生の大きな笑顔と、思い出が甦る。泣きそうになったが、体全身に力を込めて水をかく。屋内でも天井の窓から水面に差し込む日光がキラキラ輝いていた。やっぱり物足りない。留生がいなきゃダメだと思った。僕らの夏はふたりで一つだったんだ。
 水中にいるはずなのに、透き通ったようにはっきりと留生の声が聞こえた。
「ゆーま!諦めずに泳げ!」
 それはきっと、幻聴じゃない。