「待って!」

 持田君のいつになく真剣な声に、私の足が止まる。

「ごめん。気持ちはとても嬉しいんだけれど、丸山さんとは帰れない」

 持田君が先ほどの女子にそう言った。彼女は逃げ出すように階段を下りていってしまった。その目が潤んでいるのが見えて、私は頭を殴られたような衝撃を受けた。

 涙!

 泣くほどの気持ち。好きってそんなに強い気持ちなの? 私にはやっぱりない。そんな想い、分からない。

 茜もそんな気持ちを金井君に抱いているのだろうか? いつも嬉しげに金井君のことを話していた茜。幸せそうな茜の顔しか私は見たことない。でも、茜も金井君のことになると泣くこともあるのだろうか。

 だめだ! 私、やっぱり分らないよ、茜。

 私はその場にいるのが苦しくなって一歩後ろに下がった。

「待って! 早瀬さん。あの、あのさ。
もしよかったら、僕と一緒に帰って欲しいんだ」

 持田君のうわずった声が、私をやんわりと絡めとった。足が棒のように動かなくなる。
 
 いつも穏やかでにこやかだった持田君。でも、このときの持田君は私の知らない顔をしていた。どこまでも真剣で、怖いくらいだ。 
 どうしていいか分からず、私は言葉も発せられずに持田君を見つめ返した。そして、はっとした。
 持田君の瞳に映る自分。
 小さな私は怯えたような表情(かお)をしていた。

 こんなの失礼だ。

 持田君の誠実な気持ちに対して怯えるだけの自分が情けなかった。

 こんな強い気持ちを私は持っていない。
 受け止める資格もない。そう思った。

「早瀬さん」

 持田君がもう一度私を呼ぶ。
 私は。 

「っ」

 言葉が出てこない。真剣な気持ちをぶつけてきた持田君。だからこそ、私も真摯に返さなければならない。断らなければいけない。なのに、自分勝手な私は、持田君を傷つけるのも怖かった。

 黙ったまま、動けない私。
 そのとき。

「え?」

 と持田君の驚いたような声がした。
 持田君の視線が上がり、その黒目が揺れた。
 
 誰か、いるの?
 
 私は後ろを振り返った。

 見えたのは男子の胸のあたり。あまりに背が高くて見上げなければ顔が見えないその男子は、しっかりと私の着物の袖を握っていた。

「!?」

 持田君以上に私は驚いた。知らない顔じゃない。確か、同じクラスだったことがあると思う。
 でもそれだけじゃないような……。この見上げる角度を私は知っている。名前は。名前は……。ダメだ、思い出せない。

 その男子、「のっぽさん」と持田君が視線を交わす。

「俺の方が先だった」

 のっぽさんの口から低い声がもれた。

 ええ!? いつから掴んでいたの? っていうかそういう問題なの?

 思わずのっぽさんを凝視すると、のっぽさんは静かな目で私を見つめ返した。知っている。この目をやっぱり知っている。けれど、やっぱり名前が出てこない。誰だった?

 混乱する思考のまま一度持田君に視線を戻すと、持田君も唖然としてのっぽさんを見ていた。

 その次の瞬間。

 ええええ!?

 のっぽさんは片腕で私をひょいと抱えた。

「ええ?!」

 呆然とする持田君の姿が遠のいている気がするのは、気のせいでは、ない。 

「ちょ、ちょっと」

 私、まだ持田君に返事してない。答えないのは失礼だ。
 
 のっぽさんの顔を見上げる。優しい目が私を見返した。

「お願い、返事をさせて!」

 声をあげた私に、のっぽさんはやっと足をとめた。腕は私を掴んだまま。

「ごめん」

 低い声が降ってきて、私はのっぽさんを再び見上げた。
 私を見つめるのっぽさんの目はどこまでも静かで、なんだか私はその瞳に促されるように持田君を見て、口を開いた。

「持田君。ありがとう。とっても嬉しいです。でも、ごめん、ごめんね! 私、今日は一人で帰るつもりなの! ごめんね! せっかくの気持ちに応えられなくて。本当にごめんね!」

 私は持田君に精一杯今の気持ちを伝えた。
 持田君の悲しそうな笑みと、廊下の窓から見える青い空。私はこの光景を忘れないと思う。
 
 持田君には凄く申し訳なかった。悲しかった。でも、涙は出なかった。私はさっきの女子みたいにはなれない。

 私、持田君の気持ちにちゃんと向き合えたのだろうか。
 それだけが気になった。