楠君の手をかりて階段を下りてきた私に、
「あらあら、もう帰るの?」
と母がエプロンで手を拭きながら出てきた。
「あ、はい」
「そうよね、昼食もまだだったんでしょ? 夕飯食べていかない?」
母の言葉に私は時計を見て、ちょっと罪悪感を覚えた。時計の針は十六時にさしかかろうとしているところだった。
私は大和と近くの駅のマックで食べて帰ってきたというのに。
「お腹すいたよね、ごめんね」
小さな声で言った私に、
「まあ、少し。家で食べるよ」
と楠君は笑ってみせた。
「またうちに来るよね?」
「え?」
と楠君。
「来ないの?」
「来て、いいの?」
「また来……」
「もちろん大歓迎よ!!」
私の言葉をさえぎり、ちゃっかり楠君の手をとった母。
なんだか面白くなくて、私はその手を軽く叩いた。
「また来てよ」
楠君が笑って頷いたのを見て、私は電話の横のメモ帳とりに行く。
「お茶とお菓子、ご馳走様でした」
「いいのよ、本当にまたいつでもいらしてね」
二人が挨拶を交わしているうちにさらさらと私はペンを走らせる。
「じゃあ……」
ドアに手をかけた楠君に私はメモ帳の一番上を渡した。
「携帯番号」
なんだか母の手前、恥ずかしくて素っ気無く言った私に、楠君は嬉しそうに笑うとそれを大事そうに鞄にしまい、筆箱を出そうとした。
「いいよ、ワン切りしてくれれば登録する。LINEしてるなら友達追加していい?」
「うん」
小さくお辞儀をして、歩き出した楠君を母と一緒に見送った。
なんだか寂しい気もしたけど、きっとまた会えるよね。
「お付き合いするの?」
ドアを閉めてすぐに訊ねてきた母に、私は恥ずかしくてぷいと背を向ける。
「まだ分からない」
まだ分からない、けど。
ーーどきどきして、安心して、きゅーってーー
これがそうなんだろうか?
変な感じだけれど、悪くない。好きになるって心が忙しいんだな。
「そう」
満面の笑みを浮かべる母。
「そういえば大和君とは本当になんでもないの?」
「え? なんで? ないない。大和、好きな人いるし」
「そう?」
少し残念そうにしている母。きっと頭の中で楠君と大和が私をとりあう想像でもしていたのだろう。
母は分り易すぎるほど乙女チックだ。
「でも今日はいろいろあったんでしょ?
そうよね、そうじゃないとこんなぼろぼろな格好で帰ってこないわよね」
母の言葉に自分をまじまじと見て、恥ずかしくなった。せっかく綺麗に着付けしてもらった着物も袴も汚れてしまっていた。
こんな格好で私は楠君と一緒にいたのだ。かあっと頬が熱くなる。
「怪我もしてるみたいだし……手当てをしながら、いろいろとやらを聞かせてもらおうかしらね」
母の着物を台無しにした私は返す言葉もない。
しゅんとしょげた私に、絶妙のタイミングで着信音が鳴った。
「楠君から?」
「わかんない」
スマホのロックを解除する。覗き込もうとする母から逃げるようにして、着信を見ると、知らない番号。そしてその番号からLINEの友達申請が来ていた。
「楠です。今電車。今日はありがとう。これからもよろしく」
私は送られてきたメッセージに頬をゆるませる。
楠君の番号をしっかり登録して、LINEの友達申請を許可した。
「よかったわ。夕璃が嬉しそうで」
「べ、別に」
変な感じ。でも、やっぱり悪くない。私は楠君を好きになったのだろうか?
楠君の温かな笑顔を思い出すと心が温かくなる。楠君に触れられていた手も熱を持ったようにポカポカしている。
本当に変な感情。毎日こんなんじゃ、心臓がもたない気もするけど、茜もそうなのかな?
「さあ、足を出して。まあ、凄い痣……」
転んだときにうった右の膝小僧には大きな痣ができていて、そのときとっさに床についた手の平もすりむいた痕がたくさんついていた。でも、痛いとは思わなかった。身体がなんだか熱いだけで。
「着物も酷いことになっているけど……まあ、夕璃が成長したのだからよしとしましょう。随分遅い春だけど」
と笑って言った母に私はますます自分の体温が上がるのを感じた。
「お母さん。人を好きになるって、大変だね」
私の言葉に母はくすりと笑った。
「そうでもないわよ? 嬉しさも楽しさも悲しさも辛さも二倍になるだけで」
「やっぱり大変じゃん」
「それがなぜか悪くないのよ。心に特定の人が住み着くのは。夕璃もこれから分かっていくわよ」
そんなものなのかもしれない、と楠君を思い浮かべて私は納得した。だって、やっぱり悪くないもん。この感じ。
茜に報告しよう!
それから……。せっかくだもん。楠君にもLINEしてみよう。でも、なんて書こうかな。
スマホを片手にくるくると表情を変える私に母がまたくすりと笑った。
了
「あらあら、もう帰るの?」
と母がエプロンで手を拭きながら出てきた。
「あ、はい」
「そうよね、昼食もまだだったんでしょ? 夕飯食べていかない?」
母の言葉に私は時計を見て、ちょっと罪悪感を覚えた。時計の針は十六時にさしかかろうとしているところだった。
私は大和と近くの駅のマックで食べて帰ってきたというのに。
「お腹すいたよね、ごめんね」
小さな声で言った私に、
「まあ、少し。家で食べるよ」
と楠君は笑ってみせた。
「またうちに来るよね?」
「え?」
と楠君。
「来ないの?」
「来て、いいの?」
「また来……」
「もちろん大歓迎よ!!」
私の言葉をさえぎり、ちゃっかり楠君の手をとった母。
なんだか面白くなくて、私はその手を軽く叩いた。
「また来てよ」
楠君が笑って頷いたのを見て、私は電話の横のメモ帳とりに行く。
「お茶とお菓子、ご馳走様でした」
「いいのよ、本当にまたいつでもいらしてね」
二人が挨拶を交わしているうちにさらさらと私はペンを走らせる。
「じゃあ……」
ドアに手をかけた楠君に私はメモ帳の一番上を渡した。
「携帯番号」
なんだか母の手前、恥ずかしくて素っ気無く言った私に、楠君は嬉しそうに笑うとそれを大事そうに鞄にしまい、筆箱を出そうとした。
「いいよ、ワン切りしてくれれば登録する。LINEしてるなら友達追加していい?」
「うん」
小さくお辞儀をして、歩き出した楠君を母と一緒に見送った。
なんだか寂しい気もしたけど、きっとまた会えるよね。
「お付き合いするの?」
ドアを閉めてすぐに訊ねてきた母に、私は恥ずかしくてぷいと背を向ける。
「まだ分からない」
まだ分からない、けど。
ーーどきどきして、安心して、きゅーってーー
これがそうなんだろうか?
変な感じだけれど、悪くない。好きになるって心が忙しいんだな。
「そう」
満面の笑みを浮かべる母。
「そういえば大和君とは本当になんでもないの?」
「え? なんで? ないない。大和、好きな人いるし」
「そう?」
少し残念そうにしている母。きっと頭の中で楠君と大和が私をとりあう想像でもしていたのだろう。
母は分り易すぎるほど乙女チックだ。
「でも今日はいろいろあったんでしょ?
そうよね、そうじゃないとこんなぼろぼろな格好で帰ってこないわよね」
母の言葉に自分をまじまじと見て、恥ずかしくなった。せっかく綺麗に着付けしてもらった着物も袴も汚れてしまっていた。
こんな格好で私は楠君と一緒にいたのだ。かあっと頬が熱くなる。
「怪我もしてるみたいだし……手当てをしながら、いろいろとやらを聞かせてもらおうかしらね」
母の着物を台無しにした私は返す言葉もない。
しゅんとしょげた私に、絶妙のタイミングで着信音が鳴った。
「楠君から?」
「わかんない」
スマホのロックを解除する。覗き込もうとする母から逃げるようにして、着信を見ると、知らない番号。そしてその番号からLINEの友達申請が来ていた。
「楠です。今電車。今日はありがとう。これからもよろしく」
私は送られてきたメッセージに頬をゆるませる。
楠君の番号をしっかり登録して、LINEの友達申請を許可した。
「よかったわ。夕璃が嬉しそうで」
「べ、別に」
変な感じ。でも、やっぱり悪くない。私は楠君を好きになったのだろうか?
楠君の温かな笑顔を思い出すと心が温かくなる。楠君に触れられていた手も熱を持ったようにポカポカしている。
本当に変な感情。毎日こんなんじゃ、心臓がもたない気もするけど、茜もそうなのかな?
「さあ、足を出して。まあ、凄い痣……」
転んだときにうった右の膝小僧には大きな痣ができていて、そのときとっさに床についた手の平もすりむいた痕がたくさんついていた。でも、痛いとは思わなかった。身体がなんだか熱いだけで。
「着物も酷いことになっているけど……まあ、夕璃が成長したのだからよしとしましょう。随分遅い春だけど」
と笑って言った母に私はますます自分の体温が上がるのを感じた。
「お母さん。人を好きになるって、大変だね」
私の言葉に母はくすりと笑った。
「そうでもないわよ? 嬉しさも楽しさも悲しさも辛さも二倍になるだけで」
「やっぱり大変じゃん」
「それがなぜか悪くないのよ。心に特定の人が住み着くのは。夕璃もこれから分かっていくわよ」
そんなものなのかもしれない、と楠君を思い浮かべて私は納得した。だって、やっぱり悪くないもん。この感じ。
茜に報告しよう!
それから……。せっかくだもん。楠君にもLINEしてみよう。でも、なんて書こうかな。
スマホを片手にくるくると表情を変える私に母がまたくすりと笑った。
了